fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

国立劇場令和四年十一月歌舞伎・落語コラボ公演 小朝の『中村仲蔵』と芝翫・歌六の「五段目」「六段目」

国立劇場の十一月公演を観劇。入りは五分と云ったところだったろうか。成田屋襲名公演の裏(失礼)としては、健闘していたと云えるかもしれない。「忠臣蔵」五段目の斧定九郎をキーワードとした歌舞伎と落語のコラボ公演。今までなかったのが不思議なくらいだが、好企画だ。歌舞伎を元にした落語には『四段目』、『七段目』、『猫忠』などがあり、逆に落語を元にした歌舞伎に『文七元結』、『芝浜』、『らくだ』などがある。昔から深い繋がりがある二大庶民演芸の公演、興味深く観させて貰った。

 

幕開きは小朝の落語『中村仲蔵』。筆者、小朝の生口演を観るのは二十年ぶりくらいになるだろうか。昔から達者な噺家だった。まだ二十代だった小朝の『太鼓腹』の上手さには舌を巻いた記憶がある。どれだけ凄い噺家になるだろうと思っていたが、その割には大きくなっていない印象があるのは残念。ただ小三治亡き後、当代では指折りの噺家ではあると思う。筆者の個人的見解だが、歌舞伎にはまだ名人が何人かいるが、今の落語界には名人はいなくなってしまったと思っている。少なくとも昭和の文楽志ん生圓生・小さん、平成の志ん朝に匹敵しうる力量のある噺家は、現落語界にはいないと云っていいだろう。その現状で、小朝の存在は貴重なものだ。

 

枕の軽妙な上手さ、センスの良さは相変わらずだ。ここは若い頃からの現代感覚を持ち続けていて、面白く聴かせる。しかしこの「仲蔵」と云う噺は筆者の耳に先代の正蔵稲荷町の彦六の口演が強く残っている。それからするとやはり少し喰い足りない思いは残る。技術は確かではある。しかし口跡が軽く、この噺にはあまり向いているとは思えない。噺の中に出て来る名人團蔵なぞの貫禄が出せていないのだ。その意味では先代の圓楽の方がこの噺らしい重厚感があった。しかし主人公の仲蔵のまだ若い修行の身の役者らしい人物造形はしっかり出来ている。流れる様な口跡の良さも相変わらずで、色々云ったものの、楽しく聴けたのも事実。サゲも「これで楽になるねぇ」「まだ初日だ、楽(千秋楽)にはならねぇ」と独自の工夫をしており、このサゲは従来のものよりいいオチだと思った。

 

小朝がサゲを云ってお辞儀をすると、ぐるりと回り舞台が回転して「五段目」となる。今回は「鉄砲渡しの場」はなく、いきなり「二つ玉の場」から。配役は芝翫の勘平、笑也のおかる、歌昇の弥五郎、梅花のおかや、松江の源六、吉三郎の与市兵衛、萬次郎のお才、歌六が定九郎と郷右衛門の二役。「二つ玉」なので科白も少なく、所作で見せる場。ことに定九郎の科白は「五十両」のみしかないのだ。しかし先の小朝の落語がこの定九郎を作り上げる苦心談だったので、初めてこの場を観る観客にも実に親切な企画だと思う。小朝が云っていた通りのいで立ち、所作なのだ。しかし初役だと云う歌六の定九郎は、やはりニンではない。所作はしっかりしており、緊迫感溢れる見事なものだったが、この役に不可欠な艶、色気を決定的に欠いている。筆者的に当代最高の定九郎役者は幸四郎だと云う評価は動かない。

 

芝翫の勘平は実に三十年ぶりだと云う。亡き勘三郎に教わったらしい。しかし筆者が観劇したのが楽に近い日だったと云う事もあるかもしれないが、久しぶり感はない。「五段目」の所作も実にこなれており、段取り感などを感じさせるところも全くない。観る前は芝翫に勘平はニンではないのではないかと思っていたのだが、どうしてどうして。その古風な役者顔が如何にも時代物狂言の二枚目にぴたりと嵌っている。色気も充分にあり、「六段目」の細かな決まり事がある所作も実に自然に演じていて、とても三十年ぶりの役とは思えない見事さだ。

 

そして何より素晴らしかったのはこの優の持ち味とも云うべき義太夫味だ。艶と義太夫味を併せ持った勘平と云えば、何と云っても松嶋屋である。しかし今回の芝翫は、より古風な如何にも時代世話の風合いを感じさせてくれており、おさおさ松嶋屋に劣らない出来だ。腹切りの場における科白廻しも、安易なリアルさに流れず実に歌舞伎らしい云い回し。「いかなればこそ、勘平は」から始まる長科白の竹本とシンクロする濃厚な義太夫味は、今の大幹部役者を除いては芝翫以外には求め得ないものであろう。「色にふけったばっかりに」で頬に手をやってべっとりと血糊が顔に着く場面も腹に刀が入っている事を忘れず、苦しい息の下で実に鮮烈な場となっている。丸本における芝翫の力量は、流石と云う他ない。芝翫は観劇後如何にも歌舞伎を観たと云う満足感を味わわせてくれる、素晴らしい役者だと思う。

 

脇では梅花のおかやと、萬次郎のお才が渋い味を出していて見応えがある。萬次郎は出て来るだけで歌舞伎味を感じさせる当節貴重な役者だが、今回も文句のない出来。それほど為所のある役ではないが、勘平・おかや・おかるが舞台中央で芝居をしている間中、脇で煙草を吸ったり扇子をあおいだりしているその雰囲気が実にいい。この味が自然に出せる所がこの優の力量だろう。梅花のおかやも、勘平を折檻するところの怒りの大きさ、与市兵衛の死が勘平のせいではないと判った後の懺悔の深さ、愛娘おかるの夫を死に追いやってしまった自責の念をひしひしと感じさせ、情味ある見事なおかやであったと思う。

 

笑也のおかるは美しくはあるが、この優のクールな芸風はおかるのニンではない。ただその所作、どこか文楽人形を彷彿とさせる美貌は古風な丸本狂言に相応しいもの。歌昇の弥五郎もしっかりとした科白廻しを聴かせてくれており、歌六はやはり定九郎より郷右衛門が本役。武士らしい見事な位取りの芝居を見せてくれていた。この歌舞伎と落語のコラボと云う企画は、まだまだ発展性がありそうな気がする。筋書の対談で小朝が『芝浜』とか『文七元結』を歌舞伎と落語両方でやるのもいいのではないかと発言しており、それを受けて芝翫も落語の『鰍沢』を歌舞伎にしてみたいと云っていた。ぜひ実現させて欲しいものだ。