十一代目市川海老蔵、成田屋。まぎれもなく現代で最も著名であり、最も客が呼べる歌舞伎役者である。そのブログには膨大にフォロワーがおり、その一挙手一投足に注目が集まる役者と云っても過言ではあるまい。
海老蔵は5年前に父十二代目團十郎を若くして亡くし、梨園の頂点である成田屋の当主となった。幸四郎、菊之助、松緑、愛之助、猿之助等々層の分厚い花形世代の中で、一門の当主となっているのは海老蔵だけである(猿之助も事実上そうだが、まだ猿翁は存命。松緑も父を早く亡くしているが、菊五郎劇団に所属しているので、海老蔵の様な立場にはない)。
持って生まれた性質も多分にあるとは思うのだが、一門の当主と云う意識が他の花形と違い、一門ひいては歌舞伎界全体を見渡す広い視野がこの優にはある様に思われる。歌舞伎座の七月は昨年より海老蔵の責任興行月となっており、この点でも他の花形とは違っている。
先に書いたが、海老蔵は歌舞伎十八番を歌舞伎座で上演する事にこだわりがあると云う。その意味で五月大歌舞伎はその実践の舞台として見事なものだった。海老蔵はそのニンから云っても歌舞伎十八番を演じる為に生まれてきた様な優であり、『勧進帳』にしても、高麗屋の様な弁慶の心情に焦点を当てた行き方ではなく、より荒事味の濃い、その意味でより原初的なものであると思う。
明治以降の近代歌舞伎において、九代目團十郎を始めとした名優達によって、歌舞伎は心理描写を取り入れた近代演劇の要素を強く持つ事となった。その延長上で今大輪の華を咲かせているのが高麗屋、播磨屋、松嶋屋を始めとする現大幹部達である。しかし海老蔵の視線は近代以前、話しに聞く二代目や七代目の團十郎を見ているのではないかと思えるところがある。その実践が、荒事味の濃い『勧進帳』であり、豪快で描線の太い『暫』と云った歌舞伎十八番だ。
最も現代的な役者であるはずの当代一の人気者海老蔵が、近代以前の歌舞伎への回帰を目指すと云う一見矛盾とも取れる行き方をしているのだ。勿論その芸においては完成形と云えるものではまだなく、科白まわしに現代調が垣間見える時もままある。しかしこの21世紀歌舞伎において、その精神は貴重かつ大胆なものであるし、この行き方は今後もぜひ継続し、かつ深めて行って欲しいと思う。しかし、そんな海老蔵にも課題がない訳ではない。
筆者は、心理描写を取り入れ、その究極の名人芸を披露してくれている現大幹部の芝居が大好きであるし、大いに楽しませて貰っている。幸四郎を始めとした今の花形世代には、当然の事ながらその父親世代の、例えば白鸚や吉右衛門の様な花道の出だけでその役の性根を観客に感じさせる様な芸の成熟と達成はない。海老蔵もまた然り。
一例をあげると、昨年の『先代萩』で海老蔵の仁木弾正を観たが、「床下」「刃傷」に比べて、「対決」が一番見劣りがした。実事の仁木になるとまだ肝が薄く、未だしの感がある。いくら荒事が見事であっても、「対決」の仁木がしっかり演じられなければ、『先代萩』の仁木弾正を演じおおせた事にはならないだろう。父團十郎にもその傾向があったが、総じて科白劇には若干の弱さが見られる様に思う。ここら辺りが筆者が現時点で感じている海老蔵と云う役者の課題だ。
加えて筆者の懸念は、一門の当主なるが故の海老蔵の難しさだ。『先代萩』を観ても判る通り、海老蔵はまだ肝が薄い。荒事にはそれほど必要とはされないが、時代物や世話物には役の性根を肝に落としてそれを表現する「肝芸」が重要となる。海老蔵に限らず、この点では今の花形世代はまだまだ肝が薄い。たが例えば幸四郎は少なくともその必要性を感じ、お父さんや叔父さん、はたまた松嶋屋にも教えを乞うてそれを掴もうとしている。菊之助もまた然り。
しかし一門の当主たる海老蔵は、その教えを乞える存在やそれを可能にする関係の役者がいるのだろうか?梨園筆頭の当主たる立場が、海老蔵の進歩を阻害しているとしたらそれは悲劇だし、歌舞伎界の進歩すらも止める事になってしまう。その点でも父團十郎不在の大きさを感じないではいられない。梨園内での海老蔵の人間関係など、筆者は知る由もないので、杞憂かもしれないのだが・・・
長くなったので、また次項に譲るが、海老蔵を語る上で欠かせない先にあげた一門及び歌舞伎界全体を見渡すその視点について、もう少し所感を綴ってみたいと思う。