fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

新春浅草歌舞伎 一部 米吉の「十種香」、隼人・米吉の「源氏店」、巳之助・松也他の「どんつく」

ドタバタしていて月が替わってしまったが、新春浅草歌舞伎一部の感想を綴りたい。入りは二部同様大入り満員。これだけ入るなら一月だけと云わず、もっと浅草で掛けても良さそうなものだとは思う。まぁこれだけのメンバーを集めるのは難しいのかもしれないが。先にも書いたが、今年で浅草のメンバーは代替わりになる。卒業メンバーの熱い思いが迸る狂言揃いであった。

 

最初は浅草歌舞伎恒例のお年玉挨拶。筆者が観劇した日の一部は歌昇であった。松也同様、浅草歌舞伎を卒業する事となった経緯を語る。そして自身が主役を勤める「熊谷陣屋」があるからだろう、「このまま二部もご覧になる方はいらっしゃいますか。手を挙げて下さい」と客席に語り掛ける。挙がった手を見て、「少ないですねぇ。ぜひ二部も引き続きご覧下さい」と見物衆にお願いしていた。

 

まず一部最大の注目は、二つの大きな狂言で米吉(結婚が発表されたそう。おめでとうございます。)が主役を演じていると云う点だ。やはりこの座組の中では立女形の地位は揺るがないと云ったところだろうか。その二つの狂言、『本朝廿四孝』より「十種香」と『与話情浮名横櫛』より「源氏店」。今更説明不要の丸本と世話物の名作二題。これは大変な事だ。将来米吉が歌舞伎界の立女形に成長したとしても、この二つを同じ部で勤める事はないのではないか。それ位大変な事に挑めるのも、浅草歌舞伎ならではであろう。

 

「十種香」は米吉の八重垣姫、橋之助の勝頼、新吾(こちらも結婚が決まったそう。おめでとうございます。)の濡衣、種之助の六郎、巳之助の小文治、歌昇の謙信と云う配役。女形の大役数ある中で、『鎌倉三代記』の時姫、『祇園祭礼信仰記』の雪姫と並び「三姫」と称される八重垣姫に、米吉が初役で挑んだ。その他の役者も橋之助を除いて初役ばかり。浅草はこう云う若手花形の意欲的な取り組みを観れるのが嬉しい。そして「源氏店」の配役は米吉のお富、隼人の与三郎、橘太郎の藤八、松也の安五郎、歌六の多左衛門。米吉のお富は研修会で一度勤めたのみだそう。隼人・松也は初役だ。隼人は松嶋屋、松也は彌十郎に教えを受けたと云う。

 

今回のこの狂言二題の米吉を観ていて筆者がつくづく感じさせられたのは、役者のニンと云う事である。度々書いている事だが、経験の浅い若手花形にとって丸本は難しい。先頃亡くなった咲太夫(本当に痛恨の極み)が「太夫は五十を過ぎてから」と云っていた。「人形遣いは老人を持てば老人、娘を持てば娘に見えるが、太夫は拙ければ老人と娘の区別もなくなる」と。それは丸本を演じる歌舞伎役者にも云えると思う。顔をして舞台に立てば、らしくは見える。しかし所作や科白廻しが丸本のそれでないと、演技としてはダメなのだ。それは咲太夫が云う様に一朝一夕には身につかない。太夫同様、丸本を演じる役者も五十過ぎてからが本当なのかもしれない。

 

ではこの二題、お富の方が良かったのかと云うとさにあらず、出来としては八重垣姫の方が上だったのだ。それと云うのも今の米吉は余りに可憐で、一度死にかけた末に囲い者になっているお富の婀娜な、少しスレた雰囲気が出ないのだ。要するに今の米吉にとってお富はニンではない。しかしその美貌は八重垣姫にはぴたりと嵌まる。もちろんまだ丸本のお姫様としてのコクはない。愛する許婚を失った哀しみを後ろ姿の僅かな所作で見せる技術を、今の米吉はまだ持ち合わせていない。しかし大和屋に徹底的に教わったと云う米吉。大和屋マナーをよく写し、コクはないものの勝頼を想う必死な乙女心が客席にも伝わって来る。これが技術ではないニンと云う部分なのだと思う。

 

今回濡衣を演じていた新吾は落ち着いた良い出来で、初役としては充分だろう。しかし例えば新吾なら、お富をニン的に米吉よりリアリティをもって演じられるのではないかと思う。しかし今回「源氏店」を観ていて思ったが、この芝居は世話物とは云え様式度が高い狂言であると云う事だ。所作や科白廻しが世話物としてはかなり様式的で、それは二部の「魚屋宗五郎」と比べれば歴然としている。その意味で、若手にとってはハードルが高い狂言なのかもしれない。令和の若者にとって、歌舞伎的様式度の高い狂言を肚に落とし込んで見物衆を唸らせるのは、難しい事だと思う。

 

隼人の与三郎はニンではあると思う。お富はヤクザの情婦だった女だが、こちらは今はやさぐれていても、元はボンボン。戸外で安の掛け合いを待っている間に石を蹴っている所作などにそれが出ており、隼人のニンに合っている役ではある。しかしあの聞かせどころの長科白は、もう一つ謡いきれていない。ここら辺りが歌舞伎的様式性の難しさで、これは回数を重ねてモノにして行くしかないのであろう。

 

この一部の若手花形の中では、松也の蝙蝠の安が一頭地抜けた出来。これは他の諸役に比べて自由度が幾分か高いと云う事もあるかもしれないが、小悪党の味の中に松也らしい色気も漂わせて、初役と云いながら独自の色合いを出せている。今月の松也は実に充実しており、いよいよ本格的な歌舞伎役者としての開花を感じさせる。テレビもいいが、今年はもっと歌舞伎座にも出て下さいよ、音羽屋。

 

若手花形に交じって橘太郎の藤八と歌六の多左衛門は、流石年功と云う技を見せてくれる。藤八の軽さと愛嬌、多左衛門の如何にも大店の番頭を感じさせる大きさ、年輪を積み重ねたベテランにして初めて出せる味わいであろう。若手花形も、脇とは云えこう云う技術をしっかり見て、学んで欲しいと思う。若さはいずれなくなるが、積み重ねた技術は、身体が動く限りなくならないものだから。

 

最後は若手花形うち揃った『神楽諷雲井曲毬』、所謂「どんつく」だ。常磐津舞踊で、これはもう大和屋家の芸。巳之助の独壇場と云っていい踊りだ。近年増々亡き父三津五郎に似て来た巳之助の愛嬌溢れる所作が、観ていて実に楽しい。今回芝居では大きな役が付いていなかった巳之助だが、こう云う舞踊ではこの座組の中では抜けた存在だ。その他では歌昇太夫が、太神楽で役者とは思えない見事な神楽芸を見せてくれて(少し失敗もあったが)見物衆から大きな喝采を受けていた。最後を舞踊で〆る狂言立ては筆者好み。楽しい気分で浅草を後に出来た。

 

今回は「十種香」と「源氏店」を行ったり来たりで雑然と綴ってしまったが、大役に挑む若手花形の姿は実に頼もしい。色々注文はつけたものの、それはこれから回を重ねて行けば良いのだろう。メンバーが一新される来年の新春浅草歌舞伎が、今から楽しみである。

壽 初春大歌舞伎 昼の部 成駒屋兄弟、雀右衛門、 鴈治郎、又五郎の『當辰歳歌舞伎賑』、松緑の『荒川十太夫』、高麗屋親子の『狐狸狐狸ばなし』

歌舞伎座昼の部を観劇。今月は四つの小屋で芝居がかかっていて、嬉しい悲鳴。新橋のみ観劇の予定はないが、他は全ての部を観劇する。入りは大体夜の部と同じ位であったろうか。舞踊・新作・喜劇と三つの芝居による狂言立て。いつもは劇団の新春公演に参加して国立で新年を迎えている松緑が、今年は歌舞伎座に出演しているのが目をひく。

 

幕開きは『當辰歳歌舞伎賑』。内容は「五人三番叟」と「英獅子」の二本立て。配役は「五人三番叟」が福之助・歌之助・鷹之資・玉太郎・虎之介の若手花形五人の三番叟。「英獅子」が一転、雀右衛門の芸者、鴈治郎又五郎の鳶頭と云うベテラン三人の組み合わせ。この対照が中々面白い。

 

「五人三番叟」は若手花形五人による踊り比べ。三番叟に五人てあったかしらと思ったら、藤間宗家の振り付けで今回再構成した新作との事。若いだけに、三番叟と云っても皆元気一杯。中では鷹之資が勢いの中にも柔らか味があって、ひと際目を引く。しかし五人のイキも合って、いい舞踊であった。続いて長唄舞踊の「英獅子」。こちらのベテラン三人による踊りは流石に年功の技術で魅せる。殊に雀右衛門の艶やかな踊りは流石立女形の貫禄。又五郎は派手さはないものの、この優らしい渋い踊り。鴈治郎江戸前の舞踊の中に関西系役者らしい華やかさがあり、この個性の違いが良い。今度はこの三人の芝居での共演が観たいものだ。

 

続いては『荒川十太夫』。一昨年上演された新作狂言で、「忠臣蔵」の外伝物。配役は松緑の十太夫坂東亀蔵の定直、左近の主税、吉之丞の五左衛門、猿弥の長恩、中車の安兵衛。前回から安兵衛が猿之助から中車に替わっただけで、他は同じ役者である。松緑が二ヶ月連続で新作の「忠臣蔵」外伝物に挑む形。役者がほぼそのままなので、前回と大きな印象の違いはない。

 

今回前回より落ち着いた風格のある芝居を見せてくれたのは、吉之丞。前回は手強さが目立ったが、今回は十太夫に厳しく接し乍らも、どこか労りが感じられる風合いがあり、この優の研鑽宜しきを見せつけられた思い。科白廻しが増々亡き播磨屋に似てきている。浅草と掛け持ちで奮闘する吉之丞。もう決して若くはない(失礼)ので、体調にだけは留意して貰いたいものだ。

 

松緑の芝居の上手さは今更云う迄もない。足軽らしからぬ気品と風格があり、これならば定直に取り立てられるのも充分得心が行く立派な十太夫亀蔵は大名らしい位取りを見せてくれているし、猿弥もこの優の持ち味である剽げた味わいがあり、この静かなどちらかと云えば短調的な芝居に長調の調べを加味させている。中車も出番は多くないが、切腹の場での科白廻しは赤穂義士の中でもその人ありと云われた堀部安兵衛らしさを感じさせる見事なもの。役者が揃った実に結構な『荒川十太夫』の再演であった。

 

打ち出しは『狐狸狐狸ばなし』。北條秀司の作品で、初演は先代勘三郎が出ているものの、森繫久彌と山田五十鈴が主演しているので、歌舞伎ではない。それを亡き勘三郎が歌舞伎化した作品だ。配役は幸四郎の伊之助、右近のおきわ、染五郎の又市、廣太郎の福造、青虎のおそめ、梅花のおしづ、亀鶴の甚平、錦之助の重善。何と全員初役の様だ。筆者にとっては五年程前に平成中村座で観劇して以来の狂言だ。

 

しかしその平成中村座で観劇した時程には、楽しめなかった。一つにはハコの違いもあるとは思うが、前回観た時は七之助であったおきわが今回は右近となっていて、これが大きい。右近の芝居がまずい訳ではない。しかし七之助にあった愛嬌に乏しい。どう考えてもこのおきわは悪女なのだが、福助七之助が演じるとどこか可愛らしくもあり、憎めない女になっていた。しかし今回の右近は性悪ぶりばかりが全面に出てきてしまっている。おきわが持つむせ返る様な艶っぽさでは福助七之助を上回る部分もあるが、愛嬌が薄いのでどうしてもこの女を思い入れを持って見れないのだ。

 

その一方で、平成中村座の時より良かったのは染五郎の又市。この若手花形の中でも抜きんでた美貌の持ち主を、知恵遅れ(擬態だが)の又市に当てた配役が見事当たった。事前のインタビューで「お客様を本当に騙すつもりでやる」と語っていた染五郎。前半の抜けた又市と、後半の実はそれが伊之助としめし合わせた擬態であった又市との演じ分けがきっちりしていて、実に鮮やか。今まで見せていなかった喜劇への意外な適性を見せて、今後の役の広がりを感じさせるに充分の出来であった。

 

幸四郎の喜劇の上手さは、猿之助と組んだ「弥次喜多」などで証明済み。愛嬌もたっぷりあるし、江戸の芝居だがつっころばし的な味わいもある。騙したと思っても最終的には騙されている伊之助を気持ちよさげに演じていて、観ているこちらも楽しくなる見事な芝居。錦之助の重善は流石の芝居の上手さで見せるが、平成中村座の時の芝翫に比べ色気では優るものの、色と欲にまみれた破戒僧の図太さはない。しかし自身筋書で「おきわが倅と同い年位の右近なので、精一杯若くあらねば」と語っている通り、錦之助はいつまでも若々しい艶がある、得難い役者であると思う。

 

新年を寿ぐ舞踊の後にじっくりとした芝居を見せ、最後は喜劇で浮き浮きとした気分にさせて貰えた、楽しめる狂言立ての歌舞伎座昼の部。今月残る浅草一部は、観劇後また改めて綴りたい。

新春浅草歌舞伎 二部 歌昇の「熊谷陣屋」、種之助の『流星』、松也の「魚屋宗五郎」

新春浅草歌舞伎二部を観劇。近年浅草には行けていなかったのだが、久々の浅草公会堂。街も大変な賑わいであったが、客席も大入り満員状態。流石は今をときめく人気若手花形が勢揃いしているだけの事はある。しかも今年で松也を始めとした七人の役者が浅草公演を卒業するとの事。来年以降のメンバーがどうなるのか若干心配ではあるが、それだけに各優気合いの入った芝居を見せてくれていた。

 

幕開きは浅草恒例、役者の挨拶による「お年玉」。筆者が観劇した日は浅草の座頭松也であった。「明けましておめでとうございます。尾上松也でござりまする」と歌舞伎調に挨拶した後に、「こんばんわ」とぐっとくだけるのはお約束。十年前に座頭を任された時の緊張感と、満員の客席を見て涙した事などを振り返る。今年三十代最後の年を迎え、浅草を卒業する事になった経緯を語り、精一杯舞台を勤める決意を述べた。演目の解説をして、「私の雑な解説でお判りにならない方は、ぜひパンフレットをお買い求め下さい」と語って、笑いをとっていた。流石座頭、落ち着いた風格のある挨拶であった。

 

続いては『一谷嫩軍記』から「熊谷陣屋」。云わずと知れた丸本の名作中の名作である。亡き播磨屋が十八番にしていた狂言で、播磨屋系の役者にとっては大切な芝居であろう。配役は歌昇の直実、新吾の相模、莟玉の藤の方、橋之助の軍次、歌舞伎座と掛け持ちの吉之丞の景高、巳之助の義経歌六の弥陀六。橋之助歌六以外は初役であろう。殊に播磨屋系の歌昇にとっては、何としても演じてみたかった役に違いない。

 

生前の播磨屋に直接教えを乞う事は叶わなかったと云う歌昇播磨屋型を学んでいる幸四郎に教わったと云う。近年幸四郎は「熊谷」を演じていないので比較は出来ないが、瞼に残る余りにも立派だった播磨屋のそれとどうしても比較してしまうので、点数は辛くならざるを得ない。歌舞伎は出が命とも云われるが、身体のない歌昇なのでどうしても花道での所作が軽く感じてしまう。高麗屋にしても播磨屋にしても芸がある上に身体があるので、より大きな熊谷になる。歌昇がこの狂言をモノにするには、かなりの精進が必要だろう。要するにニンではないのだ。

 

花道の七三で数珠が刀の束にチャリンと当り、我に返って突き袖で極まる。この「チャリン」は播磨屋もやってはいたが、ごくさり気ない感じであった。ここまではっきり音をさせるのは高麗屋の型。この辺りに幸四郎に教わった痕跡が伺える。舞台に廻って相模や藤の方を相手どった物語は播磨屋をよく写して健闘している。何より力を振り絞って演じているのが判り、好感が持てる。しかし耳に残る播磨屋のあの地鳴りのような呼び戻しには遠く及ばないのは致し方ないだろう。

 

義経が出てきて首実験の場となり、藤の方を抑えて制札の見得は小粒感は否めないものの、きっちりとしていて手一杯の出来。三度目の出で剃髪姿になり、涙乍らに花道にかかる。ここは記憶にある幸四郎の往き方通りで、現代調ではあるがエモーショナルで子を失った熊谷の哀しみがダイレクトに伝わり、見物衆からの盛大な拍手を受け乍ら揚幕に入って幕となった。まだ型をきっちりこなす事に意識がいっている部分はあるものの、歌昇精一杯の力演ではあったと思う。

 

脇では歌六の弥陀六は何度も演じて正に当代の弥陀六。出演役者の中では圧倒的な存在感で、流石の出来。新吾の相模はこの優ならもっと出来ると思っていたが、義太夫味が薄く現代調で意外に冴えないのは残念。中では叔父の魁春に教わったと云う莟玉の藤の方が、見事な位取りを見せて目に残る出来であった。厳しい物言いになってしまったが、若手が丸本に挑むその意気や良し。今後も何度でも挑んで行って欲しいと思う。

 

中幕は『流星』。黙阿弥作詞の清元舞踊。七夕の設定なので季節感は無視されている(苦笑)。牽牛織女の件りがカットされていたのは、その辺りを気にしたものか。播磨屋系の種之助が踊るのは少し意外な感じもする舞踊。出来としては硬さはあるものの、お面をとっかえひっかえしての踊りは、若々しい所作に好感が持てる。見物衆にも大受けで、後見の蝶十郎とのイキも合っていて、楽しめる舞踊。初役の様だが種之助、大奮闘であった。

 

打ち出しは『新皿屋舗月雨暈』から「魚屋宗五郎」。黙阿弥作の傑作世話物で、播磨屋にとっての「熊谷」同様、音羽屋にとっては欠かせない狂言である。松也の宗五郎、新吾のおはま、種之助の三吉、隼人の主計之助、莟玉のおしげ、歌女之丞のおみつ、橘太郎の太兵衛、橋之助の五郎、米吉のおなぎ、巳之助の典蔵、歌昇の十左衛門と云う配役。浅草歌舞伎の主な出演者勢揃いの感。橘太郎と歌女之丞を除き、松也を始めとして殆どの役者が初役。どうかと思っていたが、これが実に出色の出来であった。

 

何より松也の宗五郎が素晴らしい。禁酒していた酒を呑んで酔っていく件りの、舞台一面に熟柿の香り漂うかの様な名人菊五郎の技巧にはまだまだ径庭はあるものの、役が肚に入っているのが良い。妹お蔦が殺され周りが怒り心頭の中で、「磯部様には恩がある」とグッと堪えているところがしっかり出せている。ここの我慢が効いているので、後段の酒に酔って殴り込みに行く件りが生きる。その所作も鯔背な風情があり、世話の味をきっちり出している。

 

酔って十左衛門に絡むところも、見物衆を笑わせ乍ら、妹思いの必死な感情が自然に出ている。女房の新吾おはまとのイキもぴったりで、ここもまた見事な出来。酔いが醒めて主計之助の前で平身低頭する姿に可笑しみと小市民の哀れさが漂い、愛嬌もある実に結構な宗五郎。これは筆者が今まで観た松也の狂言の中でもベストの出来。浅草を卒業する松也、その気迫がビンビンと伝わってくる素晴らしい宗五郎であった。

 

脇では橘太郎の太兵衛は流石の出来。この優がいるお陰で、劇団のアンサンブルの味が出せている。隼人と歌昇も共に見事な位取りで、歌昇は現状熊谷よりこちらの方が断然良い。新吾も義太夫狂言の相模より、今はこちらの世話女房おはまの方がしっくりきている。種之助、米吉も良い味を出せており、巳之助の典蔵がまたべりべりと手強い出来で脇を締めている。各優手揃いで、見事な出来の「魚屋宗五郎」であった。

 

花形歌舞伎なので名人芸を期待して観劇に来ている訳ではないが、若手花形手一杯の力演に見物衆も沸いていて、四時間を超える長丁場乍ら楽しめた浅草歌舞伎二部。残る一部の感想は観劇後、また改めて。

新春浅草歌舞伎(写真)

新春浅草歌舞伎に行って来ました。ポスターです。

 

絵看板がずらり。

 

役者衆の幟です。

 

ロビーには出演者のパネルが。いい男だねぇ。

 

浅草の街は非常な賑わいでした。好きだなぁ、浅草。まだ正月の雰囲気でしたね。感想はまた別項にて綴ります。

 

壽 初春大歌舞伎 夜の部 福助、幸四郎・松緑親子の『鶴亀』、梅玉・扇雀・芝翫の「対面」、高麗屋三代の『息子』、壱太郎の「道成寺」

歌舞伎座夜の部を観劇。国立の芝居は観ても、やはり歌舞伎座初芝居を観ない内には年は明けない。祝樽が積まれ、いかにもお正月の雰囲気も良い。筆者が観劇した日は満席に近い入りであった。元旦から大変な事になってしまった令和六年。新国立劇場に募金箱があったので筆者もささやか乍らご協力させて頂いたが、これ以上犠牲が広がらず、被災地の一日でも早い復興を願うばかりである。

 

幕開きは『鶴亀』。謡曲を元にした歌舞伎舞踊で、天下泰平と五穀豊穣を祈念する踊り。『三番叟』などと並び、新年に相応しい狂言である。配役は福助の女帝、幸四郎の鶴、松緑の亀、染五郎・左近の従者。新年早々福助の元気な姿が見れたのは、喜ばしい限り。やはり右半身は利かない様だが、その存在感は流石の一言。それに幸四郎松緑親子が付き従う形である。

 

高麗屋紀尾井町音羽屋と云う、当代の歌舞伎舞踊を支えていると云っても過言ではない二家の踊り比べ。幸四郎松緑もきっちり踊る芸風なので、形の美しさと見事な所作が、観ていて実に心地よい。倅二人も余計な当て込みなどせず、神妙に親父に付いて行っている感じで、行儀の良い踊り。それがこの『鶴亀』と云う舞踊には似つかわしい。この二家にはこれからも組んで当代最高の踊りを見せて欲しいものだ。福助と五人で極まった舞台絵は、息を飲むばかりの美しさであった。

 

続いては『寿曽我対面』。筆者的には全ての狂言の中で、一番観劇した回数の多い演目かもしれない。こちらも新年に相応しい狂言だ。梅玉の祐経、扇雀の十郎、芝翫の五郎、高麗蔵の少将、松江の小藤太、虎之介の三郎、錦吾の景時、桂三の景高、彌十郎の朝比奈、東蔵の新左衛門、魁春の虎と云う配役。それぞれ何度も演じていると思いきや、高麗蔵の少将と彌十郎の朝比奈は初役らしい。

 

梅玉の祐経は本来的にはニンではない。この狂言の中で梅玉がニンなのは十郎だろう。事実何度も演じており、今勤めても見事な十郎であろうとは思う。しかし年齢的にも、貫禄としても、今は祐経が順当だろう。この座組の中では頭一つ抜けた貫禄を見せてくれていた。芝翫の五郎、扇雀の十郎は正にニン。ただこの二人で組んだ「対面」は初めての様だ。扇雀の、柔らかさがあり乍ら兄貴らしい貫禄も滲ませた十郎、芝翫の力感たっぷりで太々しい描線に加え、前髪らしい稚気もきっちり出せている五郎、何れも見事。魁春の虎はもう何度も勤めて自家薬籠中の物。東蔵の新左衛門が高股立だったのが若干珍しい。役者が揃ったいい「対面」であった。

 

続いて『息子』。華やかな「対面」から一転、実に渋い科白劇だ。小山内薫による大正時代の作品の様で、筆者は初めて観る狂言。登場人物も三人のみで、白鸚の老爺、幸四郎の金次郎、染五郎の捕吏と云う配役。高麗屋三代揃い踏みだ。当然全員初役かと思ったが、幸四郎染五郎時代に歌六を相手に一度勤めている様だ。僅か三十分程の小品だが、これが実に味わい深い芝居であった。

 

番小屋にお尋ね者の金次郎が逃げ込んで来る。火と煙草を勧める老爺と会話して行く内に、お互いが生き別れになっていた親子であると気づく。ただ互いにそれをはっきりと云いだそうとはしない。この云うに謂われぬ親子の二人芝居が、滋味溢れ実に見事。役者自身が実の親子と云う事もあり、科白一つ一つが胸にじんわり染みて来るのだ。染五郎の一癖ある捕吏も良い。最後迄親子の名乗りをせず、立ち去る幸四郎金次郎の背中に「早く行け。達者でいろよ」と声をかける白鸚の老爺。少し震える声が父親の情愛を示している。白鸚の七十年にわたり練り上げた水際立った技巧が、いぶし銀の様な底光りを放つ。傑作としか云い様のない素晴らしい芝居であった。

 

打ち出しは『京鹿子娘道成寺』。云う迄もなく、女形舞踊の最高峰の大曲。それに成駒家の御曹司壱太郎が初役で挑んだ。配役はその壱太郎の花子に、廣太郎・玉太郎他の所化。筋書きで壱太郎が「祖父の様な道成寺を目指したい」と云う趣旨の発言をしていたが、本当に山城屋を彷彿とさせる様なこってりとした実に結構な花子。殊に筆者は壱太郎が投げた手拭い迄ゲット出来たので、ご機嫌の観劇となった。

 

時間の関係だろうか道行がカットされ、幕が落とされると花子が舞台にいる形。ここは少し残念で、やはり道行は見せて欲しかった。しかし踊り自体は初役とは思えない見事さ。まだ後見とのイキが合わず、手順がすっきりしない部分はあるものの、それは日を追えば改善して行くだろう。この花子は、立役が演じると技術で踊り、女形は気持ちで踊ると云われるが、正に気持ちが全面に出て来る花子。

 

勿論若い乍ら舞踊吾妻流家元の壱太郎。技術的にもしっかりしているが、〽恋の手習いのクドキで見せるしっとりとした女心の表出などは、如何にも女形の花子で、とても初役のそれではない。毬唄に合わせて手毬をつく所作の可愛らしい娘ぶりから〽恋の手習いを経て山尽くしへと進み、鈴太鼓を使った振りから徐々に妖しさを漂わせて行くあたりも、実に見応えたっぷり。最後、引き抜きから鐘の上に極まって幕となる迄、舞台に引き込まれっぱなしの五十分間であった。まだ七之助ですら歌舞伎座では踊った事のない「道成寺」に壱太郎(と右近)が抜擢された事実を見ても、松竹サイドのこの二人にかける期待の大きさが判る。今後も競い合って、一層練り上げて行って欲しいと思う次第。

 

丸本狂言がないのが些か寂しいが、それは新国立劇場で観れたので良しとしよう。今月は残る昼の部と浅草歌舞伎も観劇予定。今年も芝居漬けの新年である。

壽 初春大歌舞伎(写真)

歌舞伎座の新春公演に行って来ました。ポスターです。

 

昼の部の絵看板です。

 

同じく夜の部。

 

ポスター三枚綴りです。

 

花子を踊っていた壱太郎が投げた手拭いをゲットしました!

 

歌舞伎座で芝居を観て、ようやく新年だなと云う感じです。感想はまた別項にて。

 

新国立劇場 新春歌舞伎公演 菊之助の「石切梶原」、時蔵・梅枝の「葛の葉」、音羽屋三代揃い踏み『勢獅子門出初台』

国立劇場の建て替えに伴い、その期間中の歌舞伎公演は初台の新国立劇場での開催となった。劇団恒例の新春公演。いつもは通し狂言がかかるのだが、今年は見どり狂言となった。筆者はオペラパレスの方は以前オペラを観に行った事があるが、今回公演が開催されている中劇場では初めての観劇。どんなものだろうと思っていたが、意外と云っては失礼乍ら、見やすい環境。しかし致し方ないとは云え、花道がしょぼい・・・。まぁ歌舞伎用の劇場ではないですからね。入りは六分と云ったところか。まぁ歌舞伎座・新橋・浅草と、今月は四つもかかっているので、こんなものなのかもしれない。

 

幕開きは『梶原平三誉石切』。通称「石切梶原」。大概の歌舞伎狂言で悪役扱いされる梶原平三景時が珍しく捌き役となっており、実に気持ちの良い狂言。配役は菊之助の景時、彦三郎の景親、梅枝の梢、萬太郎の景久、橘三郎の六郎太夫片岡亀蔵の呑助。菊之助が岳父である亡き播磨屋の当り役景時に初役で挑む。実父の音羽屋も一度勤めた事がある様だが、しんどくてもうやりたくないと語っていた難役だ。確かに劇団のイメージにはない狂言ではある。

 

菊之助は日頃から播磨屋への尊敬を口にしており、その芸を受け継ぐ事に意欲的である。しかし芸風的に菊之助は英雄役者ではないので、「熊谷」や「知盛」はニンではない。しかしこの梶原は捌き役であり、播磨屋の当り役の中では比較的菊之助の芸風に合う役であると思う。この狂言義太夫狂言ではあるのだが、播磨屋義太夫味を出すと云うより愛嬌を売る往き方であった。ご機嫌な表情で花道を引っ込む播磨屋の姿が、今でも目に浮かぶ。一方先代と当代の白鸚は正統的な義太夫狂言として捉えており、骨太で義太夫味たっぷりの梶原であった。

 

当然菊之助播磨屋の往き方をとっており、直接教わった訳ではなく播磨屋一門の吉三郎に聞いたらしい。颯爽としたいで立ち、刀の目利きの場や、二つ胴や石切の所作など実に立派で初役とは思えない見事さである。しかし元々愛嬌の薄い芸風の菊之助なので、播磨屋の様な明るくご機嫌な梶原にはならない。ここが難しいところで、高麗屋の往き方は菊之助のニンではないので播磨屋型を採用するのは当然なのだが、その所作の立派さは再現出来ても、役の肚迄を再現するには至っていないと云うのが現状である。

 

加えてこの役は主役である梶原を舞台中央に放置したまま、比較的長い六郎太夫親子と景親達のやり取りの場がある。以前も書いたが、この場での播磨屋は素晴らしかった。舞台上手下手のやり取りを肚で受けており、科白は一つもないのだが、舞台中央で圧倒的な存在感を放っていたのだ。しかしこの場での菊之助はまだ所作が段取りめいており、芝居を肚で受けるところ迄は行けていない。この場の梶原は本当に肚一つで演じなければならないので、難しいのだろう。これは何度も演じてモノにして行くしかないのだと思う。

 

しかし繰り返すが所作は美しく、科白廻しも堂に入っており実に見事。ニンにもかなってはいるので、今後の精進に期待したい。脇では彦三郎の景親が、この優の特徴であるたっぷりとした声を生かした立派な景親。萬太郎もニンではない赤面の景久をしっかりこなしており、こちらも見事な出来。意外にも初役だと云う梅枝の梢も、人妻らしい艶と、父を思う気持ちを滲ませた結構な梢。橘三郎・亀蔵も手堅く脇を固めており、全体としては見応えのある出来。注文は付けたものの、それは菊之助だから期待値が高いと云う意味合い。近い将来、菊之助なりの梶原を作り上げてくれるはずだ。

 

中幕は『芦屋道満大内鑑』から「葛の葉」。続けざまに義太夫狂言である。新年早々筆者はご機嫌。竹田出雲の作で、安倍晴明伝説を元にした狂言だ。梅枝が葛の葉と葛の葉姫の二役、権十郎の庄司、萬次郎の柵、時蔵の保名と云う配役。時蔵は不明だが、他の三人は初役との事。ここ最近丸本に立て続けに挑んでいる梅枝。今回は葛の葉だが、これがまぁ見事な出来であった。

 

元々若い乍ら義太夫味のある梅枝だが、今回は中でも出色の出来。芝居としても舞台の上手下手を忙しく立ち回って二役早替わりを見せる演出は観ていて楽しさこの上ないものなのだが、加えて梅枝の葛の葉は役の性根が肚にきっちり入っている。助けれられた恩返しに狐が姿を変えて保名の妻となり子迄なした。しかし本物の葛の葉姫の出現により、夫と子供に別れを告げなければならない。その哀しみが大袈裟な表現や所作はなくとも、しっとりと舞台を覆いつくす。「阿倍野機屋の場」の終盤、仮眠を取るふりをしている保名をじっと見つめ、思い入れをして奥に入っていく葛の葉。たったそれだけなのだが、夫を愛し、別れがたく思っている葛の葉の気持ちが、実に見事に表現されているのだ。

 

続く「奥座敷の場」では、子供をあやしながら「恋しくば 訪ね来てみよ 和泉なる 信田の森の 恨み葛の葉」の和歌を障子に書き付ける。その字の上手さにも驚かされたが(因みに曾祖父三世時蔵の字は下手であったと、当代時蔵が明かしている)、難しい所作を段取りめかずにこなすだけでも初役としては大変だろうが、それに引きずられず、子供への思いがその所作からしっかりと立ち上って来る。これは尋常の出来ではない。

 

狐の性根を顕したケレン的な所作も実に見事であり、人間から野性に戻っていく葛の葉が哀れさ一入に感じられる。新年早々凄い芝居が観れた。改めて梅枝と云う役者の丸本女形としての凄みに、瞠目させれられた。時蔵の保名も色気があり、狐に想われるだけの優しさも感じさせられる良い保名。権十郎・萬次郎の兄弟はやはり上手く手堅い出来で、脇をきっちり締めており、実に傑作とも云うべき見事な芝居であった。梅枝にはこれからも芝翫幸四郎と組んで、どしどし丸本に取り組んで欲しい。

 

打ち出しは『勢獅子門出初台』。初春興行らしく、最後は出演役者総出で賑やかに〆る。配役は菊五郎菊之助・彦三郎・萬太郎の鳶頭、時蔵・萬次郎・梅枝の芸者、権十郎片岡亀蔵世話人。それに加えてそれぞれの家の御曹司、丑之助・眞秀・亀三郎・大晴が手古舞と若い者を勤めて見物衆からやんやの喝采。どんな名優も子役には勝てないと云うのは本当だ。拍手のボリュームが一段と上がる。舞台中央の菊五郎は流石の貫禄であったが、足取りが少し危なっかしい。大役を演じるのは現状では難しいかもしれない。無理だけはしないで貰いたいものだ。

 

しっとりとした丸本の後を舞踊で〆る実に結構な狂言立て。建て替え中どれ位のペースで歌舞伎が上演されるかは判らないが、見やすい劇場だったので、定期的に掛けて貰いたいと思う。新年早々素晴らしい芝居が観れて、大満足の劇団初春公演であった。