fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

歌舞伎座 吉例顔見世大歌舞伎 第三部 花形勢揃いの『花競忠臣顔見勢』

歌舞伎座三部を観劇。かなりいい入りで、二部とどっこい位入っていた印象。まぁこのメンバーで入らなかったら、歌舞伎の明日はないだろう(笑)。コロナ禍で「忠臣蔵」の様な長い狂言は出せないだろうとこのブログでも書いたが、幸四郎猿之助がそれならばとこの「超高速忠臣蔵」を作り出してきた。若手花形を勢揃いさせ、そのそれぞれに見せ場を作る。かなりの苦心だったろうと推察する。何とかこの時短興行でも「忠臣蔵」をやりたいと云う思いが伝わってくる狂言だった。

 

幸四郎が若狭之介・大学の二役、猿之助が師直・戸田の局・松柳亭の三役、右近が顔世御前後に葉泉院・文吾の二役、新悟が直義・お園の二役、隼人が判官・主悦の二役、猿弥の其角、笑也のおさみ、歌昇の由良之助、宗之助の平右衛門、鷹之資の力弥、廣太郎の新左衛門、福之助の源蔵、米吉の小浪、歌之助の六弥と云う配役。正に若手花形勢揃いの感。猿之助がインタビューで「自分がやりたいのをグッと我慢して若手にふった」と発言していたが、確かに本来この座組なら幸四郎が由良之助・主悦、猿之助が源蔵と葉泉院あたりをやりそうなものだ。若手は正に試されていると云っていいだろう。

 

討ち入り迄の四日間を二時間で描く野心的な試み。これもコロナによる変則公演が生んだ産物だろう。口上人形付きの「大序」から始まり「桃井館」、「赤垣源蔵徳利の別れ」、「南部坂雪の別れ」、「土屋主悦」、「討ち入り」、「花水橋引き揚げ」と続く。とにかく忙しい。どうしても肚のある芝居と云う風にはならない。しかしその中でも「南部坂雪の別れ」と「土屋主悦」は比較的長く時間を取っているだけあって、見どころがある。

 

「南部坂雪の別れ」は、個人的に忠臣蔵の中でも最も好きな場面。二十年位前に播磨屋の内蔵助、梶芽衣子の戸田の局で放映された「大忠臣蔵」のこの場面は最高だった。代々瑤泉院は時の代表的な美人女優が勤めるが、この時は牧瀬里穂。芝居の上手い人ではないが、その美しさは抜群だった。それはさておき今回はその瑤泉院(芝居では葉泉院だが)は右近。今年に入ってお嬢吉三、櫓のお七と立て続けにヒットを飛ばしている右近、今回も大名の後室としての格と気品を充分感じさせる立派な葉泉院。猿之助の戸田の局がまた手強い出来でしっかり芝居を締めている。ただ歌昇の由良之助は花道の出で腰が浮いており、流石に軽量級の感は否めない。科白廻しはしっかりしているが、由良之助は座頭の役、これは手に余った。幸四郎の大学は描線が太く、流石の技巧でこの座組では格の違いを感じさせた。

 

今回の芝居で一番の出来だったのは続く「槌谷邸奥座敷の場」所謂『土屋主悦』だ。『松浦の太鼓』と同工異曲の狂言だが、こちらは初代鴈治郎に当て書きされた物が基になっている。大筋は似ているが、相違点もかなりある。その中で最も大きな違いは主役の松浦候と主悦の人物設定だ。松浦候は年齢もいっており、それなりに老成した人物として描かれているが、主悦はもっと若く、思慮深い人物設定である。その主悦を隼人が実に見事に演じた。主悦は実際に吉良邸の隣に住んでいた旗本で、討ち入りに際して高張提灯を灯してその壮挙を助けたと云う。そう云う聡明な人物像を、その出からしっかり表していたのはには驚かされた。科白廻しも例の陣太鼓を数える辺り、謡うが如き名調子で、これ程出来るなら『土屋主悦』としてじっくり観てみたいと思わせる出来だった。

 

その他では猿之助の師直が若干線の細さは感じるが流石の出来。「小心者に捨て知行」と古格な云い回しをしていたのが印象に残る。幸四郎の若狭之介はニンでもあり、見事な殿様ぶり。期待した「赤垣源蔵徳利の別れ」は筋を追っただけで、芝居のし所もなく、残念な出来。「奥庭泉水の場」における幸四郎の大学と鷹之資の力弥の立ち回りは、身体に踊りのある優同士で実にキレが良く、客席も盛り上がっていた。

 

全体として場ごとの出来不出来に差があるのは致し方なかったかもしれない。練り上げ不足の部分も多いが、それぞれの優がいずれ本役でこれらの役を演じる様になって欲しいと云う、幸四郎猿之助の兄(?)心。若手花形が全力で勤めているのが感じ取れて、気分良く観れた狂言だった。

 

来月は歌舞伎座に加えて京都の顔見世を観劇予定。松嶋屋鴈治郎扇雀芝翫幸四郎愛之助と揃う大顔合わせが今から楽しみだ。

歌舞伎座 吉例顔見世大歌舞伎 第二部 三津五郎追善の『寿曽我対面』、松嶋屋の『連獅子』

歌舞伎座二部を観劇。大入りと迄は行っていない様だったが、かなりの入り。やはり三津五郎の追善と、松嶋屋の史上最高齢での『連獅子』がお客を呼び寄せたのだろうか。これ位入れば、役者もやりがいがあろうと云うもの。まぁ入りが悪くてもしっかりいい芝居はしてくれているけれどもそこは人間。入りがいいに越した事はないだろう。

 

幕開きは『寿曽我対面』。音羽屋の祐経、巳之助の五郎、時蔵の十郎、雀右衛門の大磯の虎、松緑の朝比奈、團蔵の景時、梅枝の少将、権十郎の小藤太、彦三郎の三郎、坂東亀蔵の景高、萬太郎の四郎、左團次の新左衛門と云う配役。正に劇団総出で亡き三津五郎を追善している形。今年一つの芝居で、ここまで劇団が揃う事はなかったのではないか。当然の様に素晴らしい追善狂言となった。

 

四年前に劇団でこの狂言がかかった時と同様、幕が開いて浅葱幕が切り落とされると、既に音羽屋の祐経が高座に座しているショートバージョン。これは三部制の為と云うより、音羽屋がこちらの方を好んでいるのだろう。音羽屋の祐経はニンではないと思うが、これ位の名人になると関係ない。その大きさ、位取り、たっぷりとした科白廻し、座頭役者の貫禄が歌舞伎座の大舞台を覆いつくす。初役の巳之助に対して、どこからでもかかってらっしゃいと云わんばかりだ。

 

対する巳之助初役の五郎がまだ素晴らしい。以前は役に対して力みかえる部分があったのだが、近年立て続けに猿之助松緑に鍛えられ、今はもうそんな事はない。踊りが身体にある優なので、角々の極まりもキッパリしており、荒事の豪快さに不足もなく、初役とは思えない見事な五郎。泉下の三津五郎もさぞ喜んでいるに違いない。時蔵の十郎は中学生の時に初役で演じて以来、何度となく勤めている持ち役。和事の柔らかさ、その気品、兄らしい位取り、申し分のない出来だ。

 

脇では雀右衛門の虎が立女形らしい流石の貫禄。梅枝の少将は若々しい美しさで虎といい対照をなしており、この虎と少将の釣り合いが実に見事。意外な事に初役だと云う松緑の朝比奈は、この優独特の科白廻しの癖が多少気にはなるが、この役らしい古格さと、愛嬌を兼ね備えたいい朝比奈。こう云う荒唐無稽な役では見事な上手さを発揮する松緑。五郎を持ち役にしている優だが、今後は朝比奈を演じる機会も増えていくだろう。総じて各役手揃いで、見事な「対面」。亡き三津五郎への熱い想いに溢れた素晴らしい追善狂言であった。

 

打ち出しは『連獅子』。松嶋屋の親獅子、千之助の仔獅子、門之助の専念、又五郎の日門と云う配役。松嶋屋が史上最高齢で親獅子を勤める歴史的な狂言。最初にこの配役が発表された時には、今の松嶋屋に親獅子とは・・・と、また松竹が大幹部に無理をさせると思ったのだが、何と松嶋屋の希望だった様だ。三十五年前に先代勘三郎と当時勘九郎だった十八世との『連獅子』を観て、自分もいずれこの年齢になったらやってみたいと思っていたと云う。そして仔獅子は子供ではなく孫と云う、めったいに観れない座組。これがまた素晴らしい『連獅子』だった。

 

松嶋屋が今月の「演劇界」で「若いうちは仔獅子の親か兄弟がわからぬくらい力一杯踊っていたが、獅子は百獣の長、雄ライオンがゆったりしているように、決して子と一緒に跳ねる必要はない」と語っていたが、正にその通りの親獅子。松嶋屋の親獅子の周りだけ、時間がゆっくり流れているかの様なのだ。松嶋屋は「単に動けなくなった言い訳ですが」と冗談にしていたが、どうしてどうしてそんモノではない。勇壮さもあり乍ら、泰然自若としているのだ。毛振りをし乍ら泰然自若と云うのもおかしな表現だが、観た方ならわかって貰えると思う。松嶋屋が云う通り、親が子に張り合って忙しく毛振りする必要はないのだ。実に大きく、唯一無二の親獅子だった。

 

対する千之助の仔獅子が、本当にぴちぴち跳ねる様な元気一杯の仔獅子。それが親獅子と見事な対照をなしている。それでいて松嶋屋の孫らしく、ハメを外す事なく端正で気品もある。これはかなり松嶋屋に鍛え上げられたのだろうと思われる。仔獅子を舞台上手の方に蹴落としたり、最後の毛振りを石橋にするなど、澤瀉屋型と重なる部分が多かった松嶋屋の『連獅子』。門之助・又五郎による結構な間狂言の「宗論」も含めて、実に見事な『連獅子』であった。

 

今月残るは歌舞伎座三部。幸四郎猿之助による「超高速忠臣蔵」。果たしてどうなりますか。感想は観劇後、また別項にて。

 

 

歌舞伎座 吉例顔見世大歌舞伎 第一部 愛之助・壱太郎の『神の鳥』、高麗屋・魁春の『井伊大老』

歌舞伎座一部を観劇。国立と違い歌舞伎座はまだ入場規制が継続されている。桟敷にも人が入っていて、入りはまずまずと云ったところか。先頃来年一月からは、全エリアにおいて、間隔を空けた二席並びにすると発表があった。徐々に規制を緩めて行く方向性の様でいい傾向だとは思うが、引き続き場内の飲食と大向うは禁止の様だ。完全に元通りになるのには、まだ道半ばと云ったところ。延期されている團十郎襲名は規制を撤廃しない限り実施はされないだろうから、待ち遠しい限りだ。

 

幕開きは『神の鳥』。コロナの前迄は毎年上演されていた出石「永楽館」での歌舞伎の為に愛之助が作り上げた狂言。行ってみたいと思いつつまだ「永楽館」に足を運んだ事のない筆者には、初めて観る狂言愛之助が右近と鹿之助の二役、壱太郎の左近、種之介の仁木入道、吉弥の柏木、東蔵の満祐と云う配役。出石の時とは仁木と満祐が替わっている様だ。

 

作としては、『暫』と『京鹿野子娘道成寺』を取り入れた狂言になっている。幕が開くと舞台中央に赤松満祐がおり、傾城柏木や家臣達が居流れている。そこは『暫』を写した形だが、生贄の神の鳥を入れた大きな鳥籠が中央やや上手寄りに吊るされている。これは「道成寺」の鐘を思わせる作りだ。そこに狂言師右近・左近が花道から現れる。まずこの花道での踊りがイキがぴったりで実にいい。

 

舞台に廻って満祐に所望され連れ舞いになる。これが鞨鼓や鈴太鼓迄取り込んだ「道成寺」の様な踊り。踊りつつ気持ちが鐘、でなく鳥籠に行くのも「道成寺」を模している。そこで二人がこうのとりである事を見顕され、立ち回りになる。鳥籠のこうのとりは、この夫婦こうのとりの子供であったのだ。追い詰められてこうのとりも最早これ迄かと思われた所に、踊りの途中から雄鶏を他の役者に替わらせていた愛之助の鹿之助が押戻し的に現れ、満祐の家来達を打ち倒す。こうとのり親子を助けた鹿之助は、花道を六法を踏みながら揚幕に入って幕になる。

 

一時間程の出し物だが、内容盛りだくさんで楽しめる狂言愛之助・壱太郎の踊りも素晴らしく、最後花道の六法も力感一方でなく、気品すら感じさせるいかにも愛之助らしい六法。これはまた今後歌舞伎座での再演もあるだろう。ただ東蔵の満祐はニンでなく、この名人をもってしても流石に無理があった。加えて鹿之助に扮する為、雄鶏の愛之助が他の役者と替わって引っ込まなければならないのだが、替わったのが判り易くバレる感じはあったので、そこらあたりはもう少し上手くやるか、演出に工夫を加える必要はあるかもしれない。

 

打ち出しは『井伊大老』。北條秀司作の名狂言高麗屋の直弼、魁春のお静の方、高麗蔵の雲の井、歌六の仙英禅師と云う配役。先代白鸚歌右衛門が何度も演じて練り上げた芝居。それをそれぞれの息子当代白鸚魁春が演じる。この様に歌舞伎と云う芸術は代々受け継がれて行くのだと、しみじみ感じさせる座組である。しかし三部制の弊害とも云えるが、前段を大幅にカットしたショートバージョンである。

 

三年前に播磨屋が演じた際も「濠端」をカットしたショートバージョンで、このブログでも苦言を呈したのだが、今回は更に「奥書院」迄カットした超ショートバージョン。いくら見どり興行とは云え、ここまでカットしては原作者の伝えたかった意図は伝わらないと云うか、間違って伝わってしまう恐れなしとしない。「濠端」があればこそ、この「下屋敷」が生きて来る。「濠端」での国を背負う政治家としての直弼の強烈な矜持あるから、この場の唯一心を許せるお静の方へ見せる一人の弱い男としての心情が、しみじみと伝わってくるのだ。この「下屋敷」のみだと、大老としての直弼の矜持とその孤独、その一方にある弱さ、人間と云う生き物は一筋縄でいくものではないと云う人物の厚みが出てこない。

 

しかしその一方で前もってこの芝居を知って観てみれば、高麗屋が抜群の技巧で直弼の心の襞を細やかに表現しており、名品としか云い様のない舞台に仕上げている。去年の四部制の時に、やはり高麗屋が「大蔵卿」の「檜垣」をカットして「奥殿」のみを出した事があった。その時もぶつぶつ文句を並べたものだが、悔しい(?)事にその圧倒的な「奥殿」に感動させられた自分がいたのも事実だ。そしてまた今回もまた同様の思いを抱かされた。

 

抑え気味のトーンでの科白廻しが絶妙としか云い様がない上手さ。「濠端」がない以上直弼の剛直な面は出し様がないが、大老としての大きさと孤独が切々と胸に迫って来る。糟糠の妻とも云うべきお静の方に心情を吐露する「帰りたいのぅ」や、「生まれ変わっても大老だけにはならぬものだ」の科白廻しが抜群。その一方で自分を裁くのは歴史であり、今の世に知己はいないと云う、政治家としての覚悟も滲ませる。凡庸な役者ではとても手におえない難役だろうと思うが、高麗屋はその大きさ、練り上げた技巧、全くもって見事なものであった。

 

歌六の仙英禅師は完全にこの優の持ち役。世捨て人的な雲水の剽げたところと、お静の方が弟子にして欲しいと頼み入る様な、高徳な禅師としての清濁併せ呑む大きさもしっかり表現しており、当代この役をやらせては歌六の右に出る役者はいないだろう。魁春のお静の方は、今までこの優からあまり感じた事のなかったチャーミングな味わいがある。大和屋の様な女そのものと云ったお静の方とはまた違った造形で、あくまでも大老の第二夫人としての品格を湛え乍ら、一人の男としての直弼を一途に愛する心情をしっとりと表現していて、これまた見事。

 

ぶつぶつ文句を云いながらも、素晴らしい舞台に感動させられてしまった。この調子で「濠端」から出ていたら、腰を抜かしていたかもしれない(笑)。高麗屋には遠くない将来、通しで改めて見せて欲しいと心から願う次第。その意味でも、一日も早く通常の上演形態に戻って貰いたいものだ。

 

若手花形から大幹部迄うち揃った、充実の歌舞伎座第一部。その他の部は観劇後、また改めて綴りたい。

 

歌舞伎座 吉例顔見世大歌舞伎(写真)

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顔見世を観劇。ポスターです。

 

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一部絵看板です。

 

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同じく二部・三部。

 

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もう七回忌ですか・・・本当に名人でした。

 

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今年も早こんな季節になりましたか・・・

 

歌舞伎座の顔見世に行って来ました。今年も十一月、早いものです。

 

国立劇場十一月歌舞伎公演 芝翫の「熊谷陣屋」

続いてはいよいよ「熊谷陣屋」。芝翫の次郎直実、錦之助義経、児太郎の藤の方、橋之助の軍次、松江の景高、孝太郎の相模、鴈治郎の弥陀六と云う配役。しかも今回は筆者待望の相模と藤の方の「入り込み」から出る。これを観ずして、一体今月は他に何を観ると云うのか。そして期待に違わぬ出来であった。

 

満開の桜と制札を囲んで百姓達が話をしているのはいつも通り。「入り込み」がカットされる通常の「陣屋」では舞台正面の襖が開いて相模の出になる。しかし今回は花道から出て軍次が迎える。そこにまた花道から藤の方が出る。久方ぶりの再開に驚く二人。軍次が下がり女形の二人芝居になる。藤の方がこの陣屋に来たのは、息子敦盛の仇を討つ為だと告げ、その助力を相模に依頼する。旧恩のある相模はためらいつつも承知するが、その仇の名は夫次郎直実。驚く相模だが、助力を約束するところへ、景高が弥陀六を引き立てて現れる。石塔の依頼主を詮議すると云って景高が奥に入り、そこで熊谷の出になる。

 

「入り込み」の筋としてはこれだけなのだ。さして長い場ではない。しかしこの場があると、相模と藤の方の関係、弥陀六の陣屋入りの訳がはっきり判り、後段の?感はなくなる。見どり興行でもここは絶対に出した方が良い。先の「御影浜浜辺の場」は長いし登場人物も多いので頻繁には出せないだろう。しかしこの場は通常の「陣屋」と登場人物も舞台も同じ。経費はかからない(笑)。ぜひ今後の「陣屋」上演の際には、この場から出して貰いたいものだ。

 

これから先は通常の「陣屋」。とは云っても今回は芝翫型。演出は團十郎型とは異なる点が多い。まず衣装が違う。芝翫型は黒天鵞絨の着付けに赤地錦の裃袴。そして顔は赤っ面で芝翫隈。これだけでもうかなり印象が違う。初めて観た時、筆者はかなり驚いたのを覚えている。花道の出は高麗屋播磨屋の様な、富岳の如き大きさはない。筋書きで芝翫が語っていたが、熊谷の年齢設定を若く想定している様だ。それを感じさせる出になっている。七三で数珠を取り出し思い入れて拝む。これは團十郎型でも松嶋屋が同じ様に拝んでいた。松嶋屋は基本團十郎型なのだが、所々で芝翫型を取り入れている。

 

舞台に廻って相模がいるので驚く熊谷。何故陣屋に来たと相模を叱責する科白も、團十郎型の「やい、女」ではなく「こりゃ、女房」。基本團十郎型はリアルで気持ち本位なのに対し、芝翫型はより本行に近い古風な演出である。息子直家の手傷を気にする相模を抑えての「これこれこれ」も軍扇ではなく長煙管。上手から突然斬りかかった女が大恩ある藤の方と知った時にも飛び上がる演出。これも團十郎型にはない。そして敦盛を討った戦物語になる。

 

ここは高麗屋播磨屋の、義太夫味たっぷりで地鳴りがする如き重量感にはまだ径庭がある。しかも元来芝翫は甲の声に独特の癖があり、この場ではそれが多用されるので、多少耳障りではある。しかし科白廻しとしては実に見事で且つ義太夫味もしっかりあり、戦の臨場感たっぷり。三段に足を掛けての平山見得も團十郎型と違い、軍扇を高々と掲げての派手な大見得で、舞台を圧する堂々たる熊谷。柄の大きい芝翫が屋台の上で大見得を切ると、実に舞台映えがする。

 

熊谷二度目の出。ここは團十郎型と大きな違いはない。義経が出て来て首実検になる。首桶を開けるとそれは敦盛ではななく直家の首。それを見た相模と藤の方が駆け寄るのを抑えての「お騒ぎあるな」もいつも通りだが、制札の見得が違う。團十郎型は制札を逆さに突いた見得になるが、芝翫型は柄を突いての見得。團十郎型はリアルなので、制札を下に向けて首桶を隠す。しかし古風な芝翫型は見た目重視。確かに制札を上にした見得の方が見映えはする。

 

義経に「敦盛の首に相違ない」と云われ、首を相模に渡す。ここは松嶋屋もそうしていたが、屋台に首を置く團十郎型ではなく、直接相模に手渡す。ここが一つのクライマックスで、手渡す時に三段を半ば降りて昇って来た相模に首を渡しながら、相模を抱き寄せる。これは今までの芝翫熊谷にはなかったのではないかと記憶している。多分本来の芝翫型にもない演出だと思うが、夫婦二人の気持ちが交差し、情味に溢れる実に良い場面となっていた。

 

熊谷三度目の出になる。ここも大きく違う。團十郎型は頭を丸めているが、芝翫型だと有髪のざんばら髪。これが筋書きで芝翫が云っていた、まだ若い未完成な人物と云う点なのかもしれない。完全に頭を丸めてしまっている團十郎型に比べ、芝翫型の有髪は、まだ自らの進む道に迷いがあると云う事を示していると云うのが、芝翫の解釈なのだろう。これは一つの見識で、人間である以上決心したつもりでも迷いはある。特に当時仏門に入ると云うのは、浮世を捨てる事を意味する重大事なのだ。その意味の大きさを、この有髪が雄弁に物語っている。

 

幕外の引っ込みで終わる團十郎型と違い、芝翫型は「十六年は一昔」を屋台の上で云い、舞台上に極まって引っ張りの見得で幕となる。リアルな気持ち本位の團十郎型と、舞台上の見映え重視の芝翫型の違いがはっきり出る。襲名興行の際に芝翫の熊谷は二度観たが、今回はより彫が深くなっており、丸本を観たと云う手応えがしっかり残る、実に見事な熊谷だった。

 

脇では昨年来父松嶋屋相手に何度も勤めてきた孝太郎の相模が、情もあり、丸本の古格さもあり、この優一代の傑作。鴈治郎の弥陀六はこの場に於いてはニンでなく、また年齢的にも若すぎて義太夫味も薄く、左團次歌六が恋しくなる。ちょっと今の鴈治郎には気の毒な配役だったかもしれない。錦之助義経は正にニンで、絵から抜け出た様な御大将ぶり。児太郎の藤の方は熊谷夫婦が若い設定なので釣り合いも良く、初役としては上々。橋之助の軍次は、改めて声が親父に似ていると思った。成駒屋四人同時襲名でも勤めていたが、行儀良くすっきりとした軍次で、味わいを出せるのはこれからだろう。

 

総じて芝翫・孝太郎の主演二人が素晴らしく、実に見事な「熊谷陣屋」だった。まだ未見の方には、必見の舞台と云っておきたい。

国立劇場十一月歌舞伎公演 『一谷嫩軍記』より鴈治郎の「御影浜浜辺の場」

十一月国立劇場歌舞伎公演を観劇。国立は歌舞伎座に先駆けて最前列を除く全席にお客を入れている。要するにほぼ制限なし。ならば大向うも解禁かと思いきや、声出しはNG。一体いつになったら大向うが解禁されるのだろうか。歌舞伎と大向うは一体のものだと云うのが昔からの筆者の見解。これが許されないと、入場制限がなくなっても元の歌舞伎公演の形態に戻ったとは云えないと思う。しかしまた一つ前に進んだとは云えるだろう。しかし入りは・・・かなりお寒い状態。筆者が観劇した日は、全体の1/4も入っていたかどうか。やはり古典はウケないのか・・・と寂しい気持ちで観劇したが、芝居は自体は素晴らしい内容だった。

 

芝居の前に橋之助による狂言の解説があった。今主流で演じられている團十郎型と、今回の芝翫型の主な違いを判り易く説明する。歌舞伎座では実施出来ないであろう事なので、これはとても良い事だと思う。初めてこの狂言を観た人には、後々團十郎型を観た時には、その違いに逆に驚くのではないだろうか。先に画像をUPしたが、写真撮影が許可され、見物衆一斉に携帯を構えていた。国立ではたまにある光景で、何とか沢山のお客を呼びたいと云う必至の試みだろう。SNSでの拡散を呼び掛けていた。

 

序幕は「御影浜浜辺の場」。この幕がかかるのはおよそ五十年ぶりだと云う。筆者は無論初めて観た。鴈治郎の弥陀六、児太郎の藤の方、寿治郎の孫右衛門、亀鶴の忠太と云う配役。「陣屋」だけの上演だと登場しない忠太と、最後に出て来る弥陀六が主役の場。何故藤の方が青葉の笛を手に入れたのか、何故弥陀六が陣屋に引き連れられたのかが判る。確かにこの場があると、「陣屋」にある諸々の唐突感がなくなる。五十年もかからなかったのは如何なものかと思う。

 

筋を記すと、弥陀六が施主人の依頼で石塔を建てた。それを囲んで百姓が色々噂話をしている。そこに提灯を持った弥陀六が登場。施主人は敦盛なのだが、弥陀六には見えても百姓達にはその姿形が見えない。そして謝礼で貰ったと云う青葉の笛を見せる。そこに藤の方が現れ笛を見てそれは我が子敦盛のものだと云う。敦盛の安否を尋ねる藤の方に、百姓達は熊谷によって敦盛が討たれた事を告げる。嘆き悲しむ藤の方。

 

そこへ代官忠太がやって来るのが見えたので、弥陀六が藤の方を伴って舞台下手に消える。入れ替わって舞台上手から忠太が登場。藤の方を探索している。御影の里は平家の領地で、恩義を感じている百姓達は、立ち回りの末忠太を打ち倒す。庄屋の孫右衛門は下手人を梶原景時の陣屋に差し出す必要があるので、くじ引きで決めようと云う話しになるが、そのくじを孫右衛門が引いてしまう。そこに弥陀六が戻って来て、自分を下手人として陣屋に連れて行く様に諭す。孫右衛門に伴われて縄を打たれた弥陀六が花道を入って幕となる。

 

確かにさして面白い場ではないが、後の伏線が張り巡らされているので、時間がある時はこの場から出すのが見物衆への親切だろう。鴈治郎の弥陀六は、世話な味を出していて、「陣屋」の弥陀六とは違う肌触り。しかしこの場にはこの味が相応しいだろう。亀鶴の忠太は悪の手強さと愛嬌を兼ね備えていて、当然の事ながら初役で誰に教わると云う事も出来ない役を好演。鍬の柄で自らの急所を強打してしまい、悶絶して倒れる所なぞは、マスク越しの客席から笑いも出ていて、いい忠太だった。

 

この後「陣屋」に続くのだが、長くなったのでそちらはまた改めて綴る事にしたい。

 

国立劇場十一月歌舞伎公演 『一谷嫩軍記』(写真)

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国立劇場に行って来ました。ポスターです。

 

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橋之助の事前説明コーナーの撮影が許可されました。黒子ちゃんと2ショット。

 

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芝翫が以前の公演で使用した制札が展示されていました。これは貴重だ。

 

芝翫の丸本をたっぷり堪能して来ました。感想はまた改めて綴ります。