fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

八月花形歌舞伎 第二部 七之助・勘九郎・鶴松の「豊志賀の死」、勘九郎・七之助の『仇ゆめ』

東京五輪が先日幕を閉じた。パラリンピックはこれからだが、宴の後的な寂寥感を感じている。空前のメダル・ラッシュに列島が沸いたが、メダル如何に関わらず、健闘した全てのアスリート、関係各位に感謝を捧げたい。そんな最中に相も変わらず歌舞伎観劇。その第二部の感想を綴る。

 

幕開きは『真景累ヶ淵』から「豊志賀の死」。云わずと知れた落語界中興の祖、三遊亭園朝の作。この人は歌舞伎で云えば九代目團十郎みたいな人。この方作で今でも普通にホール落語等で取り上げられる噺が幾つもある。そして歌舞伎のレパートリーになった作品も多い。歌舞伎的には受け継がれている型を多く残した人、みたいな感じだろうか。今回は七之助の豊志賀、鶴松の新吉、児太郎のお久、勘九郎のさん蝶、扇雀の勘蔵と云う配役。何と全員初役の様だ。

 

この芝居で一番素良かったのは七之助の豊志賀。筆者的には福助の名演が記憶に新しいが、七之助はその福助に教わったのだろうか、口調迄似ているところがあった。まぁ叔父甥の関係だから似てもいるだろうが。若い男に惚れた中年女の哀しみみたいなものが、新吉に縋り付く所作に滲み出る。若いお久に嫉妬し、辛く当たるところもいい。ただ福助の様な愛嬌に欠ける為、「ちょいと新さぁん」と甘えるところなぞは福助だと場内が大いに沸いたものだが、七之助だとそこまでは行かない。怪談噺に愛嬌なぞ必要ないと云う向きもあろうが、ただ怖がらせるだけではない今回の様な演目には、メリハリが欠かせない。しかし初役にしては上出来で、今後練り上げればいずれ福助の域に到達するのではないか。

 

鶴松の新吉は抜擢に応えた力演だったが、これは手に余った。新吉は年増の豊志賀に飽きがきていて、お久に気がある。そこをしっかり見せて見物を納得させるには色気が必要だが、それが鶴松には希薄。ただの初心な男と云う印象に留まっている。そして七之助同様愛嬌に欠けているので、客席が今一つ沸かない。やはり福助勘九郎のコンビが恋しくなってしまう。その勘九郎は今回さん蝶に回っていてソツない出来だが、やはり新吉は勘九郎で観たかった。

 

児太郎のお久、扇雀の勘蔵は手堅く、まず文句のない出来。ことに児太郎は初心な町娘の感じがニンにも合い、実に結構。しかし全体としては七之助の存在感が全面に出て芝居的なバランスに欠けている。鶴松にはもう一段勉強して貰い、兄貴分の抜擢に応えて欲しいと思う。楽日近くなればもう少し練れてくるかもしれないが。

 

打ち出しは『仇ゆめ』。北條秀司作の舞踊劇。勘九郎の狸、七之助の深雪太夫、虎之介の師匠、扇雀の亭主と云う配役。深雪太夫を想う狸が踊りの師匠に化けて逢いに来るも最後は正体が顕れ、その想いを不憫に思う深雪太夫に抱かれて息を引き取ると云う話し。しかし物語の構成に無理があり、今一つ思い入れられない。

 

致命的なのは踊りの師匠に化けている狸と、本物の師匠がまるで似ていないと云う点。違う役者が演じているので当然なのだが、今回の勘九郎と虎之介は余りにも違い過ぎる。古典と違いこう云う作品にはある程度のリアリティを必要とする。姿形は似ていなくても例えば師匠を猿之助松緑あたりがやればもう少し違った結果になったかもしれない。今回の虎之介には荷が重すぎた。踊り一つとっても、七之助の方が格段に上手く、どちらが師匠か判らない。色気も薄く、深雪太夫が焦がれる様な男には見えないのも辛い。

 

勘九郎七之助の連れ舞いは流石でここは楽しめたのだが、芝居全体としては無理があり、満足と云うには程遠いものだった。これは師匠と狸は二役でやると云う工夫をした方が良いと思う。今のままの演出では難しいとは思うが、今後上演する際には一考の価値はあるのではないかと考える。今月は大歌舞伎ではなく花形歌舞伎なので若手を抜擢したと云うのはいいと思うが、どちらの演目も若手がその抜擢に充分応えられたとは云えない出来だったのは残念。若手花形の今一層の精進に期待したい。

国立劇場七月歌舞伎鑑賞教室 又五郎・高麗蔵の「四の切」

遂に東京五輪が始まった。開催に色々云っていた人たちは、今の日本選手団メダルラッシュをどう云う思いで観ているのだろう。開会式を観たが、?の多いセレモニーだった。全体として日本色が薄い。それらしかったのは木遣りと海老蔵の『暫』のみと云う感じ。しかもその『暫』もジャズ伴奏付きと云う演出。海老蔵も踊り辛かったのではなかろうか。無論演奏した上原ひろみさんには何の罪もないが。極めつけの?は複数の外国人歌手による「イマジン」。筆者はビートルズジョン・レノンも大好きだが、この曲の歌詞を知っていて使ったのだろうか?

 

「国何てないと思ってごらん」と若者に呼びかける歌詞を持つ「イマジン」。しかしその場に集っていたのは、国を背負い、国旗を先頭に入場して来たアスリートなのだ。場違いも甚だしい選曲だったとしか云えない。演出した人がそれを知っていて敢えて選んだとしたら、これは五輪の否定に他ならない。自分の思想信条をこう云う公式な場に持ち込むのは、リベラリストの常套手段ではあるのだが。まぁこのブログのテーマとは逸れるのでこれ位にするが、一日本国民として、日本選手団の更なる活躍を願ってやまない。

 

閑話休題

 

去年は敢え無く中止となった国立劇場の歌舞伎鑑賞教室を観劇。又五郎・高麗蔵と云う渋い座頭の公演と云う事で入りを心配していたが、思っていたより入っていてまずは一安心。普段歌舞伎座で座頭をする事がない優のこう云う公演を見逃す手はない。期待に違わず実に結構な芝居だった。

 

幕開きは種之助による「歌舞伎のみかた」。竹本や御簾内の説明に続いて、本日の出し物「四の切」の解説。蝶紫の静御前が観れたのはちょっとしたご馳走。先月の「文七」の時も種之助が前説を勤めていたので、二ヶ月連続で慣れたものだった。最初に「今日初めて歌舞伎をご覧になる方は?」と聞いた時に、結構な人が手を挙げていたので、こういう解説がある方がより歌舞伎を理解して貰えるだろうと思う。

 

そしてお目当て『義経千本桜』四段目、通称「四の切」。又五郎の忠信実は源九郎狐、高麗蔵の静御前、松江の次郎、種之助の六郎、橘三郎の法眼、梅花の飛鳥、歌昇義経と云う配役。又五郎の狐忠信は三度目だと云う。亡き天王寺屋と播磨屋に教わったと筋書にあった。播磨屋の忠信はイメージが湧かないが、音羽屋型の規矩正しい忠信だった。

 

又五郎の忠信は、何より役が肚に入っているのが良い。花道を出て来て七三で義経に礼をする。母の病と云う私的な事情で主人と離れてしまっていた事に対する恐懼の思いが滲む。何気ないが、歌舞伎はこう云う細かいところが大事なのだ。偽忠信の来着を告げられ、刀の下げ緒をといて縛り縄にし、隙あらば偽忠信を捕縛しようとする気組みもきっぱりとしていて見事。次郎と六郎に囲まれて上手に引っ込むところも、花道にしっかり気を残している。

 

狐忠信となってからの一連のケレンも、齢還暦を過ぎた優とは思えない見事な所作。静御前に迫られたところの海老ぞりなど、又五郎はこれ程動ける優だったのかと、改めて瞠目させられた。最近妙に痩せて体調を心配していたのだが、もしかしたらこの役の為に身体を絞ったのかもしれないとも思った。

 

昨年観た獅童忠信の様な野性味はないが、親への思慕の情が歌舞伎的演出の範疇でしっかりと表現されている。今年観た魁春の「十種香」でも感じた事だが、教わった昔通りの型を実直にそのままきっちりやりおおせる。これは大変な技術なのだ。役を自分流に解釈し、自分なりの物を付け加えるのもそれはそれで大事な事だが、魁春又五郎の様に、型をしっかり守って何も足さない、何も引かないと云う行き方もまた、大切な事なのだ。

 

高麗蔵の静御前も同様。こちらも還暦過ぎた優だが、いかにも義太夫狂言の赤姫らしく、実に古格な味わいのある静御前義経への想い、そして狐忠信への憐憫。実に女性らしく、この優の日頃の修練が、決して派手さこそないが本物の手応えのある素晴らしいものである証明だ。歌昇義経も若さに似合わぬ見事な位取りで、達者なところ見せてくれていた。

 

橘三郎の法眼、梅花の飛鳥、いずれもしっかりした出来で脇を固めており、出番こそ短いが、古典の品格を遵守して見事に芝居の幕開きを飾っていた。全体として花形役者はいないものの、いかにも義太夫狂言を観たと云う手応えのある実に結構な「四の切」だった。

 

来月は歌舞伎座に加えて、大和屋の南座公演も観劇予定。五輪と歌舞伎で、コロナの憂さを晴らしたいと思っている。

国立劇場七月歌舞伎鑑賞教室『義経千本桜』(写真)

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国立劇場歌舞伎鑑賞教室を観劇。ポスターです。

 

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稚魚の会ポスター。行きたいのですが・・・

 

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文楽九月公演。これはもうマストですね。

 

又五郎・高麗蔵の座頭公演。流石国立、渋い。感想はまた改めて綴ります。

 

七月大歌舞伎 第二部 高麗屋・芝翫の『身替座禅』、錦之助・菊之助の『鈴ヶ森』

残る歌舞伎座二部を観劇。今月の歌舞伎座三公演の中では一番入りが少なかった印象。それでも平日だったので、緊急事態宣言下でもあるし、まぁこれ位入れば良しとするしか現状ないのかとも思う。しかし役者は一切手抜きナシの熱演。実に結構な第二部だった。

 

幕開きは『身替座禅』。高麗屋の右京(最近右京と云うと水谷豊になってしまうが)、芝翫玉の井橋之助の太郎冠者、米吉の千枝、莟玉の小枝と云う配役。米吉以外は全員初役。高麗屋は齢八十近くにもなって初役に挑むと云う、その溌剌とした精神が凄い。そしてこの右京がまた素晴らしいものだった。

 

当代一の英雄役者・高麗屋にとって、この右京はニンではない。しかしこれくらいの名人になると、関係ない様だ。かつて高麗屋は「役者は何でもやる必要はないが、何でも出来なければならない」と発言していた。それを実践して見せてくれたのが今回の右京だ。筋書で高麗屋が「今回は中村屋の大叔父と、松緑の叔父へのオマージュの気持ちで勤めてみたい」と云っている。確かにこの昭和を代表する両名人は、時代、世話、何でもござれの名優だった。内心この二人に比肩するのは、当代では自分だと云う自負もあるのだろう。

 

先月の甚五郎もそうだったが、今回もこれがあの英雄役者と同一人物かと、疑う位の軽くさり気ない芝居。変な当て込みがなく、松羽目の品位を保ちながら、かつ可笑し味がある。美濃の遊女花子逢いたさに、奥方玉の井に諸国の寺々を巡業して来たいと嘘をつく。玉の井がそれはどれくらいの日数がかかるのかと聞くと、「一年かかるか、二年かかるか」と答える右京。ここの「一年かかるか」の後「二年かかるか」の時に、奥方を恐れるかの様に一瞬間があり、チラりと玉の井を見やる。ここら辺りの細かな芝居が実に上手い。山の神の尻に敷かれる右京の立場がしっかり出ており、全ての亭主族を深く首肯させるものだ。

 

何とか一晩だけの暇を貰い、太郎冠者を身替として、花子の元へ行く右京。花道の引っ込みでの浮き浮きぶりも微笑ましく、また花子との束の間の逢瀬を楽しんで戻って来た時の何とも云えないご機嫌ぶりも可愛らしく、観ているこちらまで自然と笑顔になる。玉の井に露見しているとも知らず、花子の惚気を語る所作事がまた実に柔らかく、そして艶がある。艶やかな花子の姿が見えるかの様だ。

 

対する芝翫玉の井がまた良い。高麗屋が依頼したらしいが、最近自身の女性問題で何かと世間を賑わわせている芝翫に、浮気旦那を持つ奥方の役を振る高麗屋エスプリが効いている(笑)。それを受ける芝翫の度量(?)もまた見事な役者魂。そしてこの玉の井が実にチャーミングなのだ。女形声と、得意の太々とした呂の声を使い分けて場内の笑いを誘い乍ら、右京への愛情の深さも滲み出ている。柄の大きさを生かして自然と亭主に圧力を加える様もわざとらしくなく、好感が持てる。そして芝居とは関係ないが、女形の化粧をすると、亡き父先代芝翫に似てくるのだ。血だなぁとしみじみ思わされた。

 

橋之助の太郎冠者も当代最高の名人高麗屋を前にしても変に力まず、軽く演じて初役としては上々の出来。米吉・莟玉は正に時分の花の美しさで舞台を彩っていた。総じて実に見事な『身替座禅』で、観る前は去年も音羽屋で観たのにと思っていたが、また違った味わいで、素晴らしい狂言だった。

 

打ち出しは『鈴ケ森』。菊之助権八権十郎の勘蔵、彦三郎の熊六、吉之丞の早助、橘太郎の蟹蔵、團蔵の十蔵、そして播磨屋休演により全日錦之助の長兵衛と云う配役。これがまた見事な『鈴ケ森』だった。

 

この狂言成功の理由は、何と云っても菊之助権八だ。まず第一にニンである事。そして形の美しさ、よく通る科白廻しと、間然とするところのない見事な権八。前髪の美しさと若々しい色気が堪らなく良い。加えて立ち回りでもよく身体が動くし、決まりもキッチリしていて、実に見ごたえがある。お決まりの「雉も鳴かずば撃たれまいに。益ねぇ殺生、致してござる」の艶のある科白廻しはこれぞ権八。まずこれ以上望むもののない素晴らしさだった。

 

錦之助の長兵衛も力演ではある。しかし菊之助と対照的にこちらはニンではない。芝居は上手いし、する事に間違いはない。だが権八の立ち回りを見ていて、駕籠を開けて出て来たところ、ここであぁ長兵衛だと思わせなければこの役は勤まらない。これは技術を超えた何かが必要で、ニンでないとどうにもならないものだと思う。錦之助はやはり権八の人。浅草で倅相手の長兵衛なら兎も角、歌舞伎座菊之助相手では厳しかった。これは錦之助には申し訳ないが、播磨屋で観たかったと云うのが本当のところだ。

 

最後に付け加えると、今回は雲助達のメンバーが実に豪華。筋書で團蔵が「今回の雲助は菊五郎劇団で固めることになりました」と語っていたが、正にオールスターキャストで、劇団の若旦那を盛り上げていた格好。実に仕合せな権八さんだった。

 

今月はこの後国立劇場の鑑賞教室も観劇予定。その感想はまた改めて。

大阪松竹座 七月大歌舞伎 夜の部 松嶋屋・幸四郎の「引窓」、扇雀・壱太郎の「新口村」

大阪松竹座夜の部を観劇。昼の部同様いい入り。去年この七月公演は中止になっていたので、待ちかねていた上方のファンは多いのだろう。東京在住だが、筆者も待ちかねていた。濃厚接触者となってしまった鴈治郎の休演は残念だったが、その分弟扇雀と息子の壱太郎が熱演。幸い公演後半には鴈治郎の復帰がなったとの事。大事に至らなくて不幸中の幸いであった。

 

幕開きは『双蝶々曲輪日記』から「引窓」。松嶋屋の十次兵衛、幸四郎の濡髪、孝太郎のお早、壱太郎の丹平、隼人の伝造、吉弥のお幸と云う配役。幸四郎の濡髪は十一年ぶりだと云う。それぞれ熱演で実に結構な「引窓」だったが、独特なものでもあった。

 

当代屈指の丸本役者松嶋屋だが、今回の十次兵衛は非常にリアルで、義太夫味を強調しない行き方。しかも謡うがごとき科白廻しは天下一品の優だが、聴かせどころの「狐川を左へとり、右へ渡って山越に、右へ渡って山越に」も張り上げる調子でなく、抑制の効いた科白廻し。そして通常立って云うこの科白を座ったままで云っていた。芸風として非常に派手な松嶋屋としては、珍しく地味な行き方。しかし、非常に情味溢れる十次兵衛で、この狂言に関しては義太夫味よりこのリアルな芝居の方が適していると思ったのだろう。これはこれで一つの見識だと思う。

 

幸四郎の濡髪は、非常な力演。ニンとしては圧倒的に十次兵衛の幸四郎だが、描線が太く、呂の声もしっかりしていて見事な濡髪。既に再嫁して、義理の息子がいる母を気遣い、自分が逃げる事で母にも十次兵衛にも迷惑をかけるとお縄につこうとする心情が、見事に表出されている。ニンでない役もここまで出来る幸四郎は、本当に素晴らしい役者になってきたと思う。

 

孝太郎と吉弥は、出は意外にあっさりしていてあれあれと思っていたのだが、十次兵衛に濡髪の手配書を譲って欲しいと懇願するところ、そして血縁の子のみを庇いたてするなら動物と一緒、義理の息子を立てねば人とは云えぬと泣き崩れるところ、義理と血縁との板挟みになる母の真情が溢れ、実に見事。孝太郎も廓上がりの出自を匂わせながらも、義理の母と同じ気持ちに揺れる女房をしっかり演じてこれも出色の出来。最後は十次兵衛と濡髪が手を取り合い、さらばさらばで幕。各役手揃いで、素晴らしい「引窓」となった。

 

打ち出しは『恋飛脚大和往来』から「新口村」。鴈治郎が忠兵衛と孫右衛門の二役の予定であったが、休演により扇雀が代演、扇雀が演じる予定であった梅川を壱太郎、竹三郎の忠三郎女房、虎之介の万歳、千之助の才造と云う配役。主役が替わってしまったので、要するに別物の狂言になったと云う事だろう。鴈治郎でも観たかったが、中々どうして、こちらも素晴らしい出来であった。

 

扇雀の忠兵衛は一度こんぴら歌舞伎で勤めている様だが、流石に孫右衛門は初役。しかしこれが実に結構な孫右衛門であった。出身が関西の役者だけあって、義太夫味がしっかりあり、頑固ながら子を想う真情に溢れている。「親の目にかからぬところで縄にかかってくれい」と云い乍らも、梅川に目隠しをとられて忠兵衛と手を握り合って泣き崩れるところ、とても代役それも初役とは思えない迫真の場になっており、思わず目頭が熱くなった。

 

壱太郎の梅川も一度勤めている様だが、こちらも急な代役とは思えない見事な出来。下駄の鼻緒が切れた孫右衛門に「ここによい紙がござんす。紙縒りひねってあげましょう」と鼻緒を挿げ替えるところ、廓にいた風情を感じさせ乍ら、義理の親を労わる気持ちがさり気なく表れる。養家への義理を立て、路銀を渡して立ち去ろうとする孫右衛門を押しとどめて、目隠しならばと対面させてすっと目隠しを外す。手を取り合って涙する親子を見て自分もそっと涙を拭う。実にしっとりとして結構な梅川であった。

 

脇では竹三郎が忠三郎女房で矍鑠としたところを見せてくれており、この優が元気だと、実に上方狂言らしい風情になる。年下の秀太郎は亡くなってしまったが、もう卒寿に近い竹三郎が元気で舞台を勤めてくれているのは本当に嬉しい。これからも長く元気で活躍して欲しいものだ。

 

上方公演らしい義太夫狂言が二題揃った夜の部。歌舞伎を観たと云う手応えがしっかりある素晴らしい公演だった。

 

七月大歌舞伎 第一部 中車・松緑の『あんまと泥棒』、猿之助・松緑の『蜘蛛の絲宿直噺』

歌舞伎座第一部を観劇。三部程ではないが、入りは良好。やはり「半沢」に出ていた中車、猿之助が出ると云うのが大きいのだろうか。歌舞伎役者も知られてナンボみたいなところはある。最近バラエティで猿之助幸四郎をよく見かける。より多くの人に歌舞伎役者を知って貰い、劇場に足を運んで貰える様にする必要はあるのだろう。観れば絶対に面白いのだから。

 

幕開きは『あんまと泥棒』。作者は筆者の大好きな長谷川伸の愛弟子村上元三。元はラジオ劇だったらしい。中車の秀の市、松緑の権太郎と云う配役。三年前にも同じ組み合わせで観ているが、今回は更に仕上がっている印象。

 

筋書によると、中車は中村嘉葎雄が演じたものを手本にしていると云う。中村嘉葎雄は云わずとしれた萬屋錦之介の弟で、今の時蔵歌六の叔父に当たる人だ。歌舞伎からは離れてしまったが、名優である事は疑いがない。現代劇、時代劇何でもござれの優だ。ただ三十年程前に歌六の権太郎相手に歌舞伎座で勤めているらしい。これは想像だが、昔歌舞伎座で上演されていた萬屋錦之介を座頭にした芝居の時ではないだろうか。

 

今回の中車は、前回よりも力が抜けていると云うか、実に自然体の芝居だ。無理に歌舞伎に寄せようとしていない。そこを喰い足りないと見る向きもあるかもしれないが、こう云う狂言なので、筆者は良いと思う。そしてこう云う芝居の方が、中車には合っている。そして大袈裟な表現を避けており、無理に受けようとはしていない。あまり受けないと云う劇評もあったが、当然だろう。当人達が特に受けようと思ってやっていないのだから。しかし客席からはごく自然な笑いが出ていて、これは中車の狙い通りなのではないかと思う。

 

歌舞伎味は権太郎の松緑が一手に引き受けている。暗い家に忍び入って来るところ、秀の市に窘められて退散するところなどの動きや形は正に世話の味。凄んではいてもどこか抜けている権太郎を、松緑もさらりと演じて実にいい味を出している。二度目の共演と云う事もあって両者のイキも合い、これはこれからも二人で当たり役として演じ続けて行くのではないかと思う。今度この二人で以前中車が半太郎を演じた長谷川伸の『刺青奇偶』あたりを観てみたいものだ。松緑は鮫の政五郎に合っていると思う。

 

打ち出しは『蜘蛛の絲宿直噺』を去年に引き続いての上演。猿之助が五役早替りで勤め、梅玉の頼光、坂東亀蔵の金時、福之助の貞光、笑三郎の八重菊、笑也の桐の谷、中車の綱、そして今回は押し戻しで松緑の保昌と云う配役。去年の時と福之助・笑三郎・笑也以外は変っている。立て続けに演じているのに、これだけ配役が変わるのも珍しいのではないか。

 

これも去年より更に磨きがかかっている。幕開きで澤瀉屋を支える二大女形笑三郎と笑也が状況説明。時代物の科白廻しでコロナネタをぶっこんで来て、場内が大いに沸く。負けじと猿之助が五役の内の一つ彦平でコロナネタで返す。猿之助のサービス精神が見事に発揮されて、実に愉快だ。古典を元にはしていても、実質新作みたいのものだから、こう云う場があっても良いだろう。そんなチャリ場だけでなく、笑三郎・笑也と三人揃っての手踊りがまた素晴らしいもので、澤瀉屋の実力をまざまざと見せつけてくれる。

 

去年の上演でもそうだったが、猿之助五役の内で一番良いのは番新八重里。仇な雰囲気でのくどきは実に艶っぽく、見応え充分。早替りも鮮やかで、猿之助の良いところを集めた様な狂言になっている。そして前回は隼人だった頼光が今回は梅玉。流石の位取りと貫禄、そして古希を過ぎてはいても艶があり、梅玉が出るだけで舞台がしまる。年輪に裏打ちされた芸は伊達ではない。

 

そして前回ではなかった松緑演じる保昌の押し戻しがまた実に素晴らしい。この優の荒事は海老蔵のそれとはまた違って、実に古格な味わいがある。決まったところの顔の小ささは身体的なもので是非もないが、そんなに身長があるとは思えない松緑が大きく見える。海老蔵の荒事が令和の荒事とすれば、松緑のそれは昭和以前の古い味わいを残したもの。現代においてこれは貴重だと思う。これが幕切れにあるとなしとでは、芝居全体の印象が全然違ったものになる。この狂言を上演する際には、ぜひ今後もこの押し戻しを付けて貰いたいものだ。

 

地味な二人芝居と、千筋の糸を出しながら決まって幕となる派手な舞踊劇と、対照的な狂言の組み合わせとなった第一部。大いに楽しませて貰った。

 

残る歌舞伎座二部は、また別項にて。