fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

大阪松竹座 七月大歌舞伎 昼の部 幸四郎の『伊勢音頭恋寝刃』、松嶋屋三代の『お祭り』

東京に四度目の緊急事態宣言が発出される直前に、大阪に遠征。去年無念の中止に追い込まれた「関西歌舞伎を愛する会」の大阪松竹座七月公演が、今年は無事開催された。歌舞伎座同様入場制限されてはいたが、ほぼ満員の盛況。関西系の松嶋屋成駒家が揃う中に、東京から幸四郎・隼人が乗り込んだ形。実に見ごたえのある狂言が並んだ。

 

幕開きは『伊勢音頭恋寝刀』。幸四郎の貢、壱太郎のお紺、隼人の喜助、虎之介のお岸、孝太郎の万次郎、扇雀の万野、鴈治郎休演で千壽のお鹿と云う配役。万次郎は本来なら秀太郎が演じる予定だったのだが、急逝により甥の孝太郎となったものだ。

 

幸四郎の貢は四年ぶり二度目。初演も見事なものだったが、今回も素晴らしい。当然の様にこの役を十八番にしている松嶋屋からの直伝。来月初演する「義賢最期」も松嶋屋から教わっている。父、叔父からだけでなく松嶋屋からも教えを受けている幸四郎。当代最高の名人の薫陶を受け、襲名以降その芸容をどんどん大きくして行っている。その見事な成果の一つが今回の貢だ。

 

筋書(関西では番附だが)によると松嶋屋が貢について、「どこを写真に撮られても、美しくなければならない」と云っていたと云う。正にその通りの貢。とにかく錦絵から抜け出た様な美しさだ。幸四郎生来の美貌に預かるところも勿論大だが、形の美しさが抜きんでて素晴らしい。これは踊りが身体にあるのが大きいのだろう。万座の中でお紺に愛想尽かしをされた貢が、いたたまれず油屋を後にする。その花道の引っ込みで、羽織を肩に掛け、身体をそらして決まったところの美しさなどは、筆舌に尽くし難い。

 

加えて今回は科白廻しも見事。「伊勢乞食」と罵られ、「身不肖なれども福岡貢」に始まる長科白、これが実に聴かせる。貢が幸四郎のニンである事もあり、万野の奸計に嵌ってしまった無念さが観ているこちらにも切ない迄に迫って来る。またこの場の扇雀演じる万野が真に憎々しく、科白廻しも実に手強い抜群の出来。この万野がいいと、この場は素晴らしく盛り上がる。初役らしいが、扇雀が見事な腕を見せてくれた。

 

最後は妖刀「青江下坂」に操られる様に次々人を殺めていく貢。ここはリアルに流れてはダメで、あくまで歌舞伎的様式美が全面に出なければならない。しかしその一方で刃に手を曳かれる様に殺戮を繰り返す貢の狂気も、しっかり出す必要がある。その点でも幸四郎は実に見事。一種催眠状態にある貢の腕が斬るのではなく、刃が自然と人を斬る。震える剣先と虚ろな瞳に妖刀の魂が憑依した貢の狂気を象徴的に表現し、血糊まみれのその立ち姿は悲愴美に溢れ、凄絶な歌舞伎美に満ちている。

 

壱太郎のお紺は二度目らしいが、心ならずも愛想尽かしするところ、きっぱりとしていて技巧的にも申し分ない出来。万野に加えてこのお紺も良いので、貢の絶望感が一層際立つ。東の若女形児太郎同様、西の若女形壱太郎も進境著しいものがある。鴈治郎の代演千壽も手一杯の力演、各役揃って素晴らしい狂言となった。ただコロナ禍で人数を絞る必要があるせいか、「奥庭」の芸者衆揃っての総踊りはナシ。背景も通常の提灯が飾られた渡り廊下ではなく、普通の庭の作りで、舞台面としては地味な印象の大詰だった。

 

打ち出しは『お祭り』。仁左衛門・孝太郎・千之助と松嶋屋三代が揃った。正月の高麗屋三代が揃った「車引」に続く年代記ものの狂言。両家共、お祖父さんが元気なればこそ成立する座組。仁左衛門は云う迄もなく上方出身の役者だが、江戸の鳶頭と云う鯔背なところも何の違和感もなく出せるのが本当に凄い。踊りで鍛え上げた身体のシルエットは、八十近い老人のそれではない。千之助は昨年二月の「道明寺」における苅屋姫に続く女形で、時分の花らしい美しさ。孝太郎は年増の仇な雰囲気で鳶頭を口説く。

 

お祖父さんを息子と孫が取り合うと云う歌舞伎らしい座組で、実に微笑ましく、観ているこちらも浮き浮きした気分にさせられる。ただこの出し物お約束の「待ってました!」「待っていたとはありがてぇ」のやり取りが、大向うの禁止によりナシ。このやり取りがないのは肩透かしの感があり、声を出せないなら無理に『お祭り』を出す必要もなかったのではないかと思ってしまう。三代で出来る狂言は、探せば他にもあっただろうに。まぁ子と孫に囲まれてご機嫌な松嶋屋が観れたので、それはそれで良かったのだが。

 

大看板から花形、若手花形とそれぞれに充実していた素晴らしい昼の部。続いて観劇した夜の部の感想は、また別項にて改めて綴りたい。

大阪松竹座 七月大歌舞伎(写真)

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大阪松竹座に行って来ました。

 

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ポスターです。

 

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昼の部絵看板です。

 

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同じく夜の部

 

東京に四度目の緊急事態宣言が出される直前、大阪七月大歌舞伎を観劇して来ました。遠征した甲斐のある素晴らしい公演でした。感想はまた改めて綴ります。

 

七月大歌舞伎 第三部 海老蔵の『雷神不動北山櫻』

七月大歌舞伎の第三部を観劇。海老蔵実に二年ぶりの歌舞伎座登場とあって、客席制限下ながら満員の盛況。去年の襲名が三ヶ月丸々流れたとは云え、市川宗家が二年もの間歌舞伎座を不在にするとは如何なものでしょうか、松竹さん。海老蔵本人が歌舞伎座に出たがらないとはとても思えない。海老蔵は単独で客が呼べるので、歌舞伎座より新橋や地方公演で使いたいと云う経営的な思惑は理解出来るが、二年はないでしょ、と思うのは筆者だけではあるまい。

 

とぶつぶついいつつも、やはり歌舞伎座の大舞台に海老蔵は映える。やはり天性の歌舞伎役者なのだ。今回はコロナで時間的制約もあり、本来四時間以上ある大作を二時間半にまとめての上演。しかし無理に刈り込んだ感はなく、充実した舞台だった。改めて振り付けと演出を担った藤間宗家の力量に感服させられた次第。配役は海老蔵が鳴神・弾正・早雲・清行・不動明王の五役、児太郎の雲の絶間姫、男女蔵の民部、市蔵の瀬平・黒雲坊、齊入の白雲坊、友右衛門の春道、雀右衛門の巻絹、門之助の秀太郎、右團次の玄蕃と云う配役。三年前の上演と替わったのは絶間姫と玄蕃位で、大きな配役変更はない。

 

五役を兼ねる位なので、とにかく海老蔵海老蔵による海老蔵の為の狂言。筆者の見解では、海老蔵はテクニカルな役者ではない。まだまだ肚のある芝居は苦手としており、本来肚が必要な弁慶でも荒事感を全面に出してくる。『勧進帳』に関しては歌舞伎十八番の一つでもあり、亡き父團十郎も荒事味の強い行き方だったので、それが成田屋風だと思えばありだとは思う。しかし義太夫狂言などはまだまだ深味が足りないし、そもそもあまり演じていない。だが今回の様な終始荒事で押せる狂言になると、当代他に比すべきもののない位の見事な芝居を見せてくれる。

 

五役の内弾正は正月の新橋でも観たので細かいところは省略するが、相変わらず素晴らしい出来。海老蔵が筋書きで「荒事の根底にあるのは勧善懲悪」と語っていたが、正にその通りの狂言で実に爽快。何度観ても楽しめる狂言だ。三年ぶりの鳴神も実に見事。海老蔵には天性備わった愛嬌があるので、それがこの役にぴたりと嵌る。絶間姫の胸に手を入れるところもエロに堕さず歌舞伎らしい品があり、色仕掛けに騙される鳴神が哀れにさえ思えてくるのは、企まずとも滲み出て来る海老蔵の愛嬌だ。

 

そして騙されたと知った後のぶっ返った鳴神の迫力は正に当代無双。気持ちよい位の荒事で、一役の中にこの二面性をしっかり表現出来るのは流石は海老蔵だ。上人らしい品と、その反面の好色さ、そして騙された怒りの大きさを表す荒事と、海老蔵の為にある様な役だ。お家芸に対する海老蔵の思い溢れる素晴らしい「鳴神」だった。

 

そしてクライマックスは大詰「朱雀門王子最期の場」。この場の四天との立ち回りは、これぞザ・海老蔵。抜群の身体能力を生かした素晴らしい立ち回りで、観ている者を圧倒する。「蘭平」を思わせる花道での梯子をよじ登って決まったところはなぞは正に千両役者。ここで〆た方が良いと思った位の見事な場となっていた。

 

最後は不動明王の空中浮遊で幕となる。先の場が派手な動きで大いに盛り上がっていただけに、この大詰は多少肩透かしの感はある。場の繋ぎの大薩摩がやや長い上に、御簾内の音が大きくはっきりと聴き取れない。「不動」は歌舞伎十八番の内なので省略する事は出来ないだろうが、ここはもう少し工夫が必要なのではないだろうか。

 

脇では児太郎の絶間姫が若い乍ら出色の出来。花道を出て来たところの姫らしい気品と、亡き夫との別れを語るくどきの艶っぽさ。そして夫婦約束をした後の仇っぽい味もしっかり出せており、メリハリのある見事な絶間姫。玉三郎の薫陶を受けている児太郎、めきめき腕を上げている様だ。友右衛門、雀右衛門、門之助、市蔵、齊入、右團次のベテラン勢もそれぞれ間然とするところのない出来で、二時間半があっと云う間の見事な歌舞伎座第三部だった。

 

今月は後一部・二部に加え、国立と大阪松竹も観劇予定。鴈治郎の休演は痛恨の極みだが、松嶋屋幸四郎が揃う大阪はことに楽しみだ。

七月大歌舞伎(写真)

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七月大歌舞伎に行って来ました。ポスターです。

 

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一部・二部の絵看板です。

 

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同じく三部。

 

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遂に三階に秀太郎の写真が・・・(涙)。合掌。。。

 

亀鶴がコロナに感染して、鴈治郎が大阪公演を休演しているとか。心配です。何とかこれ以上感染者を出さず、楽日迄無事公演出来る事を祈るのみです。

 

六月大歌舞伎 第二部 大和屋・松嶋屋の『桜姫東文章』下の巻

歌舞伎座二部を観劇。四月に引き続き入場制限下ではあるが、超満員の盛況。客席は熱気で溢れていた。全席販売しても完売していただろうから、松竹的には残念だったろう。三十六年ぶりだと云う玉孝の「東文章」。もう観れないかもしれないと思うと、一瞬でも見逃したくないと云う公演だった。

 

前回から引き続き大和屋、松嶋屋錦之助歌六、吉弥と云う主要の役どころに変更はない。それに孝太郎がお十で加わる。四月を観ていない観客の為に、幕開きの前にそれまでのあらすじ説明があって幕が上がった。今回は「岩淵庵室」から大詰め迄の上演。

 

四月の「三囲土手の場」迄は、物語の発端が清玄にある関係で、桜姫と清玄、権助が同等の絡みを見せているが、今月の「岩淵庵室」以降は完全に桜姫が主役である。清玄の妄執、そして最初は強姦した挙句にあっさり姫を捨てたものの、結局は桜姫に魅了され殺される権助も、所詮は桜姫の業と云うか、その生き様に翻弄される存在でしかない。桜姫にそれだけの魅力が出てこないと、この作品は成り立たない。桜姫が難役中の難役とされるのは当然だろう。

 

近年福助七之助が演じてはいるが、桜姫を歌舞伎座で演じた役者は亡き歌右衛門と大和屋しかいない。去年明治座七之助が演じる予定だったが、コロナで流れてしまったのは残念だった。チケットは押さえていたのだけれど。勘九郎が同じ座組で必ず明治座に帰って来ますと云っていたので、今回の上演を踏まえた七之助の桜姫も楽しみだ。

 

細かな筋は省くが、とにかく大和屋の桜姫が絶品だった。ことに「権助住居の場」における大和屋は抜群の上手さ。権助に女郎屋に売られ風鈴お姫と呼ばれる身になっているところ、女郎言葉と姫言葉が入り混じる科白廻しの見事な事!艶やかであり、強さもあり、しかしそこに一抹の哀しみもある。清玄の幽霊を前にした長科白の素晴らしさは、正に聴かせどころだ。ここがクライマックスでも何ら違和感はないのだが、この芝居にはまだ後に山がある。

 

清玄の幽霊に傍らの赤子は自らの子であり、権助は清玄の弟であると聞かされた桜姫。酔って帰った権助に更に酒を勧める。酔った勢いで姫の父である吉田の少将と弟の梅若の殺害を口走る。ここの二人芝居が実に素晴らしい。酔いが段々深まって行く松嶋屋の芝居は正に世話の味。そして真相を聞き出そうとする大和屋の桜姫。真相が明らかになるにつれ、姫の表情が変わって行く。舞台に緊迫感が漲り、この二人ならではの見事な場になっている。天国の南北も、感嘆の溜め息を漏らしているのではなかろうか。

 

結局姫は権助が仇である事、赤子が仇の子であることを知り、二人共刺し殺す。天下の二枚目松嶋屋もあえなく死んでしまうが、大詰で権助と我が子を殺した言い訳に自害しようとする姫を押しとどめる頼国役で再登場。目の覚める様な捌き役のいで立ちで、颯爽としたところを見せて汚名(?)返上。最後は出演者揃って客席に挨拶して幕。全体として陰惨な話しなのだが、最後は明るく〆て大団円といったところ。こうでないと気持ちよく帰れませんから(笑)。

 

やはり大和屋の魅力が圧倒的だった「東文章」下の巻。ただ前段から二ヶ月空いてしまっての上演はやはり残念。これは通しで観たい狂言だった。体力的に古希を過ぎた二人には厳しいのだろうけれど。しかし折角二人揃うなら、他にもまだまだ観たい狂言は沢山ある。『盟三五大切』とか、「吉田屋」何かはぜひまた観たいものだ。松竹さん、宜しくお願い致します。

 

来月は二年ぶりに海老蔵歌舞伎座に帰ってくる。奮発して二回チケット押さえました(笑)。実に楽しみです。

六月大歌舞伎 第三部 高麗屋の『京人形』、猿之助の『日蓮』

歌舞伎座第三部を観劇。一部に比べてこちらは入りも断然良かった。二部が大入りになるのは分かるのだが、一部と三部の違いは何なのだろう。筆者は別に松竹の関係者でも何でもないので入りを心配する必要はないし、コロナ禍の状況では人がいない方が安全ではあるのだろう。しかしやはり歌舞伎は舞台と客席が一体となって作る芝居。その意味では大向うが禁じられているのは寂しいし、入りもいい方が盛り上がると思う。早く普通の日常に戻って欲しいものだ。

 

幕開きは常磐津と長唄の掛け合い舞踊劇『京人形』。昨年芝翫七之助で観た狂言だが、今回は高麗屋の祖父と孫と云う組み合わせ。高麗蔵のおとく、錦吾の大蔵、廣太郎の照平、玉太郎の井筒姫と云う配役。これが正に今でしか観られない年代記ものの素晴らしい狂言だった。

 

高麗屋が甚五郎の演じるのは二十九年ぶり。その時の人形の精は息子幸四郎(当時染五郎)。今回は孫が相手だ。いかに高麗屋が息長く健康で活躍しているかの証左でもあるし、ご当人も感慨深いものがあるだろう。長いブランクを感じさせない見事な甚五郎。花道を出て来たところから、快心の人形を彫り上げて浮かれている甚五郎の心情がしっかりと見てとれる。

 

女房を中居に見立てて酒の用意をさせて、彫り上げた人形を相手に一杯やるのだが、この人形が動き出して連れ舞いになると云う嗜好。この舞いが実に味わいがある。何と云う事もない振りなのだが、実に軽くかつ柔らかい。これが本当にあの当代一の英雄役者と同一人物かと目を疑わんばかり。高麗屋は以前、いい踊りと云うのは、観ている人が一緒に踊りたくなる踊りがいい舞踊だと発言していた。客席で観ていて、筆者も自然と身体が動き出してしまうくらいのご機嫌な踊り。周りのお客さんのご迷惑にならない様にするのが大変なくらいだった(苦笑)。

 

最後はクライマックス、右手を斬られた甚五郎が片手を吊ったまま大工道具を使っての立ち回り。八十歳近い高麗屋が大汗をかきながらの熱演。疲れもあるだろうが、その動きには些かの乱れもない。大部屋の役者さん達が「トンボを切るのでも、やり易い役者さんとそうでない人はいる」と発言していたのを読んだ記憶がある。今回の高麗屋は随所に「んっ」と云う小さな掛け声を出してトンボを切らしていた。誰でもする事だろうがそのイキと云うかタイミングが絶妙で、これなら大部屋さんもやり易かった事だろうと思った。前半の柔らか味から一変、ここら辺りは流石時代物役者の呼吸と云ったところ。

 

対する染五郎の京人形の精がまた実に見事。そのクールな美貌は正に人形に打ってつけ。昨年観た七之助もクールな容貌だが、どことなく愛嬌があった。その点で染五郎の京人形は、愛嬌の味は希薄。しかしその美貌と動きは正に人形そのものだ。お祖父さんとの連れ舞いもイキがぴったりで、舞踊の腕がメキメキ上達しているのが見て取れる。何度も高齢のお祖父さんのお手を煩わすのも何なので、今度はお父っつあん相手の再演を観てみたいものだ。

 

打ち出しは新作狂言日蓮』。猿之助の蓮長後に日蓮、隼人の成弁後に日昭、右近の善日丸、弘太郎の麒麟坊、猿弥の阿修羅天、門之助の最澄笑三郎のおどろ、笑也の梅菊と云う配役。猿之助が演出でも関わっている。気合十分の作品だが、少々空回り気味だった。

 

叡山で修行をつむ蓮長後の日蓮が、法華経こそが唯一無二の経典であると思い至り、悟りを開く迄の辛酸と葛藤を描いた作品。しかしこれが歌舞伎かと云われると、筆者的にはケレンのないスーパー歌舞伎と云う印象だ。元々宙乗りなどを入れる予定だったのをコロナの現状に鑑み、今回の大人しい演出に変更したとの事。これに宙乗りなどがあればそれこそ完全にスーパー歌舞伎だったろう。

 

筆者は何もスーパー歌舞伎がいけないと云うのではない。『オグリ』も観ているし、スーパー歌舞伎は好きなのだ。しかしこれを歌舞伎座でやる意義はあまり感じられない。音楽も洋楽であったし、それも生演奏ではない。歌舞伎座でやるのであれば、生の下座音楽などを入れて歌舞伎度を上げたもので観たいと思う。歌舞伎に必要な様式性と云うものが感じられない作品になってしまっている。歌舞伎座はやはり歌舞伎座新橋演舞場ではないのだ。

 

しかし芝居自体が面白いものであればそれも良かったのだが、三谷歌舞伎の時とは違って今回は作品自体にもあまり魅力は感じられない。筆者は法華の信者でもないので、余りに法華経による現世利益を押し付けられても、感情移入できないのだ。猿之助の理屈っぽさが全面に出ていて、猿之助僧正の教えを頭を垂れて拝聴している気分になってしまう。

 

中では笑三郎のおどろが大変な熱演であったし、子供ながらも右近が科白の多い役どころで大奮闘。猿弥もお約束のコロナネタを入れて沸す場面もあったが、それとて作品の低調さを救うには至っていない。やはりこれは本来のケレンを入れた演出で、スーパー歌舞伎として上演すべき作品であったと思う。猿之助の意欲が裏目に出た狂言になってしまった。

 

今月残るは玉孝の第二部。その感想はまた改めて。

国立劇場 六月歌舞伎鑑賞教室 松緑の『文七元結』

2年振りの国立劇場歌舞伎鑑賞教室を観劇。去年は公演がなく、残念だった。事前の噂では、学生の団体がコロナの状況を考えてキャンセルしたなどと云う話しも聞き心配していたが、そこそこの入りだったのは一安心。会社勤めの人でも足を運びやすい時間帯の公演。沢山の人に観て貰いたいものだ。

 

幕開きは種之助による「歌舞伎のみかた」。舞台中央から鼠を踏まえて荒五郎の荒獅子男之助がせり上がってくる。鼠がスッポンに入って入れ替わり登場した種之助が、初心者にも判り易く、せりの構造や下座音楽の説明をしていく。芝居の前にこう云う前振りが付くのが鑑賞教室の特徴。出し物の「文七」といい、初心者には入りやすい狂言立てだろうと思う。

 

そしてお目当て『文七元結』。松緑の長兵衛、扇雀のお兼、坂東亀蔵の文七、新悟のお久、魁春のお駒、團蔵の清兵衛と云う配役。扇雀のお兼は何度も勤めている当たり役だが、松緑亀蔵は初役。いつも藤助を勤める團蔵が今回は清兵衛にまわっていてどんなものかと思っていたが、全体的に実にいい出来の芝居だった。

 

この『文七元結』は元々落語ネタ。落語では大ネタ中の大ネタとされ、大真打でないと中々やりおおせる噺ではない。筆者的には、当代でこの噺をしっかり出来る噺家は一人もいないと云うのが本当のところだ。定評があるのは全て故人だが圓生、彦六、そして志ん朝だろう。この三人の名人の中で、とりわけ独特なのは彦六だ。圓生志ん朝は文七に金を与える時に、かなり逡巡と云うか思い悩む。悩んだ末に五十両を文七に投げ与える。しかし彦六は実にあっさりと五十両を投げ出してしまう。宵越しの銭は持たないと云う江戸っ子気質が、その背景にあるのだ。

 

今回の「文七」は、行き方としては彦六のそれに近い。種之助が「歌舞伎のみかた」で説明していたが、当時の五十両を現代に換算すると五百万円にもなると云う。それをサラリと投げ出してしまう彦六のやり方は余りにあっさりしているので、噺としてはいいがそれをそのまま芝居にしたら水っぽくなるし、現代の観客には通じないだろう。筆者が今回彦六的と云うのは、その精神と云うか、心の在り方において、江戸っ子気質を基調にしている彦六のそれに近いと云う意味だ。

 

松緑の長兵衛は、終始典型的な江戸っ子職人として描かれており、娘を身売りした金を見ず知らずの文七に投げ与える、その動機付けが実に明瞭である。五十両の金を盗まれたと思い込み、どうしても身投げをすると言い張る文七を前にして、「えれぇところに通り掛かっちまったなぁ」とぼやきながらも、「人の命は金じゃ買えねぇや」と懐から五十両を出す。松緑はここをサラリと江戸前にしかも違和感なく演じており、初役とは思えない見事な芝居。変に粘ったりしないので科白廻しのテンポが実に良く、いかにも宵越しの銭は持たないさっばりとした江戸っ子気質がはっきりと表現されている。

 

そしてこの芝居に厚みをもたせているのが、その前段の「吉原角海老内証の場」における娘お久とのやり取りだ。夫婦別れをしなければならないところ迄追い詰められた父と母を助ける為、お久は角海老に自らの身売りを決心する。それを知った長兵衛は娘を前に「こんな者でも親だと思えばこそ、そう云ってくれる。俺はお前のこと子とは思わねぇよ、オイこの通りだ」と手を合わせる。それを受けてお久が「お父つぁんもったいない。そんなことしたら、私に罰が当たるよ」と泣く。ここの親娘の芝居が情味に溢れ実に素晴らしい。この芝居があったればこそ、結果文七に金を投げ出す事になる長兵衛の行動に、千金の重みを与える事になっているのだ。

 

結局金は掛け取り先に忘れただけで紛失してはおらず、お久は身請けされて文七と夫婦になり、めでたしめでたしとなる。しんみりさせておいて最後は明るく〆る、人情噺の王道とも云うべき狂言松緑も云っているが、悪人が一人も出てこない気持ちのいい芝居。女房役の扇雀も、松緑とのやり取りで絶妙なイキを見せてくれており、娘を思う余り亭主を怒鳴りつける、こちらも実に江戸っ子女房らしいいいお兼。新悟のお久は十八年ぶりとの事だが、長身を上手く殺して、いじらしいくらい親思いの娘役を好演。亀蔵の文七も主人への一途な思い溢れるいい文七。ただ清兵衛役の團蔵が科白の通りが今一つで、元気がない印象。身体が悪い訳ではないといいのだが。

 

松緑の長兵衛は、本家音羽屋と比べると所作や科白廻しが全体的に現代調で、世話の味は薄い。しかしその精神において、見事に祖父先々代松緑から当代菊五郎に受け継がれて来た音羽屋型の長兵衛を引き継いでいる。初役でここまで出来れば上々だろう。これから練り上げていけば、いずれ音羽屋の様な見事な世話狂言に仕上げてくれるだろうと思う。遠くない将来、歌舞伎座での再演を期待したい。

 

今月はこの後歌舞伎座の二部・三部。その感想は観劇後、また別項にて。