fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

国立劇場七月歌舞伎鑑賞教室 又五郎・高麗蔵の「四の切」

遂に東京五輪が始まった。開催に色々云っていた人たちは、今の日本選手団メダルラッシュをどう云う思いで観ているのだろう。開会式を観たが、?の多いセレモニーだった。全体として日本色が薄い。それらしかったのは木遣りと海老蔵の『暫』のみと云う感じ。しかもその『暫』もジャズ伴奏付きと云う演出。海老蔵も踊り辛かったのではなかろうか。無論演奏した上原ひろみさんには何の罪もないが。極めつけの?は複数の外国人歌手による「イマジン」。筆者はビートルズジョン・レノンも大好きだが、この曲の歌詞を知っていて使ったのだろうか?

 

「国何てないと思ってごらん」と若者に呼びかける歌詞を持つ「イマジン」。しかしその場に集っていたのは、国を背負い、国旗を先頭に入場して来たアスリートなのだ。場違いも甚だしい選曲だったとしか云えない。演出した人がそれを知っていて敢えて選んだとしたら、これは五輪の否定に他ならない。自分の思想信条をこう云う公式な場に持ち込むのは、リベラリストの常套手段ではあるのだが。まぁこのブログのテーマとは逸れるのでこれ位にするが、一日本国民として、日本選手団の更なる活躍を願ってやまない。

 

閑話休題

 

去年は敢え無く中止となった国立劇場の歌舞伎鑑賞教室を観劇。又五郎・高麗蔵と云う渋い座頭の公演と云う事で入りを心配していたが、思っていたより入っていてまずは一安心。普段歌舞伎座で座頭をする事がない優のこう云う公演を見逃す手はない。期待に違わず実に結構な芝居だった。

 

幕開きは種之助による「歌舞伎のみかた」。竹本や御簾内の説明に続いて、本日の出し物「四の切」の解説。蝶紫の静御前が観れたのはちょっとしたご馳走。先月の「文七」の時も種之助が前説を勤めていたので、二ヶ月連続で慣れたものだった。最初に「今日初めて歌舞伎をご覧になる方は?」と聞いた時に、結構な人が手を挙げていたので、こういう解説がある方がより歌舞伎を理解して貰えるだろうと思う。

 

そしてお目当て『義経千本桜』四段目、通称「四の切」。又五郎の忠信実は源九郎狐、高麗蔵の静御前、松江の次郎、種之助の六郎、橘三郎の法眼、梅花の飛鳥、歌昇義経と云う配役。又五郎の狐忠信は三度目だと云う。亡き天王寺屋と播磨屋に教わったと筋書にあった。播磨屋の忠信はイメージが湧かないが、音羽屋型の規矩正しい忠信だった。

 

又五郎の忠信は、何より役が肚に入っているのが良い。花道を出て来て七三で義経に礼をする。母の病と云う私的な事情で主人と離れてしまっていた事に対する恐懼の思いが滲む。何気ないが、歌舞伎はこう云う細かいところが大事なのだ。偽忠信の来着を告げられ、刀の下げ緒をといて縛り縄にし、隙あらば偽忠信を捕縛しようとする気組みもきっぱりとしていて見事。次郎と六郎に囲まれて上手に引っ込むところも、花道にしっかり気を残している。

 

狐忠信となってからの一連のケレンも、齢還暦を過ぎた優とは思えない見事な所作。静御前に迫られたところの海老ぞりなど、又五郎はこれ程動ける優だったのかと、改めて瞠目させられた。最近妙に痩せて体調を心配していたのだが、もしかしたらこの役の為に身体を絞ったのかもしれないとも思った。

 

昨年観た獅童忠信の様な野性味はないが、親への思慕の情が歌舞伎的演出の範疇でしっかりと表現されている。今年観た魁春の「十種香」でも感じた事だが、教わった昔通りの型を実直にそのままきっちりやりおおせる。これは大変な技術なのだ。役を自分流に解釈し、自分なりの物を付け加えるのもそれはそれで大事な事だが、魁春又五郎の様に、型をしっかり守って何も足さない、何も引かないと云う行き方もまた、大切な事なのだ。

 

高麗蔵の静御前も同様。こちらも還暦過ぎた優だが、いかにも義太夫狂言の赤姫らしく、実に古格な味わいのある静御前義経への想い、そして狐忠信への憐憫。実に女性らしく、この優の日頃の修練が、決して派手さこそないが本物の手応えのある素晴らしいものである証明だ。歌昇義経も若さに似合わぬ見事な位取りで、達者なところ見せてくれていた。

 

橘三郎の法眼、梅花の飛鳥、いずれもしっかりした出来で脇を固めており、出番こそ短いが、古典の品格を遵守して見事に芝居の幕開きを飾っていた。全体として花形役者はいないものの、いかにも義太夫狂言を観たと云う手応えのある実に結構な「四の切」だった。

 

来月は歌舞伎座に加えて、大和屋の南座公演も観劇予定。五輪と歌舞伎で、コロナの憂さを晴らしたいと思っている。