fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

二月大歌舞伎 第一部 魁春の「十種香」、松緑・己之助の『泥棒と若殿』

二月大歌舞伎一部を観劇。入りはお寒い限りだった。まぁこの座組からある程度予想は出来たのだが、それにしても入っていない。しかし「十種香」は素晴らしい舞台だった。その感想を綴る。

 

幕開きはその「十種香」。魁春の八重垣姫、門之助の勝頼、孝太郎の濡衣、錦之助の謙信と云う配役。魁春の八重垣姫は東京では17年ぶりだと云う。確かに近年魁春の主演は観た記憶がない。まぁ元々女形が主役の狂言自体が少ないのだが。しかしその鬱憤を晴らすかの様な素晴らしい舞台だった。

 

八重垣姫は三姫の一つで女形の大役である。魁春は襲名披露公演でつとめた役である。当人も最も自信を持っている役なのだろう。まず上手屋体が開いて、勝頼の回向をしている後ろ姿の八重垣姫が現れる。ここからしてまず良いのだ。回向をしながら哀しみに揺れる後ろ姿が見事な義太夫狂言の姫になっている。

 

正面を向いての〽︎頼むは濡衣様の所作も見事にイトに乗っている。養父歌右衛門生き写しだ。科白廻しもお手本の様な義太夫狂言のそれになっており、何十年も前に教えられた通りの事をしている。大和屋も晩年の歌右衛門に八ツ橋や阿古屋を手取り足取り教わってはいるが、何十年もかけて大和屋独自の物になっており、決して教わった通りに戻る事は出来ない。勿論戻ろうとも思わないだろう。それが大和屋である証でもある。しかし言葉は悪いが大和屋の様な才気がある訳ではない魁春は、教わった通りの事を実直に演じている。そこが良いのだ。この古格な八重垣姫は、令和の世ではそれだけで偉とするに足るものだ。

 

昔お酒のCMで「何も足さない、何も引かない」と云うキャッチコピーがあったが、今回の魁春が正にそれだ。今の若手花形には、まずこう云う最もブリミティブな型を学んで欲しい。以前高麗屋獅童に権太を教えている稽古映像を見た事がある。その時高麗屋は、自分のやり方を教えた上で、「六代目はこうしていた。どうするかはあなた次第だよ」と話していた。大和屋や福助が若手を指導する際にどう云う教え方をしているかは知らないが、ぜひこう云う古格な型をまず指導して欲しいものだ。

 

孝太郎の濡衣、門之助の勝頼、何れも派手さはないが、きっちりとした出来。錦之助はニンとしては間違いなく勝頼だが、謙信も手強く手一杯の芝居で悪くない。総じて非常に見ごたえのある「十種香」だった。

 

打ち出しは『泥棒と若殿』。山本周五郎原作の新歌舞伎だ。松緑の伝九郎、己之助の成信、亀鶴の重右衛門、坂東亀蔵の平馬と云う配役。松緑は以前亡き三津五郎相手に伝九郎をつとめており、今回は息子の己之助と組んだ。感慨深いものがあったろう。ニンでもあり、芝居としては悪くはない。

 

しかし原作の問題なのか、物語にもう一つコクがない。余りにもあっさり伝九郎と成信が打ち解けて信頼する様になってしまい、物語に説得力がないのだ。まぁ時間の関係もあるかもしれないが、もう一幕位二人のやり取りによるエピソードがあれば、物語に厚みが出たと思う。

 

しかしこの狂言で特筆すべきは己之助の成信。科白廻しや所作に父三津五郎を想起させるところが多々あり、驚いた。直接教わった訳ではないだろうが、やはり血の濃さを感じさせる。今までこの親子をそんなに似ているとは思っていなかったのだが、事芝居になると違うものだ。三津五郎の早世は惜しみても余りあるが、己之助にはしっかりその芸を受け継いで大成して貰いたい。

 

義太夫狂言に新歌舞伎。対照的な組み合わせで、楽しめた一部だった。このブログを読まれた方には、未見ならぜひ観劇して欲しい公演だったと申し上げておきたい。多分チケットはかなり余裕があると思います(苦笑)。

 

二月大歌舞伎 (写真)

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二月大歌舞伎を観劇。ポスターです。

 

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一部の絵看板です。

 

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同じく二部・三部。

 

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十七世中村屋の三十三回忌追善。昭和の最後に亡くなられたんだよなぁ。

 

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追善狂言のポスター。十七世の孫とひ孫。時代は流れました。

 

感想はまた改めて綴ります。

 

壽 初春大歌舞伎 第三部 高麗屋三代の「車引」、芝翫・愛之助の『らくだ』

今月の大トリ、歌舞伎座第三部を観劇。その感想を綴る。

 

幕開きは『菅原伝授手習鑑』より「車引」。白鸚の松王丸、幸四郎の梅王丸、染五郎の桜丸と高麗屋三代が揃う、多分空前にして絶後になるであろう歴史的な「車引」。親子孫三代で三兄弟を演じる。歌舞伎以外では考えられない配役。こう云う芝居が見物出来るのも、歌舞伎観劇ならではの楽しみだ。錦吾の金棒引、廣太郎の杉王丸、彌十郎の時平と云う配役。

 

まず素晴らしいのは何と云っても白鸚の松王丸。上手奥からの第一声「待ぁて~」からして、凄い声。この一声だけで、舞台がピリっと締まる。去年の大蔵卿の出の声もそうだったが、齢八十に近いと云うのに、白鸚は衰え知らず。弟播磨屋の体調が良くないのに比して、元気いっぱいと云った感。そして姿も若々しく、前髪役が全く違和感がない。シルエットがとても老人(失礼)のそれではなく、子や孫と揃った所(役としては三兄弟)も年齢を忘れる素晴らしさだ。

 

「まだこの上に手向いすりゃあ、松王が一討ちだぞ」の科白廻しの古怪さも、当代では他に比するものがない。竹本と完全にシンクロする濃厚な義太夫味。角々のキッバリした見得の大きさ、立派さ、これぞ座頭役者の貫禄である。まず当代最高の松王丸であろう。芸歴七十年、やはり年輪に裏打ちされた芸は厚みが違う。改めて名人白鸚の至芸に驚嘆させられた。

 

幸四郎の梅王丸も見事なもの。当代指折りの踊りの名手だけあり、元禄見得の形の美しさは、比類がない。お父っつぁんが素晴らし過ぎるのでどうしても押され気味にはなるが、声も以前より出ており、呂の声も太々しい。甲の声がやはりまだ多少割れ気味になる点に改善の余地はあるが、所作には力感もあり、よく白鸚の松王に対抗していたと思う。

 

染五郎の梅王丸は、気品に溢れている。所作も美しく、錦絵から抜け出たかの様だ。当人曰く、まだ声変わりが完全に終わっておらず科白が苦しいとの事だったが、これは誰でも通る道。今後経験を積んで行って貰いたい。今はこの形の美しさがあれば充分であろう。脇では錦吾の金棒引が絶品。高麗屋の番頭格であり、齢八十に近い錦吾だが、まだまだ元気なところを見せてくれていたのは嬉しい限り。親・子・孫が揃う年代記ものの「車引」、たっぷり堪能させて貰った。

 

打ち出しは『らくだ』。芝翫の半次、愛之助の久六、松江のらくだ、左團次の佐兵衛、彌十郎のおいくと云う配役。落語の「らくだ」を元にした世話物。落語好きな筆者としては一粒で二度美味しい狂言だが、こちらは悪くはないが最良とは云い難い出来であった。

 

今回は珍しくと云うか筆者は観た事がない、東京型の『らくだ』に、上方弁の久六を持って来ていた。愛之助の拘りの様だが、これが演出上の効果を挙げるに至っていない。必然性が感じられないのだ。

 

芝翫愛之助もそれぞれは上手い。しかしそれが芝居として一つに溶け合っていない。だから本来笑いが取れるところで今一つ盛り上がらない。第二場「家主佐兵衛内の場」になって、左團次彌十郎の掛け合いは流石に盛り上がりを見せはするが、それとて芝居全体を救うには至らず、一つのエピソードに留まっている。要するに座組としてのアンサンブルに欠けているのだ。菊五郎劇団の芝居を観れば判る通り、世話物と云うのはアンサンブルが大事なのである。勿論普段からこなれた劇団と、今回の芝翫一座を同日に比較するのは酷な話しではあるが、これだけの役者が揃っているならば、もう少し練り上げた芝居が出来たはずだと思う。少し残念な『らくだ』だった。

 

ただ一つ、この芝居には画期的な事があった。芝居の内容ではないのだが、再開後の歌舞伎座で、初めて舞台転換が行われた事だ。今までは一幕物か、本来舞台転換の必要がある狂言でも、そこをカット乃至は無理やり転換しない様に前幕のセットをそのまま舞台上に残しておくなどの処置が取られていた。しかし今回はしっかり二度舞台転換を行った。一つ制限が取り払われて、コロナ下での上演が一歩前進出来たのだと思う。

 

色々注文はつけたものの、高麗屋三代の「車引」が観れただけで大満足の第三部。来月は歌舞伎座に玉孝が揃う。コロナの状況は依然予断を許さないが、無事芝居の幕が上がる事を祈りたい。

初春海老蔵歌舞伎 海老蔵の『毛抜』他

新橋演舞場海老蔵歌舞伎を観劇。こちらも当然客席数を半分に制限してはいたが、満員の盛況。歌舞伎座に比べロビーが狭いせいもあるとは思うが、かなりの賑わい。観客の年齢層は、歌舞伎座より若干若い様に感じられた。

 

幕開きは『春調娘七種』。右團次の五郎、壱太郎の十郎、児太郎の静御前と云う配役。流石に新春だけあって、各所で曽我物がかかる。歌舞伎の吉例だ。こちらは曽我兄弟に本来何の関係もない静御前を組み合わせているのがミソ。春の七草行事と曽我物語をミックスさせた狂言

 

五郎は荒事、十郎は和事。流石に右團次は力強い。しかしそれに静御前が絡む事によって、「対面」よりも穏やかな流れになる。壱太郎は本来女形だけに、実に和かな所作。児太郎は裾捌きやその所作に父福助を想起させるものがあり、やはり血だなぁと思わせる。まず観ていて良い心持ちになる狂言だった。

 

続いてお待ちかね歌舞伎十八番の内『毛抜』。海老蔵の粂寺弾正、右團次の玄蕃、男女蔵の民部、壱太郎の巻絹、児太郎の秀太郎、廣松の春風、市蔵の万兵衛、齊入の春道と云う配役。かねてより歌舞伎十八番への強い拘りを口にしている海老蔵。期待に違わぬ素晴らしい出来だった。

 

何より海老蔵が小手先の技などに拘泥せず、大らかなニンで押し通しているところが良い。亡き三津五郎が生前荒事について「荒事の禁物は、うまいです。うまい荒事は絶対だめですね。むしろまずいほうがいい」と語っていた。海老蔵三津五郎に教わった訳ではないだろうが、この言葉通りの弾正になっている。無論言葉そのままのまずいと云う意味ではない。兎に角余計な技巧を使わず、徹底的に大らかで、そして豪快な弾正なのだ。

 

大きな目を生かした七つの見得もきっぱりしており、実に見事。秀太郎や巻絹を口説こうとしてしくじり「誠に面目次第もございませぬ」と客席に詫びるところも愛嬌に溢れていて、思わず笑みがこぼれてしまう。義太夫狂言では時として耳障りになる事もある海老蔵独特の科白廻しの癖も、こう云う狂言では気にならない。お家の禍根玄蕃を切り捨てての花道の引っ込みも、荒事らしい大きさと豪快さがあり、そして華やか。これぞ正に千両役者。荒事の醍醐味を堪能させて貰った。

 

脇では右團次の玄蕃が手強く、出色の出来。市蔵の万兵衛は十二代目團十郎を相手にも勤めた当たり役。そして意外と云っては失礼だが、廣松の春風が若殿らしい和かさと気品で、ひと際目につく出来。前幕の『春調娘七種』とは男女の役を入れ替えての壱太郎・児太郎も若手花形らしい華やかさで、各役手揃いの見事な『毛抜』だった。

 

打ち出しに『藤娘』と『橋弁慶』。海老蔵の令嬢・令息のぼたんちゃん・勸玄君が毎年その成長を見物衆にご披露するごちそう狂言。こちらは批評云々の物ではないが、ぼたんちゃんが独り舞台で、ショート・バージョンとは云えあの『藤娘』を踊ったのには驚かされた。勸玄君もまた一回り大きくなった印象。新之助襲名が延期になってしまっていて、残念でならない。一日も早いコロナの終息と、團十郎新之助襲名披露公演の上演を、祈るばかりだ。

 

今月残るは高麗屋三代が揃う「車引」の出た歌舞伎座の第三部。感想はまた別項にて。

 

 

壽 初春大歌舞伎 第一部 浅草組による『壽浅草柱建』、猿之助の『悪太郎』

歌舞伎座の一部を観劇。この部の入りが一番良いとの評判で、筆者観劇の日も確かに満員だった(客席は制限で半分の入りだけれど)。半沢組の松也・猿之助が出演するからだろうか。やはりTVの影響力は凄いものがあると改めて思わされる。

 

幕開きは『壽浅草柱建』。その名の通り、新春恒例の浅草歌舞伎組が大集結した狂言。松也の五郎、隼人の十郎、巳之助の朝比奈、新悟の舞鶴、米吉の虎、莟玉の少将、鶴松の亀鶴、種之助の珍斎、歌昇の祐経と云う配役。役名で判る通り、「対面」を書き換えた狂言だ。

 

若手花形がうち揃って新年を寿ぐ華やかで目出度い狂言。中で目立っていたのは、米吉の虎。莟玉と鶴松を従えて舞台中央で舞う姿が堂に入っている。少し前迄は何をやっても町娘臭が抜けなかった優だが、徐々に大人の女形へ変貌しつつある様に思えた。去年の浅草でのおかるあたりから、一皮剥けて来たのではないだろうか。莟玉の少将は可憐で、少し前迄の米吉の様。こうやって役者は成長していくのだろう。

 

立役では隼人の十郎がニンであり、すっきりしていて目につく出来。巳之助の朝比奈も、若手の中では踊りが身体にある優なので、形がキッパリしていて、小気味よい。ただ座頭格の松也の五郎が元々ニンではない上に、科白も語尾が上がる癖が出ており、少々残念。この座組では兄い株の松也なので、歌昇の祐経と役を替えた方が良かったのではないか。

 

続いて『悪太郎』。猿之助悪太郎、福之助の智蓮坊、鷹之資の太郎冠者、猿弥の松之丞と云う配役。猿翁十種の一つで、云わば澤瀉屋家の芸。二代目猿之助に宛て書された長唄舞踊で、こちらはまず文句の付け様のない出来だった。

 

松之丞と太郎冠者が悪太郎の酒癖を直そうと相談している。花道から長刀を持った悪太郎が出て来る。酩酊しており、足元も覚束ない状態で、長刀を振り回す。まずこの花道での踊りが素晴らしい。勇壮に長刀を振り回すところと、千鳥足でふらつくところを同時に見せなければならない難しい踊り。しかし猿之助は難しさを感じさせず実に自然で、しかも愛嬌が身体から滲み出る。筋書きで猿之助が「曽祖父の魅力ありきで作られた作品」と語っていたが、どうしてどうして、当代も正にニンだと思わされる。

 

舞台に廻って福之助の智蓮坊との絡みでも、所々足を滑らすフリを(多分にアドリブだろうが)交えて自在な踊りを見せる。完全に役が身体に入っており、その上で役と遊んでいる様な境地。武骨な役だが、身体を丸く使っていて、それが自然と愛嬌にもなる。こういう舞踊は身体を固くしてはいけない。その点流石は猿之助だ。最後は丸坊主にされて、鉦を叩き乍ら「南無阿弥陀仏」を唱えて念仏踊り。これも実にリズミカルでありながら、しかし最後迄で身体に酒がある。踊りの名手猿之助の真骨頂を見た思いがする。もっと上演されていい長唄舞踊劇だろう。

 

脇では福之助の智蓮坊が、自在な猿之助に良くついて行って健闘していた。前半の踊りも規矩正しい舞踊で、力をつけてきているのが判る。猿弥の松之丞はソツがないが、この優の個性が出せる程の役ではなかったのが、勿体ない感じではあった。

 

舞踊劇二題で、時間も二つで80分弱と短かったが、正月らしい気持ちの良い狂言立てで、楽しめた第一部だった。

 

残り三部と新橋は、また後日に綴ります。

壽 初春大歌舞伎 第二部 成駒家兄弟の『夕霧名残の正月』、播磨屋・梅玉・雀右衛門の「一力」

緊急事態宣言が再発令され、三部の時間が繰り上がったり、コロナとは関係なさそうで一安心だが莟玉が12日迄休演と、今年も立ち上がりから不安一杯の出足ではある。しかしとにかく芝居の幕が開いた事は喜ばしい。その二部の感想を綴る。

 

幕開きは『夕霧名残の正月』。亡き山城屋の追悼狂言。初代藤十郎が初演したものの、原本が現存せず、山城屋が藤十郎を襲名するに当り、新たに作り上げた狂言鴈治郎の伊左衛門、扇雀の夕霧、又五郎の三郎兵衛、吉弥のおふさ、寿治郎の藤兵衛と云う配役。この狂言の伊左衛門を演じた役者は山城屋と当代鴈治郎しかおらず、夕霧を演じた役者も亡き先代京屋と扇雀しかいない。山城屋も京屋も亡くなった今は、成駒家の専売特許と云っていいだろう。当然の事乍ら素晴らしかった。

 

新町扇屋では、主人三郎兵衛夫婦が亡き夕霧を偲んでいると、下手から何も知らない伊左衛門が紙衣姿で登場。この衣装は父山城屋から受け継いだ本物の紙衣だそうだ。役者は出が大事とよく云うが、憂いを含んだその所作は、勘当されたとは云えいかにも大店の若旦那と云った雰囲気に溢れ、実に素晴らしい。舞台中央で決まって「憂き世じゃなぁ」と云う科白廻しも実に艶っぽい。常磐津に乗って〽︎通いつめたる新町の~のふっと往時を偲ぶ様に上を見上げたところなぞ、その形の美しさ、その風情、これぞ和事芸である。

 

伊左衛門の想いが通じたか夕霧が現れる。ここは流石に先代京屋が見せた、夢幻の儚さを湛えた出には及ばないが、美しく、しっとりとしたこれはこれで結構な夕霧。「わしゃわずろうてなぁ」の憂いを含んだ科白廻しが上手い。そして二人の連れ舞いになる。〽︎伏屋の軒に見る月は 寄せる思いも増鏡~の常磐津に乗り、二人の切ない迄の想いが歌舞伎座の大舞台を覆いつくす。

 

すっぽんに乗って夕霧が姿を消し、夢であったと気づく伊左衛門。夕霧形見の打掛を抱きしめて我に返るところで幕となる。夕霧を亡くした心情がしっとりと客席にも伝わる切なくもいい幕切れ。亡き山城屋の和事芸は、しっかりその息子達に引き継がれている事が見て取れた。

 

続いて『仮名手本忠臣蔵』より「一力茶屋の場」。播磨屋の由良之助、雀右衛門のおかる、梅玉の平右衛門、橘三郎の九太夫、吉之丞の伴内と云う配役。目ン無い千鳥~力弥の場はなく、「釣灯籠」から。この形の上演は昔からある形だが、これだと由良之助前半のやつしがなく、主役は俄然平右衛門とおかるになってしまう。筆者的には折角播磨屋で「一力」が観れるなら、やはり全て上演して欲しかったと云うのが本音だ。これは去年高麗屋の「大蔵卿」でも感じた事だが。

 

播磨屋は昨年十月に手術をしたのだと云う。昨年国立での播磨屋の「俊寛」観て苦言を呈した時はその事を知らなかった。術後大きな声を出すと、まだ傷口が痛むと云う。それを知って思い返すと、あの俊寛は今の播磨屋の体力で出来る苦肉の策だったのだと合点がいった。絶賛している劇評もあったが、あれを褒められても、播磨屋は本意ではないのではなかろうか。本来の播磨屋は、あんなものではない。

 

例えは突飛だが、まだ日本ハム時代のダルビッシュが怪我をしながらも、日本シリーズジャイアンツを抑えて勝利した事があった。あの時のダルビッシュは怪我で自慢のストレートが投げられず、変化球を多投してかわすピッチングでジャイアンツを封じ込んだ。勿論ダルビッシュの高い技術のなせる業だが、あのピッチングを褒められても、ダルビッシュは心外だと思う。播磨屋の心情も同じと推察する。

 

そこで今回の由良之助だが、俊寛の時よりは回復して来ている。しかしまだ万全には程遠いと云う印象だ。やはり呂の声が出ない。「九太はもう、いなれたそうな」の「九太はもう」は由良之助の本来の大きさを一瞬垣間見せるところなので、もっときっぱりしていなければならない。しかし今の播磨屋の体力では無理なのだ。幕切れの「鴨川で水雑炊を」もしかり。無理をせずとも、今の播磨屋に出来る狂言は他にもあるのでは?と思ってしまう。しかし繰り返すが俊寛よりは、出が短いせいもあるだろうが、まだしっかりしている。筆者は見た訳ではないが、舞台で転んだ日もあったと聞く。くれぐれも無理はしないで貰いたいものだ。

 

対して梅玉雀右衛門の平右衛門・おかるは絶好調。松嶋屋・大和屋のコンビだと艶っぽすぎて恋人同士にも見えてしまうが、この二人は芸風が派手ではないので、実に程が良い。程が良いなどと云うとあまり誉め言葉ではない様に聞こえるかもしれないが、そうではない。平右衛門は足軽だし、おかるも遊女とはなっても元は百姓の娘。その出自を二人は忘れていない事が、この二人の役者のやり取りだと実に良く判る。

 

「妹」「兄さん」と呼び合う二人が、実に兄妹らしく素朴で、観ていて実に気持ちが良く微笑ましい。おかるはまだなり立ての遊女なので、本心からの廓慣れはしていない。平右衛門に奇麗になったと云われ、立って姿を見せる場でも無邪気な妹そのままで、可愛らしい遊女であるのが、雀右衛門の芸風に合っている。梅玉義太夫味と云うよりリアルさを優先させた芝居で、実直な平右衛門像を構築していて、これまた見事。

 

総じて播磨屋は万全ではなかったが、「釣灯籠」からの上演であったので、梅玉雀右衛門の好演がクローズアップされた形で、かえって良かったのかもしれない。四部制よりも、流石に芝居を観た手応えのある正月公演第二部だった。

 

残りの部の感想は、また改めて綴る事にする。

壽 初春大歌舞伎(写真)

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初春大歌舞伎に行って来ました。ポスターです。

 

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一部絵看板です。

 

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同じく二部・三部。

 

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三階にある思い出の名優アルバムに山城屋が載る事になってしまった・・・

 

コロナが増々猛威を振るっている状況ですが、取り敢えず歌舞伎座の幕は上がりました。一安心です。感想はまた別項にて。