fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

私が観た令和二年歌舞伎 ベスト3

新年あけましておめでとうございます。中々素直におめでとうございますと云える状況でないのが悲しいです。再度の緊急事態宣言が現実味を帯びて来ているので、非常に先行きが不安です。何とか状態が少しでも収まってくれればと、それのみを願っている状況です。

 

三年前に自分の備忘録として始めたこのブログですが、一年目二年目と年間80回以上更新出来たのですが、昨年は観劇の機会も少なく、50回の更新となってしまいました。今年はより沢山観劇して、その感想を綴れればと思っています。

 

観劇数が少なかったので、ベスト10と云える程芝居が観れていません。その中で、去年の個人的ベスト3を揚げてみます。

 

まず第3位

二月大歌舞伎『菅原伝授手習鑑』より「道明寺」

コロナで休演が相次ぐ直前に歌舞伎座で観れた芝居。松嶋屋の絶品とも云うべき菅丞相。親子二代に渡る神品でした。舞台転換もあるこう云った大掛かりな芝居が歌舞伎座で観れるのは、いつになるのでしょうか・・・

 

続いて第2位

国立劇場十二月歌舞伎『天衣紛上野初花』より「河内山」

同じ演目は正月の歌舞伎座でも観たのですが、「質見世」が付いている国立の方をチョイス。高麗屋十八番中の十八番「河内山」。天下一品の素晴らしさでした。

 

そして栄えある(?)第1位

南座吉例顔見世興行『傾城反魂香』より「土佐将監閑居の場」

去年の1位はやはりこれ。非常に斬新な「吃又」。こんな状況下ですが、歳も押し詰まった師走の京都で凄い芝居が観れた事は、生涯忘れる事はないでしょう。天国の山城屋も、快心の笑みを漏らしている事と思います。

 

その他にも、音羽屋が「文七」、「宗五郎」と世話物の極致とも云うべき芝居を見せてくれた事も忘れ難いです。

 

今年は何とか去年より、多くの芝居が観れる様な世の中になって貰いたいと、切に祈っております。。。

国立劇場 十二月歌舞伎公演 第一部 時蔵・松緑・芝翫の『三人吉三巴白浪』

国立劇場第二部を千秋楽に観劇。その感想を綴る。

 

先月も国立は千秋楽観劇予定で、二部が公演中止になってましったので今月もハラハラしていたのだが、無事公演が行われた。まずは一安心。通し狂言で「三人吉三」が出た。「大川端」から「火の見櫓」迄。時蔵のお嬢、松緑のお坊、芝翫の和尚、新悟のおとせ、萬太郎の十三郎、坂東亀蔵の源次坊と云う配役。去年歌舞伎座で観た公演とは、亀蔵以外は全て代っている。その時のお嬢は梅枝だったので、親子で2年続けてお嬢を演じた事になる。

 

幕開きは当然「大川端」。おとせに続いてお嬢の時蔵が花道を出て来る。このお嬢と云う役は、音羽屋の様に兼ねる役者が勤めるのと、真女形が勤める場合と二通りある。時蔵は当然の事ながら後者。この場合の最大の利点は、女でいる時の美しさ。時蔵は還暦をとうに過ぎているが、倅に劣らぬ目の覚める様なお嬢様ぶり。新悟のおとくと揃ったところは実に美しく、この役を女形が勤める際の良さを存分に味わわせてくれる。

 

そして例の「厄落とし」。ここはもう近年は皆そうだが、陶酔的に謳う事はしない。いや現代の役者には出来ないのかもしれない。謳わない代わりに、一語一語しっかり語られるので、科白の意味は良く判る。その点では続いて出て来る松緑のお坊も同様。ここはもう黙阿弥調の謳い上げは期待してはいけないのかもしれないと思い、帰宅後杮落し公演の音羽屋・松嶋屋高麗屋のバージョンを見直したのだが、これが実に見事に謳い上げているのだ。しかしもうこの三人の名人以外には無理なのかもしれない。

 

芝翫の和尚の登場。喧嘩の仲裁に入るのだが、これが実に堂々たる貫禄で、座頭の風格が備わって来ている。今の大幹部の後の歌舞伎座は、この優のものだろう。科白廻しも筆者が期待する純然たる黙阿弥調ではないが、和尚はお嬢やお坊と違ってそこまで謳い上げる必要のない役。芝翫は自分流に崩しながら違和感のない和尚像を築き上げている。

 

続く「吉祥院の場」と「裏手墓地の場」は、もう芝翫の独壇場。妹おとせが連れて来た夫十三郎が自らの弟と気づき、義兄弟の為畜生道に堕ちた実の弟妹を刺し殺す。末期の水を二人に汲んでやり、これが別れの水杯の心持ちで自らも飲み干す。ここら辺りの泣いて馬謖を斬るが如き心境が真実に迫って舞台を覆う。時代物にとどまらない実事師としての芝翫の力量の見事な発露だ。

 

そして大詰め「火の見櫓の場」。ここは時蔵のお嬢と、松緑のお坊の同士愛を超えた同性愛的な心情が、雪降る舞台にともる灯の様な温かくもせつない場となって、実に素晴らしい。踊りの名手松緑の立ち回りは間然とする所のない出来であるし、時蔵のお嬢も、櫓に登ろうとして雪に足を取られ、それでも登り続けて鐘を打ち鳴らす一連の所作が儚くも美しい。

 

最後、雪積もる櫓をバックに三人決まったところは一幅の絵の様で実に見事。こう云う美しさが歌舞伎観劇の一つの醍醐味。脇では新悟のおとせがひと際目につく出来。この優は近年めきめき腕を上げている。今後が実に楽しみな若手花形だ。

 

コロナに翻弄され続けた令和2年の芝居見物もこれで終了。新年からは歌舞伎座も三部制になる様だ。来年こそ、心穏やかに歌舞伎を観たいものだが、現状では中々厳しそうではある。武漢ウイルスの一日も早い終息を、願わずにはいられない。

十二月大歌舞伎 第三部 勘九郎・猿之助の「吃又」、第四部 菊之助・彦三郎の『日本振袖始』

第四部は今月早々に代役の菊之助・彦三郎で観て、大和屋バージョンも観てから感想を書くつもりでいたのだが、年末でバタバタしており、もう一度四部を観れる時間が取れそうもなかったので、三部と併せて感想を綴りたい。

 

まず第三部『傾城反魂香』より「土佐将監閑居の場」。勘九郎の又平、猿之助のおとく、團子の雅楽之助、鶴松の修理之助、梅花の北の方、市蔵の将監と云う配役。当然の事ながら先日書いた南座の「吃又」とは全ての配役が異なっている。結論から云うと良かったのだが、南座成駒家バージョンが凄すぎて、霞んでしまった印象だ。

 

南座より10分程短く刈り込んでおり、虎狩り百姓の花道の出はなく、幕が開くと百姓達は既に舞台にいる。修理之助に続いて将監の出。この市蔵の将監が実に立派。義太夫味もしっかりあり、これぞ本役と思わせる。南座の寿治郎よりニンだろう。その意味で筆者が従来イメージしていた将監像の王道を行くものだ。しかし今まで観た事がなかった「寿治郎将監」にすっかり魅了されてしまった筆者としては、それ以上と云う事にはならない。しかし科白廻しも見事な義太夫狂言のそれになっており、実はこの幕で一番良かったのはこの市蔵の将監だ。

 

修理之助が虎をかき消す場では、スモークを焚く演出。これには多少驚かされた。続いて又平夫婦の出になる。猿之助が夫を気遣う仕草をさり気なく見せて、いい女房ぶり。昨年高麗屋相手に勤めていた役。その時も名人高麗屋に位負けしない立派な健闘ぶりだったが、今回は年代が近い勘九郎相手で、より釣り合いが取れている。「吃りとしゃべり」の例の長科白は南座扇雀より突っ込んだ云い回しで、夫をサポートすると云うより、リードすると云う心持ちが濃い。

 

勘九郎の又平は、亡き三津五郎に教わったと云う。確かに人物造形としてはかつて観た三津五郎に近く、自らのハンデをじっと辛抱して耐えていると云った印象。南座鴈治郎に比べより内省的な又平だ。吃りの科白も三津五郎同様、大分聞き取りやすい科白廻し。この勘九郎・市蔵での「吃又」を観ると、筆者が南座で感じた思惑のすれ違いによるドラマと云う構造は薄れる。角の多い人物像だった鴈治郎に比べ、勘九郎は好青年の又平なので、師に反抗的に食って掛かると云った風にはならない。市蔵の将監もかなり手強い作りなので、筆者が元々この狂言に感じていた印象通りの「吃又」である。勿論だからつまらないと云う訳ではなく、これはこれで立派な「吃又」であったと思う。

 

将監に苗字・印可を許されて喜び、おとくの鼓に合わせて大頭の舞を舞う所などは、この優の天性の愛嬌が発揮されて、実に微笑ましい場になっている。何度も云う様だが、南座を観ていなければ、かなり満足度の高い「吃又」であったと思う。勿論勘九郎猿之助、市蔵には何の落ち度もない(苦笑)。

 

続いて第四部、『日本振袖始』。近松作の時代物浄瑠璃を、六代目歌右衛門義太夫舞踊に直したもの。大和屋の休演により、菊之助の岩長姫実は八岐大蛇、彦三郎の素戔嗚尊、梅枝の稲田姫と云う配役。普通代役と云うのは同じ座組の中から出すのがセオリーだが、三人しか出演者のいない狂言。急遽予定になかった彦三郎を呼び寄せる形になった。当然初役。しかしこれが実に見事な素戔嗚尊だった。

 

元々声が素晴らしい優だが、その朗々とした科白廻しは素戔嗚尊に相応しい立派なもの。立ち回りも踊りが体にある人なので、実にきっぱりしていてとても代役とは思えない。いや代役なればこその熱演だったのかもしれない。急な変更だったとは云え、相手が劇団で馴染みの菊之助・梅枝だった云う事も大きいのだろう。まぁ馴染みのない役者に代演は頼まないだろうが。

 

菊之助の岩長姫実は八岐大蛇も素晴らしい。元々兼ねる役者の菊之助。姫での美しさ、大蛇の古怪な恐ろしさ、その両方を見事に演じ分けている。大和屋バージョンを観れれば比較も出来たのだが、真女形の大和屋だと姫はともかく、大蛇のこのおどろおどろした所はここまで出せなかったのではないかと思う。まぁ観ていないので断定は出来ないけれど。しかし比較はせずとも、流石菊之助と云う出来だった。

 

梅枝の稲田姫も、その古風な役者顔が神話を元にしたこの狂言に似つかわしく、その美しさが贄になる哀れさを一入感じさせるいい稲田姫。総じて梅枝以外の二人が代役だったとは思えない、実に見事な『日本振袖始』だった。

 

今年も本当に押し詰まってきた。後は国立の第一部を観たら芝居納め。その感想は観劇後、また改めて綴りたい。

 

南座 吉例顔見世興行 第一部 鷹之資の『操り三番叟』、成駒家兄弟の「吃又」

コロナが感染拡大する中如何かとは思ったのだが、京都に駆けつけ顔見世を観劇。行ったからには全ての部を観たかったのだが、筆者の都合のつく日の二部・三部は完売。一部のみを観劇したが、これが遥々王城千年の地迄行った甲斐のある素晴らしい舞台だった。

 

幕開きは『操り三番叟』。鷹之助の三番叟、國矢の後見と云う配役。南座番附は役者のインタビューが載っていないのではっきりとはしないが、本公演では多分初役だろう(その後番附をよく読み返したらやはり初役とあった)。亡き河内屋が得意にしており、今では幸四郎専売特許の感のある舞踊に、若き鷹之助が挑んだ。技巧に加えて、風情で見せると云う事が効かない舞踊。何より身体が動かなければ出来ない出し物だ。その意味で若い鷹之助が挑戦する甲斐のある踊りだろう。

 

部分的にはふらつく所もあったが、若々しく観ていて気持ちの良い三番叟。筆者は千秋楽に観劇したのだが、後見の國矢とのイキもピッタリで、公演の二週間を経て二人で練り上げて行ったのだと思う。何度も勤めている幸四郎と比べると、そのバネのついた様な動きと云うか、いかにも人形らしい所作、キレと云う意味では見劣りがするのはやむを得ないところ。しかし鷹之助の舞踊は若さに似合わずどこか古風な風合いが感じられる。「烏飛び」の後のゆったりとした所作などに、特にその味わいがあった。こんなご時世だからこその五穀豊穣を祈念する三番叟、そのチョイスも良かったと思う。

 

続いてお目当て『傾城反魂香』、所謂「吃又」。鴈治郎の又平、扇雀のおとく、虎之介の雅楽之助、吉太朗の修理之助、吉弥の北の方、寿治郎の将監と云う配役。今月歌舞伎座でも勘九郎猿之助の組み合わせでかかっているが、期せずして東西での競演となった。どちらがどうと云う事ではなく、この成駒家バージョンの「吃又」は筆者寡聞にして観た事がない形の上演で、実に新鮮且つ面白かった。

 

筆者は今回、改めてこの狂言の真の意味を理解出来た。今までは死を覚悟した又平の一念が奇跡を起こし、苗字・印可を許されてめでたしめでたしと云うだけの狂言だと浅はかにも思っていた。しかし考えてみれば、あの近松がその程度の狂言を書くはずがない。これは師匠と弟子の思惑がすれ違っていた事から起こるドラマなのだ。

 

扇雀が「演劇界」のインタビューの中で、又平の事を自己中心的な人物と述べていたが、又平は自分の絵の腕には自信をもっており、それでも尚且つ弟弟子に許された土佐の苗字が自分に許されないのは、自らの吃音を師匠が蔑んでいるからだと思っている。しかし将監の思惑は違っていた。師は吃音を云い訳にもう一つ画境が深まらない又平をもどかしく思っていたのだ。その辺りの事は竹本の詞章をよく聞けば、又平に土佐の苗字を名乗らせられないと告げる場で「将監わざと声荒らげ」とある様に、敢えて厳しく接しているのだと判る。しかし筆者はその辺りを見逃していた。それに気づかせてくれたのは、今回の寿治郎だ。

 

寿治郎の将監は、その芸風からかきっぱりとした人間像ではない。又平に厳しく接しはするが、どこか和かい風情がある。そこでハタと気づかされた。今まで筆者は将監と云う人物は気位が高く、又平ごときに苗字はやれぬと思っていたが、思いもかけず手水鉢を抜け出る程の素晴らしい絵をかけたので苗字・印可を差し許すと云う毀誉褒貶の激しい人物だと思っていた。要するに又平が思っていた様な人物だと解釈していたのだ。だが寿治郎の和かさがその間違いに気づかせてくれた。

 

師匠は弟子の芸境を深めさせる為、敢えて厳しく又平に接していたのだ。思えば今まで筆者が観た将監は、皆手強い将監だった。彌十郎然り、歌六然り。思い返せば浅草で観た桂三が今回の寿治郎に近いテイストだった様に思うが、その時は気づかなかった。そして奇跡を起こした又平は将監に苗字・印可を許され、師匠の思いに気づき感泣する。そこに近松の目指したドラマツルギーがあるのだ。

 

鴈治郎の又平も素晴らしい。この又平は上記の様な思いで最初将監に接しているので、かなり我の強い人物として登場する。師の前で自らの吃音を呪い口に手を入れて嘆くところの芝居は、かなり角のある人物として造形されている。しかしその後、師に厳しく撥ねつけられて死を覚悟し、女房に促されて手水鉢に自画像を書き、その絵が手水鉢を抜けると云う奇跡が起こる。自らが死を覚悟した一念で書き上げた作品を見て、茫然とする又平。その時に今までの角ばっていた人格に変化が起き、おこりが落ちた様になる。そして初めて師にその力量を褒められ、苗字・印可を許すと云われるのだが、自分の起こした奇跡に気を取られていて、師匠の言葉が耳に入らない。おとくに声をかけられて、初めて師の言葉に気づく。この辺りの呼吸が実に上手い。

 

吃音の芝居で見せる技巧も素晴らしく、上手く話せない故に師匠とまともにコンタクトも取れないもどかしさが実によく伝わってくる。吃り具合は今まで筆者が観た又平の中で、一番重症(?)と思える。殆ど吃っているのだが、ところどころに理解出来る言葉が挟まってくる。言葉より思いが迸り、聞いているこちらが切なくなる程の見事な芝居。

 

そして今回初めて観たのだが、最後将監が手水鉢を刀で真っ二つにし、これにて又平の吃音の元を断ったと云う。この刀の奇瑞によって又平の吃りが治ると云う幕切れ。これがあるからこそ、将監の手厳しい態度が実は弟子成長を願うが故であったと、はっきり判る事になる。実に心憎い構成だ。鴈治郎によると住太夫から文楽にある形を教わり、歌舞伎にも取り入れたのだと云う。非常に後味の良い幕切れで、これは鴈治郎型として今後も続けて行く事だろうと思う。

 

そしてもう一つ目新しかったのは、又平夫婦による幕外の引っ込みがある形だった事。これも筆者は今までこの狂言では観た事がない。しかし苗字が許された上に吃音が治って喜ぶ夫婦の姿が微笑ましいいい引っ込みだった。

 

扇雀のおとくは例えば猿之助の様な才気走ったところもなく、万事控えめではあるが、夫を思う心持ちがしっとりと伝わってくる実に情愛深いいいおとく。吉弥の北の方も、又平の事をずっと気遣っている心持ちがしっかりあって、こちらもまた素晴らしい。雅楽之助の虎之介は、形もすっきりしていて以前に比べ腕を上げてきているのが見て取れた。

 

又平・おとく・将監・北の方と派手さはないが役者が揃った実に結構な「吃又」だった。歳も押し詰まったところで、今年一番と云ってもいい芝居が観れて、大満足の顔見世見物になった。今後歌舞伎座での再演も期待したい。

 

歌舞伎座で観た「吃又」については、また筆を改めて綴る事にする。

 

 

 

 

南座 吉例顔見世興行(写真)

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南座の顔見世に行って来ました。まねき上げです。

 

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絵看板です。

 

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名題昇進お披露目。まずはおめでたい。

 

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名人に二代なしの格言は、この親子には当てはまりませんでしたね。

 

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夜はライトアップされてこんなに壮観。

 

時節柄如何かと思いましたが、南座の一部を観劇。二部・三部も観たかったのですが・・・。

感想はまた改めて綴ります。

 

十二月大歌舞伎 第一部 愛之助・松也の『弥生の花浅草祭』、第二部 七之助・中車の『心中月夜星野屋』

十二月大歌舞伎一部・二部を観劇。その感想を綴る。

 

一部は愛之助と松也による変化舞踊『弥生の花浅草祭』。「三社祭」として上演される事は多いが、この通しはあまりかからない。数年前に松緑坂東亀蔵で観た舞踊。愛之助は出石で踊った事があるそうだが、松也は初役。ただ「三社祭」は自主公演で踊ったのが初めてだったとの事。

 

四変化の踊り分けだが、常磐津→清元→常磐津→長唄と伴奏が変化して行くのも面白い趣向。幕開きは常磐津で「神功皇后武内宿禰」。ここではまず松也の神功皇后がいい。この優は女形出身だが、どこか動きが硬く感じられるのが難点だと思ってきたが、この神功皇后は優美な中にも女武人としての強さもあり、気品も備わっている。そして尚且つ美しい。この松也は当たりだ。

 

続いて「三社祭」。ここは四世楳茂都流家元の肩書を持つ愛之助がリードする。例の「悪玉」「善玉」の踊りだが、愛之助の舞踊は派手さはないがきっちり踊る技術がある。悪七別当、悪禅師、悪源太の「悪づくし」も規矩正しい舞踊。筆者的には自分流に崩しながら自在に踊る猿之助の様な踊りの方がこの場にはあっているとは思うが、舞踊としては本寸法な見事な踊り。延寿太夫の清元もいつもながら素晴らしい。

 

常磐津に戻って「通人・野暮大尽」。ここはまた通人の松也がいい。先述した動きの硬さが取れてきているのが、この場でも感じられる。そして最後「石橋」での二人揃った毛振りとなる。ここはもう花形らしい勇壮な狂い獅子で、見事なもの。横振りから立振りになる辺りもきっちり振り分けて、ドラマ「半沢」コンビの変化舞踊、会場も大いに盛り上がった。

 

続いて第二部『心中月夜星野屋』。落語「星野屋」を元にした新作歌舞伎で、初演は筆者も観ている。七之助のおたか、中車の星野屋、片岡亀蔵の藤助、お熊の猿弥と云う配役。初演時と母お熊が変わっている他は同じ配役。何も考えずに素直に笑えるいい狂言だ。評判が良いからこそ、三度目の上演となっているのだろう。

 

星野屋に身請けされている元芸者のおたかと、星野屋との心中をめぐるドタバタ劇。こう云うのは理屈ではなく、楽しめるか楽しめないか。結論から云うと、筆者は大いに楽しませて貰った。七之助演じるおたかは、品行方正ではないが、決して悪女と云う程のものではない。ただ初演時は母お熊に引き摺られるだけの主体性のない女と云う印象だったが、今回はお熊がリードはするのだが、自らも見せかけ心中計画に関わる積極性が出ている。

 

新作歌舞伎なので、登場人物がしばしば切る見得や、歌舞伎調の科白廻しは特に芝居的な効果を狙って挿入されているものではない。今回観ていて改めて思ったのだが、これは歌舞伎による歌舞伎のパロディーなのだ。それに眉をしかめる向きもあろうかと思うが、お年寄りがまだ歌舞伎座に戻って来ていないと云われる昨今、比較的若い観客を取り込むには、いい狂言だと思う。

 

初演時の獅童から代った猿弥のお熊は、こう云う役をやらせたら右に出る歌舞伎役者はいない。アドリブをふんだんに取り入れ七之助がついていけない場もあったが、×と書かれたマスクをしたり、海老蔵のCMネタを入れたりとやりたい放題で、場内爆笑の渦であった。

 

中車も花道の引っ込みで「半沢」調の「DEATH!」を取り入れるなど、比較的演者の自由裁量に任せている場も多く、男女の化かし化かされ劇を大いに楽しませて貰った。ただ一つ違和感があったのが、第二場「吾妻橋の場」で、橋がかかっている下に暗くしてはあったが、前場の「稽古屋座敷の場」のセットがまんま残されていた事。八月の再開場以降舞台転換の必要がある狂言を極力さけて、一場の芝居をかけて来ている歌舞伎座。回り舞台装置を使わない為の苦肉の策だとは思うが、そこまでして回り舞台使用をNGにする必要性があるのだろうか。今は自動で動かしているので、それほど人手は必要ないと思うのだが・・・。

 

今年も押し詰まってきた。この後観劇予定の芝居は3つ。コロナで今年は例年より大分少ない芝居見物になってしまったが、楽しめる舞台を期待したい。

 

 

国立小劇場 十二月文楽公演(写真)

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国立小劇場に行って来ました。ポスターです。

 

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来年二月の文楽公演ポスター。どれかは観る予定です。

 

仮名手本忠臣蔵』の「二つ玉の段」、「身売りの段」、「早野勘平腹切の段」を観劇。歌舞伎で云うところの五段目・六段目ですね。同じ場面でも歌舞伎より文楽の方がいい場合も多々あるのですが、これは歌舞伎の方が良かった。竹本は熱演ではありましたが、義太夫としてのコクの様なものが、今一つなかった様に思います。歌舞伎同様席を一つずつ空けてではありますが、満員の入りでしたね。