fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

南座 吉例顔見世興行 第一部 鷹之資の『操り三番叟』、成駒家兄弟の「吃又」

コロナが感染拡大する中如何かとは思ったのだが、京都に駆けつけ顔見世を観劇。行ったからには全ての部を観たかったのだが、筆者の都合のつく日の二部・三部は完売。一部のみを観劇したが、これが遥々王城千年の地迄行った甲斐のある素晴らしい舞台だった。

 

幕開きは『操り三番叟』。鷹之助の三番叟、國矢の後見と云う配役。南座番附は役者のインタビューが載っていないのではっきりとはしないが、本公演では多分初役だろう(その後番附をよく読み返したらやはり初役とあった)。亡き河内屋が得意にしており、今では幸四郎専売特許の感のある舞踊に、若き鷹之助が挑んだ。技巧に加えて、風情で見せると云う事が効かない舞踊。何より身体が動かなければ出来ない出し物だ。その意味で若い鷹之助が挑戦する甲斐のある踊りだろう。

 

部分的にはふらつく所もあったが、若々しく観ていて気持ちの良い三番叟。筆者は千秋楽に観劇したのだが、後見の國矢とのイキもピッタリで、公演の二週間を経て二人で練り上げて行ったのだと思う。何度も勤めている幸四郎と比べると、そのバネのついた様な動きと云うか、いかにも人形らしい所作、キレと云う意味では見劣りがするのはやむを得ないところ。しかし鷹之助の舞踊は若さに似合わずどこか古風な風合いが感じられる。「烏飛び」の後のゆったりとした所作などに、特にその味わいがあった。こんなご時世だからこその五穀豊穣を祈念する三番叟、そのチョイスも良かったと思う。

 

続いてお目当て『傾城反魂香』、所謂「吃又」。鴈治郎の又平、扇雀のおとく、虎之介の雅楽之助、吉太朗の修理之助、吉弥の北の方、寿治郎の将監と云う配役。今月歌舞伎座でも勘九郎猿之助の組み合わせでかかっているが、期せずして東西での競演となった。どちらがどうと云う事ではなく、この成駒家バージョンの「吃又」は筆者寡聞にして観た事がない形の上演で、実に新鮮且つ面白かった。

 

筆者は今回、改めてこの狂言の真の意味を理解出来た。今までは死を覚悟した又平の一念が奇跡を起こし、苗字・印可を許されてめでたしめでたしと云うだけの狂言だと浅はかにも思っていた。しかし考えてみれば、あの近松がその程度の狂言を書くはずがない。これは師匠と弟子の思惑がすれ違っていた事から起こるドラマなのだ。

 

扇雀が「演劇界」のインタビューの中で、又平の事を自己中心的な人物と述べていたが、又平は自分の絵の腕には自信をもっており、それでも尚且つ弟弟子に許された土佐の苗字が自分に許されないのは、自らの吃音を師匠が蔑んでいるからだと思っている。しかし将監の思惑は違っていた。師は吃音を云い訳にもう一つ画境が深まらない又平をもどかしく思っていたのだ。その辺りの事は竹本の詞章をよく聞けば、又平に土佐の苗字を名乗らせられないと告げる場で「将監わざと声荒らげ」とある様に、敢えて厳しく接しているのだと判る。しかし筆者はその辺りを見逃していた。それに気づかせてくれたのは、今回の寿治郎だ。

 

寿治郎の将監は、その芸風からかきっぱりとした人間像ではない。又平に厳しく接しはするが、どこか和かい風情がある。そこでハタと気づかされた。今まで筆者は将監と云う人物は気位が高く、又平ごときに苗字はやれぬと思っていたが、思いもかけず手水鉢を抜け出る程の素晴らしい絵をかけたので苗字・印可を差し許すと云う毀誉褒貶の激しい人物だと思っていた。要するに又平が思っていた様な人物だと解釈していたのだ。だが寿治郎の和かさがその間違いに気づかせてくれた。

 

師匠は弟子の芸境を深めさせる為、敢えて厳しく又平に接していたのだ。思えば今まで筆者が観た将監は、皆手強い将監だった。彌十郎然り、歌六然り。思い返せば浅草で観た桂三が今回の寿治郎に近いテイストだった様に思うが、その時は気づかなかった。そして奇跡を起こした又平は将監に苗字・印可を許され、師匠の思いに気づき感泣する。そこに近松の目指したドラマツルギーがあるのだ。

 

鴈治郎の又平も素晴らしい。この又平は上記の様な思いで最初将監に接しているので、かなり我の強い人物として登場する。師の前で自らの吃音を呪い口に手を入れて嘆くところの芝居は、かなり角のある人物として造形されている。しかしその後、師に厳しく撥ねつけられて死を覚悟し、女房に促されて手水鉢に自画像を書き、その絵が手水鉢を抜けると云う奇跡が起こる。自らが死を覚悟した一念で書き上げた作品を見て、茫然とする又平。その時に今までの角ばっていた人格に変化が起き、おこりが落ちた様になる。そして初めて師にその力量を褒められ、苗字・印可を許すと云われるのだが、自分の起こした奇跡に気を取られていて、師匠の言葉が耳に入らない。おとくに声をかけられて、初めて師の言葉に気づく。この辺りの呼吸が実に上手い。

 

吃音の芝居で見せる技巧も素晴らしく、上手く話せない故に師匠とまともにコンタクトも取れないもどかしさが実によく伝わってくる。吃り具合は今まで筆者が観た又平の中で、一番重症(?)と思える。殆ど吃っているのだが、ところどころに理解出来る言葉が挟まってくる。言葉より思いが迸り、聞いているこちらが切なくなる程の見事な芝居。

 

そして今回初めて観たのだが、最後将監が手水鉢を刀で真っ二つにし、これにて又平の吃音の元を断ったと云う。この刀の奇瑞によって又平の吃りが治ると云う幕切れ。これがあるからこそ、将監の手厳しい態度が実は弟子成長を願うが故であったと、はっきり判る事になる。実に心憎い構成だ。鴈治郎によると住太夫から文楽にある形を教わり、歌舞伎にも取り入れたのだと云う。非常に後味の良い幕切れで、これは鴈治郎型として今後も続けて行く事だろうと思う。

 

そしてもう一つ目新しかったのは、又平夫婦による幕外の引っ込みがある形だった事。これも筆者は今までこの狂言では観た事がない。しかし苗字が許された上に吃音が治って喜ぶ夫婦の姿が微笑ましいいい引っ込みだった。

 

扇雀のおとくは例えば猿之助の様な才気走ったところもなく、万事控えめではあるが、夫を思う心持ちがしっとりと伝わってくる実に情愛深いいいおとく。吉弥の北の方も、又平の事をずっと気遣っている心持ちがしっかりあって、こちらもまた素晴らしい。雅楽之助の虎之介は、形もすっきりしていて以前に比べ腕を上げてきているのが見て取れた。

 

又平・おとく・将監・北の方と派手さはないが役者が揃った実に結構な「吃又」だった。歳も押し詰まったところで、今年一番と云ってもいい芝居が観れて、大満足の顔見世見物になった。今後歌舞伎座での再演も期待したい。

 

歌舞伎座で観た「吃又」については、また筆を改めて綴る事にする。