fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

吉例顔見世大歌舞伎 第一部猿之助の『蜘蛛の絲宿直噺』、第二部音羽屋・高島屋の『身替座禅』

歌舞伎座残る一部・二部を観劇。その感想を綴る。

 

第一部は『蜘蛛の絲宿直噺』。土蜘蛛退治に材を取った変化舞踊で、『蜘蛛絲梓弦』の外題で呼ばれる事が一般だが、今回はコロナ下で制限がある中、猿之助が演出に手を入れて外題も変わっている。猿之助が蜘蛛の精他五役早替りで勤め、隼人の頼光、笑三郎の八重菊、笑也の桐の谷、猿弥の金時、福之助の貞光と云う配役。八重菊と桐の谷が普段はない役。今回の為の創作だろう。しかしこれが大正解。芝居が実に華やかになった。

 

幕が開くといきなり八重菊と桐の谷が頼光の身を案じている場から始まる。ここが実にいい。澤瀉屋を屋台骨を支える二大女形の二人芝居。内容は状況説明なのでどうと云う事もないのだが、この二人が揃うと現実からスッと芝居の世界に入っていける。この幕開きだけでワクワクしてしまう。

 

芝居の内容としては、早替りをメインとした常磐津の変化舞踊。こう云った役どころはお手の物の猿之助。実に鮮やかに五役を踊り分けて見せてくれる。その五役も通常の薬売りに替わって、今回は小姓澤瀉になっているのが大きな変化。五役の中では、新造の八重里が実に仇っぽく、目に残る出来。コロナネタも科白に盛り込んで、声を出せない観客も沸いていた。

 

最後はお決まりの蜘蛛の精となり、舞台中に千筋の糸が溢れかえる中、出演者全員が決まって幕。ここも女形の八重菊と桐の谷がいる事で舞台面が実に華やかになり、素晴らしい幕切れとなった。40分程度の舞踊劇だが、内容盛りだくさんで楽しめた一幕だった。

 

続いて第二部『身替座禅』。音羽屋の右京、左團次玉の井権十郎の太郎冠者、右近の千枝、米吉の小枝と云う配役。六代目の為に岡村柿紅が書き下ろした松羽目物。正に音羽屋家の芸で、当然の事乍ら素晴らしい。

 

再開場後、歌舞伎座初登場となる音羽屋。十八番を満を持して持ってきたと云った感じだ。音羽屋本人は筋書きで「難しいのは玉の井を言いくるめる前半」と云っているが、その難しさを全く感じさせずサラリと演じ、必要以上に大袈裟にせず上品な笑いで包むと云った体。亡き勘三郎が演じると場内爆笑となったものだが、音羽屋はより松羽目物だと云う事の意識が強いのだろう。実に品のいい右京。

 

一番良いところは、花子の元から帰って来た花道での右京。ほろ酔い気分で足元も覚束ないが、酒と女で上気した気分が客席に伝わり、こちらまでいい気分になる。揚幕の向こうの花子に気持ちを残していて、舞台には遂に一度も登場しない花子と云う愛人の存在を、その艶っぽさ迄感じさせる、これぞ円熟の名人芸だ。

 

左團次玉の井も、時代な科白廻しを交えての芝居が素晴らしく、音羽屋とのイキもピッタリで、素晴らしい。権十郎も軽くサラリと演じていい太郎冠者。侍女の右近と米吉は実に可憐で美しく、舞台を華やかに彩っていた。三部・四部が重めの狂言なので、一部・二部はそれと対比して気軽に楽しめる狂言を揃えたと云うところだろうか。全ての部がそれぞれ楽しめる充実した顔見世興行だった。

吉例顔見世大歌舞伎 第四部 獅童・染五郎の『義経千本桜』

歌舞伎座第四部を観劇。その感想を綴る。

 

義経千本桜』「川連法眼館の場」、通称四の切。歌舞伎座では四年前の猿之助以来の上演だ。獅童の忠信実は源九郎狐、染五郎義経、莟玉の静御前、團子の駿河次郎、圀矢の亀井六郎と云う配役。これが実に鮮烈な舞台であった。

 

獅童歌舞伎座で古典の主演をするのは、何と今回が初めてと云う。幸四郎菊之助と云った名家の御曹司は、二十代から歌舞伎座で古典の主役を張っていたが、名門萬屋の血を受け継ぐとは云え、父親が役者を廃業してしまっていたと云うハンデがいかに大きかったかを物語る。忸怩たる思いはあったろうと推察するが、その分気合十分の迫力ある舞台となった。

 

もう慣れっこになってしまった場のカット。今回は冒頭の川連法眼の場面がなく、腰元が六人並んで状況説明。忠信参上が告げられ、染五郎扮する義経の出になる。いや~大きくなった。少年の成長は早いものだ。優に170センチは超えているだろうと思われる。そしてこれがまた実に気品溢れる立ち姿で、惚れ惚れさせられる。所作にも澱みがなく、科白廻しも以前より大分上達した事が感じられる。勿論まだ高校一年生、注文を付ければきりがない。しかしこのまま真っすぐ精進して行って欲しいものだ。

 

そしていよいよ獅童の忠信登場。花道の出から、生締めの鬘に長袴と云ういで立ちに古風な役者顔が映える実に颯爽とした姿。舞台に廻って義経と対面。気合が入っているせいか、義経に対する態度が多少不遜にも感じられる位だったが、形、科白共実に堂に入っている。偽忠信の来着を知らされ、刀の下げ緒を解き縛り縄にして花道を見込んだ形も、偽忠信を隙あらば捕縛しようとの気合横溢してキッパリしたいい形。

 

義経がこの詮議は静に任せると云って引っ込み、鼓の音に誘われて狐忠信の出になる。今回の獅童忠信の特筆すべき点は、とにかく骨太の芝居であったと云うところだ。昨今の狐忠信は、狐である事を意識する余り、ともすると女形の様になよなよしている事がある。その点獅童は実に男性的で、狐らしい野性味のある力強い忠信。その科白廻しは実にエモーショナルで、鼓になってしまった親狐を恋しく思うその切ない子狐の心情が、客席にもひしひしと伝わってくる。生前の勘三郎に「君のいいところはハートがあるところ」と云われたと筋書きで獅童自身が述べていたが、正にその通りで熱いハートが歌舞伎座の大舞台に溢れんばかり。

 

細かく云えば、ケレンも猿之助の様にスムーズではないし、狐言葉も粗さがあり万全ではない。その意味で最高の四の切だったと云うつもりはない。しかしこの骨太な忠信は、実に鮮烈で新鮮。これは磨けば当たり役になると確信した。幾つか目にした劇評では賛否両論の様だったが、筆者は今回の獅童忠信を断然指示する。

 

時節柄荒法師との立ち回りはカットされ狐独りでの立ち回りだったので、この場の面白味は半減してしまったが、ぜひ次回はカットなしの完全上演で観てみたい。そう思わせる気迫満点の素晴らしい狐忠信だった。もう一つ筆者の印象に残ったところ付け加えると、初音の鼓を静を経由せず義経自ら狐に手渡していた事だ。肉親の愛に恵まれない義経が、親を思う子狐の心に打たれている思いがしみじみ伝わるいい場だった。

 

莟玉の静御前も目のさめる様な美しさで、染五郎義経と揃ったところは若手花形らしい美に溢れており、観客が一斉にオペラグラスを構えたのもむべなるかなと思わせる。團子の駿河次郎も成長著しいところを見せ、圀矢の亀井六郎も手強い出来で脇をしっかり締めていた。

 

今月は残り歌舞伎座の一部・二部と、国立の二部。感想はまた別項にて綴る事にする。

 

 

 

吉例顔見世大歌舞伎 第三部 高麗屋の『一條大蔵譚』

今年はコロナで大変な事になってしまったが、何とか歌舞伎座鳳凰丸の櫓が上がった。感慨に堪えない。まだまだ制限下ではあるが、この状況では中々贅沢は云えない。今後も無事興行が行われる事を、祈るばかりだ。早速観劇した第三部の感想を綴りたい。

 

『一條大蔵譚』より奥殿。高麗屋の大蔵卿、翫の鬼次郎、壱太郎のお京、吾の勘解由、高麗蔵の鳴瀬、春の常盤御前と云う配役。去年の正月に、絶品と云うしかない大蔵卿を披露してくれた高麗屋。その時とは常盤御前と勘解由・鳴瀬は同じだが、鬼次郎とお京が変わっている。

 

元来そそっかしい筆者は演目が発表された際に、大蔵卿が一時間枠に収まるのか?どんなカットをするのだろう?と思った。しかし高麗屋の大蔵卿なら桟敷と、一階桟敷のチケットを押さえた。しかしよくよく見たら、何と「奥殿」のみ!なら一階前列の方が良かったか・・・と思ったが後の祭り。しかしこの狂言の肝は「檜垣」にある。勿論「檜垣」のみでは狂言にならないが、「檜垣」があって「奥殿」の本当の意味が分かる仕組みになっている。今回の上演には賛成しかねると云うのが本当のところだ。

 

元々この狂言を観た事があるか、イヤホンガイドでの説明を聞くかしないと、「奥殿」の大蔵卿の心情やその置かれた立場、そしてその哀しみを、本当に理解するのは無理だと思う。勿論竹本や鬼次郎夫婦の会話で説明はされる。しかしかなり苦しいところだろう。この大作を無理やり一時間枠で上演する必要があるのだろうか。他に幾らでも当てはまる狂言はあるだろうに・・・。

 

と散々文句を云いつつ観劇。しかし観たらやはりこれはこれで凄い「奥殿」だった。御簾内から高麗屋の「やぁれ方々、驚きめさるな」の一声が聞こえた瞬間に、舞台の空気が変わる。本物の時代物役者と云うのは、一声で全てを変えてしまえるものなのだ。御簾が上がって姿を現した時のその大きさ。そして眼目のつくり阿呆と本性の演じ分け見事さ。「檜垣」がないのがつくづく惜しいが、高麗屋の力量はしっかり見て取れる。

 

竹本に乗った見事な所作で「源氏の勇者は皆散り散り」の深々とした義太夫味。大袈裟につくり阿呆をする訳ではないし、松嶋屋の様に高らかに調子を謳い上げる事もしない。しかしそうせずには生きられなかった大蔵卿の哀しみがひしひしと伝わる。義太夫狂言と云うのは、こうでなければならない。先に記した播磨屋俊寛にない物が、ここには確かに、ある。

 

ぶっかえりから後ろ六法で三段に上がる。源氏の重宝友切丸を鬼次郎に渡して小松の重盛亡き後に兵を挙げよと告げる時の大蔵卿が見せる、源氏の血を引く武士の末裔らしい呂の声を使った重厚な義太夫味も、唸るしかない見事な芸。そしてまたつくり阿呆として、自己韜晦の人生を歩まねばならない心の影をふと漏らす「ただ楽しみは狂言舞い」の深い憂愁。「檜垣」がなかった事もすっかり忘れる程の凄い大蔵卿だった。

 

翫の鬼次郎も素晴らしい。元々義太夫味のある時代物役者だけに、高麗屋を向こうに回して、見事な鬼次郎。手揃いの役者に挟まれた中で、壱太郎のお京も手一杯の出来。「檜垣」のカットで、先月に続きまたまた出番を削られてしまった高麗蔵の鳴瀬も、忠義と夫への愛との板挟みになる役どころを好演。そして春の常盤御前は、もう完全にこの優のもの。十二単を纏った姿は堂々たる立女形のそれ。気品と云い、格と云い、申し分ない。科白廻しや古格な義太夫味のあるその所作が、益々養父歌右衛門に似てきたと思うのは、筆者だけではないだろう。

 

「奥殿」の上演と云っても鬼次郎が花道から廻った網代塀の場がなく、幕が開くといきなり奥殿であったりするなど、やはり無理のある上演形態であった感は否めない。高麗屋を始めとした役者達の見事な芸が、その無理を救った形。しかしもし正月も一時間枠を維持するならば、それに見合った狂言の上演を望みたいとは思う。こんなに刈り込んで尚且つ観客を満足させられる役者は、当代高麗屋松嶋屋他、何人もいないだろうから。

国立劇場十一月歌舞伎公演第一部 播磨屋の『平家女護島』

国立劇場の第一部を観劇。その感想を綴る。

 

国立劇場は通し狂言が建前となっており、コロナ下で制限はあるものの、歌舞伎座と違ってたっぷり観せて貰えるのが嬉しい。今回は通常の「鬼界ケ島」の前に、先年芝翫で観た「六波羅清盛館の場」が付く。播磨屋が清盛と俊寛と二役、雀右衛門の千鳥、菊之助が東屋と基康の二役、又五郎の瀬尾、錦之助の少将、吉之丞康頼、歌六の教経と云う配役。楽しみにしていたが、評価の難しい内容だった。

 

播磨屋俊寛は定評のある役。ご当人も確か文化功労者受賞の会見で、好きな役にあげていた様に記憶している。そんな俊寛が無論拙い訳がない。今回も渾身の芝居だった。しかし義太夫味が薄く、筆者の好みには合わないものだった。近年播磨屋は花形と一座する事が多く、義太夫味よりもリアルな芝居に重きを置く傾向がある。そしてその芝居の上手さは一級品だ。しかし今回は余りにもリアルに過ぎ、義太夫狂言としての重みとコクがない。

 

今回の上演も、播磨屋の今までの俊寛とその行き方が根本から変わった訳ではない。人気狂言なので、今まで筆者も高麗屋を始めとして、松嶋屋、亡き勘三郎海老蔵、そして芝翫など、色々な役者で観てきた。その中でも播磨屋俊寛は、一番老けた作りにしている。これも今までと変わりはない。しかし今回はもう今にも息が絶えそうな位に衰え、老け込んでいる俊寛なのだ。

 

甲の声を多用するのも今まで通りだが、先年観た折には、力を入れる所は呂の声を出し、メリハリがあった。しかし今回は徹頭徹尾甲の声で押し通し、義太夫狂言らしい重厚さに欠けている。兎に角衰えが著しい俊寛で、赦免状に自分の名が無いと云って瀬尾に縋り付く場も力なく、これがかつて後白河帝の側近として威をふるい、平家転覆を画策した程の人物かと目を疑うばかり。高麗屋松嶋屋も「入道殿の物忘れか」と云う所はグッと力が入ってキッパリとしたところを見せてくれるが、播磨屋俊寛にそんな力は残っていない様だ。

 

身も世もないその泣きっぷりは、かつての覇気も消え失せ、ひたすら哀れを誘いはする。しかしこれは義太夫狂言なのだ。播磨屋の芝居が上手く、リアル過ぎるが故にか、熱演すればする程、丸本の本分から外れて行く様に感じられた。瀬尾にとどめを刺して島に残る決心を見せる「関羽見得」もキッパリしないし、島を離れた赦免船に呼びかける「お~い」の声にも力がない。この声が弱々しいので、船の方から呼びかける「お~い」の声の方がやたら大きく、目立って聞こえてしまう。

 

人物描写としては一貫しており、素晴らしいと評価する人もいよう。事実激賞している劇評も見た。しかしあくまで個人的な感想だが、播磨屋の描く俊寛は、遂に筆者のイメージする俊寛ではない。幕切れの、岩の上で船を見送る俊寛の表情は、哀感交々で流石播磨屋ではあったのだが・・・。葵太夫の素晴らしい竹本に、義太夫味は一任していると云った形だった。

 

むしろもう一役の清盛の方が、義太夫味があり、悪の手強さと大きさがあるいい清盛だった。ただ出番は至極短かかったのが残念だが。「清盛館」は芝居としては大した場ではないが、これがあると後段で東屋の話しが出る度に、観客は具体的に東屋をイメージ出来る。歌舞伎座で上演する際にもぜひ付けて欲しい場だ。またその東屋の菊之助がひたすら美しく、また夫俊寛の為に自害する気丈な所もキッパリしており、俊寛の悲哀が一層際立つ素晴らしい東屋だった。

 

その他脇では、菊之助もう一役の基康と錦之助の少将は正に本役。ことに錦之助は色気もあり、最後島に俊寛を残して船出する際の「お名残り惜しや、俊寛殿」で見せた切ない表情は、万感胸に迫るものだった。雀右衛門の千鳥はもう自家薬籠中のもの。比較的長いクドキで見せる一人芝居は素晴らしく、還暦を過ぎても可憐な娘役が似合うところは、流石先代京屋の血を思わせるいい千鳥。どうかと思った又五郎の瀬尾も非常に手強い出来で、これなら俊寛も、もっと突っ込んで義太夫味を出しても良いと思うのだが・・・。

 

色々書いたが、筆者の好みではない俊寛ではあっても、芝居としては一級品。ハネた後に初老の女性客が「素晴らしかったわね」と話しているのも耳にした。まぁ人それぞれ意見はあると云うところだろう。二部は松嶋屋久々の毛谷村六助。こちらは義太夫味たっぷりの芝居を見せてくれる事を期待したい。

吉例顔見世大歌舞伎(写真)

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顔見世に行って来ました。ポスターです。

 

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一部・二部の絵看板です。

 

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同じく三部・四部。

 

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シネマ歌舞伎。映画向きの舞台だったし、時間があれば行きたいけど・・・

 

感想はまた別項にて。

 

十月大歌舞伎 第三部 松嶋屋の『梶原平三誉石切』

今月最後に残った第三部の感想を綴る。

 

第三部は「石切梶原」。松嶋屋の平三景時、彌十郎の大庭、男女蔵の俣野、孝太郎の梢、歌六の六郎太夫、隼人の菊平、松之助の吞助と云う配役。これがまた実に結構な舞台であった。

 

とにかく全編にわたり松嶋屋の名調子が堪能出来る素晴らしい狂言。時節柄「東路の誓いは四方に」で始まる幕開きの竹本はカット。浅葱幕が落ちると舞台にはもう梶原がいる形。これは高麗屋がよく用いるやり方だ。ただ並び大名は三名ずつで、人数を減らしてある。些細な事かもしれないが、舞台面としては些か寂しい感も拭えない。六郎太夫と梢の出になるが、花道での「これ娘、あれにござるはお殿様じゃ」のやり取りもなし。全体として10分以上刈り込まなければならないので、苦しいところだ。

 

しかしこれ以降は正に松嶋屋の独壇場。高麗屋がやるといかにも義太夫狂言と云った重厚感があるのだが、松嶋屋はとにかく爽やかな捌き役に徹している。その意味では播磨屋の行き方と同質だが、二人は芸風が違うので全く異なった印象になる。甲の声で押し通し、他の義太夫狂言同様科白としてしっかり聴かせる播磨屋と比べ、松嶋屋は全編ノリ地で流れるがごとき科白廻し。とにかく聞き惚れるばかりの名調子で、松嶋屋の数多い出し物の中でも、最もその流麗な科白廻しを堪能出来る狂言ではなかろうか。

 

見せ場の多い狂言なので、いいところを上げたらキリがない。例の刀の目利の場での形の良さ、凛とした美しさ。二つ胴での大上段に振りかぶった形から、気合一閃刀を振り落とすところの見事なイキ。そしてクライマックス、珍しい羽左衛門型での石切の豪快さ。正に声良し・顔良し・姿良しの天晴れ武者ぶりじゃなくて役者ぶり。前から3列目の比較的良い席で観れたせいもあろうが、70分の間松嶋屋の強烈なオーラを浴び続けた仕合せな時間であった。

 

そうした見どころ満載の中で、筆者的に一番印象に残った場がある。婿への申し訳なさに腹を切ろうとする六郎太夫を押しとどめて、「両人近こう」から石橋山の合戦に敗れた兵衛佐頼朝を助けた事を語り、本心を明かす場面だ。今は心ならずも平家方についてはいるが、自分の源氏に対する忠誠心は変わらないと告げるその科白廻しの見事な事。ここでの松嶋屋は竹本とシンクロしてグッと義太夫味が上がる。それ迄の流れる様なリズムから一転して、芝居の濃度が増し、グリップの効いたこれぞ義太夫狂言と云う味わいになる。

 

それを受けての歌六の六郎太夫がまた素晴らしい。去年やはり松嶋屋と組んだ「実盛物語」辺りから、この優の義太夫味が深まって来ている様に感じられる。ここでの六郎太夫が良いと、梶原もグッと引き立つ。この場での名優二人のやり取りは、ただの爽やかな狂言で終わらせない深味のあるものであった。

 

その他脇では、孝太郎の梢が、梶原に刀を差しだすところなどに感じさせる人妻としての艶と、父を思う娘としての情とを兼ね備えたいい梢。そして出番は短いが、隼人の菊平が、その姿の良さ、科白廻しの凛々しさが印象深い、いい奴だった。彌十郎の大庭は義太夫味は薄いが、押し出しは流石に立派。男女蔵の俣野は力演ではあったが、赤面の手強さよりやや愛嬌が勝過ぎていた感があった。

 

カットがあったとは云え、松嶋屋の名人芸をたっぷり堪能出来た一幕。しかしそれにしても、大向うが解禁されるのはいつになるのだろうか。今回の狂言など、やはり大向うがないのは物足りない。役者も同じ気持ちだと思う。一日も早い制限のない興行再開を、祈るばかりだ。

十月大歌舞伎 第二部 高麗屋・勘九郎の『双蝶々曲輪日記』

歌舞伎座の残りの部を観劇。その感想を綴る。

 

まず第二部「相撲場」。高麗屋の濡髪、勘九郎が与五郎・長吉の二役、高麗蔵の吾妻、錦吾の金平と云う配役。これがまた素晴らしい舞台だった。

 

まず何と云っても高麗屋の濡髪が圧巻である。木戸口から出て来たところ、その大きさ、歌舞伎の様式美に溢れた美しさと力感漲る立姿、これぞ濡髪、日下開山の貫禄である。衣装を重ね着して、高下駄を履いているが、そう云った物理的な事ではなく、身体全体から発散する大きさ。これが練り上げた芸であり、座頭役者の力である。ここだけで素晴らしい濡髪と知れる。

 

与五郎に対する優し味と、その悠揚迫らざる所作は、濡髪の人間的な大きさを示して余りある。「演劇界」のインタビューで高麗屋が「優しい人だったんでしょうね」と語っていたが、この場はその通りの優しさを感じさせると同時に、大きな包容力がある。役が肚に入っていないと、この大きさは出せない。ここらあたりは花形役者達にも学び取って行って欲しいところだ。

 

対する勘九郎の長吉は、郷左衛門・有右衛門と共に出て来たところ、意外にも風情がなく、あれあれと思っていたのだが、与五郎で再登場すると雰囲気が変わる。所謂上方とつっころばしの役だが、ニンにも合いいい与五郎。料亭に独りで行く事も出来ない位の頼りない若旦那の雰囲気を上手く出している。色気では四年程前に観た菊之助の方があるが、ニンは勘九郎だ。

 

そして更に良かったのは、再度戻って来た長吉。相手が歌舞伎界の横綱高麗屋だったと云う事もあって、思いっきりぶつかって行けたのが吉と出た。要するに変に作り込む必要がなく、役者としての貫禄の違いがそのまま役の貫禄の差になる。これが花形同士だとこうはいかない。しかし相手が高麗屋なら遠慮なくぶつかれる。その結果が今回の素晴らしい「相撲場」になったのだと思う。濡髪に八百長を匂わされ「ありゃ振ったんじゃな」と喰ってかかるイキ、青々といきり立った若々しさが舞台に漲るいい長吉。

 

それを受けて、最初は吾妻の身請けの件を思って堪えていた濡髪が「あんまり軽口を叩きすぎるぞよ」と徐々に怒りをため始め、「男が手を下げ頼むじゃないか」となり「それをオレが知った事かい」と長吉に畳みかけられて、「ここな不埒者め!」と遂に怒りを爆発させる。この濡髪の心情、心の移り変わりのグラデーション具合の見事なこと。芸歴七十年の力量、芸の素晴らしさだ。そしてここの怒声はどんな役者でも大音声を出すと判っていながら、高麗屋の怒りの大きさに、筆者は思わず身震いした。歌舞伎座の大舞台も揺るがすかと思うばかりの大芝居。本当に凄い濡髪だった。

 

その他脇では、コロナ対策の短縮バージョンの為に与五郎との絡みがなく、短い出になってしまった高麗蔵の吾妻が目に残る出来。「長吉勝った」と見物が囃し立てる場や、金平と与五郎が濡髪の服を二人で着るチャリ場がカットされるなど、時節柄致し方ないとは云え残念な事ではあった。しかしそれを補って余りある素晴らしい高麗屋の濡髪であった。

 

第二部だけで長くなったので、第三部松嶋屋の「石切梶原」はまた別項にて改めて綴る事にする。