fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

十一月 京都四條南座 吉例顔見世興行 昼の部 高麗屋父子の『連獅子』 、白鸚の『御存 鈴ヶ森』

続いて昼の部を綴る。

 

幕開きは『毛抜』。成田屋の家の芸である歌舞伎十八番なのだが、二代目左團次が復活上演した高島屋所縁の狂言左團次の粂寺弾正、当然ながら素晴らしい。左團次の弾正は荒事味と云うよりは、腰元や若衆と戯れる時に見せる愛嬌に特徴がある。弾正は単純な荒事の主人公ではないので、『忠臣蔵』の師直をやらせても何とも云えない愛嬌を醸し出す左團次には、うってつけの役。たっぷり堪能させて貰った。左團次は八十歳近いのだが、その所作には衰えは見られない。ただ科白が完全には入っておらず、プロンプターがついていた。筆者は楽日近くに観たのだが、連日こうだったのですかね、高島屋(笑)。

 

続いて高麗屋父子による『連獅子』。いや~染五郎、踊れる様になって来ているじゃないですか。夏の『龍虎』に比べ、格段の進歩。あれはこの為の練習台だったか(笑)。役者として科白はまだまだだが、流石舞踊松本流家元の惣領、踊りの腕は芝居より先を行っている。父子故にか、イキもぴったりで、非常にすっきりとした清々しい『連獅子』。愛之助鴈治郎による間狂言も軽妙で、大いに楽しめた。

 

幸四郎の親獅子は絶品。大きく且つ美しい毛振りは観ていて壮観の一言。幸四郎の踊りは一つ一つの所作が美しく、メカニカルな意味でも素晴らしい舞踊なのだが、この人の踊りはそれだけに終わらない。その舞踊が持つ意味が非常に良く分かるのだ。『連獅子』は誰でも知っている様に、獅子の子育ての物語なのだが、その物語性が他の人よりも明瞭なのだ。我が子を谷底に突き落として「憶せしか」と谷を見込むところも、我が子に厳しい試練を与えつつも、その身を思う親獅子の気持ちが客席にもしっかり伝わってくる。本当に稀有な踊り手だと思う。

 

次は『封印切』。松嶋屋の忠兵衛、本当は忠兵衛をやりたかったであろう鴈治郎が八右衛門にまわり、孝太郎の梅川、秀太郎のおえん、左團次の治右衛門と云う手堅い布陣。これで悪い訳がない。松嶋屋は、花道の出からして和か味のある、いかにも上方和事の二枚目ぶりで、客席の雰囲気を一気に江戸時代の大阪新町に変えてしまう。しかしこの人の芸風は所謂上方の他の役者と違って、すっきりとしている。八右衛門に煽られて封印を切るところも、色々逡巡したあげくに切る鴈治郎型の忠兵衛と違い、あまり粘らずにぐっと思い切って切ってしまう。ジャンルは違うが、落語の亡き米朝の芸風もそうだったが、このすっきりしたところが東京人にも好まれ、両者を上方に留まらない全国区的な存在にしている一つの理由だと思う。

 

脇では鴈治郎がニンではない八右衛門を好演、孝太郎が儚げないい梅川で達者なところを見せる。そして素晴らしいのが秀太郎のおえん。幕切れで忠兵衛と梅川を見送るところ、情が溢れて思わず涙を誘う。松嶋屋兄弟にとってはホームでの上方狂言。ひと際気合が入っていたのではないか。

 

最後がいよいよ襲名狂言『御存 鈴ヶ森』。白鸚の長兵衛に愛之助権八。本当の江戸狂言を京都での襲名に持って来る辺り、白鸚の自らの芸に対する自信を感じさせる。そしてこれがまた素晴らしい。狂言半ば迄は登場しない長兵衛なのだが、駕籠を開けた途端「高麗屋!」の大向こう。そしてその大きさ、江戸前の鯔背な雰囲気、もうここだけでいい長兵衛だと判る。そして「お若ぇの、待たっせぇやし」の名調子。正に天下無敵、当代の長兵衛だ。

 

また愛之助権八が艶やかないい権八。だんまりの立ち回りも、いかにも歌舞伎の立ち回りらしく優美でいながらキレもある。「雉も鳴かずば」も素晴らしい調子で、初役とは思えない立派なもの。長兵衛の白鸚とのつり合いも良く、非常にいい「鈴ヶ森」になった。ただ襲名披露の主役の一人である白鸚の出番が、昼の部はこれだけだったのは些か寂しい。その名人芸をもっと見たかったというのが偽らざる本心である。白鸚の年齢を考えれば、そうそう無理はさせられないとは思うが。

 

昼も夜に劣らずいい狂言続きで、素晴らしい襲名披露公演だった。わざわざ京都迄出向いた甲斐があったと云うものだ。来月の南座も素晴らしい座組なので、続けて観たくなるが、財政的に厳しいか・・・歌舞伎座で大和屋の「阿古屋」もあるし。芝居好きとしては悩ましい年の瀬である。

十一月 京都四條南座 吉例顔見世興行 夜の部 高麗屋の『勧進帳』

南座新開場高麗屋襲名披露を観劇。まず夜の部から。

 

幕開きは『寿曽我対面』。松嶋屋の工藤、愛之助の五郎、孝太郎の十郎、秀太郎舞鶴、吉弥の大磯の虎、壱太郎の化粧坂少将と役者が揃った実に結構な「対面」。松嶋屋は流石に貫禄たっぷり。やはり工藤は座頭の役なのだ。技術だけではしおおせない何かが工藤にはある。

 

愛之助と孝太郎は芸格が揃い、観ていて実に気持ちのいい曽我兄弟。そして特筆したいのは吉弥の大磯の虎。その美しさ、その品格、正に当代の虎。還暦過ぎていても、その美貌には些かの陰りもない。若い壱太郎を圧倒していた。大向うから盛んにかかる「美吉屋!」の掛け声にも後押しされて、素晴らしい大磯の虎だった。

 

『口上』は高麗屋三人を山城屋と松嶋屋が挟む格好で、僅か五人での披露。大一座の口上が続いていたので、こう云う行き方もいいものだ。松嶋屋が、大怪我を克服して今日に至った幸四郎を「奇跡」と表現していたのが印象的だった。

 

続いてお目当て『勧進帳』。七月に大阪で観た幸四郎の弁慶が素晴らしく、このブログで、ここまで出来るなら滝流しが観たいと書いたのだが、やってくれました滝流し付きの弁慶!幸四郎がこのブログを目にする事は100%ないだろうが、リクエストに応えてくれた気分で最高だった。

 

今回も「延年の舞」の素晴らしさは筆舌に尽くし難い。大阪の時よりも一段大きくなっており、滝流しも力強く実に見事。そして今回は富樫の白鸚が何とも凄い。実にエモーショナルな富樫。最初山伏は一人たりとも通すまじと云っていたものが、「問答」を聞くにつれ、これは義経一行ではないと思い始める。そこの具合がはっきりと見て取れる。この行き方は松羽目物の矩を超えると云う批判もあるだろうが、常日頃から「古典を現代に」と云っている白鸚ならではの富樫。筆者は全面的に支持したい。

 

そして呼び止めから打擲。ここでの白鸚がまた凄い。「判官殿にもなき人を、疑えばこそ」での表情がたまらなくいいのだ。ここで富樫ははっきりと義経一行だと確信する。しかし主人を打擲する弁慶の必死の思いに打たれ、通行を許す。する事は誰がやっても同じなのだが、ここでの白鸚の表情は、感動とも、哀感とも、諦念とも、何とも表現出来ないものなのだ。そして全てを自らが被る覚悟の思い入れ。本当に凄い富樫だった。

 

こんな富樫を前にしては、弁慶が冷静でいられる訳がない。二人のやり取りは緊迫感溢れ、大きな感情のうねりの様なものが横溢する凄い迫力で、筆者はひたすら圧倒され続けた。四月の御園座で今回とは逆の配役での『勧進帳』を観たが、二人の芸のぶつかり合いとしては、今回の方が相性はいい様に思う。

 

染五郎義経は勿論まだまだ未熟。科白もまだ役者のそれではない。しかし「判官御手を」ではその未熟故にいい場になっているのだ。義経は苦労人とは云え、生まれながらの貴種である。貴種と云うものは、感情を表に顕す事を恥とするものだ。染五郎義経は、未熟な科白術故に余分な情緒が入っておらず、いかにも貴人の科白といった趣があり、源家の若大将の風情が感じられるのだ。しかも染五郎には生来の気品がある。これを食い足りないと見る向きは多いだろうが、今はこれでいいのだと思う。技術は後から付いて来るものだ。四天王も、友右衛門、高麗蔵、宗之助、錦吾と揃って素晴らしい『勧進帳』になった。

 

最後は『雁のたより』。いかにも上方和事の典型といった狂言鴈治郎秀太郎が上方の風情をしっかりと出している。幸四郎の金之助は、これがさっきまで弁慶をやっていた人と同じ人間かと、疑うばかりの白塗り二枚目ぶり。そして市蔵の高木治郎太夫がお家を思う家老らしい大きさと折り目正しい芝居で、しっかり脇を締めていた。観客にも極度の緊張を強いた凄い『勧進帳』の後なので、こう云う狂言が幕引きにはぴったりだと思う。

 

狂言いずれも素晴らしく、南座の新開場を飾るに相応しい、手応えのある舞台だった。昼の部はまた別項で綴る。

十一月 京都四條南座 吉例顔見世興行 写真

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京都南座新開場記念、高麗屋襲名披露に行って来ました。

 

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ポスターの撮影は禁止されていたので、モニターです。

 

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襲名祝幕です。

 

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四條大橋から。高麗屋襲名を寿ぐかの様に、虹が架かっていました。

 

いや~素晴らしい襲名披露興行でした。感想はまた別項で。

歌舞伎座十一月 吉例顔見世大歌舞伎 音羽屋と時蔵の『十六夜清心』

続いて昼の部の感想を綴る。

 

幕開きは『お江戸みやげ』。時蔵又五郎も好演だが、今一つ盛り上がらない。梅枝の栄紫もふにゃふにゃしていて、お辻が憧れる様な役者に見えないのもいただけない。この芝居は先代芝翫富十郎の名演が目に焼き付いているからだろうか。その時は栄紫も梅玉だったので、比べるのは酷な話しではあるのだが・・・ちょっと寂しい『お江戸みやげ』になってしまった。

 

続いて松緑の太郎冠者に團蔵の大名、巳之助の次郎冠者に笑也の姫御寮と役者を揃えた『素襖落』。大いに期待したのだが、これも今一つ。皆する事に間違いはないし、松緑は踊りの上手い役者ではあるのだが、この狂言らしい浮き浮きとした調子が出せていない。何故だろう。この狂言のもつ何とも云えない可笑し味は技術だけでは出せないのかもしれない。その意味で松緑團蔵もきっちりし過ぎていた。もう少し華やかに、軽く見せて貰いたいものだ。

 

う~ん、昼の部は辛いのか~と思っていたら、最後に特大ホームランが出た。音羽屋と時蔵による『十六夜清心』だ。これぞ正しく現代歌舞伎の最高水準を行くものだった。黙阿弥物に音羽屋とくればそれだけで品質保証された様なものだが、十六夜に糟糠の妻時蔵を得て、一点非の打ちどころのない『十六夜清心』。今回は右近が清元の栄寿太夫を襲名したお披露目で、ワキの清心を受け持って大活躍。高音の伸びはいいし、よく通る。この清元に乗って音羽屋が、古希をとうに超えているとは思えない色気と佇まいで円熟の名人芸を披露してくれた。

 

そして今回は時蔵十六夜が出色の出来。花道の出から清心を求めて足抜けしてきたその必死の心情がしっかり伝わってくる。舞台に回って清心と巡り合っての口説きがまた絶品。清元と融合したその所作は、濃厚な色気で舞台全体を覆いつくす。それを受けての音羽屋の清心と二人揃った絵面は、まるで錦絵。歌舞伎的様式美に溢れていた。

 

続く第二場「川中白魚船の場」。播磨屋の白蓮が江戸の粋を感じさせて素晴らしい。十六夜を引き上げての「悪かねぇなぁ」も、大悪党の性根を垣間見せて正に本役。又五郎の船頭三次共々、見事に江戸の雰囲気を現代に再現してくれている。黙阿弥はこう云う空気感を出せなければならない。大詰めの「百本杭川下の場」では『お江戸みやげ』で冴えなかった梅枝が、一転して哀れな求女を好演。求女を川に突き落としての清心「一人殺すも千人殺すも」のイキも抜群。最後は十六夜とすれ違ってのだんまりで幕。役者が揃って素晴らしい『十六夜清心』になった。

 

今年に入っての音羽屋は、弁天といい今月の清心といい、その芸の総仕上げにかかっている印象。素晴らしい舞台が続いている。時蔵十六夜も、筆者が今まで観た時蔵の中では最高のもの。玉三郎でもこうは行かないだろう。これほどの十六夜はまたと出で難しと、観劇から何日かたっているが改めてそう思う。梅枝にはお父つぁんのこの芳醇な、年代物のワインの様な素晴らしい芸を、目に焼き付けておいて欲しいものだ。

 

最高の『十六夜清心』が観れて、最後の最後にご機嫌な昼の部になった。

 

今週は南座に行く予定です。その様子はまた別項で。

 

 

 

 

 

 

歌舞伎座十一月 吉例顔見世大歌舞伎 播磨屋、音羽屋の『楼門五三桐』猿之助の『法界坊』

歌舞伎座まず夜の部の感想を綴る。

 

幕開きは『楼門五三桐』。播磨屋の五右衛門、音羽屋の久吉の黄金コンビ。流石に播磨屋は大きい。15分程度の狂言だし、筋もあってなきが如しなので完全に役者ぶりだけを見せるもの。この大きさは若い役者には出せない。70年近い芸歴が醸し出す見事な役者ぶり。音羽屋も殆ど科白はないのだが、風情だけで見せる。ただ筆者は3階席で観劇したのだが、播磨屋の声量が若干落ちている様に思われ、聞き取り辛いところがあったのは心配だ。

 

続いて雀右衛門の『文売り』。これも20分弱の短い舞踊。梅の小枝を担いで現れたところ、こちらも何とも云えないいい佇まい。雀右衛門の舞踊は大和屋の様な妖艶さはないが、きっちりしていながらも柔らか味があり、観ていて本当に心地よい。こう云う舞踊を挟んでくれるプログラムは、個人的に好みである。いい踊りだった。

 

最後はいよいよ猿之助の『法界坊』。云わずと知れた亡き勘三郎の当たり狂言。今でもその愛嬌溢れる姿が目に浮かぶ。それは観客席の多くの人達にも共通の事だったと思う。しかし猿之助は見事に、澤瀉屋型の法界坊が現代に引き継がれた姿を見せてくれた。

 

八月の納涼歌舞伎でも感じた事だが、猿之助と云う役者は天性のエンターテイナーだと思う。客の喜ぶツボを知っている。この狂言でも第二場「大七座敷の場」での歌六の甚三にやりこめられる場面での芝居は、多分にアドリブも入れて大いに客席を沸かせていた。歌舞伎の領域を超えてしまう部分もなくはないが、その点でも亡き勘三郎を想起させる。『ワンピース』などへの挑戦を見ていると、やはり野田秀樹宮藤官九郎まで歌舞伎に取り込んだ勘三郎を意識しているのではないだろうか。今月は平成中村座勘三郎の追善が行われているが、猿之助は心の中で勘三郎への追善の気持ちを込めているのではと、筆者には感じられた。

 

最後の大喜利隅田川渡しの場」はこの狂言のクライマックス。雀右衛門のおしづが伝法な味を出していて、素晴らしい出来。落語の名人先代桂文楽も云っていたが、渡し守や船宿のおかみと云った女性像は、こう云う伝法でなければならない。姫役を得意とする雀右衛門だが、ただそれだけの役者ではないところを見せてくれた。

 

最後は怨霊となった法界坊も観世音の功徳に破れ、退散して幕。猿之助得意の宙乗りもあり、客席やんやの喝采だった。脇では歌六の甚三が美味しい役で、初役とは思えない見事な出来。右近のおくみも美しく、大店の娘らしい品もあり、好演だった。二時間にも及ぶ芝居だったが、長さを感じさせず、大いに楽しめた。

 

長くなったので、昼の部はまた別項で綴る。

歌舞伎座十一月 吉例顔見世大歌舞伎 写真

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十一月歌舞伎座行って来ました。ポスターです。

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音羽屋ポスター。いや~良かった。

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五右衛門の播磨屋。貫禄たっぷり。

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澤瀉屋の『法界坊』。こちらも楽しめました。

 

感想はまた別項で綴ります。

国立劇場 11月歌舞伎公演『通し狂言 名高大岡越前裁』

国立劇場梅玉大岡越前を観劇。その感想を綴る。

 

黙阿弥の原作を国立劇場文芸委員会が補綴したもの。筆者は初めて観る狂言。しかし全体的に盛り上がらない。序幕「紀州平沢村お三住居の場」、「紀州加田の浦の場」は右團次の法沢が世話の味を出せておらず、先が思いやられる幕開き。

 

しかし一転、次の二幕目「美濃長洞常楽院本堂の場」は右團次の天一坊が序幕とは別人の変り身を見せ、非常に見ごたえがあった。天一坊となって現れた時の大きさ、科白まわし、見事な天一坊。彌十郎の伊賀亮に偽物と見破られ、「八代将軍吉宗公の、ご落胤とおれが見えるか」と時代に張った後、ぐっとくだけて「実はおらぁ偽物よ」と世話になるあたりのイキも抜群。その後の「まぁ伊賀亮にも、聞いてくんねぇ」に始まる長科白も、黙阿弥調で見事に謳い上げる。脇も彌十郎、橘三郎、梅蔵、東三郎と揃って、素晴らしい一幕となった。しかし結果的に一番見ごたえがあったのはこの幕だった。

 

続く三幕目「 大岡邸奥の間の場」は梅玉の越前守が花道から出たところ、将軍の勘気を蒙った苦悩がその姿から見てとれる流石の芸。舞台に回って秀調の治右衛門や男女蔵の三五郎達とのやり取りになるが、芝居として別にどうと云う場でもない。続く「無常門の場」は橘三郎の杢四郎が流石の上手さを見せ、いいチャリ場になった。「小石川水戸家奥殿の場」は病で臥せっている楽善の綱條と梅玉の越前守の二人芝居。名人二人の芝居なのだから、悪かろうはずもない。楽善が天下の副将軍らしい流石の位取りを見せる。

 

四幕目「南町奉行屋敷内広書院の場」は本来盛り上がりを見せなければならない場だと思うが、初日故にか芝居が噛み合わず、何か水っぽい。梅玉の越前守も悪くはないのだが、この優ならもっと突っ込んだ芝居が出来るはずだ。越前守が宮様と同じ乗り物に乗る天一坊を咎めるのを受けて、彌十郎の伊賀亮が「そもそも東叡山宮様と云うは」に始まる弁明の長科白はかなり聞きごたえがあり、この場のハイライトだった。

 

五幕目「大岡邸奥の間庭先の場」。天一坊が偽物である証拠が掴めず、切腹を命じられる前に潔く腹を切ろうと、妻子と共に白装束で腹切りの場についている越前守。しかしここも問題。親子三人白装束並んでいる姿は滑稽で、武士の切腹はこんな風に並んではしないだろうと素朴に思ってしまう。絵としても冴えない。原作がそうだったとしても、もう少し舞台映えする工夫はなかったものか。

 

大詰「大岡役宅奥殿の場」。三五郎と大助(彦三郎)の働きで天一坊が偽物である証拠を掴んだ越前守は、天一坊を問い詰める。最初はシラを切っていた天一坊だったが、証人の久助(彦三郎二役)が現れるに及んで、遂に観念する。それまで天一坊として時代に張っていた右團次が、「流石は天下の名奉行、大岡様にはかなわねぇや」とぐっと世話にくだける科白まわしは二幕目同様に見事。しかし四幕であれほど弁舌鮮やかに越前守をやり込めた彌十郎の伊賀亮がこの幕には出ず、観念して妻と共に自害したと云う知らせだけが届く。これも拍子抜けだ。

 

最期は梅玉の越前守がお決まりの「これにて一件落着」で決まって幕。流石にその姿は梅玉らしい立派さだったが、総じて盛り上がりに欠ける舞台だった。客席も半分も入っていなかったろう。右團次の見事な黙阿弥調だけが印象に残る舞台となってしまった。

 

毎月芝居を観ていれば、こう云う事もある。来月の播磨屋に期待しよう。