歌舞伎座の昼の部を観劇。鮮烈だった白鸚の「河内山」の感想を綴る。
この演目は、高麗屋三代襲名披露公演の大阪松竹で観劇している。その時も実に見事だったが、その時は何せ大阪なので旅費の負担も大きく、三階席で観た。今回はお正月でもあり、奮発して一等席。そのせいもあるだろう、一層素晴らしく思えた「河内山」だった。
白鸚の河内山、芝翫の出雲守、歌六の小左衛門、高麗蔵の数馬、笑也の浪路、錦吾の大善と云う配役。大阪の時と河内山・数馬・大善は同じだが、他の役は役者が替わってる。長い事芝居を観ていると、同じ役を違う役者が演じる機会を多く観れるのも、役者を観る芝居たる歌舞伎観劇の楽しみだ。
この河内山宗俊と云う役は、白鸚の数多い当たり役の中でも、由良之助や弁慶と並ぶ十八番中の十八番だろう。まぁこの優の場合、何十年ぶりで演じても十八番の様にしてしまう力量は、去年の大蔵卿や盛綱でも実証済みではあるのだが。痛快な芝居で、観ていて実に楽しいし、気持ちがいい。流石黙阿弥作だけの事はある。筋書きの中で白鸚が「歌舞伎はどのような役でも品格がないといけない」と語っているが正にその通りで、その花道の出からして品格があり、いかにも上野寛永寺の使僧らしい風格(偽なのだけれど)があるのだ。この品格と風格があるからこそ、皆騙されてただのお数寄屋坊主を丁重にもてなしてしまう事になる。
舞台に廻って出雲守が迎えに出ないと知るや小左衛門達を全く相手にせず、席を蹴立てて帰ろうとする。この辺りの芝居も特に凄みを効かせる訳でもなく、播磨屋の様に愛嬌を売る事もせず、サラリと演じる。これを捉えて現代劇のごとくサラサラしていると云う評も見たが、そんな狙いで名人白鸚が演じる訳もなかろう。ここを派手にせず、サラリとした芝居にしているのは、クライマックスである「松江邸玄関先の場」への伏線なのだ。
「松江邸書院の場」における白鸚の行き方は、播磨屋とは対極にあると云っていい。この場での播磨屋は、初代譲りの愛嬌を売る派手な芝居である。勿論それは見事なものだ。しかし白鸚にとってこの場は、ひたすら「玄関先」における芝居の転調を、鮮やかに際立たせる為の場なのだ。ではこの場が坦々としたつまらない場なのかと云うと、さに非ず。観劇初心者には厳しいかもしれないが、仮病を云いたてていた出雲守が出座してきた時の「誠に意外の御血色」や、浪路を実家に帰せと迫った時の「ご返答はいかがでござるかな」などの科白の内にこもる凄みは、聞いていて思わずゾクっとさせられる。ちゃんと観ていれば、如何に白鸚が全体を考えて芝居をしているかが判るのだ。
だからこの河内山は、ご馳走ではなく「山吹のお茶を所望」と金をねだる場や、運ばれて来た金を覗こうとして袱紗を取ろうとした瞬間に時計の音に驚いて手を引っ込める所なども、必要以上に愛嬌を売ろうとはしない。芝居の造形が首尾一貫しているのだ。
そして愈々クライマックス「松江邸玄関先の場」で、大善に「左のたか頬に一つの黒子」と正体を見顕されての「大善は俺を見知っていたか」からの居直りが実に鮮烈で、それまでが抑えていた芝居だっただけに、パァと花が咲いた様になる。そして「悪に強きは善にもと」以下の啖呵は、もはや独壇場。「河内山は御直参だぜ」、「このままじゃあ帰られねぇよ」などの科白回しの見事なトーンには、只々聞き惚れるばかり。悪の華が歌舞伎座の大舞台一面に咲き誇る。これだけ素晴らしい黙阿弥調を聴かされると、例えは妙だがオーケストラを聴いた後の様な充足感がある。あぁこの為の「白書院」だったのだと、改めて実感させられる場面だった。
花道で舞台を振り返りダメを押すかの様に「ばぁかめぇ」と言い残し、悠々と花道を引き揚げる河内山。今年も正月から白鸚が素晴らしい芝居を見せてくれた。しかし白鸚と播磨屋の兄弟は仲がいいのか悪いのかは判らないが、ライバル意識と云うか、対抗心は凄いのではないかと思う。ここ数年の出し物を見ても、「熊谷」、「寺子屋」、そしてこの「河内山」と、向こうがやればこっちもまたすぐやると云った感じで、今年の三月にも去年播磨屋が演じた「石切梶原」を白鸚が出すと云う。まぁ観劇する側としては、いずれ菖蒲か杜若の名人芸が観れるので、有難い限りなのですが(笑)。
脇では初役の芝翫の出雲守、歌六の小左衛門がいずれも格のある名品。浪路に笑也を贅沢に使い、高麗蔵の数馬、錦吾の大善は、もう完全に手の内のもの。役者が揃って正に当代の「河内山」とも云うべき圧巻の舞台だった。
「河内山」だけで長くなった。他の演目については、また別項にて綴りたい。