fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

十一月吉例顔見世大歌舞伎 第二部 幸四郎の『矢の根』、新團十郎の『助六由縁江戸桜』

いよいよ世紀の興行團十郎襲名の本公演が始まった。二年半待たされた身としてはようやくか、と云う思いが強い。満員御礼の垂れ幕が下がり、場内はぎっしり一杯の見物客。巷間チケットの売れ行きが芳しくないなどと云う報道がなされていたが、今月のチケットは完売との事。巷では何かと批判が多い新團十郎だが、ネットなどで批判している人の多くは舞台を観ずに云っているのではないか。一度その舞台を観さえすれば、芸の巧拙を超えた團十郎の華、オーラの様なものを感じる事が出来るはずだ。それを最良の形で見せてくれるのが、この部の「助六」だろうと思う。

 

幕開きは歌舞伎十八番の内『矢の根』。幸四郎の五郎、巳之助の十郎、吉之丞の畑右衛門、友右衛門の文太夫と云う配役。筋書によると、幸四郎は当初予定されていた一昨年團十郎襲名公演の時に、亡き播磨屋に教わる予定だったと云う。それが延期になり、その後播磨屋が亡くなってしまったので教わる事が叶わなかった。今回播磨屋に直接教えを受けた歌昇に教わったと云う。これは凄い話しだと思う。幸四郎くらいになれば、誰に教わらなくても五郎は出来るだろう。それを亡き叔父に教えを受けたとは云え大分後輩の歌昇に教えを乞う、中々出来る事ではない。おそらく歌昇も大分恐縮した事だろう。しかしやるからには我流ではなく、演じた経験のある優に、先輩・後輩の垣根を超えて教わる。この精神が、歌舞伎芸を脈々と繋いできているのだ。

 

幸四郎は今最も乗っている役者であり、襲名以来その芸境の深まりは素晴らしいものがある。しかしその幸四郎の唯一と云ってもいい弱点が声である。甲の声が父白鸚の様に伸びやかに出ず、聞きづらさを感じさせる事がままある。二枚目系の役の場合は問題ないが、荒事には向かない声である。そこで今回の五郎であるが、幸四郎が科白廻しを考え抜いて、自分の声が出る範囲での精一杯の科白を聞かせてくれている。ムキに高音を張るのではなく、言葉は悪いが上手く抜いて科白を云っているのだ。表現が難しいが、手抜きと云うのではなく、上手く音を逃がしていると云うべきか。おそらく出来る中での最善の策であったろう。その分荒事本来の科白廻しからすると迫力を欠く部分があるのはやむを得ない。しかしその所作はこの優らしくキッバリとしていて且つ美しく、高い身体能力を生かした「背ギバ」も見事で、荒事としての力感にも不足はない。稚気愛すべき愛嬌も充分で、トータル的に実に見応えのある『矢の根』となっていた。

 

続いては『口上』。いつもの襲名披露口上と異なり、高麗屋音羽屋・高砂屋高島屋松嶋屋と云う五人の大名題のみによる口上。人数こそ少ないが、幹部役者が並んだ光景は壮観の一言。高麗屋が親戚代表としてご披露役。「先輩の云う事をよく聞き、同輩とは舞台の上で芸の火花を散らし、後輩には大きな心で接して欲しい」と心のこもった口上に客席からは笑いも起きていた。見物衆も、海老蔵時代に色々あった新團十郎のキャラクターを思い合わせたのだろう。芸は名人揃いの幹部役者連だが、松嶋屋新之助を六代目と云ったり、色々云い淀む事も多い口上だったのはご愛敬か。同世代の役者が揃っていたと云う事もあってか、亡き先代團十郎の思い出話が多く、今更乍ら先代の大きな芸風が偲ばれた。高麗屋も云っていたが、新團十郎には先代に負けない大きな役者になって貰いたい。

 

そして高麗屋に促されて成田屋だけに許されている「睨み」。新團十郎が「型だけではございますが」と云って齊入が運んできた三方を左手で掲げて、あの大きな目玉を見開いてぐっと睨む。実に迫力満点だ。江戸の昔、團十郎に睨まれると無病息災と謳われた伝統の睨みで、このコロナなどは吹き飛ばして欲しいと心底から思った次第である。将来的に新之助の「睨み」も歌舞伎座の大舞台で観てみたいと思う。

 

打ち出しは歌舞伎十八番の内『助六由縁江戸桜』。今回の襲名公演の演目は歌舞伎十八番にフォーカスしているところが、如何にも新團十郎らしい。配役は團十郎助六新之助の福山かつぎ、菊之助の揚巻、松緑の意休、幸四郎の口上、梅枝の白玉、又五郎の仙平、齊入のお辰、鴈治郎の里暁、東蔵の三浦屋女房、魁春の満江、高砂屋の新兵衛、松嶋屋の門兵衛と云う配役。平成の三之助が久々に舞台に揃い、高砂屋松嶋屋が脇を固めると云う、実に魅力的な配役だ。

 

しかしつくづく襲名は魔法だと思う。と云うのは今回の新團十郎助六の素晴らしい事と云ったら、とても筆者の拙い筆力では表現しきれない程だ。海老蔵時代の助六も勿論観ており、ニンに合った結構な助六ではあったが、今回の助六海老蔵時代とは比較にならない素晴らしさだ。元来新團十郎海老蔵時代から天性の助六役者ではあったが、今度の助六はこれこそ助六だと断言出来る見事なもの。改めて思ったのは、この「助六」と云う役は出端が全てだと云う事だ。

 

筋書で團十郎が「花道からの出端が大切。出端は踊りではなく語りだと云う九代目の口伝がある」と語っているが、正にその通りの出端。踊りの様に流れるのではなく、助六と云う人物をその所作で"語る"のだ。江戸一の伊達男らしい色気、荒事らしい力強さ、和事の柔らか味、若者らしい傲岸不遜なところ、その全てをこの花道の所作で見せる。ゆっくりと見せる所があるかと思えば、唐突に激しく豪快に動く。そこがやはり通常の踊りではなく語りと云われる部分なのだが、團十郎助六はその全てが助六になり切っており、役が肚に落ちているからこその所作である思う。この出端をここまで出来れば、後はどうとでもなるくらいなものだ。

 

舞台に廻って以降も天性の愛嬌と色気。荒事の力感と和事の柔らかさ。その全てが体現されており、科白廻しも海老蔵時代の癖が取れ、聞き惚れるばかりの名調子。松嶋屋高砂屋を相手にしても全く引けを取らず、やはりこの優は天性の助六役者なのだと思わされた。亡き父先代團十郎も実に素敵な助六だったが、ニンとしては新團十郎だろう。こうやって書いていても、とてもこの助六の素晴らしさを伝えきれないのがもどかしい。実際観て貰うしかないが、もう今月のチケットは完売との事。未見の方には、来月も演じる助六は必見と申し上げておきたい。この役は年齢重ねれば良いと云うものでもないので、もしかすると今が最旬かもしれないのだ。

 

歌舞伎座では初めてと云う菊之助の揚巻と、松緑初役の意休も素晴らしい。ことに菊之助の揚巻は舞台を圧するばかりの美しさと、歌舞伎座の立女形と云っても過言ではない貫禄で、実に見事な花魁ぶり。「間夫がなければ女郎は闇」のたっぷりした科白廻しも絶品。満江との二度目の出では世話女房の気分も漂わせて、とても歌舞伎座初役とは思えない素晴らしさ。来月の大和屋を観てみないと即断は出来ないが、当代の揚巻と云っていいかもしれない。松緑の意休も実に手強い出来で、三之助が舞台で極まったところを観れたのは感無量の思いだった。

 

松嶋屋高砂屋は云う迄もなく見事な出来。ことに高砂屋の新兵衛の和事味は天下一品の素晴らしさ。團十郎との年齢差を全く感じさせない流石の芸だった。鴈治郎の里暁が、十代から愛用していると云うラルフローレンの香水迄持ち出して舞台を大いに盛り上げていたのも印象深い。梅枝の白玉も菊之助揚巻との芸格の釣り合いも良く、これまた結構な出来。各役全てが本役で、これぞ令和の「助六」とも云うべき実に素晴らしい狂言だった。

 

一部には新之助の『外郎売』と團十郎の『勧進帳』が並ぶ。『勧進帳』は先日松嶋屋・大和屋で観ているが、同世代の幸四郎猿之助との組み合わせも楽しみだ。

 

 

 

 

十一月吉例顔見世大歌舞伎 十三代目 市川團十郎白猿襲名披露 八代目 市川新之助初舞台(写真)

いよいよ始まりました團十郎襲名の本公演。ポスターです。

 

一部絵看板です。

 

同じく二部。

 

祝樽。いや~本当に祝祭感に溢れていました。

 

村上隆氏による祝幕。歌舞伎十八番が描かれています。

 

そしてもう一人の主役。いや~大人っぽくなりましたね。

 

大いなる盛り上がりを見せていました。歌舞伎座での襲名披露はいつ以来だろう?感想はまた別項にて綴ります。






 

市川團十郎白猿襲名披露記念 歌舞伎座特別公演 團十郎・松嶋屋・大和屋の『勧進帳』

コロナにより二年半も延期されていた團十郎襲名公演が始まった。本公演はまだ少し先だが、先駆けて特別公演が実施された。歌舞伎座が新開場して初めてと云う「満員御礼」の垂れ幕がかかった。その通り客席は超満員。熱気ムンムンと云ったところ。松竹の迫本社長も客席を挨拶して回られていた。素晴らしい二ケ月間になる事を期待したい。

 

幕開きは能楽の『神歌』。能楽界から当代最高のシテ方観世清和・銕之丞が駆けつけ、團十郎襲名を寿いだ。『翁』を素謡形式で上演。筆者能は詳しくはないが、やはり厳かな雰囲気が歌舞伎座の大舞台を包む感じは堪らなくいいものだ。普段能が歌舞伎座にかかる事はないので、貴重な経験だった。これが生で観られるのも團十郎襲名ならではの事だろう。

 

続いて「顔寄せ手打ち式」。中央に竹柴正二氏、古賀静義頭取、迫本淳一社長が座り、上手側に音羽屋、下手側に松嶋屋が座す。松嶋屋よりやや下手寄り少し斜めに高麗屋團十郎新之助が毛氈を敷いて座っている。その後ろに総勢約百人にも及ぶ役者・舞台関係者が居並ぶ豪華な手打ち式。松竹サイドからの挨拶の後、高麗屋が新團十郎を紹介。團十郎は「歌舞伎のことに生きられる團十郎となれるよう、日々精進努力する覚悟でございます」と決意を述べ、父に促されて新之助も「八代目市川新之助を相続致します。どうぞ宜しくお願い致します」とまだ九歳の子供とは思えないよく通る声で堂々と挨拶した。実に頼もしい限りだ。

 

今までの團十郎代々の紹介を含む新團十郎新之助の映像が流れた後、休憩を挟んでいよいよ團十郎としての初演目『勧進帳』。多分新之助海老蔵時代を通じて最も演じた回数の多い芝居だろう。云う迄もなく、歌舞伎十八番の中でも筆頭に位置する狂言。新團十郎としても最も思い入れのある役だと思う。この特別上演会の演目として、当然と云った感じで出してきた。しかも松嶋屋の富樫、大和屋の義経、四天王に鴈治郎芝翫愛之助・市蔵を配する超豪華メンバー。この公演が発表になった時点から楽しみにしていた。團十郎当人が「襲名したからと云ってガラッと変わる訳ではない」と発言してはいたが、一段大きくなった弁慶を見せてくれた。

 

まず今回驚かされたのは、大名人松嶋屋の富樫相手に、位負けしていない事だ。予想では、鉄壁の松嶋屋富樫に挑む若き弁慶の様な構図になってしまうのだろうなぁと云う事だった。四年前の当代幸四郎襲名時の弁慶は、巨大な播磨屋富樫に圧倒されそうになるのを、必死に振り払っていると云う印象だった。今の團十郎は四年前の幸四郎と同じ位の年齢だと思うが、いやいや松嶋屋富樫に挑むと云うより、互角に近く渡り合う芝居を見せてくれていたのだ。富樫から「勧進帳遊ばされ候え。これにて聴聞つかまつらん」と云われ、一旦目を瞑った後かっとあの大眼を見開いて「うん、心得て候」と答えるところ、ここが切所の気迫に溢れており、鋭利な刃にも似た松嶋屋富樫の難題に立ち向かう気組みが見事。これがまず今回の収穫。

 

海老蔵時代の弁慶は全体的に荒事味が強かった。勿論基本はこの『勧進帳』は荒事なので、それはそれで間違いではない。しかし特に戦後先々代松緑や先代白鸚辺りから近代的な心理劇的要素が強まり、当代白鸚に至ってその完成形とも云うべき主君への強烈な忠誠心を持つ情味豊な人間弁慶像が確立された。当代幸四郎は勿論の事、松嶋屋弁慶もその流れに沿った弁慶であり、今はこちらの行き方が主流である。しかし先代團十郎は荒事味の強い歌舞伎十八番らしい弁慶像を貫いていた。当然新團十郎はその直系であり、父の行き方に沿った弁慶だった。それがまた海老蔵時代の芸風にもマッチしていた。

 

しかし今回の新團十郎弁慶には少なからず(荒事が神であると云うのに対して)人間的な"情の人"弁慶の味が出て来ている。それが最も顕著に現れたのは「判官御手を」の場面である。この場の大和屋の義経が実に神々しく、源家の若大将である事を超えてまるで皇族の様な気品と位取りを見せていた事に影響された部分は多々あるだろうが、海老蔵時代の弁慶とは比較にならないほど主人を打擲した恐懼の思いに溢れていたのだ。今までの芝居とは流れもテンポも変わる交響曲で云えば緩徐楽章に当たる難しい場だと思うが、この場が今回の『勧進帳』で最も見応えがあった。

 

もっとも今回の弁慶に問題がない訳ではない。殊に序盤の「勧進帳の読み上げ」と「山伏問答」の科白廻しには海老蔵節とも云うべき部分が散見され、科白の語尾などが現代調で芝居の感興を削ぐところがないでもない。しかし今まで酔いに任せた踊りに見えていた「延年の舞」などは腰高の難点は残るものの、成田屋の芸風らしい大らかな大きさがあり、以前よりはっきり進化の跡が見える。最後義経達を先立たせ自ら殿で笈を背負って一行を追いかけるところ、今までは勢いに任せて花道のツケまで滑る様に進んでいたのを、今回はしっかりとした足取りで花道にかかる。この辺りも歌舞伎らしい品位を保っており、團十郎に相応しい"大人"の弁慶。

 

最後の富樫への深々とした一礼も人間弁慶らしい情を感じさせ、見物衆からもここは盛大な拍手を受けていた。そして飛び六法の引っ込みは一転海老蔵時代と変わらぬ豪快さを見せて、これぞ荒事の醍醐味を味わわせてくれる。硬軟併せ持つ立派な弁慶だったと思う。新團十郎、まずはその船出を見事に飾ったと云えるだろう。孝太郎がブログで一世一代と云っていた松嶋屋富樫は、そのテナーヴォイスの見事な科白廻しと云い、形の良さ、位取りの確かさ、正に当代の富樫。神々しささえ感じさせていた大和屋の義経共々、素晴らしいと云う表現を超えた見事さ。豪華な四天王がきっちり弁慶を支えて、新團十郎誕生を高らかに宣言する実に立派な『勧進帳』だった。

 

本公演では富樫・義経を同世代のライバル幸四郎猿之助が勤める。相手が替わってまたどう云う展開になるのか、楽しみに観劇したい。

 

 

 

市川團十郎白猿襲名披露記念 歌舞伎座特別公演(写真)

團十郎襲名特別公演に行って来ました。満員御礼の垂れ幕が。

 

文字のみで地味ですが、ポスターです。

 

記念品売り場も賑わっていました。

 

解禁された大向うエリア。まだ一幕見は解禁されていません。

 

二日間だけの團十郎襲名特別公演を観劇出来ました。ロビーには音羽屋の女将と若女将の姿もありました。まぁ他にも沢山おられたのでしょうけれど。感想はまた別項にて。

 

芸術祭十月大歌舞伎 第一部 猿之助・幸四郎の『鬼揃紅葉狩』、松緑・猿之助の『荒川十太夫』

歌舞伎座第一部を観劇。入りは八分の入りと云った感じで、中々いい入りだった。最近毎月の様に花形の実力者松緑幸四郎猿之助の組み合わせが観れる、実に結構な座組が続いている。平成歌舞伎を支えた名人揃いの大幹部の内、山城屋・播磨屋既に亡く、音羽屋・高麗屋も傘寿。その後に続く存在だった勘三郎三津五郎も早くに亡くなり、この中間世代で主役を張る様な役者は鴈治郎芝翫くらいで非常に層が薄い。しかしその後の花形世代は対照的に素晴らしい優が沢山いる。その世代が競演する座組は観ていて面白く、わくわくさせて貰える。この一部も期待に違わぬ素晴らしい公演となった。

 

幕開きは猿之助四十八撰の内『鬼揃紅葉狩』。松羽目物の『紅葉狩』に猿翁が独自に手を加えて自らの家の芸に選定した狂言。希代のエンターテイナー猿翁らしい派手な振りが付いており、実に魅せる狂言。配役は猿之助の更科の前実は戸隠山の鬼女、幸四郎の維茂、猿弥・青虎の従者、門之助、種之助、男寅、鷹之資、玉太郎、左近の侍女実は鬼女、笑三郎の百秋女、笑也の千秋女、雀右衛門の八百媛と云う配役。笑三郎と笑也の役が今回新演出で新たに加えられた役どころだ。

 

幕が開いて幸四郎の維茂が出て来たところ、美しく気品に溢れ、これぞ余五将軍と云われた平家の若大将とも云うべき見事な佇まい。正にニンであり、当代これ以上の維茂はあるまい。初役との事だが、今まで演じていなかったのが不思議なくらいだ。四年前にこの狂言で主役の鬼女を演じた幸四郎。その時に花道から出て来てかぶりものを取った時に、客席からジワが来たのを覚えている。どちらを演じるにせよ、幸四郎の美貌はこの狂言によく映える。所作もあくまで厳かで美しく、二部の『釣女』で醜女を演じた同じ役者とは思えない。

 

これに対するに猿之助。更科の前の時の美しさと云う点では先の幸四郎には及ばない(失礼)。底割とまで行かない程度に妖しさを漂わせており、舞台に廻って踊るところも維茂に襲い掛かろうとする雰囲気があって思わずニヤリとさせられる。しかしよく出来た振りである。信濃の名所を詠み込んだ詞章に合わせた更科の前の踊りは、独り舞の部分は長唄で始まり、二人舞で常磐津になり、三人舞で竹本になる。これを猿之助はきっちり踊り分け、徐々に妖しさが増して来る。ここの猿之助の技巧には舌を巻くしかない。

 

更科の前と侍女が一旦引っ込み、すっぽんから雀右衛門の八百媛が現れ、笑三郎の百秋女と笑也の千秋女を呼び寄せる。ここから眠ってしまった維茂を起こす為の三人舞となる。寝ている人間を起こす踊りなので、足踏みがふんだんにあり、ユーモラスな舞踊。今回から三人舞となった新演出が実に良く、この女形三人の踊りが何とも云えない素晴らしさ。芸達者な三人なので、イキもぴったりで位取りもしっかりした見事な踊り。今回の新演出は大成功だったと云えるだろう。

 

八百媛から授けられた神の御剣を持って、維茂達は鬼女退治に向かう。ここから後ジテの戸隠山の鬼女となった猿之助や鬼女達との大立ち回りは迫力満点。筋書きで猿之助が「ハードな振り」と云っていたが、正にその通り。猿翁演出らしい派手派手しい振りながら歌舞伎らしい品位は失っていない見事な立ち回り。若手に混じってベテランの門之助や猿弥も大活躍。幕が下りた途端に倒れ込んだかもしれないが、力感たっぷりの所作でまだまだ若いと云うところを見せてくれた。最後は紅葉舞い散る中、猿之助の鬼女が舞台中央に極まって幕。客席もやんやの喝采(声は出していないが)で、大いに盛り上がった狂言だった。

 

打ち出しは『荒川十太夫』。講談界の人間国宝神田松鯉口演の講談を歌舞伎化した新作の初演だ。落語や講談など寄席演芸に精通したいかにも松緑らしい新作だ。真山青果岡本綺堂の作品の様なテイストを持った新作を作りたいと発言していた松緑。正にその通りの新作歌舞伎を作り上げてくれた。こう云う新作は筆者的には大歓迎である。

 

松緑の十太夫、吉之丞の五左衛門、猿弥の和尚長恩、坂東亀蔵の定直、左近の主悦、猿之助の安兵衛と云う配役。新作の初演なので当然の事乍ら全員初役。しかし各優が役を肚に落としこんで見事な芝居を見せてくれている。大きく盛り上がる筋がある訳ではなく、芝居としては地味なのだが、心に残る作品となっていた。

 

赤穂義士堀部安兵衛介錯をした荒川十太夫が、義士の祥月命日に泉岳寺に墓参に来たところを、上士の杉田五左衛門に見咎められる。安兵衛の介錯をした十太夫だが、身分は徒士。ところがその日の十太夫のいで立ちは上士同然の姿で、供も引き連れていた。叱責を受けて自宅謹慎を申し渡される十太夫。五左衛門が泉岳寺の長恩和尚に聞くと、十太夫は身分も物頭役と偽っていた。主人松平定直から呼び出しを受け、その真意を問われると、安兵衛を介錯をした時に家中での役目を問われた十太夫は、咄嗟に物頭役と答えてしまった為、上士のいで立ちで墓参をしていたと告白し、どんなお咎めでも受けると云う。その態度に感じ入った定直は身分詐称の罪により百日の謹慎を申し付けるが、それが解けた後物頭役二百石に取り立てると告げる。それから一年後、十太夫は物頭役の堂々たるいで立ちで義士の墓参を叶えると云うのが大筋である。

 

江戸幕府開幕から百年が過ぎ、各藩の体制も固まって身分制度が揺るぎないものとなっていた元禄時代。その反面武士と云うものが形骸化し、刀もロクに扱えない武士が増えている時代でもあった。芝居ではそこまで云ってはいないが、伊予松平家でも、義士の介錯を出来る程の腕のある侍が少なくなっていたのだろう。そこで徒士乍ら腕の立つ十太夫が抜擢されたのだが、義士の介錯をするに自分の様な身分の軽い者をもってするのは非礼であろうと十太夫は考え、偽りを云った。義士に対し、松平藩の面目を考えたのだ。上士と徒士の身分の差は「忠臣蔵」七段目の寺坂平右衛門が執拗に「東のお供を」と嘆願するのを見ても判る。十太夫は偽りを云う事によって藩の名誉を守った。それが最後の定直の裁定に繋がっている。

 

その辺りの機微を背景にした松緑太夫亀蔵定直とのやり取りは、大きな所作など一切ないが、コクのある見応え十分な場となっている。亀蔵は名君らしい品格と謳うが如き名調子で天晴れ見事な殿様ぶり。松緑徒士乍ら真の武士に劣らぬ赤誠と立ち振る舞いで、流石の芝居。最後墓参に来た十太夫に長恩和尚が声をかけるが、一礼したのみで無言のまま花道を引き下がる。何も科白を発しないで十太夫の心情をしっかりと表現した松緑の芸は本当に素晴らしい。先月の「寺子屋」と云い、松緑の芸は益々深みを増している様に思えた。

 

演出的にも、義士切腹の回想シーンをすっぽんを使った花道で見せ、現実と回想とをシンクロさせる映画の様な手法が斬新。時空を自由に行き来出来る講談に対して、舞台劇が出来る事を考えた挙句の演出だろう。これが素晴らしい効果を上げていて、安兵衛切腹の場に立ち会っている様な臨場感があり、見事な場となっていた。猿之助も出番は少ない乍ら剛直な安兵衛をきっちり演じていたし、脇に吉之丞・猿弥の手練れを配して初演とは思えない長く余韻の残る名舞台だった。今後も上演されて行って欲しいし、また講談の別の挿話から新しい歌舞伎を作って欲しいものだ。落語ネタの歌舞伎が数あるのだから、講談ネタの作品ももっとあってもいいだろう。

 

来月はいよいよ国民的慶事である團十郎襲名。今からわくわく感が止まらない。きっと大いなる盛り上がりを見せてくれる事だろう。

国立劇場10月歌舞伎公演『通し狂言 義経千本桜』Bプロ 菊之助のいがみの権太

国立の感想を綴る前に、歌舞伎界に朗報があった。今年の高砂屋人間国宝認定に続き、高麗屋文化勲章が授与される事となった。歌舞伎界からは去年の音羽屋に続き二年連続だ。去年もこのブログで書いたが、文化勲章文化功労者の中から選ばれるのが慣例となっている。文化功労者になったのは音羽屋より高麗屋の方が早かったので、当然先に文化勲章が授与されると思っていたが、順序が逆になった。受賞の知らせを聞いた幸四郎が「こうでなくちゃいけません」と云ったと云うが、このコメントはその辺の機微を指したものと考えたら穿ち過ぎだろうか。

 

まぁそれはどうでもいい事で、現役歌舞伎役者二人目の授与、誠に目出度い。この道一筋の人が認定される印象の人間国宝にならず文化勲章に辿り着いたのは、歌舞伎役者では初だろう。ストレートプレイやミャージカルでも超一流の実績を残してきた高麗屋は、大谷翔平選手より半世紀以上も前から二刀流を極めてきた。この道一筋の人間国宝になっていないのは、今となっては役者としての勲章と云えるのではないか。本当におめでとうございました、高麗屋

 

閑話休題

 

国立劇場が建て直しになり、今月から一年ほどかけてさよなら公演が行われるようだ。その第一弾として上演されたのが『義経千本桜』の菊之助による通し狂言。二年半程前に上演が決定しながら、コロナにより中止に追い込まれた公演が、改めて上演された。誠に目出度い。全てのプログラムを観たいところだったが、時間とお金の都合で断念。タイミングが合ったBプロを観劇した。二階席には空席もあったが、一階席はかなり埋まっていた。

 

Bプロは「下市村椎の木の場」から「下市村釣瓶鮓屋の場」迄の上演。配役は菊之助の権太、梅枝の弥助実は維盛、萬太郎の小金吾、米吉のお里、橘太郎のおくら、吉弥の小せん、権十郎の弥左衛門、又五郎の景時と云う配役。博多座での上演と弥左衛門・おくらの夫婦は同じ。お里だった梅枝が弥助に回り、今回は米吉のお里になっているのが注目だ。又五郎の景時は意外にも初役だと云う。

 

菊之助は今回の四役(鳥居前の忠信・知盛・権太・狐忠信)を三津五郎播磨屋音羽屋に習ったと云う。当然この権太は父菊五郎直伝だろう。必ずしもニンではないが、菊五郎マナーをよく写して実に江戸前のイキのいい権太になっている。ことに「椎の木の場」の権太はワルではあるが子供に甘く、父親の愛情が感じられて、これが「鮓屋の場」への見事な伏線になっている。これ程我が子に優しい権太がその子を犠牲にして迄父への孝行、そしてその父が恩義を蒙った重盛の子維盛への忠義を果たそうとしたところにこの狂言の主題があるのだ。やはりこの場はこの「椎の木の場」から出した方がよりその点が明確になるだろう。

 

菊之助は決して愛嬌のある役者ではないが、今回おくらに甘える場でもあまりべたつかない、程の良い愛嬌が出せており、小悪党としての手強さもあって、見応えがある。所作もキレがあって鯔背。しかも数年前に国立で演じた新三の様な色気もある。このまま最後迄行けば素晴らしい権太になるだろうと見ていたが、弥左衛門に斬られてからのモドリの場は厳しかった。

 

今わの際の苦しい息の下の科白のリアルな部分と、「いがみと見たゆえ油断して、一ぱい喰って帰ったは」などの芝居的な科白の部分が噛み合って流れず、妙な凹凸感を出していて、観ていて芝居に入り込めないのだ。ここは非常に難しいとは思うが、父菊五郎高麗屋は上手くグラデーションをつけて処理して見せてくれる。流石に今回の菊之助はそこまでは出来ていない。しかも時々斬られている事を忘れていると感じさせる部分がある。ここは松緑も喰い足りなかった。少し厳しい意見かもしれないが、「鮓屋」を見せるにはここはどうしても乗り越えなければならない箇所。今後の精進に期待したい。

 

今回最も素晴らしいと感じたのは梅枝の弥助と米吉のお里。この二人の愛らしいチャリ場は、この悲劇的な狂言の中で一服の清涼剤となっている。梅枝の弥助は如何にも義太夫狂言の優男になっており、その所作は軽くそして美しい。弥左衛門に「まず、まず」と云われて維盛として直るところもキッパリとしており、位取りも見事なもの。米吉も勿論美しく、そして今や死語かもしれないが"おきゃん"な魅力を発散していて、実に結構な出来。「兄さん、ビビビビィ」のイキも良く、これ程のお里はかつて観た事がない位のもの。梅枝共々、大手柄だった。

 

萬太郎の小金吾も、若々しい所作と捕手達とイキの合った立ち回りを演じて大健闘。権十郎と橘太郎の夫婦は博多座の時よりも一段彫が深くなっており、文句のない出来。ただ今回の上演とは関係ない事だが、本来弥左衛門の様な役は劇団では團蔵が受け持ってきたもの。最近舞台姿を見ない團蔵、体調を崩しているのではないかと心配になる。正月の国立公演には、元気な舞台姿を見せてくれる事を心から願っている。

 

菊之助には注文つけた形になったが、それ迄の権太が素晴らしかったので、あと一息と云ったところだと思う。菊之助なら近い将来、見事な権太を見せてくれると信じている。

国立劇場10月歌舞伎公演『通し狂言 義経千本桜』(写真)

国立劇場の「千本桜」通し公演に行って来ました。ポスターです。

 

三役のポスター。高い位置のガラス越しだったので上手く撮れませんでした。。。

 

来月の公演。チケットは押さえました。

 

二年前にコロナで無念の中止に追い込まれた菊之助の「千本桜」通し公演に行って来ました。感想はまた改めて綴ります。