fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

御園座 坂東玉三郎 特別公演 大和屋と成駒屋三兄弟の『本朝廿四孝』

御園座の大和屋公演を観劇。大入り満員ではなかったが、ほぼほぼ九割方の入りだったろうか。筆者四年ぶりの御園座レッドが目にも鮮やか。大和屋の地方公演は歌舞伎座で演じて好評だった出し物を持って行くケースも多かったが、今回は違うので楽しみにして名古屋入り。しかも丸本の『本朝廿四孝』から「十種香」と「狐火」。近年の大和屋は舞踊と松嶋屋などと組んだ世話狂言が多く、丸本は「阿古屋」くらいなもの。もしかしたら今回の公演を受けて来年以降歌舞伎座でもかけるかもしれないが、居ても立ってもたまらず御園座に駆けつけた。

 

幕開きは「口上」。最初に大和屋・雪之丞・緑郎の三人が並んで挨拶。やはり大和屋はあたりを払う貫禄と云うかオーラがある。名古屋に来れた喜びを語り、新派の二人は大和屋のお陰でこの舞台に立たせて貰えたと感慨深げだった。続いて成駒屋三兄弟が並んで口上。こう云う二段構えの口上は珍しい。福之助・歌之助による『本朝廿四孝』の解説もあり、初めて観劇する方には、いい手引きになったのではないか。

 

続いてお目当て、『本朝廿四孝』から「十種香」と「狐火」。配役は大和屋の八重垣姫、橋之助の勝頼、福之助の小文治、歌之助の六郎、雪之丞の濡衣、緑郎の謙信と云う配役。大和屋が八重垣姫を演じるのは十四年ぶりだと云う。今回も新派から雪之丞と緑郎が参加。大和屋の素晴らしさは云う迄もないが、成駒屋三兄弟の健闘と新派二人の熱演もあって、これが実に独特でありながら、見事な出来の狂言となった。

 

近年観た八重垣姫と云えば魁春である。父歌右衛門の教えを忠実に守り、実に古格な味わいのある八重垣姫であった。大和屋は最初先代芝翫に教わったと云うから、出所は同じである。しかし上手屋台が開いて勝頼を回向する八重垣姫が後ろ姿で現れたところから、魁春とは違う。身体を揺らしている形がゆるゆると揺れる魁春と違い、もっときっぱりと云うか感情の動きをはっきり出す動きなのだ。この場が一事が万事で、「十種香」全編にわたって姫の感情の大きなうねりの様なものが舞台上を覆いつくす。義太夫狂言の枠を踏み出すギリギリ迄の感情の奔流なのだ。

 

屋台から蓑作を見て「勝頼様」と云う場も、文楽人形を想起させる魁春と違い、もっとスピードと云うのとも違うが、動きがシャープなのである。云ってみれば近代的な八重垣姫と云う事になろう。これはしかし大和屋のテンペラメントとしからしむる所なのだ。魁春の八重垣姫に感情がないと云っているのではない。胸の想いを丸本の古格な骨法の中に押し込んで表現している魁春に比べ、大和屋のそれは鮮明に表に現れてくるのだ。大和屋が有する大きなテンペラメントは、実に鮮烈な舞台表現となって我々を魅了する。しかしそのテンペラメントの大きさ故に大和屋は、芝翫に教わった地点の八重垣姫に戻る事は出来ないのだ。

 

演出的にも、例えば濡衣に勝頼への仲立ちを頼む場でも上手屋台に行かない。この辺りも伝統的な行き方とは違う独自の道を歩んでいる大和屋らしいと云えるだろう。自分が良いと思えば、型を変える事も厭わないのだ。その点も師からの教えに忠実な魁春とは(良い悪いではなく)大いに異なるところだ。

 

「狐火」も行き方としては同じ。いや、こちらの方がより大きな感情の奔流が見れる。この場は殆ど八重垣姫の一人舞台なので、その印象がより強固になるのだ。動きも多く、静的な「十種香」とはまた違った魅力のある場。殊に狐の取り憑いた「くるい」の場は、イトに乗りながら勝頼への激しい想いをその所作で見事に表現していて、圧巻の出来。深窓の令嬢とも云える八重垣姫をしてこれほどの激しい想いがあったのかと、古希を過ぎ乍らも今だに大和屋が充分美しいだけに、観ていて瞠目させられる物凄い場だった。

 

加えて濡衣の雪之丞と謙信の緑郎がまた素晴らしい。二人共初役らしいが、間然とするところのない出来。濡衣は間者として送り込まれてはいるのだが、亡き夫に似た勝頼に密かな恋慕の情を持っている。その想いを必死に押し込んでいる様が科白や所作に滲むのがいじらしく、この役でこんな風に見えた事はかつてなかった。大和屋の行き方にマッチしているので、大和屋からの示唆だろう。斬新な濡衣となっていた。謙信の緑郎もその大きさと手強さは、流石北国の龍と称された武将だけの事はあると思わせる見事なもの。橋之助の勝頼はキャリアを考えれば抜擢だが、これもまた良かった。八重垣姫と濡衣を脇にして舞台中央で極まった姿は実に美しく、いい役者になってきた。所作にも武田家の御曹司らしい気品があり、若手花形らしい清々しい舞台姿は観ていて実に気持ちが良かった。これからの橋之助、注目だと思う。

 

久しぶりの御園座の舞台、たっぷり堪能させて貰った。これからも大和屋の特別公演は出来る限り観に行きたいと思う。舞台芸術と云うものは映画や美術展などとは違い、一期一会のもの。ましてそれが大和屋となれば、見逃す手はない。財政破綻しないかが心配ではあるが(苦笑)。

 

 

平成中村座 十月大歌舞伎 第一部 勘九郎・七之助の「角力場」、獅童・勘九郎・扇雀の『極付幡随長兵衛』

平成中村座第一部を観劇。コロナ禍により開催されていなかった平成中村座が、浅草の地に帰って来た。江戸時代の芝居小屋を模して造られた会場は客席と舞台が近く、実にいい雰囲気。ついでにチケットも歌舞伎座よりはリーズナブル。いい事尽くしの公演だ。これを観ない手はない。そして会場の良さだけでなく、芝居も各優力のこもった熱演で、歌舞伎を堪能。大向うがないのが残念だったが、客席も熱気に溢れていた。

 

幕開きは『双蝶々曲輪日記』から 「角力場」。勘九郎の長五郎、虎之介の長吉、新悟の与五郎、七之助の吾妻と云う配役。何と全員が初役らしい。虎之介と新悟は幸四郎に、勘九郎白鸚に教わったと云う。まるで高麗屋の監修狂言だ。いかにも平成中村座らしい配役と云えるだろう。この様に歌舞伎芸と云うものは伝承されて行くものなのだと云う、見本の様な出し物と云える。

 

勘九郎は二年前の歌舞伎座で、高麗屋の濡髪を相手に放駒を演じている。自身もその時の、高麗屋演じる人間としての大きさに溢れていた濡髪が印象的だったと云う。筆者も観劇したが、この世の者とは思えない大きな物が舞台上に現れ、圧倒されたのを覚えている。その時のインパクトがあまりに強烈なので、やはり今回の勘九郎濡髪は線が細く小粒な印象になってしまうのはやむを得ない。当代きっての名人高麗屋が何度も手掛けている濡髪と、勘九郎初役の濡髪を比較するのは当人には酷な話しだと思う。今のところ、勘九郎はニンとしては放駒の方が合っている。

 

しかしこれが歌舞伎の面白さで、高麗屋相手の勘九郎放駒が釣り合っていた様に、勘九郎濡髪に対するには虎之介の放駒が芸格としてはまっているのだ。勿論スケールダウン感は否めないが、虎之介放駒に対する勘九郎濡髪はいかにも大きく、人物的に圧倒しているのだ。その大きさに懸命に対抗しようとする虎之介放駒の健闘ぶりが観ていて心地よい。しかも舞台が歌舞伎座よりも大分小さい中村座なので、その意味でも舞台にしっかり嵌っている。最後舞台上に極まったところは実に絵になっており、両優の手一杯の芝居を楽しめた一幕だった。

 

脇では新悟が慣れないつっころばしの役を好演。幸四郎に全てが可愛らしく見えなければいけないと教えられたそうだが、正にその通りの与五郎。七之助の吾妻はこの中に入ると流石の貫禄。その美しさは舞台を圧していた。若々しい配役で、観ていて実に気持ちの良い狂言となっていた。今度はもっと芝居を大きく練り上げて貰い、歌舞伎座での再演に期待したい。

 

打ち出しは『極付幡随長兵衛』、通称「湯殿の長兵衛」。ご存じ黙阿弥の代表作で、筆者も大好きな狂言。これが観たくて来たと云う部分もある。配役は獅童の長兵衛、勘九郎の十郎左衛門、七之助のお時、新悟の頼義、虎之介の清兵衛、鶴松の柏の前、片岡亀蔵が公平と登之助の二役、扇雀の権兵衛、そして獅童の愛息陽喜君が長松を勤める。七之助は二度目らしいが、獅童勘九郎は初役。しかしこれが実に立派な出来であった。

 

筋書によると叔父である萬屋錦之助の子分役で出た事が印象に残っていると云う。筆者もその芝居は映像で観たが、惚れ惚れする様な長兵衛だった。その錦之助の血筋を引く獅童、初演にあたり高麗屋に指導を仰いだと云う。高麗屋からある有名な外国映画が参考になるとアドバイスされ、それが役作りのものすごいヒントになったらしい。如何にも歌舞伎のみならず現代劇にも精通した高麗屋らしい教え方だと思う。

 

その初役獅童が実に若々しい立派な長兵衛像を作り上げてくれた。近年長兵衛と云えば亡き播磨屋が思い出される。播磨屋の長兵衛は正に堂々たる大親分で、科白廻しも見事な黙阿弥調で素晴らしいものだった。しかし実在の長兵衛は亡くなった時もまだ三十代。その意味で獅童の、若さと力が科白の端々に溢れる長兵衛は、理に適っているとも云える。歌舞伎なので現実に即する必要は必ずしもないが、今回の獅童長兵衛の行き方は、共感できる。

 

客席から現れた時の颯爽とした姿、花道で金左衛門をやりこめる時の鯔背な所作と科白廻し、初役らしからぬ見事なものだ。ただ二幕目の「長兵衛内の場」は竹本が入る重厚な場で、ここでの「この間から吉原や、相撲・芝居で幾度となく」から始まる長兵衛の心情を吐露する長科白は、まだしっかり肚に落ちておらず今一つコクがない。しかし同じ場のお時や長松との別れの場は、七之助の好演もあり見応えがある。長松が実の息子の陽喜君だったと云う事もあったかもしれないが、「達者でいろよ」の涙混じりの科白には観ているこちらの胸にぐっと迫ってくる真実味に溢れていた。

 

大詰の湯殿での立ち回りは、流石獅童とも云うべきキレのある所作で、ここの迫力はベテラン役者を凌ぐものがある。名門の出乍ら父が役者を廃業した為、他家の御曹司に比べ何かと不遇をかこつ事が多かった獅童だが、この優が積み上げてきたものは本物の手触りがある。それは今回の長兵衛が証明している。最近のインタビューで松嶋屋が「彼には期待している」と語っていたが、年末にはその松嶋屋と顔見世で共演する。今後更に大きな役者となって、幸四郎松緑猿之助などと共に歌舞伎界を支えて行って貰いたいと思う。

 

対する十郎左衛門の勘九郎が、これまた見事な出来。当代十郎左衛門と云えば音羽屋と松嶋屋だろう。この二人の名人役者にかかれば当然の事とは云え、悪の手強さと旗本らしい見事な位取りの芝居は文句の付け様のないものだ。しかし十郎左衛門も長兵衛を殺害した時の年齢はまだ二十代。その意味で今回の勘九郎獅童同様若さ溢れる気持ちの良い(?)悪役ぶり。重厚さはまるでないが、終始旗本の我儘なボンボン気性で押し通しており、筆者的には実に新鮮な十郎左衛門像だった。加えて謡うがごとき黙阿弥調はとても初役のそれではない。獅童とは芸格の釣り合いもバッチリで、二人の火花散る様な芝居が中村座の舞台を覆いつくして、見応えたっぷりだった。

 

脇では先に触れた七之助が、「角力場」の吾妻とは声もきっちり変えて情味溢れる世話女房ぶりで見事な出来。扇雀の権兵衛は流石の貫禄で寧ろ兄貴分に見えてしまうが、上方の役者とは思えない江戸前の科白廻しで、まずは文句のない出来。陽喜君はまだ四歳との事で本当に小さく、長松を演じるにはまだ若干早いのかもしれないが、初々しく愛くるしい所作で見物衆から一番大きな拍手を受けていた。それと面白かったのは、「村山座舞台の場」で公平問答の芝居を桟敷で見物していた十郎左衛門が舞台の長兵衛に声をかけて姿を現す場面。中村座には十郎左衛門が座る桟敷がない。どこから出るのだろうと思っていたら、二階下手の一番後ろに現れて、周りの見物衆を驚かせていた。これなど歌舞伎座では観られない中村座ならではの工夫で面白い見ものだった。

 

時間とお金の関係で二部は観られないが久しぶりの平成中村座、花形の芝居をたっぷり堪能させて貰えて、大満足だった。来月は團十郎襲名のチケット代が高額なので(苦笑)観られないかもしれないが、来年以降もまた浅草での上演に期待したい。

 

 

芸術祭十月大歌舞伎 第二部 鴈治郎・幸四郎の『祇園恋づくし』、松緑・幸四郎の『釣女』

歌舞伎座二部を観劇。筆者が観た日は七分くらいの入りだったろうか。書き込みでは空席が目立つと云う情報もあった。七月大阪で上演した際には大入りだったと云う『祇園恋づくし』。観た感想としては、江戸っ子が京都に乗り込んで孤軍奮闘する内容なので、ちょっと東京では受けづらいかもしれない。しかし芝居はしっかりしており、筋は他愛無いが、楽しめる狂言だった。

 

幕開きはその『祇園恋づくし』。鴈治郎が次郎八とおつぎの二役、幸四郎が留五郎と染香の二役、巳之助の文七、千之助のおその、高麗蔵のおげん、孝太郎のお筆、歌六の太兵衛と云う配役。落語の「祇園会」を元にした狂言。最近落語でもあまり取り上げられる機会が少ない噺。八代目の文治が京都弁・大阪弁・江戸弁を使い分けて見事なものだったと云う伝説が残っている。六代目と二代目延若が初演したものを平成になって山城屋と十八代目勘三郎が復活させた狂言で、この夏大阪松竹での上演はそれ以来の事だったらしい。今年夏の大坂松竹には行けなかったので、再演は非常に嬉しい限りだ。

 

京都で茶道具屋を営む次郎八のもとに、友人の留五郎が江戸から伊勢参りの帰りに立ち寄って逗留している。留五郎は京都の風俗に馴染めず、店の者に色々悪態をついて嫌われている様子。一方次郎八は芸妓の染香に入れあげているが、相手にされていないのを気づいてない。しかし女房のおつぎは亭主が浮気をしていると疑いを持っている。それに手代の忠七とおつぎ妹おそのの恋バナが絡み、その事で仲違いをしてしまった次郎八と留五郎の仲を修復しようと太兵衛が四条の料亭で一席を設ける。お互いお国自慢をして仲直りをしようとしない二人だったが、最後は忠七とおそのの仲も認め、二人の仲も修復されてめでたしめでたしと云う筋。まぁ筋立てとしては他愛もないものだ。

 

これこそ正に役者の芸で見せる狂言鴈治郎幸四郎とも芝居が上手く、女形との二役早替りも鮮やかで流石に見せる。殊に鴈治郎はこてこての上方芝居なので水を得た魚の様に躍動していた。染香の裾を次郎八が捉えてバッタリ倒すドリフの様なギャグもあり、華やかで楽しい狂言になっている。染香を演じる幸四郎も、持ち前の愛嬌がこぼれんばかり。真女形も真っ青の美貌と所作で、これまた流石の芸。留五郎が大詰で聞かせるお国自慢の啖呵も鮮やかで、見事な二役演じ分けだった。この二人の掛け合い芝居は実に見応えがあり、また他の狂言でも見せて貰いたいものだと思う。

 

脇では巳之助が慣れない上方のつっころばし役を好演。孝太郎のお筆も祇園料亭の女将役で上方DNAをしっかり感じさせる芝居で、おかしみもしっかり出しており、これまた結構。高麗蔵も焼きもち焼きの女房姿に色気と可愛らしさがあった。亭主太兵衛の歌六は最後にしか出てこないが、この二人の挿話を事前に出した方が、話としては盛り上がったとは思う。今は時間の関係で厳しいのかもしれないが。イキもぴったりの主演二人を脇が盛り立てて客席も沸いており、肩の凝らない面白い狂言だった。

 

打ち出しは『釣女』。松羽目物の人気狂言だが、歌舞伎座での上演は二十三年ぶりだと云う。これは意外だった。松緑の太郎冠者、幸四郎の醜女、歌昇の大名某、笑也の上臈と云う配役。何と全員が初役らしい。先月に引き続き松緑幸四郎の共演が実現。先月の様な重い芝居だけでなく、こう云う軽い笑劇でも見事なイキを見せてくれた。

 

踊り巧者である松緑の松羽目物は定評のあるところ。軽い芝居だが必要以上にくだける事もなく、折り目正しい芝居。やはり笑劇とは云え松羽目物なのだ、歌舞伎らしい品がなければならない。その点、流石は松緑である。一方幸四郎の醜女は顔はともかく愛嬌があり実に愛らしく、こちらも必要以上にはくだけない。それでいて見物衆をしっかり沸せていた。後半に出てくるだけなので出演時間は短いが、全てを持って行く美味しい役。当人も楽しんで演じているのが客席にも伝わって来た。

 

歌昇の大名某もしっかりした科白廻しと品格で、初役とは思えない見事な出来。笑也は還暦過ぎとはとても思えない美しい上臈で、親子程も歳の違う歌昇と並んでも些かも違和感がないのは凄い事。後見を除けば僅か四人しか出ない短い芝居だが、いい打ち出し狂言だった。ずっしり手応えのある狂言はない二部だったが、たまにはこう云う狂言立ても良いものだ。重いばかりが芝居ではなかろう。

 

今月はこの後名古屋にも遠征予定。大和屋の丸本、今から楽しみでならない。

平成中村座 十月大歌舞伎(写真)

平成中村座を観劇しました。入口です。

 

櫓と絵看板です。

 

場内はこんな感じ。芝居小屋の雰囲気が実にいいですね。

 

ポスターです。

 

久しぶりの平成中村座。満員の盛況でした。感想はまた別項にて綴ります。

 

芸術祭十月大歌舞伎 第三部 高砂屋・魁春・孝太郎の『源氏物語』、芝翫の「加賀鳶」

歌舞伎座第三部を観劇。今月筆者的には最も楽しみにしていた芝翫の道玄がある三部だったが、入りは実にお寒い感じだった。最近入りが戻って来た印象の歌舞伎座だったが、今回は三分くらいの入りだったろうか。これだけ入っていないと、せめて大向うで景気づけしたくもなるが、現状それもNG。来月の團十郎襲名には大向うの解禁をお願いしますよ、松竹さん。まぁ来月・再来月は満員札止めだろうけれど。

 

幕開きは『源氏物語』。一部で上演されている『鬼揃紅葉狩』の作者である萩原雪夫作。二十七年前に先代芝翫高砂屋で上演された新作舞踊劇。今回はそれ以来の上演らしい。筆者は初めて観る狂言高砂屋の光君、孝太郎の夕顔、市蔵の惟光、魁春の六條御息所と云う配役。これが気品溢れる結構な狂言だった。しかし入りを見る限り、渋すぎて今の見物衆の興味をひかないのだろうか。寂しい事だ。

 

確かに起承転結のはっきりした筋がある訳ではないので、ストーリーの面白さを楽しみたい向きには、物足りないのかもしれない。しかし歌舞伎は役者の芸を見る芝居でもある。その意味で光君の高砂屋は正にニンである。その気品、典雅な所作、位取りの見事さ、正に当代無比である。とても古希を遥かに過ぎた年齢(失礼)とは思えない瑞々しさ。こう云う風情はまだまだ花形には出せない。流石は無形文化財と云ったところか。

 

加えて六條御息所を演じる魁春も、この優らしい古格さと、いつにない程の情念の深さを見せて、これまた見事なもの。孝太郎の夕顔はこの優の芸風で多少世話女房めくが、する事に間違いはない。市蔵もニンではない役を神妙に勤めていた。三十分程の舞踊劇だが、ベテランが揃って渋い芸を見せてくれた狂言だった。

 

打ち出しは『盲長屋梅加賀鳶』。黙阿弥が五代目菊五郎の依頼で書き上げた世話狂言の名作だ。これが絶品とも云うべき素晴らしい出来であった。配役は芝翫の道玄、雀右衛門のお兼、松江の長次、男寅のお朝、梅花のおせつ、家橘の喜兵衛、左團次の与兵衛、高砂屋の松蔵と云う配役。芝翫の道玄が初役とは思えない素晴らしさ。一年に何度も観れるものではないくらいの見事な芝居だった。

 

時間の関係だろう、今回は木戸前の勢揃いはカットで本郷お茶の水土手際から。いずれ芝翫で木戸前も観てみたいものだ。当代道玄と云えば何と云っても高麗屋である。ドスの効いた悪役ぶりとその一方で滲み出る愛嬌、そして絶品とも云うべき科白廻しを聞かせてくれる黙阿弥調。これ以上はないと思える素晴らしい道玄である。しかし高麗屋も度々書くが齢八十。長い狂言の主役を一月張るのは中々困難になってくるだろう。しかしこれからの道玄には芝翫がいる、と思わせてくれる見事さだった。

 

芝翫は何と云っても時代物役者である。しかし今回の道玄で、世話物への見事な対応力を見せつけてくれた。その点やはり時代物役者である高麗屋のありかたと似ている。芝翫の道玄はまずニンが合っている。悪役がニンに合うと云うもの失礼かもしれないが、これは誉め言葉である。高麗屋も悪人の上手い優である事を考え合わせると、この二人の芸風はどこかシンクロする部分があるのかもしれない。

 

芝居のクライマックスである「竹町質見世の場」の強請りの芝居で見せる悪党っぷりは堂に入っている。松蔵にお朝の手紙は贋物と見破られた時の居直りぶりから、お茶の水で太次右衛門を殺した際に落とした自らの煙草入れを証拠に出された時の慌てっぷりの科白廻しと所作の見事さ。悪党らしい描線の太さと、それに共存する愛嬌。加えて高砂屋の松蔵との掛け合いで聞かせてくれる見事な黙阿弥調の応酬。これぞ黙阿弥劇である。この二人芝居を観ている間中、筆者は正に酔えるが如く、醒むるが如しの状態であった。

 

最後の「加州候表門の場」のだんまりは、まだ高麗屋の見事なイキと所作には及ばないが、これは回数を重ねれば解消されていくだろう。高砂屋の松蔵は何度も手掛けている当たり役で、当然の事乍ら見事なもの。雀右衛門のお兼は流石にニンではなく、芝居はしっかりしているが芸風的に無理があったのは否めない。与兵衛の左團次は終始プロンプターが付いていてハラハラさせたが、押し出しは立派。亡き三津五郎が生前「大旦那をやれる役者は座っているだけでそう見えなければならない。番頭に見えてはいけない」と云う趣旨の事を語っていたが、左團次の与兵衛は正に大店の旦那の貫禄。流石と云うところを見せて貰えた。

 

これほどの芝居を観ないと云うのは、東京の芝居好きの方には勿体ないと心から思う次第。筆者は松竹の関係者ではないが、時間とお金に余裕のある方には、ぜひ観劇して頂きたい。失望はしないと思います。筆者にとってこの道玄と云う役は今年博多座で観た「関扉」同様、これから芝翫に何度も手掛けて練り上げて行って貰いたい役となった。実に結構な狂言が揃って、筆者的には大満足の歌舞伎座第三部であった。

 

 

 

 

芸術祭十月大歌舞伎(写真)

十月大歌舞伎を観劇。ポスターです。

 

一部絵看板です。

 

同じく二部。

 

こちらは三部。

 

先月は播磨屋の追善で重厚な狂言が並んでいましたが、今月は新作あり、喜劇あり、松羽目あり、黙阿弥ありとバニエティーに富んだ狂言立て。感想は別項にて綴ります。