fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

芸術祭十月大歌舞伎 第一部 猿之助・幸四郎の『鬼揃紅葉狩』、松緑・猿之助の『荒川十太夫』

歌舞伎座第一部を観劇。入りは八分の入りと云った感じで、中々いい入りだった。最近毎月の様に花形の実力者松緑幸四郎猿之助の組み合わせが観れる、実に結構な座組が続いている。平成歌舞伎を支えた名人揃いの大幹部の内、山城屋・播磨屋既に亡く、音羽屋・高麗屋も傘寿。その後に続く存在だった勘三郎三津五郎も早くに亡くなり、この中間世代で主役を張る様な役者は鴈治郎芝翫くらいで非常に層が薄い。しかしその後の花形世代は対照的に素晴らしい優が沢山いる。その世代が競演する座組は観ていて面白く、わくわくさせて貰える。この一部も期待に違わぬ素晴らしい公演となった。

 

幕開きは猿之助四十八撰の内『鬼揃紅葉狩』。松羽目物の『紅葉狩』に猿翁が独自に手を加えて自らの家の芸に選定した狂言。希代のエンターテイナー猿翁らしい派手な振りが付いており、実に魅せる狂言。配役は猿之助の更科の前実は戸隠山の鬼女、幸四郎の維茂、猿弥・青虎の従者、門之助、種之助、男寅、鷹之資、玉太郎、左近の侍女実は鬼女、笑三郎の百秋女、笑也の千秋女、雀右衛門の八百媛と云う配役。笑三郎と笑也の役が今回新演出で新たに加えられた役どころだ。

 

幕が開いて幸四郎の維茂が出て来たところ、美しく気品に溢れ、これぞ余五将軍と云われた平家の若大将とも云うべき見事な佇まい。正にニンであり、当代これ以上の維茂はあるまい。初役との事だが、今まで演じていなかったのが不思議なくらいだ。四年前にこの狂言で主役の鬼女を演じた幸四郎。その時に花道から出て来てかぶりものを取った時に、客席からジワが来たのを覚えている。どちらを演じるにせよ、幸四郎の美貌はこの狂言によく映える。所作もあくまで厳かで美しく、二部の『釣女』で醜女を演じた同じ役者とは思えない。

 

これに対するに猿之助。更科の前の時の美しさと云う点では先の幸四郎には及ばない(失礼)。底割とまで行かない程度に妖しさを漂わせており、舞台に廻って踊るところも維茂に襲い掛かろうとする雰囲気があって思わずニヤリとさせられる。しかしよく出来た振りである。信濃の名所を詠み込んだ詞章に合わせた更科の前の踊りは、独り舞の部分は長唄で始まり、二人舞で常磐津になり、三人舞で竹本になる。これを猿之助はきっちり踊り分け、徐々に妖しさが増して来る。ここの猿之助の技巧には舌を巻くしかない。

 

更科の前と侍女が一旦引っ込み、すっぽんから雀右衛門の八百媛が現れ、笑三郎の百秋女と笑也の千秋女を呼び寄せる。ここから眠ってしまった維茂を起こす為の三人舞となる。寝ている人間を起こす踊りなので、足踏みがふんだんにあり、ユーモラスな舞踊。今回から三人舞となった新演出が実に良く、この女形三人の踊りが何とも云えない素晴らしさ。芸達者な三人なので、イキもぴったりで位取りもしっかりした見事な踊り。今回の新演出は大成功だったと云えるだろう。

 

八百媛から授けられた神の御剣を持って、維茂達は鬼女退治に向かう。ここから後ジテの戸隠山の鬼女となった猿之助や鬼女達との大立ち回りは迫力満点。筋書きで猿之助が「ハードな振り」と云っていたが、正にその通り。猿翁演出らしい派手派手しい振りながら歌舞伎らしい品位は失っていない見事な立ち回り。若手に混じってベテランの門之助や猿弥も大活躍。幕が下りた途端に倒れ込んだかもしれないが、力感たっぷりの所作でまだまだ若いと云うところを見せてくれた。最後は紅葉舞い散る中、猿之助の鬼女が舞台中央に極まって幕。客席もやんやの喝采(声は出していないが)で、大いに盛り上がった狂言だった。

 

打ち出しは『荒川十太夫』。講談界の人間国宝神田松鯉口演の講談を歌舞伎化した新作の初演だ。落語や講談など寄席演芸に精通したいかにも松緑らしい新作だ。真山青果岡本綺堂の作品の様なテイストを持った新作を作りたいと発言していた松緑。正にその通りの新作歌舞伎を作り上げてくれた。こう云う新作は筆者的には大歓迎である。

 

松緑の十太夫、吉之丞の五左衛門、猿弥の和尚長恩、坂東亀蔵の定直、左近の主悦、猿之助の安兵衛と云う配役。新作の初演なので当然の事乍ら全員初役。しかし各優が役を肚に落としこんで見事な芝居を見せてくれている。大きく盛り上がる筋がある訳ではなく、芝居としては地味なのだが、心に残る作品となっていた。

 

赤穂義士堀部安兵衛介錯をした荒川十太夫が、義士の祥月命日に泉岳寺に墓参に来たところを、上士の杉田五左衛門に見咎められる。安兵衛の介錯をした十太夫だが、身分は徒士。ところがその日の十太夫のいで立ちは上士同然の姿で、供も引き連れていた。叱責を受けて自宅謹慎を申し渡される十太夫。五左衛門が泉岳寺の長恩和尚に聞くと、十太夫は身分も物頭役と偽っていた。主人松平定直から呼び出しを受け、その真意を問われると、安兵衛を介錯をした時に家中での役目を問われた十太夫は、咄嗟に物頭役と答えてしまった為、上士のいで立ちで墓参をしていたと告白し、どんなお咎めでも受けると云う。その態度に感じ入った定直は身分詐称の罪により百日の謹慎を申し付けるが、それが解けた後物頭役二百石に取り立てると告げる。それから一年後、十太夫は物頭役の堂々たるいで立ちで義士の墓参を叶えると云うのが大筋である。

 

江戸幕府開幕から百年が過ぎ、各藩の体制も固まって身分制度が揺るぎないものとなっていた元禄時代。その反面武士と云うものが形骸化し、刀もロクに扱えない武士が増えている時代でもあった。芝居ではそこまで云ってはいないが、伊予松平家でも、義士の介錯を出来る程の腕のある侍が少なくなっていたのだろう。そこで徒士乍ら腕の立つ十太夫が抜擢されたのだが、義士の介錯をするに自分の様な身分の軽い者をもってするのは非礼であろうと十太夫は考え、偽りを云った。義士に対し、松平藩の面目を考えたのだ。上士と徒士の身分の差は「忠臣蔵」七段目の寺坂平右衛門が執拗に「東のお供を」と嘆願するのを見ても判る。十太夫は偽りを云う事によって藩の名誉を守った。それが最後の定直の裁定に繋がっている。

 

その辺りの機微を背景にした松緑太夫亀蔵定直とのやり取りは、大きな所作など一切ないが、コクのある見応え十分な場となっている。亀蔵は名君らしい品格と謳うが如き名調子で天晴れ見事な殿様ぶり。松緑徒士乍ら真の武士に劣らぬ赤誠と立ち振る舞いで、流石の芝居。最後墓参に来た十太夫に長恩和尚が声をかけるが、一礼したのみで無言のまま花道を引き下がる。何も科白を発しないで十太夫の心情をしっかりと表現した松緑の芸は本当に素晴らしい。先月の「寺子屋」と云い、松緑の芸は益々深みを増している様に思えた。

 

演出的にも、義士切腹の回想シーンをすっぽんを使った花道で見せ、現実と回想とをシンクロさせる映画の様な手法が斬新。時空を自由に行き来出来る講談に対して、舞台劇が出来る事を考えた挙句の演出だろう。これが素晴らしい効果を上げていて、安兵衛切腹の場に立ち会っている様な臨場感があり、見事な場となっていた。猿之助も出番は少ない乍ら剛直な安兵衛をきっちり演じていたし、脇に吉之丞・猿弥の手練れを配して初演とは思えない長く余韻の残る名舞台だった。今後も上演されて行って欲しいし、また講談の別の挿話から新しい歌舞伎を作って欲しいものだ。落語ネタの歌舞伎が数あるのだから、講談ネタの作品ももっとあってもいいだろう。

 

来月はいよいよ国民的慶事である團十郎襲名。今からわくわく感が止まらない。きっと大いなる盛り上がりを見せてくれる事だろう。