fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

六月大歌舞伎 第二部 白鸚・染五郎の『信康』、梅玉・雀右衛門・松緑・扇雀の『勢獅子』

歌舞伎界に新しいスター役者が誕生した。他でもない、高麗屋の御曹司・染五郎である。今月の歌舞伎座は三部ともいい入りだったが、その中でも筆者が観劇した日に限る話しではあるが、この二部が最もいい入りだった。今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において、木曽義仲の長男義高を演じて満天下にその美少年ぶりをアピールした染五郎が、弱冠十七歳にして歌舞伎座の主役に抜擢された。

 

幕開きはその『信康』。染五郎の信康、鴈治郎の康忠、錦之助の親吉、魁春の築山殿、高麗蔵の重次、莟玉の徳姫、坂東亀蔵の忠佐、錦吾の忠次、桂三の山城守、友右衛門の忠世、白鸚の家康と云う配役。上演は今回で三度目であり、前回は二十六年前に海老蔵がまだ新之助時代に十八歳で勤めたと云うから、松竹が海老蔵に続くスターとして染五郎に大きな期待をかけている事が察せられる。写真で見る限り、祖父白鸚よりも身長が高くなっており、ご本人曰く「今も地味に伸びている」との事。舞台役者として必ずしも利点ではないが顔も小さく、手足も長い。スタイルは今時で、美貌は日本的な美、今業平と云った風情がある。近い将来に光源氏も観てみたいものだ。

 

物語は信長の示唆により若くして自害させられた家康の長男、岡崎三郎信康の死に至る数ヶ月を描いたものである。上演回数は少ない乍らよく書けている狂言で、史実考証を重ねたのだろう、史実にかなり近い部分が多い物語となっている。若い乍らその勇猛ぶりを岳父信長に恐れられ、妻徳姫からの姑築山御前との不仲を訴える書状を契機として、家康の家老酒井忠次を通じて自害を迫られる。家康は愛する長男を失いたくはなかったが、泣いて馬謖を斬る形で信康に自害を命じ、その介錯をすると云う筋立てだ。

 

信康の死の本当の原因は今でも謎とされており、父家康との不仲説もある。しかしそれを云いだしては今回の物語は成立しない(笑)。如何にも徳川家の御曹司らしい涼やかで凛々しい若大将像を、染五郎が実に見事に構築している。声もよく通り、凛々しく若々しいその所作は見ているだけで気持ちが良い。家康に武田家内通の疑いを告げられ、「濡れ衣でございます」と空気を切り裂く様に叫ぶ。大きな動揺を見せず、あくまで凛とした佇まいに好感が持てる。

 

自分が押し込められる原因が妻徳姫の書状にあると知り、若御台を呼び出す。「御台」と呼びかけるその声の優しみは、この妻を愛している事を自然に表出しており、この年で声のトーンをきっちり変えて心情を表現出来る技術があるのは見事なものだ。嫁と姑の板挟みになる芝居はまだ染五郎自身の実感としては理解出来ないとは思うが、観ているこちらが思わず微苦笑してしまう面白い場になっている。ここは原作の良さも大いに貢献しているだろう。

 

結局居城の岡崎城を出る事となり、家康の命で居場所は転々とするが、最終的には二俣城に移され、自害する。その二俣城外で月見に事寄せ大久保忠世大久保忠佐は信康を逃がそうとする。信康の身替りになると云う鵜殿又九郎を押しとどめ、父に伝えよと「信長と一戦交える気概なくして、何の三河武士の面目ぞ。我が親乍らほとほと愛想がつき申した。信康より親子の縁、お切り申す」の裂ぱくの気迫がこもった科白廻しも素晴らしい。自害の場となり、自らの腹に刀を突きたてた時、家康がやって来る。「情けを知りて情けを超ゆる、真の大将の器になりおった」と云う涙混じりの言葉を聞き、苦しい息の下で「父上に褒められて、嬉しい・・・」と切れ切れに声を絞り出す場面では、あちこちからすすり泣きが聞こえた。

 

そして今回は高麗屋の御曹司を盛り立てるべく、周囲が実に手厚い。鴈治郎の康忠、錦之助の親吉、いずれも信康にあくまで忠義立てするいかにも三河武士らしい古格なところをきっちりと見せてくれている。魁春の築山殿も、手強さの中に息子への愛情を滲ませる。莟玉の徳姫は可憐で美しく、姑との口論の場では滑稽味もあって、客席からも笑いが漏れていた。そして何と云っても白鸚の家康が素晴らしい。信長と我が子への愛の板挟みに苦悩する家康を見事に描き切っている。我が子からの迷いを断ち切るかの様な意外な叱責を聞き、駆けつけた自害の場で「父上、介錯を・・・」と促され「信康、覚悟」と刀を振り上げたところで幕となる。実の孫が相手だったと云う事もあるかもしれないが、大きさと情深さを兼ね備えた実に見事な家康だった。

 

総じて染五郎の美しく、若々しい芝居が素晴らしく、松竹の抜擢に見事に応えたと云っていいだろう。先に挙げた光源氏以外にも、今度は「若き日の信長」なども観てみたいものだ。

 

打ち出しは『勢獅子』。梅玉松緑の鳶頭、雀右衛門扇雀の芸者、坂東亀蔵・種之助・鷹之資・左近の鳶の者、莟玉の手古舞と云う配役。前の狂言が実に辛いエンディングだったので、一転陽気な山王祭を描いた常磐津舞踊は実に後味が良い。途中休演もあり梅玉の体調が心配されたが、杞憂だった様だ。最近梅玉は舞踊劇での起用が多い印象。それらの舞踊では風情で魅せる踊りが多かった梅玉。しかし今回は花形の中でも舞踊の名手松緑が相手だったのに刺激を受けたのか、きっちり、そして粋で若々しい踊りを見せてくれている。「俺と松緑を比べてみろ」と云わんばかりの気力が横溢した見事な所作。対する松緑もきりっと引き締まった中に、和か味と軽みがあり、こちらもまた素晴らしい出来。この二人の踊り比べが見事だった。

 

雀右衛門扇雀はいかにも江戸前の芸者らしい艶っぽさと仇なところを見せてくれており、観ていて浮き浮きとした気分になる。鷹之資と左近の獅子舞も若いので身体も良く動き、愛嬌溢れる動きで客席を沸かせていた。やはりこう云う舞踊で〆る狂言立てはいいものだと、改めて思わされた。

 

加えて今回画期的だったのは、松緑が一部と二部、鴈治郎が二部と三部に出演した事だ。コロナ以降、部の掛け持ちを避けてきた歌舞伎座だが、これでまた一歩通常の上演形態に近づいて来たと云えるだろう。掛け持ちした二人の優も無事楽日迄勤めあげてくれており、実に喜ばしい事だった。

六月大歌舞伎 第一部 松緑・巳之助・壱太郎の「車引」、猿之助の『猪八戒』

歌舞伎座の感想の前に、またもや悲しいニュースに触れなければならない。澤村田之助 の訃報である。先日亡くなった竹三郎と同い年の享年八十九歳だった。まさかこのプログの書き出しが二回連続で訃報になるとは・・・残念でならない。人間国宝でもあり、横綱審議委員も務めるなど、好角家としても知られた名人役者だった。また名著『澤村田之助むかし語り~回想の昭和歌舞伎~』を遺してくれており、戦前の歌舞伎界についても、自らが見て来た事を詳しく語ってくれている。六代目や七代目幸四郎の事。また同年配だった修業時代の亡き大川橋蔵萬屋錦之助の事なども語り遺している。更に巻末にはかなりのスペースを割いて『神霊矢口渡』紀伊國屋の型について詳細に語っており、後世への貴重な財産だと思う。心からのご冥福をお祈りしたい。

 

閑話休題

 

歌舞伎座一部を観劇。松緑猿之助と人気花形が揃って、客席も賑わっていた。幕開きは「車引」。松緑の松王丸、巳之助の梅王丸、壱太郎の桜丸、男寅の杉王丸、猿之助の時平と云う配役。先々月は松緑猿之助愛之助と揃い踏み、先月は松緑愛之助、そして今月は松緑猿之助の組み合わせ。松緑が三ヶ月連続で歌舞伎座の舞台を踏み、キャリア・実力共互角に拮抗する猿之助愛之助と共演。実に見応えたっぷりだ。

 

これぞ歌舞伎と云う様式美に溢れる「車引」。三十分程の狂言なのだが、役者が揃うと実に見応えのある芝居となる。今回は梅王丸に巳之助、桜丸に壱太郎と云う若手花形を起用。抜擢に応えて二人とも立派な出来。巳之助は細身乍ら力感に不足はなく、科白廻しもしっかりしていて形も良く、何より我流に崩さずきっちりと演じているのに好感が持てる。壱太郎は上方型で隈取を取らず、襦袢も通常の赤地ではなくトキ色。祖父山城屋に教わったと云う。今回が二度目の様だが、こちらもきっちりと演じて清々しい桜丸。加えてこの優は若い乍らも義太夫味がある。東京在住の壱太郎だが、やはり上方のDNAを濃厚に受け継いでいるのだろう。まず文句のない出来であった。

 

松緑の松王丸は、踊りの巧者らしい形の良さが素晴らしい。科白廻しはこの優独特の癖が気になる部分もあるが、この形の良さと所作の見事さで石投げの見得や元禄見得が実に見事である。若手花形の二人を両脇に従え極まったところなどは大きさも充分で、立派な松王丸だった。猿之助初役の時平も、比較的小柄な猿之助が実に大きく見えるのは、芸の力だろう。ニンにない役乍ら、流石と云うところを見せてくれていた。各役揃った素晴らしい「車引」だった。

 

打ち出しは『猪八戒』。澤瀉十種の内らしいのだが、筆者は初めて観る狂言。それはそうだろう、何せ歌舞伎座にかかるのは九十五年ぶりだと云うのだから。猿之助の一秤金実は猪八戒、右近の孫悟空、青虎の沙悟浄、寿猿の張寿函、笑三郎の緑少娥、笑也紅少娥、猿弥の霊感大王実は通天河の妖魔と云う配役。勿論全員初役だろう。そして竹本に葵太夫が出ている。近年は播磨屋専属の様な印象だったが、最近は当然の事乍ら色々な役者に付き合っている。しかしこう云う新作に近い狂言を語るのはかなり珍しいと云えるだろう。そしてこちらの狂言も、実に楽しめる芝居となっていた。

 

筋としては『西遊記』に材を取り、霊感大王に人身御供を差し出さねばならない村人を救う為、猪八戒童女になりすまして身替りになる。やがて大王が現れ酒を酌み交わしている間に、猪八戒の正体が露見。大王は妖魔の正体を顕し、孫悟空沙悟浄、加えて女怪の紅少娥・緑少娥も加わり大立ち回りの末、猪八戒達は見事大王を討ち取ると云う物語である。

 

幕開きで、まず寿猿が矍鑠として元気なところを見せてくれているのが嬉しい。同世代の竹三郎・田之助が数日の間に立て続けに亡くなり、さぞ落胆しているだろうと推察するが、亡き戦友二人の分まで一日も長く現役の役者として頑張って行って貰いたいと思う。やがて童女になりすました猪八戒が現れる。ここから酒を呑んで酔いに任せて自らの身の上を語る所作事がまずもって素晴らしい。全段の中でもここが一番の見所と云ってもいいくらいだ。

 

猿之助は舞踊の名手であるが、きっちり踊る同世代の幸四郎松緑と違い、我流に崩しながら踊るところに独特の味わいのある優。しかも今回は酔っていると云う設定なので、その崩れ具合が実に自然で板に付いている。ふらつき乍らもしっかりとイトに乗ったその所作は、今までの猿之助の踊りの中でも最も見応えのあるものの一つだったと云っていいと思う。やがて猿弥の大王が現れ酒盛りとなるのだが、ここの二人の所作事は多少冗長で少しダレる。ここはもう少し刈り込んだ方が良かったろう。

 

猪八戒と大王の正体が露見し、最後は大立ち回りとなる。彌紋や喜楽を始めとした名題下役者が見事なトンボを切りまくり、実に爽快な立ち回り。やはり猿之助は客を喜ばすツボを心得ている役者だ。笑也・笑三郎も華やかな彩を加えて、大いに盛り上がる。最後は大王を退治した猪八戒孫悟空沙悟浄が舞台上に極まって幕となった。見物衆も拍手喝采で皆さん大満足だったのではないだろうか。聞いた事もない狂言だったので観劇前はどんなものかと思っていたのだがそこは流石猿之助澤瀉屋家の芸を見事現代に復活させたと云っていいだろう。

 

残るは第二部。染高麗の奮闘ぶりは、また別項にて。

六月大歌舞伎 第三部 大和屋と新派合同による『ふるあめりかに袖はぬらさじ』

歌舞伎座の感想の前に、昨日突然痛恨のニュースが飛び込んで来た。坂東竹三郎の訃報である。八十九歳だったと云う。本当に残念でならない。去年の秀太郎に続き、いるだけで上方の匂いを出せる貴重な役者を喪ってしまった。最後の舞台が昨年十二月の南座『雁のたより』の仲居お君だったと云うから、筆者はその舞台を観る事が出来たのが、今となってはせめてもの事であったと自らを慰めるしかない。今時の言葉で云えば正に名バイプレーヤーであった。最近の舞台では大阪松竹の幸四郎襲名公演で演じた『女殺油地獄』のおさわが印象深い。唯一無二の名脇役だった。今は心からのご冥福を、お祈りするのみである。

 

閑話休題

 

歌舞伎座三部を観劇。流石は大和屋、平日にも関わらずいい入り。松嶋屋の休演は残念だったが、帯状疱疹で鬘がかぶれないのが休演の理由との事。その他体調には別段異常なしと云う事なので一安心。体調を万全にして当初の予定だった「源氏店」の上演はぜひ実現させて貰いたいと思う。その代わりに演目自体が変更になり、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』となった。

 

三部はこの『ふるあめりかに袖はぬらさじ』一狂言のみ。大和屋のお園、福之助の藤吉、岩亀楼主人に鴈治郎、そして新派からの大量参入で河合雪之丞の亀遊、喜多村緑郎の岡田、田口守の小山、伊藤みどりのマリアと云う配役。有吉佐和子の原作で、亡き杉村春子が何度も演じて当たり役とし、それを大和屋が引き継いだ狂言。もはや上演回数は本家杉村春子を凌ぐ事となった。しかし歌舞伎座では十五年ぶりの上演の様だ。大和屋も云っていたが非常に良く書けた狂言で、メティアに踊らされる人間の姿を上手く諷刺しており、それを直接揶揄せず芝居としてしっかり構成している辺り、有吉佐和子の劇作家としての水際立った力量を感じさせる。

 

あらすじは以下の通り。唐人口と云う幕末の黒船来航以来その数が増えた異人相手の娼婦宿岩亀楼の女郎、亀遊が自殺した。異人イリウスへの身請けが決まり、恋人藤吉と結ばれる事のない運命を儚んでの自殺であった。しかしこれが世間に、異人の相手をする事を拒んでの覚悟の自害と喧伝され、亀遊は一躍大和撫子の鏡と称される様になる。攘夷志士が岩亀楼に乗り込み、その節の模様を語れと大和屋のお園に迫る。苦し紛れに嘘八百を並べ立て、異人に身請けされる事をあくまで拒んだ亀遊の物語をでっちあげてしまう。その後岩亀楼も商魂逞しくこの話しに尾ひれをつけて宣伝し、店は攘夷志士で賑わう。しかし攘夷論の先覚者で獄死した大橋訥庵の弟子岡田や小山のお座敷に呼ばれたお園は、調子に乗り過ぎた挙句に話しの矛盾をつかれ、ついに亀遊の物語は嘘だと白状する。岡田らが去った後、一人残されたお園は、「あたしの話しはみんな本当だよ」と、そぼ降る雨を見ながらつぶやくところで幕となる。

 

作がいいので腕のある役者がやれば楽しめる狂言ではある。しかしやはり大和屋が演じると格別だ。近年の大和屋は松嶋屋と組む以外は舞踊が多かった印象だが、今回は違う。膨大な科白量を立て板に水のごとくしゃべりまくり、一切よどむ事がない。普段あまり出さない愛嬌のあるところも見せ、しかし最後はしっとりと締める。幕切れの「よくふる雨だねぇ」の哀切、花の吉原から当時の田舎だった横浜迄流れて来ながら、この苦界から逃れようもない自分の運命に対する諦念。そんな感情をこの一言に滲ませて見せるその芸は、感嘆の他はない。色町に身を沈める女の切なさをこれほど表現出来る役者を、筆者は他に知らない。これに比肩するとしたら、全くジャンルは違うが落語の昭和の名人古今亭志ん生の口演する廓噺三枚起請」のサゲで遊女喜瀬川が、捨て鉢に、そして哀しげに「朝寝がしいたよぉ」と云う件で感じさせた哀切くらいなものではないか。

 

そしてその形の美しさは、古希を超えても健在。新派の女優連を従えて三味線を弾く、その姿だけでも銭が取れる。加えて、乗り込んで来た攘夷志士から逃れる為に亀遊の嘘物語を速射砲の様に語り、それに感心した志士達が引き上げた後、鴈治郎の主人に向かって「こんなところでよござんしたか」と息も絶え絶えに云う間も絶妙。それを受けての鴈治郎「上手いもんだねぇ」のイキもまた抜群。今回はこの鴈治郎も実にいい。

 

新派から参戦した雪之丞の亀遊はその美しさと、うすばかげろうの様な儚さを感じさせる芝居が実に見事。福之助も亀遊の恋人藤吉を好演。そして異彩を放っていたのがマリアの伊藤みどり。出番は短いが唐人口遊女を存在感たっぷりに演じて、改めて新派役者の実力を示してくれた。喜多村緑郎と田口守は特にしどころのある役どころではなかったが、する事に間違いはない。新派との合同公演を歌舞伎座で、と云う意欲的な取り組みは大成功だったと云っていいだろう。

 

何が嘘で、何が真実なのか。そして何の警戒心もなく情報に踊らされる人間の滑稽さ。そしてその情報を自分に都合の良い様に解釈する愚かさ。本当に令和の現代でこそ通じる主題で、大和屋が筋書で「日本が誇る屈指の名作」と云っていたのも宜なるかなと思わせる、実に見事な作品、そして芝居だった。

 

他の一部・二部は、観劇後また別項にて。

 

 

 

 

六月大歌舞伎(写真)

六月大歌舞伎を観劇しました。ポスターです。

 

一部絵看板です。

 

同じく二部・三部。

 

一部のポスターです。

 

二部のポスター。染五郎、凛々しいです。

 

博多座の興奮が冷めやらぬ中、歌舞伎座に行って来ました。感想はまた改めて綴ります。

 

六月博多座大歌舞伎 昼の部 彦三郎・萬太郎の『橋弁慶』、菊之助の『鷺娘』、音羽屋の「すし屋」

続けて博多座昼の部を観劇。入りは大体夜の部と同じ位だったろうか。夜の部は大作二演目だったが、こちらは三演目。本当に今年の博多座はいい演目が揃っている。これだけの狂言と役者が並んでいると、東京からでも行きたくなると云うものだ。毎月こんな狂言をかけてくれるなら、博多に住みたくなる(笑)。

 

幕開きは『橋弁慶』。彦三郎の弁慶、萬太郎の牛若丸と云う配役。松羽目物だが従来と違い五条橋に柳、松林の大道具で、かなり印象が変わって見える。いい工夫で、筋書によると彦三郎の提案なのかもしれない。京都の夜の雰囲気を味わって貰いたかったと云う。若い乍らも踊りが達者な二人、イキも合っていい舞踊を見せてくれている。彦三郎の弁慶は豪快さよりもキリっと引き締まったすっきりした作り。萬太郎は若いので身体がよく動き軽快で、後に伝説の八艘飛びを見せたと云われる牛若丸らしい所作で、実に結構な二人舞となっていた。

 

中幕は『鷺娘』。云わずと知れた大和屋十八番中の十八番。正に国宝級の名品とはこの大和屋の舞踊を指す。踊り納めてしまったのが残念でならない。その『鷺娘』に菊之助が挑んだ。「宗五郎」同様、本興行では初めてだと云う。今回の博多行きを決めたのは、演目に「関扉」とこの『鷺娘』があった事が大きい。大いに期待していたが、それを裏切らない素晴らしい出来だった。

 

大和屋の鷺の精は、この世のものとは思われない美しさと神秘性を備えており、言語など必要としない完結性がある。ポーランドの巨匠映画監督アンジェイ・ワイダを始めとする世界の文化人を魅了したのもその点が預かって大きいと思われる。その意味で日本的な美しさの枠を飛び越えたものがある。本当に人間が演じているとは思えない神秘的な美である。その点では今回の菊之助は紛れもなく人間の手触りを感じさせるものだ。

 

踊りの内容としては鷺の精が人間に姿を変えていると云う設定なので、大和屋の行き方はその前提に沿うものだ。しかしこの精は人間に恋をすると云う、人間の感情を持っている。菊之助はそこに軸足を置き踊っている。大和屋の様な神の領域には到達出来ないのでそうなったとも云えるかもしれないが。しかしこれは菊之助としての立派な鷺娘となっている。踊りの腕に間違いはなく、満場息をのむ様な美しさもある。華やかな傘尽くしから舞台が暗転しての地獄責めになり、苦し気に翼を羽ばたかせて遂に息絶える終幕に至る迄、静かなクレッシェンドとデクレッシェンドを繰り返し、息もつかせない。本興行では初役とも思えない見事な『鷺娘』であった。やはり現状では宗五郎より鷺娘の方が菊之助のニンに適っていると云えるだろう。

 

打ち出しは『義経千本桜』の内から「すし屋」。音羽屋の権太、時蔵の弥助実は維盛、梅枝のお里、米吉の内侍、橘太郎のおくら、権十郎の弥左衛門、芝翫の景時と云う配役。歌舞伎三大名作の一つで、丸本の傑作であるのは云うまでもないだろう。『義経千本桜』は時代物の大作だが、この「すし屋」は世話場。所謂「時代世話」だ。音羽屋は今の菊之助と同じ年齢の頃に、先々代の松緑に教わったと云う。それ以来練り上げて、世話の名人当代菊五郎として今日の見事な権太を作り上げた。

 

音羽屋は同じ年代の高麗屋と違い、幾つになっても初役に挑むと云うタイプの役者ではない。自らのニンに適った役、家の芸などを繰り返し演じ、芸を深めてきた役者である。これはタイプの違いであり、優劣ではない。この音羽屋の様な型の役者は、芸域は広くはない。しかし磨き上げたその世話の芸は当代無類のものだ。今年に限ってみても『芝浜革財布』で見せた芸は、名人としか云い様のないものだった。今回の権太を観ていて、つくづく世話はイキと味の世界であると思った。

 

弥助とお里が話しているところに音羽屋の権太が現れる。今回の「すし屋」は江戸の型なので、所作が如何にも江戸前で鯔背。しかしその目つきには悪の性根が垣間見える。何でもない様なところだが、世話はこう云う細かい芸の積み重ねなのだ。母親おくらとのやり取りも親に甘える子供の性根と愛嬌で、何度も観た狂言なのだが実に面白く見せてくれる。相方の橘太郎は筋書で「まさか菊五郎旦那のおっかさんを勤めさせて頂くとは思ってもいませんでした」と述べているが、実年齢が年下である事を感じさせない見事な芸だ。

 

梶原が現れ、詮議になる。ここは梶原の登場で、世話場の中でも少し時代がかる。音羽屋も「一番緊張する場」と云っているが、本当の性根を内に蔵しつつ、若葉の内侍と六代君(実は女房小せんと倅善太郎)を梶原に指しだす。ここもあくまで銭が欲しいと云ういがみぶりがしっかりしているので、後の「モドリ」が実に効果的になる。首と人質を引き連れて梶原一行が去る(実は全てを悟っていた梶原の芝居だったことが、後に明らかになるのだが)。倅の不実ぶりに立腹した弥左衛門が権太を刺す。ここでクライマックスの権太の述懐「モドリ」となる。

 

ここがまた実に見事。同じ今わの際の科白でも侍の「忠臣蔵」勘平と違い、床に手をつき身体を少し崩している。ここら辺りも芸が細かい。そして弥左衛門の科白を受けて、刺され乍らの「父っつあん、父っつあん、父っつあん」の少し間をつんだ絶妙なイキ。この呼吸を是非菊之助にも学んで貰いたい。これが世話の科白廻しなのだ。家族に囲まれ、命を救われた維盛と内侍が合掌する中、息を引き取る権太。流石三大名作、作も良く出来ている。幕が下りても暫く拍手が鳴りやまなかった。

 

脇では弥助と維盛をメリハリ良く演じて見事な時蔵義太夫味溢れる梶原の芝翫、世話の味が効いている弥左衛門の権十郎と各役手揃いで、博多で素晴らしい江戸前の世話芸を見せて貰えた。地元の皆さんも満足だったのではないか。歌舞伎座でも毎月とは云わないが、たまには二部制で手応えのある大作狂言が観たいものだと、改めて思わされた六月博多座公演であった。

 

 

 

六月博多座大歌舞伎 夜の部 菊之助の「魚屋宗五郎」、芝翫・梅枝・萬太郎・時蔵の「関扉」

去年に続いて博多座の歌舞伎公演を観劇。去年はコロナ真っ盛りの中で、不謹慎とは思ったが遠征した。店は殆ど夜は閉まっており、ホテルの部屋で食事と云う有様だった。それに比べると今はかなり状況が良くなっている事が実感出来る。このまま何とかコロナ収束に向かって欲しいものだ。

 

去年筆者が観劇したのは幸四郎一座の花形歌舞伎で、実に華やかな素晴らしい公演だった。今年の博多座は劇団に芝翫が加わった重厚な座組。しかも昼夜二部制(これは去年も同様だったが)なので、歌舞伎座より長めの大きな狂言が揃っており、見応えたっぷり。歌舞伎座と違い最前列以外は全席販売しているようだったが、入りは六分といったところだったろうか。博多の芝居好きな皆さん、この公演を観ない手はありませんよ。

 

幕開きは『新皿屋舗月雨暈』、所謂「魚屋宗五郎」だ。配役は菊之助の宗五郎、梅枝のおはま、萬太郎の三吉、米吉のおなぎ、橘太郎の太兵衛、彦三郎の主計之助、権十郎の十左衛門。五代目菊五郎の注文で黙阿弥が書いた世話物の名作。六代目から先々代松緑を経て当代菊五郎に受け継がれた家の芸で、菊之助が本興行で演じるのは初めてだと云う。お父っつぁんが演じる時は團蔵左團次時蔵・萬次郎といった劇団のベテランが脇を固めるが、今回は若旦那が宗五郎なので若返った座組だ。令和の劇団はこのメンバーに坂東亀蔵辺りが加わった役者達で支えて行く事になるのだろう。

 

この狂言菊五郎の十八番中の十八番であり、それは素晴らしいものだ。加えて筆者的には四年前にこの同じ博多座で観た襲名披露興行における高麗屋の宗五郎が本当に凄い芝居だった。この狂言の眼目の一つは、宗五郎が妹お蔦の死が誤解による手討ちだと知り、怒りに任せて酒を呑み段々酔って行く様を表現するところにある。高麗屋はここの技巧も素晴らしいものだったが、酔う前の、周囲がお蔦の死に憤っているのを押さえて、磯部の殿様には恩義がある、苦情を持ち込める相手ではないと辛抱しているところが抜群の素晴らしさだった。その際にこのブログでも触れたが、ここの我慢が後段の酔って感情を爆発させる場に効いて来る。実に芝居が立体的で見事なものだったのを今でも鮮明に覚えている。

 

この大名題二人の宗五郎に比べると、今回の菊之助は当然とは云え見劣りがするのはやむを得ないのだろう。科白廻しの上手さ、鯔背な所作、段々と酔いが回って行くグラデーションの具合、技術的には流石菊之助、見事なものである。しかしまだ役が肚に入っていない。先に記した高麗屋の様な辛抱が出せていない。そして元々愛嬌の薄い芸風なので、お父っつあんの様な酒樽の取り合い場面における芝居的な可笑し味も出ない。まぁ当代の名人二人と比較されてはご当人も荷が重いだろう。しかしこの狂言は少なくとも父菊五郎との比較は避けられない。今後も重い十字架を背負う様な途かもしれないが、研鑽を積んで行って貰いたい。

 

加えて周りの役者も一回り若返った座組なので、いつもの劇団の様な打てば響く世話の味、チームワークが出せていない。特に萬太郎の三吉は少々やかまし過ぎる。梅枝も世話女房の味が薄い。橘太郎が孤軍奮闘しているが、それで芝居の水っぽさが救われている訳ではない。中では「磯部邸の場」における彦三郎と権十郎は位取りも確かで、武士らしい情もあり、目に残る出来。総じて薄口の「魚屋宗五郎」となっていたのは残念だった。やはり世話物は難しい。しかし音羽屋は世話物の家。菊之助を始めとした劇団花形一層の奮励努力に期待したい。

 

打ち出しは『積恋雪関扉』。これが遥々博多迄遠征した甲斐のある素晴らしい出来だった。芝翫の関兵衛実は大伴黒主、梅枝の小町姫、萬太郎の宗貞、時蔵の墨染実は小町桜の精と云う配役。小町と墨染は一人の役者で勤めるのが普通だが、今回は時蔵・梅枝の親子で分け合っている。梅枝は二度目らしいが、何と時蔵は初役だと云う。今までの劇団には縁の薄い狂言だったと云う事だろう。加えて芝翫も初役らしく、筋書によると「役を伺った時、嬉しくて飛び上がった」と云う。しかしこれが本当に凄い舞踊劇だった。

 

「関扉」は天明歌舞伎の代表作。上演時間が一時間半にも及ぶ大作舞踊だ。これに匹敵する大作舞踊は他に「女道成寺」と「鏡獅子」くらいのものだろうか。度々引用するが、亡き三津五郎は「金閣寺」とこの「関扉」は芝居好きにはぜひ見て貰いたい二大狂言だと云っていた。その二作を二ヶ月続けて観れたのだからたまらない。関兵衛について三津五郎は「黒主の大きさと関守の卑俗さの相反する要素がある」と云っていたが、正にその通り。そしてこの二つの面を初役の芝翫が見事に表現している。

 

幕が開くと芝翫の関兵衛が居眠っている。その姿が太々しさを感じさせるが、大きさはない。要するにまだただの関守なのだ。梅枝の小町が花道を出て来る。ここがまた実に見応えがある。宗貞を恋う気持ちがしっとりと表現されており、イトに乗った所作の美しさは、この優の年齢に似ぬ巧者ぶりの見事な発露だ。舞台に廻って宗貞と三人揃っての〽恋じゃあるものの手踊りがまた素晴らしいイキも合い、技術的にも申し分のないものだ。「魚屋宗五郎」では注文をつけた梅枝・萬太郎兄弟だが、ほぼ親子ほど歳の離れた芝翫を相手に格の違いを感じさせなかったのは大手柄。見事な踊りだった。

 

この関兵衛と黒主では役柄の性格が全く異なるものだ。芝翫の本質は時代物役者なので黒主が良いのは想像出来たが、今回は関兵衛も見事な出来。今まで世話のイメージはあまりなかった芝翫だが、関兵衛の世話の味は格別なものだった。ことに時蔵の墨染の艶やかなくどきから廓の指南になり、ここの仕方噺の見事な事と云ったらない。相方が世話の名人時蔵だった事も大きいとは思うが、痴話喧嘩の思わずニヤリとさせられる掛け合いの上手さはなぞは、流石年季の入った実力者二人だけの事はあると感心するしかない。これは今後芝翫の世話物にも大注目だ。

 

大詰のぶっかえりからの見顕しで、大鉞をひっかついで極まったところの大きさ、古怪さ、これぞ大歌舞伎である。芝翫の柄の大きさが存分に生かされており、この世のものとは思われない巨大な怪物が舞台上に屹立する。播磨屋亡き今、当節これ程の大きさが出せる役者は芝翫以外いないだろう。唯一人、高麗屋を除いては。しかしその高麗屋も年齢を考えるとこの大役を今後演じるとは考えづらい。初役ながら、当代最高の黒主はこの中村芝翫であると、断言しても差支えないのではないか。

 

最後の「関扉」が凄すぎて「魚屋宗五郎」の印象が飛んでしまった感があるが、その「関扉」だけでも博多に来た甲斐があると思える素晴らしさだった。昼の部については、また別項にて改めて綴りたい。

六月博多座大歌舞伎(写真)

 

博多座に劇団の公演を観に行きました。ポスターです。

 

音羽屋自ら映像で公演のPR。

 

博多座1Fのレストラン名物「博多座カレー」。ここに来た時は必ず食べます。

 

歌舞伎座と違い、昼夜二部制。名狂言が並んだ充実の公演を堪能して来ました。感想はまた別項にて。