fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

十二月大歌舞伎 松緑・七之助の「吉野山」、大和屋・松緑・七之助の『信濃路紅葉鬼揃』

歌舞伎座三部を観劇。流石大和屋、入場規制下ではあるが、大入りだった。勿論出ているのは大和屋だけでなく、松緑七之助も出てはいる。しかしこの入りはやはり大和屋だろう。古希を過ぎた今も、大和屋の衰えぬ集客力を見せつけた感じだ。そしてまたその芝居も素晴らしいものだった。

 

今年は去年より遥かに多くの芝居が観れた。歌舞伎座が三部制なので、長いこってりした狂言は余りなかったが、それでも心に残る芝居が幾つかあった。そして年も押し詰まったこの時期に、とんでもない狂言が観れた。そう、大和屋による『信濃路紅葉鬼揃』である。そしてこれが尋常なものではなかった。

 

配役は大和屋の上臈後に鬼女、成駒屋三兄弟に、左近、吉太朗の侍女後に鬼女、七之助の惟茂、松緑の山神。歌舞伎に数ある能の「紅葉狩」物の一つで、大和屋が作り上げた新作舞踊劇。平成十九年に初演され、今回が十三年ぶり三度目の上演だと云う。前回筆者は観劇していないので、今回初めて観た。そして文字通り圧倒された。

 

所謂「能取物」なので、当然の事乍ら能がかりにはなる。しかしその濃度と云うか、能なので能度と云う云い方が正しいのかもしれないが、その度合いが他の「能取物」に比べて圧倒的に高いのだ。鬼女になる前の前半はほぼ完全に能の様式である。歌舞伎以上に様式性の高い能を歌舞伎の範疇で完全に再現しており、能の専門家が観たら何と云うかは知らないが、歌舞伎愛好者から見るとよくぞここまでと思わせる圧倒的な様式美の世界である。

 

その中心にいるのは勿論大和屋である。大和屋自身の所作、踊りはいつもの事ながら全くもって素晴らしい。今回は能面を意識しているので、表情はほぼ動かない。それは大和屋だけでなく、侍女の若手花形連中も同様である。まばたき一つしない。そして繰り広げられる大和屋の舞踊は、今までの長い芸歴の中で培われてきた確かな技術に裏打ちされた見事なものだ。歌舞伎舞踊の様に大きくは動かないが、その静かな所作に妖気すら漂う。僅かに身体を寄せるだけで、思わず七之助の惟茂を後ずさりさせてしまう場など、その動きの背後から醸し出されるオーラの凄みは、他の役者、殊に女形には出せないものだろう。

 

そして今回改めて瞠目させられたのは、舞台監督者としての大和屋の力量である。今までの大和屋プロデュース作品は、必ずしも筆者を満足させるものばかりではなかった。以前このブログでも触れたが、鼓動と共演した『幽玄』などは、共演者の若手花形が完全に鼓動の背後に隠されてしまっており、歌舞伎座で演じる必然性を感じさせないものであった。「白雪姫」を歌舞伎化した『本朝白雪姫譚話』も何故これをわざわざ歌舞伎座で?と首をかしげざるを得ない出来だった。しかし今回は違う。

 

大和屋の指揮のもと、正に一糸乱れず動く若手花形。大和屋が静かに扇を下ろすと、すすっと進み出る橋之助・福之助。大和屋が座ると同時に、間髪を入れず立ち上がって惟茂に向かって行く歌之助・左近・吉太郎。その全てが大和屋により完全にコントロールされ、しかし紛れもなく人間歌舞伎役者によって演じられている血の通った舞踊劇。歌舞伎座の大舞台全面に漲る緊迫感が、客席をも支配している。この狂言の素晴らしさを、筆者の乏しい筆力ではとても表現しきれない。

 

五人の侍女が揃って左右に分かれると、その中心から現れる大和屋のその所作の美しさ。様式的ではあるが、能が感じさせる冷たさと云うものはなく、しっかり歌舞伎狂言となっている。大和屋に率いられて見事な所作を見せる若手花形を観ている間、全く妙な話しなのだが、筆者はヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルを思い出していた。カラヤンの僅かな指の動きに即座に反応して見事なアンサンブルを聴かせるベルリン・フィル。完璧主義者のカラヤンに統率されたベルリン・フィルの美しさは例えようもないものだったが、今回のこの狂言は、畑こそ違え、質的に同等なものを筆者は感じたのだ。

 

七之助の惟茂は美しく、且つ凛々しい。酒に酔って寝ていると云う設定の間は動きが全くなく、かなり長い時間眼を閉じているだけなのだが、一瞬たりとも弛緩せず、また微動だにもしない。眠りから覚めて山神が置いて行った太刀を引き抜いて極まったところ、すっきりとしていていながら力感にも不足なく、きりっと引き締まって美しく、且つ気品に溢れた形は、これぞ平家の若大将。続く大和屋率いる鬼女と惟茂の立ち回りは、これぞ歌舞伎とも云うべきもので、前半の能がかりから一転、見事なコントラストを形成している。

 

加えて山神の松緑がまた素晴らしい。武張ったところと柔らかなところを、踊りの中に違和感のない流れで見せて、間然とするところのない見事な舞踊。それ迄の能がかりから、山神の松緑が花道から出て来ただけで、舞台を一瞬にして歌舞伎そのものの雰囲気に変えてしまうその存在感。あぁ松緑とは何と素敵な踊り手である事か。そしてこの狂言の全てが、紛れもなく歌舞伎狂言になっていると云う事は、何と素晴らしい事であろう!年の瀬に実に見事な舞台を見せて貰えた。

 

この前に出た「吉野山」は、印象的に完全に「鬼揃」に喰われてしまった。通常の「吉野山」とは違い清元がなく、竹本のみ。出と引っ込みに花道を使わず、藤太も出ない地味な演出であったのも影響したかもしれない。松緑七之助の踊り自体は見事なもの。殊に松緑猿之助の様にはっきりとは狐手を使わず、純粋な所作事としてしっかり見せてはくれている。しかし清元がないとこの狂言のもつ、嫋やかで艶やかな部分が後退してしまうのは否定出来ない。別物と考えればありかもしれないが、この二人なら本来の型で「吉野山」を観てみたかった。繰り返すが、二人の踊りはイキも合い、それ自体は素晴らしいものだった。次の機会を期待したい。

 

とにかく筆者にとっては「鬼揃」でお腹一杯に満足させて貰った歌舞伎座第三部。満員の見物衆は、本当にいいものを観れたと思う。京都南座の感想は、また別項にて改めて綴る。

 

 

南座 吉例顔見世興行(写真)

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南座顔見世に行って来ました。今年も無事まねき上げが上がって良かったです。

 

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ポスターです。

 

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一部は山城屋の追善公演。パネル展示がありました。

 

近年は個人的に、師走の京都が吉例になりました。歌舞伎座の初春公演とセットで年中行事です。感想はまた別項にて綴ります。

 

国立劇場十二月 文楽公演(写真)

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国立劇場文楽公演を観劇。ポスターをレトロっぽくモノクロにしてみました。

 

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おめでとうございます。

 

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こちらも必見ですね。

 

文楽の師走公演に行って来ました。満員の盛況でした。中堅・若手主体の座組で、味付けとしては若干あっさり気味でしたが、やはり「忠臣蔵」はいいですね。師走感がします。

 

十二月大歌舞伎 勘九郎・右近の『男女道成寺』、菊之助・勘九郎の『ぢいさんばあさん』

歌舞伎座二部を観劇。一部程ではないが、まぁそれなりの入りと云う感じ。芝居の良さもさることながら、岳父・播磨屋を亡くした悲しみを堪えながらの菊之助の熱演には、自然と目頭が熱くなる。勘九郎にしても、祖父迄遡れば濃厚な姻戚関係にある。悲しい気持ちは同じだろう。今月は何につけても播磨屋を思い出してしまうのは、役者も見物衆も同様と思う。

 

幕開きは『男女道成寺』。勘九郎の花子、右近の桜子、橘太郎の不動坊、吉之丞の普文坊と云う配役。そう吉之丞にとっても師匠を亡くした形になる。播磨屋の特に晩年は、ぴったり寄り添う様に付き従っていたものだった。脇の名前としては播磨屋にとって大事な名跡吉之丞を襲名させて貰った恩人を亡くした喪失感もまた、例え様もなく大きなものであったろう。

 

勘九郎・右近とも若い乍ら踊りが上手い。ことに今回は右近の健闘が光る。先月の葉泉院も好演だったが、今月は打って変わって舞踊。しかししっかり腰も落ちているし、所作も見事。〽︎誰に見しょとて紅鉄漿つきょうぞの辺りは、菊之助の様な艶やかさと云うより若々しい気品でしっとりと見せる。勘九郎の芸風もあって、二人共鐘への妄執と云う部分は後ろに下がり、ひたすら軽やかに形よくと云う部分を優先させた「道成寺」。手応えとしては若干の軽さはあるものの、如何にも若手花形らしい観ていて気持ちの良い「道成寺」であった。

 

打ち出しは『ぢいさんばあさん』。近代日本文学の最高峰森鴎外の原作を、「昭和の黙阿弥」と称される宇野信夫が脚色した作品。最高の作家と最高の劇作家による狂言。上演回数も多い人気作だが、歌舞伎座では十一年ぶりの上演と云うのは少し意外だった。菊之助のるん、勘九郎の伊織、彦三郎の甚右衛門、歌昇の久右衛門、右近の久弥、鶴松のきく、坂東亀蔵の小兵衛、吉之丞の恵助と云う配役。近年は玉孝の印象が強い芝居に、菊之助勘九郎が初役で挑んだ。

 

何と云っても今回素晴らしかったのは菊之助のるん。芝居の筋を大まかに記すと、江戸の昔、まだ一子をもうけたばかりの一組の新婚夫婦があったが、些細な事から夫が刃傷沙汰を起こしてしまう。その罪で夫はお家追放となり、妻は他家へ奉公に上がる事になる。離れ離れになる夫婦だったが、その間もお互いを想い合い、三十七年ぶりに元の我が家で再会すると云う話。鴎外が実話を元にして書き上げた作品である。

 

今回の菊之助は、実に女形らしい見事な技巧の冴えを見せてくれた。若い頃のるんを演じる事は、不惑を幾つか超えているとは云え、まだまだ若々しく美しい菊之助にとってはお手の物。弟久右衛門の不行跡を窘める所は姉さんらしく、夫伊織に甘える所は如何にも新妻らしく見せて、まずもって見事な芝居。その後伊織の刃傷事件があり、舞台は一気に三十七年後に飛ぶ。伊織が旧家に先着しているが、お互い年を取って容貌が変わってしまっており、最初はお互いそれと気が付かない。伊織には鼻を擦る癖があり、それを見てるんは目の前にいる老人が夫伊織だと気づく。

 

涙ながらに再会を喜ぶ二人。そのるんの声が、若い頃より一つトーンを落とした老婦人の声になっているのだ。ある程度リアルを要求される新歌舞伎とは云え、本当の老人声では芝居の感興を損なってしまう。今回の菊之助女形声を使い乍ら、若い声と老女の声をしっかり使い分けて見せる。大和屋でも誰でもここはそうするものではあるが、それがごく自然に、しかも聞いていて心地よいトーンになっている。そう如何にも作った声ではなく、作為のない見事な声なのだ。ここでの菊之助の技術は全くもって素晴らしいものであった。

 

三十七年の間に、まだ乳飲み子だった二人の間の子が亡くなると云う悲運があった。ひとしきり再会を喜んだ後、るんは言葉を改めて「あなたにお詫びしなければなりません」と云う。座布団を外して手をついたるんが「あなた様との間の子を、病で亡くしてしまいました」と詫びる。ここの涙ながらのるんの懺悔は、観る者の心に直接的に響いてくる。ここでもう筆者の涙腺は完全に崩壊していた(苦笑)。原作の良さもさる事乍ら、るんそのものになり切っている菊之助の見事な芝居に、周りの見物衆の多くの方が目にハンカチを当てていた。

 

対する伊織の勘九郎も好演ではある。しかし菊之助に比べると径庭がある。普段は温厚な伊織が、ふとした事から友人甚右衛門を殺めてしまうその若い時の芝居は、ニンでもありまず文句のないところ。しかし老人となった「美濃部伊織屋敷の場」では、姿形こそ老人だが、どうしても芝居に地の若さが透けて見えてしまう。声にも変化がない。ここは難しいところなのだろうが、再演があればしっかりこなして欲しいと思う。

 

脇では如何にも利かん気な久右衛門を演じた歌昇の好演が光る。彦三郎の甚右衛門も二度目の様だが、まずは手堅い出来。右近と鶴松の若夫婦が伊織とるんの老夫婦といい対照になっており、改めて作の良さを感じさせる。総じて菊之助のるんが圧倒的に素晴らしく、観劇後も馥郁たる余韻の残る、実に結構な芝居であった。

 

今月はあと歌舞伎座三部と南座の顔見世を観劇予定。年の瀬の京都、実に楽しみである。

十二月大歌舞伎 第一部 猿之助の『新版 伊達の十役』

播磨屋が亡くなって、初めての歌舞伎座。偉大な座頭を失って、筆者は勿論だが歌舞伎座も大きな喪失感に包まれている事だろう。しかし場内には何の掲額もなかった。目出度い興行中に訃報は似つかわしくないと云う事だろうが、あれほどの役者を喪ったのだ。何らかのものがあっても良かったのではないだろうか。そんな中、出演している役者達は全員、天国の播磨屋に届けと云う思いで芝居をしているであろうと、筆者は信じている。

 

そして一部を観劇。流石に猿之助、いい入りだった。海老蔵と玉孝のコンビは別格として、今や歌舞伎界で最も客を呼べる役者の一人になったと云えるだろう。ここのところ家の芸を今のコロナ規制下に合わせて再編集する作業を続けている。そして今回は本命中の本命とも云うべき『伊達の十役』。期待半分、不安半分で観劇した。

 

『伊達の十役』は筆者の大好きな狂言。これを編み出した猿翁は天才だと思う。幸四郎も「新歌舞伎の最高傑作」と云っていた。猿翁以降、当代では海老蔵幸四郎が度々演じており、猿之助は初役。十役なので政岡・仁木他十役を猿之助が勤める。巳之助の八汐、玉太郎が澄の江とねずみの二役、寿猿の外記左衛門、笑三郎の松島、笑也の沖の井、猿弥の妙珍、弘太郎の妙林、門之助の民部、中車の栄御前と云う配役。

 

全部通しで演じれば四時間半はかかる大作。それを正味二時間弱にまとめている。当然上手く行っているところとそうでないところが出て来るのは致し方ないだろう。「十役」と云ってもメインは「奥殿」と「床下」。ここは一時間かけてたっぷり演じた。これは流石に良い出来である。しかし元はもっと長いので、短縮されている部分があるのはやむを得ないところだろう。

 

芝居としては何と云っても猿之助の政岡が出色。芝居の型は違うが、その口跡はどことなく亡き坂田藤十郎山城屋を彷彿とさせるところがある。山城屋の政岡は上方風で異色な部分が幾つかあったが、実に結構なものだった。今回の猿之助はその山城屋に迫る出来。型としては本寸法なもので、それをいつもの猿之助流に崩したりせず、きっちり演じている。主君への忠義と我が子への愛の板挟みになるその心情が切々と伝わって来るいい政岡。千松の遺骸にとりついての慟哭は、その大きな悲しみが歌舞伎座の大舞台を覆いつくし、初役とは思えない素晴らしさだった。

 

この場のもう一役仁木弾正は、流石に線が細い。ニンでない事もあるが、弾正の大きさ、古怪さが出せていない。ここは博多座で観た幸四郎が実に立派だったのに比べると見劣りがする。もっとも本来この場の弾正は宙乗りになるので、演出的にも迫力を欠くのは致し方ないところ。宙乗りを出せない現状は、猿之助にとって気の毒な事であったと思う。

 

脇では笑三郎・笑也の松島と沖の井は手堅い出来だが、「竹の間」がないのであまりし所はない。この二人で「竹の間」から観てみたいと思う。もっとも、元から「十役」に「竹の間」はないので、仕方ないが。巳之助の八汐もやはり線が細く、悪の効きが足りない。松嶋屋梅玉は、この役をむしろ楽しむかの様なゆとりを持って見事に演じていたが、若い巳之助には手に余った。中車の栄御前もまた同様。女形声になっていないのも良くないが、管領夫人としての位取りも不十分。これもやはり無理があった。

 

大詰めの「大磯廓の場」以降は全くの新作と云っていい。ここは猿之助の早替りの鮮やかさを見せるだけの場になっている。これで「十役」と云われても・・・と云う気持ちになってしまう。中では僅かに「平塚花水橋の場」の所作事で、猿之助の踊りの上手さと玉太郎の健闘が印象に残ったと云うくらいか。

 

今の上演形態で「十役」をやってみようと云う猿之助の意気は買える。しかしこの時間内ではやはり全体しとては無理があったと云うのが正直なところ。いつの日か、猿之助による本家澤瀉屋の「十役」が観てみたいものだ。

 

歌舞伎座今月の二部・三部は、観劇後また改めて綴りたい。

十二月大歌舞伎(写真)

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十二月大歌舞伎に行って来ました。ポスターです。

 

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一部絵看板です。

 

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同じく二部・三部。

 

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一部のポスター。猿之助の政岡と弾正ですね。

 

播磨屋を亡くした歌舞伎座は心なしか寂し気だった様な・・・。感想はまた改めて綴ります。

 

播磨屋、逝く・・・(号泣)

今年の三月に倒れて以来容態が心配されていた播磨屋だったが、日本全国の歌舞伎ファンの願いも叶わず先月28日、天に召された。享年七十七歳だった。残念とも無念とも、何とも表現の仕様がない。こうやって文章を書いていても涙が出て来る。昨日の女婿菊之助の会見を見ている時も、涙が止まらなかった。早い、早すぎると天の播磨屋をどやしつけたい気分だ。

 

去年の手術以来、明らかにいつもの播磨屋ではなかった。声に力がなく、肚に力が入っていない。どんな手術だったのかは判らないが、そこで無理せず完全に静養していれば、こんな事にはならなかったのではないのか・・・どうしてもそんな思いを拭いきれない。渾身これ歌舞伎役者とも云うべき播磨屋自身は、舞台で死ねれば本望と思っていたに違いないが、歌舞伎ファンにとっては、最悪の事態となってしまった。人間国宝でもある播磨屋は文字通り国の宝であり、その死は大袈裟でなく国家的損失である。何とかならなかったものかと帰らぬ繰り言を云いたくもなってしまう。

 

今はとても冷静に文章を書ける状態ではない。いずれ機会をみて播磨屋の事を偲んで書きたいと思う。ただ致し方ないのかもしれないが、各追悼記事には「鬼平」の文字が溢れかえっていた。確かに「鬼平」がテレビ時代劇としてはかなりの上作であった事は間違いない。しかし播磨屋の真価は舞台にある。歌舞伎座の大舞台こそ、播磨屋に似つかわしいものだった。花道から出て来た熊谷、大和屋と対峙しながら仮花道を出て来た大判事、舞台の湯殿で水野を相手に極まった長兵衛、その見事さはこれぞ正に千両役者の貫禄だった。

 

今はただ、播磨屋の御霊よ、安らかなれと祈るのみである。幸い幸四郎菊之助と云う立派な後継者がいる。大播磨の芸統に後の憂いはないと思えるのが、せめてもの心のよすがである。