fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

十二月大歌舞伎 第一部 猿之助の『新版 伊達の十役』

播磨屋が亡くなって、初めての歌舞伎座。偉大な座頭を失って、筆者は勿論だが歌舞伎座も大きな喪失感に包まれている事だろう。しかし場内には何の掲額もなかった。目出度い興行中に訃報は似つかわしくないと云う事だろうが、あれほどの役者を喪ったのだ。何らかのものがあっても良かったのではないだろうか。そんな中、出演している役者達は全員、天国の播磨屋に届けと云う思いで芝居をしているであろうと、筆者は信じている。

 

そして一部を観劇。流石に猿之助、いい入りだった。海老蔵と玉孝のコンビは別格として、今や歌舞伎界で最も客を呼べる役者の一人になったと云えるだろう。ここのところ家の芸を今のコロナ規制下に合わせて再編集する作業を続けている。そして今回は本命中の本命とも云うべき『伊達の十役』。期待半分、不安半分で観劇した。

 

『伊達の十役』は筆者の大好きな狂言。これを編み出した猿翁は天才だと思う。幸四郎も「新歌舞伎の最高傑作」と云っていた。猿翁以降、当代では海老蔵幸四郎が度々演じており、猿之助は初役。十役なので政岡・仁木他十役を猿之助が勤める。巳之助の八汐、玉太郎が澄の江とねずみの二役、寿猿の外記左衛門、笑三郎の松島、笑也の沖の井、猿弥の妙珍、弘太郎の妙林、門之助の民部、中車の栄御前と云う配役。

 

全部通しで演じれば四時間半はかかる大作。それを正味二時間弱にまとめている。当然上手く行っているところとそうでないところが出て来るのは致し方ないだろう。「十役」と云ってもメインは「奥殿」と「床下」。ここは一時間かけてたっぷり演じた。これは流石に良い出来である。しかし元はもっと長いので、短縮されている部分があるのはやむを得ないところだろう。

 

芝居としては何と云っても猿之助の政岡が出色。芝居の型は違うが、その口跡はどことなく亡き坂田藤十郎山城屋を彷彿とさせるところがある。山城屋の政岡は上方風で異色な部分が幾つかあったが、実に結構なものだった。今回の猿之助はその山城屋に迫る出来。型としては本寸法なもので、それをいつもの猿之助流に崩したりせず、きっちり演じている。主君への忠義と我が子への愛の板挟みになるその心情が切々と伝わって来るいい政岡。千松の遺骸にとりついての慟哭は、その大きな悲しみが歌舞伎座の大舞台を覆いつくし、初役とは思えない素晴らしさだった。

 

この場のもう一役仁木弾正は、流石に線が細い。ニンでない事もあるが、弾正の大きさ、古怪さが出せていない。ここは博多座で観た幸四郎が実に立派だったのに比べると見劣りがする。もっとも本来この場の弾正は宙乗りになるので、演出的にも迫力を欠くのは致し方ないところ。宙乗りを出せない現状は、猿之助にとって気の毒な事であったと思う。

 

脇では笑三郎・笑也の松島と沖の井は手堅い出来だが、「竹の間」がないのであまりし所はない。この二人で「竹の間」から観てみたいと思う。もっとも、元から「十役」に「竹の間」はないので、仕方ないが。巳之助の八汐もやはり線が細く、悪の効きが足りない。松嶋屋梅玉は、この役をむしろ楽しむかの様なゆとりを持って見事に演じていたが、若い巳之助には手に余った。中車の栄御前もまた同様。女形声になっていないのも良くないが、管領夫人としての位取りも不十分。これもやはり無理があった。

 

大詰めの「大磯廓の場」以降は全くの新作と云っていい。ここは猿之助の早替りの鮮やかさを見せるだけの場になっている。これで「十役」と云われても・・・と云う気持ちになってしまう。中では僅かに「平塚花水橋の場」の所作事で、猿之助の踊りの上手さと玉太郎の健闘が印象に残ったと云うくらいか。

 

今の上演形態で「十役」をやってみようと云う猿之助の意気は買える。しかしこの時間内ではやはり全体しとては無理があったと云うのが正直なところ。いつの日か、猿之助による本家澤瀉屋の「十役」が観てみたいものだ。

 

歌舞伎座今月の二部・三部は、観劇後また改めて綴りたい。