fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

秀山祭九月大歌舞伎 幸四郎の『鬼揃紅葉狩』と『松寿操り三番叟』

続いて幸四郎の舞踊二曲『鬼揃紅葉狩』と『松寿操り三番叟』の感想を綴る。

 

筆者は歌舞伎座に始まり、名古屋・博多・大阪と高麗屋の襲名を追いかけて観てきている。以前にも書いたが、その過程での幸四郎の芸の進境は著しいものがある。元々踊りの上手い優だったが、今月はその舞踊二曲を堪能した。

 

まず昼の部『鬼揃紅葉狩』。黙阿弥の『紅葉狩』ではなく、こちらは六代目の歌右衛門が初演したもの。これが今月では昼夜通しての一番の見物だった。まず幸四郎の更科の前が高麗蔵や米吉の侍女を従えて花道を出てくる。打掛を取った時のその美しさに、客席からジワが来た。その佇まい、その形、見事な女形ぶりだ。

 

舞台に回って錦之助の維茂の勧めで侍女達と舞い始める。~これは信濃の山桜に始まる更科の前の踊りは、折り目正しい女形舞踊で、色気もありながら気品を失わない見事なもの。生来の女形でも、美しさ・艶やかさ・気品を兼ね備えてここまで踊れる人は、当代では何人もいないだろう。

 

酒に酔って寝てしまった維茂を見て、徐々に戸隠山の鬼女としての妖しさを見せ始める。この場でのグラデーション加減が素晴らしい。一旦引っ込んだ後、維茂一行が鬼女退治に向かう。ここで鬼女の本性を顕した幸四郎・高麗蔵・米吉・児太郎・宗之助が見せる揃いの毛振りがまた見物。これだけの人数での毛振りは迫力があって、壮観の一言。

 

最後に一同揃っての決まりで幕。絶世の美女から鬼女に変わる変化舞踊劇。幸四郎の踊りの名手ぶりを堪能できた一幕だった。

 

続いて夜の部『松寿操り三番叟』。何と云っても實川延若が何度も演じ、練り上げたもの。幸四郎は実際に河内屋の舞台を観た事があるそうだ。近年では幸四郎の上演回数が図抜けており、専売特許の感がある。

 

今回は人形振りの面白さに加えて、踊りとしての自由度が広がった印象で、幸四郎は「踊り人形になりきって演じる」と筋書きで発言してはいたが、自然と舞踊としての面白さが滲み出てきていた。河内屋の舞台は映像でしか観た事がないのだが、やはり人形を離れた面白さがあった。加えて幸四郎は若いだけあり、身体能力で河内屋より優っている。深く沈み込む所なぞは、より腰が落ちていて、動きにもキレがあった。

 

後見の吉之丞とのイキも合い、観ているこちらが踊りだしたくなる様な素晴らしい舞踊。今の幸四郎の舞台に外れはないと、改めて確信させて貰えた今月の舞踊二曲。京都南座での舞台が今から楽しみだ。

 

播磨屋と大和屋の舞台は、また別項で綴る。

九月秀山祭大歌舞伎 福助復帰の『金閣寺』

九月秀山祭を昼夜通しで観劇。筆者個人的に今月の眼目、福助5年ぶりの復帰舞台。秀山祭で福助が観れるとは、とひたすら感激。その所感を綴る。

 

幕開きの『金閣寺』。これが観たくて駆けつけた福助の復帰である。本来なら雪姫での復帰が観たかったが、贅沢は云えない。慶寿院尼の福助が出てきた時は、満場割れんばかりの拍手で、「成駒屋!」「待ってました!」の大向こうが降る様にかかる。筆者も思わず目頭が熱くなり、夢中で手を叩き続けた。腰元に梅花と歌女之丞と云う、成駒屋を支え続けたベテランを配し、万全のサポート。福助も心強かった事だろう。

 

右手が不自由と思われ、所作には左手しか遣わない。しかしその位取り、その気品は流石は福助。出てきただけで場をさらう。やはり福助には歌舞伎座の大舞台がよく似合う。科白まわしも無難にこなし、まずは一安心。体調と相談しながら、徐々にでもいいので、完全復活を期待したい。

 

狂言としては先月の『関の扉』に続いて児太郎が初役の雪姫で大健闘。歌右衛門直系の雪姫を行儀よく勤めている。雪姫は姫役と云っても人妻であり、その意味での色気や義太夫味には欠けるものの、初役としては充分だろう。今まで観た児太郎の中でも、一番美しかった。「爪先鼠」もまだまだだが、これには熟練が必要。それを差し引いても立派な雪姫だった。

 

義太夫味の不足は児太郎だけではなく、松緑の大膳も同様。全体としてさっぱりした『金閣寺』。ただ松緑としては手一杯に大膳の古怪な大きさを出してきており、初役としては悪くない。当代一の大膳役者白鸚に教えを受けたらしいが、今後練り上げて行って欲しい。白鸚の重厚な義太夫味溢れる大膳を、何とか次世代に受け継いで行って貰いたいと強く思う。

 

梅玉の久吉は正に本役。颯爽たる捌き役で、当代の久吉。幸四郎の直信も佇まいに色気が滲み、こちらも本役。亀蔵も天性の美声を張り上げて鬼藤太を好演。全体に薄い義太夫味を愛太夫の素晴らしい浄瑠璃が補って、見ごたえのある舞台となっていた。

 

筆者としては福助が観れただけで大満足。観客も皆同じ気持ちだったのでは。長くなったので、その他の演目はまた別項で。

 

 

9月文楽公演 国立小劇場 『良弁杉由来』 『増補忠臣蔵』

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国立小劇場の文楽公演に行って来ました。

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北海道地震への募金を文楽人形がお願い。ささやかに募金せさて頂きました。

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来月の国立劇場歌舞伎公演はこれ。駆けつけますよ、成駒屋

 

吉田和生の人形遣いは名人芸ですね。僅かな動きで役の心情を表現している。ガンミしてしまいました。『増補忠臣蔵』は呂太夫と咲太夫の当代双璧の語りを堪能しました。12月の鑑賞教室「寺子屋」も楽しみです。この二人が語るかは判らないけれど。

新橋演舞場 芝翫の『オセロー』

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新橋演舞場の『オセロー』を観て来ました。

 

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ほぼ満席状態で、盛況でしたね。

 

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壇れい饅頭。思わず買いそうになり、あやうく踏みとどまる。

 

いや~大変素晴らしかった。私はシェイクスピアは専門外で、これが正しい『オセロー』なのかは判りませんが、芝翫が圧倒的でした。他の役者とは芸格が違う。歌舞伎より良かったかも(失礼)。ジャニーズ君のイヤーゴは・・・でしたが、壇れいさんもひたすら美しく、歌も上手かった(宝塚出身なのだから当たり前だけど)。最後はスタンディング・オーベーションでした。行って良かったです。

八月納涼歌舞伎 第一部 扇雀の『花魁草』・高麗屋父子の『龍虎』・七之助、獅童の『心中月夜星野屋』

八月第一部の感想を綴る。

 

まず北條秀司作『花魁草』で幕開き。筆者は初めて観る狂言だが、流石北條作品、いい芝居だった。安政の大地震で江戸から逃れた花魁と役者の悲恋物語だ。扇雀のお蝶がいい。人を殺した前科があり、それ故に役者幸太郎の将来を思って身を引く哀しみをしっとりと表現している。

 

江戸から栃木に逃れて来た幸太郎と、座元の勘左衛門が再会する。勘左衛門が江戸芝居に戻る様に幸太郎に勧める。それを後ろで聞いている扇雀が上手い。二人の会話を肚で受けている。そして幸太郎を勘左衛門に預けて身を引く決心をするその心持が、その哀しみが、しみじみと客席にも伝わる。この優は近年本当に外れがない。もっと歌舞伎座で観たいものだ。

 

最後の「巴波川の橋の上」で栃木に錦を飾った幸太郎改め中村若之助一座の船乗り込みを、橋の上から見送るお蝶。涙を流しながら佇む姿がたまらなく切ない。心に沁みる幕切れだった。

 

獅童の幸太郎は純なところを出そうとしたのだろうが、芝居が一本調子で意外や冴えない。幸四郎の米之助はこれが三部で源五兵衛を演じた同じ人かと思うほどに、見ず知らずの男女を引き取り、自らの家の裏に住まわせるお人好しの百姓を好演。女房お松の梅枝が年齢に似合わぬ田舎の女を演じて中々のいい味を出していた。

 

続いて幸四郎染五郎の舞踊『龍虎』。役者の品格と毛振りを見せるだけの踊りだが、やはりこの親子は数ある梨園の一家の中でもとりわけ品がある。染五郎は勿論技量はまだまだで、幸四郎が置いていかない様に気を使って踊っているのが判る。だがこの品は修行で出せるものではなく、生来のもの。技術は今後身に着けていけばいいと思う。

 

最後は落語を素材にした新作『心中月夜星野屋』。元ネタの「星野屋」は筆者も好きな噺だ。『花魁草』では冴えなかった獅童が、久々の女形でおたかの母お熊をしたたかに好演。キャラ立ちが他の登場人物を圧倒していて、場をさらっていた。

 

獅童が演じたお熊は、原作では殆どサゲの場面にしか登場しないちょい役で、おたかは心中相手の星野屋照蔵が生きていたと判った時の居直りに凄みのある、比較的悪女なのだが、七之助のおたかは優柔不断で空気に流されやすい普通の女性。獅童の存在感には及ばないが、「吾妻橋の場」では中車の照蔵とコミカルな心中劇を演じて客席を大いに沸かせていた。一昨年の同じ落語を元にした『廓噺山名屋浦里』共々、また再演が観たいと思わせるいい芝居になった。

 

笑いあり、涙ありで大いに楽しませて貰った第一部だった。八月納涼歌舞伎は三部制で、芝居をお腹一杯味わえるいい興行。もっと三部制の月を増やしてもいいのではないかと思うのだが。

 

 

八月納涼歌舞伎 第三部 幸四郎・獅童・七之助の『盟三五大切』 その二

『盟三五大切』感想の続き。

 

第二幕第一場「二軒茶屋の場」。伊勢屋座敷で亀蔵の伴右衛門が小万の身請け話をしているところに、三五郎に伴われて源五兵衛がやってくる。実は伴右衛門も三五郎も周りにいる判人長八も伊之助も全員グルで、源五兵衛から小万の身請け金として百両を巻き上げようとしているのだ。散々周りに焚きつけられて源五兵衛は百両を吐き出してしまう。幸四郎が見せるここの所の逡巡と思い切りの具合が、実に上手い。

 

続いて獅童の三五郎が小万は自分の女房であり、全ては詐略であったと居直ってみせる。ここで獅童の三五郎が見せる太々しさが、実に悪が良く効いている。騙されて仇討参画の為の百両を取られた源五兵衛の無念が客席にいても伝わり、切ないまでのいい場となった。七之助の小万は終始源五兵衛への悪いと云う気持ちを出しており、妲妃と綽名された凄みはない。事前のインタビューで七之助が「あまり嫌な女性にならないように演じたい」と云っていた通りの小万。これは賛否あるかもしれないが、獅童に凄みがあるだけに、小万はこの行き方の方がバランスとしても良いのではないかと筆者は思う。

 

続く「五人切りの場」。ここはもう幸四郎の独壇場。騙された源五兵衛が虎蔵の家に乗り込み、次々と人を殺める。この場での幸四郎は復讐の鬼となった凄みを見せ、元々血生臭いこの場を、一層凄惨なものにしている。しかしそんな場でも、その所作は踊りの上手い幸四郎らしく舞を舞っているかの様で、歌舞伎的な美しさに溢れており、素晴らしい立ち回りになっていた。しかし幸四郎、先月の『油殺し』と云い、人を殺し過ぎ(笑)。

 

大詰第一場「四谷鬼横町の場」。前の場から一転、家主弥助の中車が強欲な老人をコミカルに演じ、場を盛り上げる。獅童七之助も楽しんで演じているのが伝わってきて、少しほっとさせる場面だ。しかしその雰囲気を源五兵衛が一変させる。花道から幸四郎の源五兵衛が登場した途端、場の空気が変わる。お父っつあんや叔父さんが持っている、花道の出だけで役の性根を表現すると云う肚芸を、幸四郎も自分のものとしつつある様に思えた。

 

結局源五兵衛が持ってきた毒酒を家主弥助がそれと知らずに飲み、死んでしまう。三五郎は偶然再会した父了心に匿われ、樽に入ってこの場を落ちる。小万一人残された所に再び源五兵衛が現れ、かつて自分の名前が彫られていると思っていた小万の腕の刺青が、三五郎の名前に変わっているのを見るや逆上し、小万を惨殺する。この場での冷酷な源五兵衛像を造形した幸四郎の芸力は見事なもの。小万の手を無理やり刀に添えさせて子供を刺殺する場面などは、もう完全に「イッて」しまっている人間像を、その怨みの深さを、余すところなく表現していた。

 

いよいよ最後「愛染院門前の場」。ここで三五郎の父了心の主人が源五兵衛実は不破数右衛門だったと判明する。人を数多殺めた数右衛門が切腹すると云うのを了心が押しとどめる所に、樽に潜んでいた三五郎が出刃包丁を腹に突き立てて現れ、全ての罪は自分が引き受けると云って自害する。ここでの獅童がまた素晴らしい。腹に出刃包丁が入った状態での血を吐く様な述懐。

 

主人の為に心ならずも人を騙して百両を得ようとしたが、その為に女房始め数多の人が死んだ。しかもその金を欲していたのは他ならぬ自らが騙した主人数右衛門だった。その皮肉な運命のめぐり合わせが走馬灯の様に頭をよぎり、今際の際の三五郎の慚愧の念が、客席にもしっかり伝わってくる。ここで思わず筆者は涙した。

 

念願叶い数右衛門は仇討に加わる事が出来、大団円となる。最後に幸四郎獅童七之助の三人が揃って客席にお辞儀をして幕。いい後味が残った。総じて主役三人が本役で圧倒的に素晴らしく、南北を見事現代に再現したと云っていいと思う。

 

しかし客の入りは二部の方が良かった。今の観客には重い南北より、軽い弥次喜多の方が好まれるのだろう。その点では一抹の寂しさが残った第二部だった。

 

第一部の感想はまた別項で綴る。