fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

六月博多座大歌舞伎  写真その1

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博多座での高麗屋襲名披露公演を観劇。縦長ポスターがありました。

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博多座には動画パネルがありました。

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商店街のいたる所に幟が。街ぐるみで盛り上げてくれています。

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映画館に掲出されていたポスター。ついでにシネマ歌舞伎も観て来ました。

 

 

團菊祭五月大歌舞伎 昼の部 『雷神不動北山櫻』と市川海老蔵と云う役者 その3

この項では、海老蔵成田屋当主としての視点について綴ってみたい。

 

白鸚がかつて、「歌舞伎の職人になるのが真の歌舞伎役者だ」と云う趣旨の発言をしていた。その影響か、幸四郎も襲名の口上で「歌舞伎職人を目指します」と云っていた。事実白鸚の芸は既に職人の域を超えて、正に名人としか云い様のない領域に達しているし、幸四郎も目指すところは父の芸に追いつき、追い越す事だろう。

 

しかし海老蔵と云う役者は、歌舞伎の職人になろうとは更々思っていない様に思われる。海老蔵の目指す先は、一門ひいては歌舞伎界の再編なのではないかと見えるふしがあるのだ。

 

坂東竹三郎門下を破門されていた薪車に九團次を名乗らせ一門に加え、亀治郎猿之助襲名で、澤瀉屋においてやや微妙な立場になっていた右近に、右團次の襲名を斡旋し高嶋屋を名乗らせるなど、着々と一門の再編に取り組んでいる。

 

インタビューでも「うちにある小團次や子團次などの名跡もいずれ復活させる」と云う趣旨の発言をしていた。加えて弟子筋にあたる澤瀉屋型の「狐忠信」を猿翁に習い演じている事などは、澤瀉屋との良好な関係を思わせる。

 

海老蔵の祖父十一代目團十郎は若くして亡くなった為実現こそしなかったが、團十郎劇団を立ち上げる構想を持っていたと聞く。正に海老蔵は祖父の果たせなかった夢の実現に向けて、着実に歩みを進めているのではないか。

 

これは私の想像だが、成田屋に加え澤瀉屋・高嶋屋を率いて、一家一門で興行をうてる体制を構築しようとしているのではないかと思う。こう云う視点は他の花形にはない。先にあげた白鸚幸四郎の発言でも判る通り、高麗屋父子が目指しているのは、自らの芸の深化であるのだから。

 

この点でも、江戸歌舞伎への回帰を目指す海老蔵の芸の志向性と重なり、「若くして座頭たりえるのは團十郎のみ」と云われた近代以前の歌舞伎体制を、この21世紀において確立させようとしていると筆者は見ている。

 

この体制が実現した暁にはどんな歌舞伎界が待っているのか筆者には判らない。判らないが、今の私は、海老蔵が他の役者とは違う視点で考え、その遠大な構想の元に再編された歌舞伎界を見てみたいと、記しておく。

 

新歌舞伎座は、必然的に私たちの世代が支えていかなければならない」かつて海老蔵は杮落公演の際にこう発言していた。私には、「21世紀前半の歌舞伎界は、俺の時代だ」と云う宣言に、聞こえてならない。十三代目團十郎歌舞伎座の座頭となる時代は、ぜひその芸の深まりと共にあって欲しいと、筆者は切に願っている。

團菊祭五月大歌舞伎 昼の部 『雷神不動北山櫻』と市川海老蔵と云う役者 その2

 十一代目市川海老蔵成田屋。まぎれもなく現代で最も著名であり、最も客が呼べる歌舞伎役者である。そのブログには膨大にフォロワーがおり、その一挙手一投足に注目が集まる役者と云っても過言ではあるまい。

 

海老蔵は5年前に父十二代目團十郎を若くして亡くし、梨園の頂点である成田屋の当主となった。幸四郎菊之助松緑愛之助猿之助等々層の分厚い花形世代の中で、一門の当主となっているのは海老蔵だけである(猿之助も事実上そうだが、まだ猿翁は存命。松緑も父を早く亡くしているが、菊五郎劇団に所属しているので、海老蔵の様な立場にはない)。

 

持って生まれた性質も多分にあるとは思うのだが、一門の当主と云う意識が他の花形と違い、一門ひいては歌舞伎界全体を見渡す広い視野がこの優にはある様に思われる。歌舞伎座の七月は昨年より海老蔵の責任興行月となっており、この点でも他の花形とは違っている。

 

先に書いたが、海老蔵歌舞伎十八番歌舞伎座で上演する事にこだわりがあると云う。その意味で五月大歌舞伎はその実践の舞台として見事なものだった。海老蔵はそのニンから云っても歌舞伎十八番を演じる為に生まれてきた様な優であり、『勧進帳』にしても、高麗屋の様な弁慶の心情に焦点を当てた行き方ではなく、より荒事味の濃い、その意味でより原初的なものであると思う。

 

明治以降の近代歌舞伎において、九代目團十郎を始めとした名優達によって、歌舞伎は心理描写を取り入れた近代演劇の要素を強く持つ事となった。その延長上で今大輪の華を咲かせているのが高麗屋播磨屋松嶋屋を始めとする現大幹部達である。しかし海老蔵の視線は近代以前、話しに聞く二代目や七代目の團十郎を見ているのではないかと思えるところがある。その実践が、荒事味の濃い『勧進帳』であり、豪快で描線の太い『暫』と云った歌舞伎十八番だ。

 

最も現代的な役者であるはずの当代一の人気者海老蔵が、近代以前の歌舞伎への回帰を目指すと云う一見矛盾とも取れる行き方をしているのだ。勿論その芸においては完成形と云えるものではまだなく、科白まわしに現代調が垣間見える時もままある。しかしこの21世紀歌舞伎において、その精神は貴重かつ大胆なものであるし、この行き方は今後もぜひ継続し、かつ深めて行って欲しいと思う。しかし、そんな海老蔵にも課題がない訳ではない。

 

筆者は、心理描写を取り入れ、その究極の名人芸を披露してくれている現大幹部の芝居が大好きであるし、大いに楽しませて貰っている。幸四郎を始めとした今の花形世代には、当然の事ながらその父親世代の、例えば白鸚吉右衛門の様な花道の出だけでその役の性根を観客に感じさせる様な芸の成熟と達成はない。海老蔵もまた然り。

 

一例をあげると、昨年の『先代萩』で海老蔵の仁木弾正を観たが、「床下」「刃傷」に比べて、「対決」が一番見劣りがした。実事の仁木になるとまだ肝が薄く、未だしの感がある。いくら荒事が見事であっても、「対決」の仁木がしっかり演じられなければ、『先代萩』の仁木弾正を演じおおせた事にはならないだろう。父團十郎にもその傾向があったが、総じて科白劇には若干の弱さが見られる様に思う。ここら辺りが筆者が現時点で感じている海老蔵と云う役者の課題だ。

 

加えて筆者の懸念は、一門の当主なるが故の海老蔵の難しさだ。『先代萩』を観ても判る通り、海老蔵はまだ肝が薄い。荒事にはそれほど必要とはされないが、時代物や世話物には役の性根を肝に落としてそれを表現する「肝芸」が重要となる。海老蔵に限らず、この点では今の花形世代はまだまだ肝が薄い。たが例えば幸四郎は少なくともその必要性を感じ、お父さんや叔父さん、はたまた松嶋屋にも教えを乞うてそれを掴もうとしている。菊之助もまた然り。

 

しかし一門の当主たる海老蔵は、その教えを乞える存在やそれを可能にする関係の役者がいるのだろうか?梨園筆頭の当主たる立場が、海老蔵の進歩を阻害しているとしたらそれは悲劇だし、歌舞伎界の進歩すらも止める事になってしまう。その点でも父團十郎不在の大きさを感じないではいられない。梨園内での海老蔵の人間関係など、筆者は知る由もないので、杞憂かもしれないのだが・・・

 

長くなったので、また次項に譲るが、海老蔵を語る上で欠かせない先にあげた一門及び歌舞伎界全体を見渡すその視点について、もう少し所感を綴ってみたいと思う。

 

 

 

 

團菊祭五月大歌舞伎 昼の部 『雷神不動北山櫻』と市川海老蔵と云う役者

昼の部を観劇。その感想と云うか、『雷神不動北山櫻』を観て改めて市川海老蔵と云う歌舞伎役者について考えた事を、少し長くなりそうなので、回を分けて綴ってみたい。

 

鳴神上人粂寺弾正、早雲王子、安倍清行、不動明王と云う五役を兼ねる海老蔵の大奮闘狂言。まず『伊達の十役』を思わせる口上から始まる。狂言の筋を判り易く説明。歌舞伎観劇に慣れない客を意識した、いかにも海老蔵らしいオープニング。この優の視線は、常に若い客を意識している。

 

発端から天皇位を狙う早雲王子が悪の大きさを出していてまず見事。続く「大内の場」での安倍清行は、花道を出てきたところ絵から抜き出た様な美貌。荒事の力感とこの二枚目のたおやかさが両方出せるところが海老蔵の素晴らしさ。菊之助ではここまで悪が効かないだろう。

 

続く所謂「毛抜」では力感もありながら愛嬌もある粂寺弾正で、完全に手の内に入った役。裁き役としての爽快さもしっかり出していて、まず当代の粂寺弾正だろう。クライマックスの「鳴神」もまず何より美しく、色気もある見事な鳴神上人菊之助の雲の絶間姫が裾を持ち上げる場面で、目をむいて立ちあがるところなどもツボを外さず客席を沸かせていた。

 

大詰の立ち回りもこの優が悪かろうはずもなく、これぞ荒事の手本とも云うべきもの。最後は不動明王海老蔵が宙に舞い上がっての見得で幕。市川宗家歌舞伎十八番をたっぷり堪能させて貰った。

 

脇ではやはり菊之助の雲の絶間姫がこの世のものとは思えない程の美しさで、海老蔵とのイキもきっちり合って、抜群の出来。蔵の玄蕃はしっかり悪が効いていたし、黒雲坊・白雲坊の蔵と入も愛嬌たっぷりで、手堅く脇を固めていた。

 

この手揃いの脇の中で、特筆すべきは雀右衛門の腰元巻絹。大家の腰元としての品があり、粂寺弾正の口説きをあしらいながら「ビビビ~イ」と言捨てての引っ込みも色気と可愛らしさが同居していて、この優らしい巻絹。雲の絶間姫を菊之助に譲っても、しっかり存在感を出していた。

 

筋云々ではない荒事の歌舞伎十八番なので、理屈抜きで楽しめた。やはり海老蔵の舞台には華もオーラもあり。客を沸かせるツボを心得ている。この狂言を観ていて、杮落公演の後、海老蔵がインタビューで「歌舞伎十八番歌舞伎座で上演する事にこだわっていきたい」と云う趣旨の事を云っていたのを思い出した。

 

團十郎も、「歌舞伎十八番」に強いこだわりを持っていたのはつとに知られている。海老蔵もその意思を継いで行く覚悟なのだろう。そう考えた時、海老蔵と云う役者は、今どう云う存在で、何を考えどこに向かおうとしているのか。その指向性と芸について改めて考えた事があるので、次項でそれを思いつくまま綴ってみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

團菊祭五月大歌舞伎 昼の部 写真

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昼の部を観劇。もう5年たったのかと。成田屋・・・

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成田山新勝寺の出開帳がありました。

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昼の部ポスター。五役で海老蔵大奮闘。

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名題披露。まずはめでたい。

 

感想はまた別項で。

團菊祭五月大歌舞伎 夜の部 『菊畑』と『喜撰』

続いて夜の部の残り2演目。

 

まず『鬼一法眼三略巻』。緑の智恵内に蔵の鬼一法眼、蔵の虎蔵実は牛若丸、児太郎の皆鶴姫と云う配役。まず蔵の鬼一法眼が花道を出てきたところ、菊畑を見て回る姿、貫禄充分でこれはいい法眼だと思ったのだが、科白になると失速。初日故にか科白が入っておらず、プロンプターの声が観劇した二階席迄聞こえてきた。

 

科白が入っていないのはひとまず置くとしても、科白まわし自体が義太夫狂言の調子になっておらず、これでは丸本にならない。やはり蔵、世話の人か。義太夫味が薄いのは緑も同様。この優は科白まわしに独特の癖があるので、それが義太夫味を削ぐ事にもなる。しかも奴の愛嬌にも欠けており、あれあれと云う感じの菊畑前半だった。

 

しかし、児太郎の皆鶴姫が出てくると狂言の空気が変る。この人も義太夫味がある訳ではないのだが、芝居にテンポが出てくるのだ。女性(?)の登場で気をよくしたか、緑も奴らしい愛嬌と科白のリズムを取り戻し、後半は流れよく終幕まで観る事が出来た。

 

中ではやはり蔵が義太夫味もあり、いい牛若丸。しかし総じて丸本らしさに欠ける水っぽい『菊畑』だったと云う印象は拭えなかった。

 

続いて菊之助蔵による『喜撰』。父菊五郎が何度も演じ、近年では亡き三津五郎の専売特許の感があった舞踊に、菊之助が初役で挑む。花道を出てきた形は実に良い。だが、青黛をつけてはいてもこの優元来の芸風で愛嬌には乏しい。

 

舞台にまわっての蔵との連れ舞は、踊りの上手い二人なので、充分楽しめる。しかし亡き三津五郎が生前、坊主は上半身男で、下半身女で踊ると云う口伝があると云っていたが、その意味では菊之助喜撰法師は全身女であり過ぎる。時に時蔵よりも女っぽい瞬間があるくらいだ。

 

イソップの寓話で、ふれるものが何でも金になってしまう王様の話しがあったが、菊之助はする事がすべからく綺麗に、色っぽくなる優なのだ。しかし王様のふれた娘が金になってしまった悲劇の様に、全てを綺麗に色っぽくやってそれで必ずしも良しとはならない。抜きん出た才能に加え努力家としても知られる菊之助の、これからの課題ではないかと思う。

 

 一方蔵の踊りは女形らしい実にいい舞踊。「賤が伏屋に糸取るよりも」からの手拭いを使っての踊りは、胸の動きなども女形舞踊基本を押さえながら、茶汲女の仇っぽさも出していて、秀逸。

 

菊之助に注文をつけた形になったが、今回の『喜撰』が楽しめなかった訳では決してない。三津五郎の様な『喜撰』になっていないと云って、切り捨てるにはあまりに美しく、艶やかだった。菊之助なら更にもっと高みを目指して欲しいと云う思いでの感想である。来月に挑む『文屋』も楽しみだ。

 

今週昼の部も観劇に行くので、その感想はまた改めて綴る。

 

團菊祭五月大歌舞伎 夜の部 音羽屋の弁天

初日に観劇。その感想を綴る。

 

最初の狂言は『弁天娘女男白浪』。云わずと知れた音羽屋の家の芸であり、当代菊五郎も襲名以来何度も演じてきた十八番中の十八番。当然の事ながら、素晴らしい。

 

近年は立役ばかりの菊五郎だが、まず花道の出から身体が娘になっているのが凄い。長年練り上げた芸の年輪であろう。浜松屋にあがって番頭の橘太郎とお約束の贔屓役者のチャリ場でも、きっちり客席を沸かす。

 

だがこの日は初日だったので、菊五郎以外の役者の科白や段取りがかなり危なっかしい。左團次は「お嬢様の婚礼のお品」の科白を2度云うわ、海老蔵は科白の出を間違えて1場面早く云うわと、音羽屋もはらはらしたのではないか。

 

しかしこんな事は何度も経験済みだよと云わんばかり、何事もなくこなすところが流石音羽屋。その芸は些かも乱れない。「どうしたらよろしいわいなぁ」と左團次の力丸に云いながらまごつく所なぞ、生娘の風情さえ漂わせ音羽屋の年齢を考えると不気味ですらある(失礼)。

 

見顕しの「知らざぁ言って聞かせやしょう」も、七五調のリズムで見事に唄い上げる。黙阿弥の科白はこうでなければならない。その唄い上げの間、煙管をくるくると回すところの形の良さもまた絶品。花道での左團次とのやり取りも、イキの合った所を見せてくれた。

 

続く「稲瀬川勢揃の場」の花道のツラネから舞台に上がっての勢揃も、歌舞伎の様式美に溢れ、一幅の絵。菊五郎左團次のベテランに花形の海老蔵菊之助松緑と役者を揃えての五人男。実に結構な一幕となった。

 

休憩を挟んでの「極楽寺屋根立腹の場」の立ち回りは、流石に年齢は隠せない感じだったが、がんどう返しでふらつきもせずしっかり立ったまま返っていったのは、大ベテランの意地を見た感じ。

 

最後の「山門の場」と「滑川土橋の場」では、駄右衛門初役の海老蔵が五右衛門で鍛えた山門を見せてくれた。役者ぶりが大きく、この優が持つ天性のオーラの様なものが、こう云う場では映える。梅玉、秀調、権十郎が付き合う豪華版。堪能しました。

 

海老蔵の駄右衛門は初日故のミスはあったものの、ニンに合っていい駄右衛門。亡き團十郎歌舞伎座杮落公演で演じるはずだった役。感慨も一入だろう。緑の利平、菊之助の十三郎も踊りの上手い両優だけに、実にいい形。今度は幸四郎愛之助、乃至は獅童あたりを入れて花形の五人男が観てみたい。

 

その他脇では橘太郎の番頭がもう完全にこの人の持ち役。蔵の幸兵衛も商家の旦那の雰囲気をきっちり出していて、まぁ世話の蔵は鉄板でしょう。意外と云っては失礼だが、良かったのは松也の鳶頭清次。劇団で鍛えられている成果か、身体が世話になってきている。菊五郎が「親父の松助がやっていた役だから、今回松也にやらせる」と語っていたが、その起用に充分こたえていた。

 

総じてやはり菊五郎が図抜けて素晴らしく、鸚の弁慶と並ぶ国宝級の弁天。この二人に播磨屋松嶋屋を加えた四人の大看板は本当に凄い。鸚は襲名で暫く歌舞伎座では観られないだろうが、来月播磨屋の団七九郎兵衛が今から楽しみだ。

 

長くなったので、後の2演目はまた別項で。