fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

新春浅草歌舞伎 夜の部 歌昇の『絵本太功記』、松也・米吉・巳之助の「一力茶屋」

新年明けましておめでとうございます。今年もマイペースでゆる~く綴って行きます。2年前に自分の備忘録として始めたブログでした。たまに過去記事を読み返すと、「あぁそうだったなぁ」と舞台の記憶が蘇って来ます。その意味でやっていて良かったと思っていますが、思いがけずアクセスして頂く人が増えていて、驚きです。芝居好きの人がいらっしゃるのが嬉しいです。拙い文章なので面映ゆい気持ちですが、今後も自分の素直な感想を書き留めて行こうと思っています。

 

さて筆者的に初芝居として恒例になった新春浅草歌舞伎。幕開きは口上。私が観た日は橋之助。いかにも歌舞伎的な新年の挨拶から、すっとくだけて会話調になる辺り、世話の呼吸を感じる。この新年挨拶の口上は勘九郎が始めたと云っていたが、いい企画だと思う。歌舞伎座より若い観客が目立ったので、今後も続けて貰いたい。

 

続いて『絵本太功記』より「尼ヶ崎閑居の場」、通称「太十」。これを浅草に持って来るとは驚かされた。義太夫狂言に若手花形が挑むのはとても良い事だ。今の年齢では歌舞伎座ではかけさせて貰えないだろうし。歌昇の光秀、隼人の十次郎、米吉の初菊、梅花の皐月、橋之助の正清、新悟の操、錦之助の久吉と云う配役。正直厳しいだろうとは思っていたが、その予感は当たってしまった。

 

以前にも書いたが、筆者はどうもこの狂言と相性が悪い。丸本は歌舞伎の中で一番好きなジャンルなのだが、今まで感動した事がない。播磨屋の時ですらそうだった。だから若手花形では猶更である。だから正しい評ではないかもしれない。しかし少なくとも播磨屋義太夫味がしっかりあって、丸本としては王道のものであった。しかし今回は致し方ないとは云え、全く義太夫味のない芝居。歌昇播磨屋仕込みで熱演ではあるのだが、科白回しが竹本と全くシンクロしないのだ。

 

またその肝心の竹本が薄口だったと云う事もあるが、「三代相恩の主君でなし」や「討ち取ったるは我が器量」などの科白が腹から出ていない。しかも所作も腰が浮いていて、春永を討ち取る程の力量がある大将としての光秀の大きさがない。せいぜい侍大将程度にしか見えないのだ。やはりこの役は、今の歌昇には手に余った。

 

隼人の十次郎、米吉の初菊も型をこなすのに手一杯で、役の性根が入っていない。隼人は抜け出た様な美しさではあるが、なよなよしていて武智の若大将には見えない。そしてしっかり脇を締めるべき梅花の皐月も線が細く、息子を主君に仇した裏切り者と叱り飛ばす強さがない。中では錦之助の久吉が流石に大きく、新悟の操がほぼ同年配の隼人の母親役と云う難しい役どころを、行儀よくつとめていた。この二人が、一座総崩れの中でせめてもの事だった。ただ若手花形が正面から丸本に挑むその意気や良し。今後の精進に期待したい。

 

打ち出しは『仮名手本忠臣蔵』から「祇園一力茶屋の場」。またも若手花形が丸本の、それも本丸とも云うべき「忠臣蔵」しかも「七段目」に挑む。松也の由良之助、巳之助の平右衛門、米吉のお軽、橋之助の力弥、歌昇・隼人・吉之丞の三人侍、桂三の九太夫と云う配役。松也初役の由良之助がいきなり「一力」。そりゃ幾ら何でも・・・と思ったが、やはりこちらも厳しかった。

 

「めんない千鳥」の由良之助の出からして、五万三千石の城代家老としての大きさと色気が出てこない。それも致し方なかろう。「忠臣蔵」の中でも最難役と云われる「一力」の由良之助なのだ。由良之助を演じる順としては「九段目」→「四段目」→「七段目」と進むべきだろうと思うのが、いきなり「七段目」からなのだ。当人も筋書きで「まさか三十代でやらせて貰えるとは」と云っていた。正にその通りだと思う。この役は歌舞伎立役の最終問題とも云うへぎものなのだ。ことに前段の「やつし」の部分は難しかろうと思う。

 

後段の実事はまだしも形になっていたが、それも前段に比べればと云う話し。わずかに花道で力弥に「して他に、ご口上はなかったか」と云う辺りに、由良之助らしさを垣間見せてはくれていたが。松也の意欲に比べ、出来が空回りしてしまった由良之助だった。ではこの芝居がつまらなかったのかと云えばさに非ず。「太十」に比べてはるかに楽しめるものにした功労者は、米吉のお軽だ。

 

筋書きで雀右衛門に丁寧に濃密に稽古して貰ったと語っていたが、いい稽古だったのだろう、ほぼ初役らしいが目の覚める様な出来。可憐な美しさがお軽の哀れさを一入感じさせる。由良之助に身請けして貰えると聞いた時の「それもたった三日」と云う辺りの芝居も無邪気さが良く出ていて、その後平右衛門に討たれる覚悟を決める芝居とのメリハリも明確。最も印象的だったのは、勘平の身に何かあったと気づき「良い女房さんでも」と云う科白回し。ここは歌右衛門や大和屋の様な義太夫味を効かすのではなく、自ら夫の為に苦界に身を落としていながら、新たに女が出来たかもしれない、しかしそれも致し方ないと思う諦念の様な想いが滲む。このテイストは他のお軽役者では味わった事がない。お軽の心情を思うと、何ともせつない気持ちにさせられる実に見事な科白回し。いやぁ米吉、大手柄だった。

 

巳之助の平右衛門も義太夫味はないが、奴らしい軽さと若々しい勢いがあり、米吉との芸格も揃っていて、いい平右衛門。二人の芝居は若手花形らしく実に生き生きとしており、丸本らしいコクは今後ついて来るだろう。由良之助が主役とは云え、平右衛門とお軽のやり取りが大きな眼目となっている「七段目」。その意味で充分楽しめる狂言になっていた。

 

色々注文を付けたが、役はやはりやってみないと身に付かない。今回の狂言立てを見た時にある程度予想はついていたので、別に腹も立たない(笑)。将来今回の様な狂言歌舞伎座で出せる様、若手花形には尚一層の精進を期待したいと思う。偉そうな云い回しですが(苦笑)。

 

今月は浅草昼の部も観劇予定。「寺子屋」、期待してまっせ。

 

 

 

 

 

私が観た平成三十一年・令和元年歌舞伎 ベスト10

今年も劇場に通い続けた一年でした。同じものを二度以上観劇したものも含めて、歌舞伎が全44公演。これに『ラマンチャの男』と『オイディプス』の現代劇、『オグリ』のスーパー歌舞伎、ミュージカルの『ふるあめりかに袖はならさじ』を合わせると48の舞台を観れた。財政的には破綻の危機だが(月平均4公演!ヤバいっす・・・)、好きな物は仕方がない。以下、極私的今年のベスト10をあげたい。順位はそんなに重要視しておらず、まぁ今年の特に印象的な10本と云う事で。

 

まず10位

十二月大歌舞伎より『神霊矢口渡』

観たばかりと云うのも大きいが、花形全力投球のいい舞台でした。義太夫狂言がしっかり受け継がれている様を観れたのは、本当に嬉しかった。

 

続いて9位

八月納涼歌舞伎より『伽羅先代萩

個人的に令和の「孝玉」と思っている幸四郎七之助の共演。七之助の政岡、幸四郎の仁木、共に申し分なし。二人で練り上げて行って欲しいです。

 

8位から6位は続けて行きます。

8位

團菊祭五月大歌舞伎より『神明恵和合取組~め組の喧嘩』

7位

三月大歌舞伎より『近江源氏先陣館~盛綱陣屋』

6位

南座九月花形歌舞伎より『東海道四谷怪談

今年の音羽屋は何と云っても「め組」。これぞ江戸の粋。最高でした。松嶋屋の盛綱は流石十八番。名調子に酔わされた素晴らしい舞台。南座でのお岩様の通しは、こちらも初役の七之助が奮闘。中車も歌舞伎で存在感を増してきています。愛之助の色悪は正にニンでした。

 

続いてはベスト5。まずは

5位

秀山祭九月大歌舞伎より『伊賀越道中双六~沼津』

今年の播磨屋はこれに尽きます。「降らねばよいが」の科白が今でもしみじみ心に残っています。播磨屋休演による幸四郎の代演も観て見たかったですが。

 

お次は4位

大阪松竹七月大歌舞伎より『義経千本桜~渡海屋・大物浦』

真夏の大阪で圧倒された松嶋屋の今年のベスト。知盛が憑依したかの様な大熱演。遥々大阪まで出向いた甲斐があったと云うものです。

 

いよいよトップ3の発表(そんな持って回った云い方する程の事ではないけど)。

まず3位

團菊祭五月大歌舞伎より『京鹿子娘道成寺

国立での「関の扉」もとんでもなく素晴らしかったけれど、今年の菊之助はこれですね。いやぁ最高の花子でした。手拭もゲットできたし。

 

続いて2位

壽 初春大歌舞伎より『一條大蔵譚~檜垣・奥殿』

平成最後の年の幕開けを飾った白鸚渾身の大舞台。しかも何と47年ぶりに演じたと云うから驚き。それでこれほどの出来とは・・・白鸚恐るべし。

 

そしていよいよ年間1位

国立劇場十二月歌舞伎公演より『近江源氏先陣館~盛綱陣屋』

「大蔵卿」とこちらのどちらを1位か迷いました。最近観たばかりなので印象も強く、こちらを1位としましたが、どちらも甲乙つけ難い舞台でした。この「盛綱」も28年ぶりで演じた白鸚。年の初めと終わりに、凄い舞台を見せてくれました。当代最高の丸本役者・白鸚、来月の「河内山」も楽しみです。

 

以上、思いつくままにあけだ今年のベスト10でした。改めて見てみると、海老蔵が入っていない・・・、好きな優なのですが、こちらの期待が高すぎるのか。来年は愈々團十郎襲名。トップ10を独占するくらいの芝居を見せて欲しいです。令和二年も、素晴らしい舞台が数多く観られる事を願っています。

十二月大歌舞伎 夜の部 松緑・梅枝の『神霊矢口渡』、大和屋・児太郎の『本朝白雪姫譚話』

歌舞伎座夜の部も観劇。その感想を綴る。

 

幕開きは『神霊矢口渡』。松緑の頓兵衛、梅枝のお舟、児太郎のうてな、亀蔵の義峯、萬太郎の六蔵と云う配役。花形中心の座組で義太夫狂言は如何かと思ったが、これが実に良かった。

 

何と云っても梅枝のお舟がいい。冒頭の義峯が一夜の宿をと願うのを、ここは宿屋ではないと断っておきながらその容貌を見ると一変、いつまでもここにいて欲しいとなる辺り、初めて恋を知った女心をしっかりと見せている。白湯を所望されて水を温めながらも気持ちが義峯に行っているところ、多少の滑稽さを交えての芝居は、する事は皆同じだが、実に上手いものだ。

 

義峯の身替りとなって父頓兵衛に刺され、海老ぞりになった形も実に美しい。しかも役の性根が腹にあるから哀れさ一入で、観ていてこのお舟と云う役に感情移入してしまい、その心情を思う時、ひたすらせつない気持ちにさせられた。

 

この狂言は夏に国立で壱太郎のお舟で観ているが、その時は人形振りだった合図の太鼓を打ち鳴らす場を、今回はしっかりとした王道の紀伊國屋型で演じている。ここがまた実にいい。義峯をどうにか落ち延びさせたいと思っているお舟は、刺された傷に苦しみもだえながら、ふっと合図の太鼓に目が行く。ここの「あっ、太鼓を鳴らせば」と思う刹那の芝居が、上手い。六蔵と揉み合いながら、刀の鞘で太鼓を鳴らす紀伊國屋の型をきっちり演じて、一途な女心を義太夫味を失わずしっかり見せて貰った。初役とは思えない見事な芝居だった。

 

松緑の頓兵衛もいい。こちらも初役らしいが、左團次譲りの非常な手強さ。筋書きで非常に嫌な人物として演ってみたいと語っていた通りの人物造形。義太夫味もあり、踊りの上手い優だけに、角々の決まりもきっぱりしていて、改めてこの優の実力に目を瞠る思いだった。ただ花道の蜘蛛手蛸足の引っ込みは、老齢の思うように手足が動かない様子を見せるには、若さ故にかあっさりしていて、今一つコクがない。ここは今後の課題だろう。

 

脇では、亀蔵の義峯が抜け出た様な美しさ。義太夫狂言の白塗り二枚目として、申し分のない出来。比較しては失礼だが、夏の国立で観た虎之介とは雲泥の差。もし虎之介がこれを観ていたら、しっかり学んで欲しいものだ。

 

続いては『本朝白雪姫譚話』。グリム童話の「白雪姫」を歌舞伎化したもの。また大和屋がとんでもないものを持ってきた。大和屋の白雪姫、児太郎の野分の前、梅枝の鏡の精、獅童の郷村新吾、彦三郎の従者晴之進と云う配役。筋は意外な程原作に忠実。しかし歌舞伎化する必要があったのかと云えば少々疑問。他にもっと歌舞伎に合う本はあると思うが・・・。ただ芝居としては面白く観れた。

 

筋は誰でも知っていると思うが、その美しさ故に母親に嫌われた白雪姫が、毒林檎を食べて死んでしまうが、王子様の愛によって蘇生し、仕合せに暮らすと云う噺。大和屋の十六歳と云う設定の白雪姫は少々無理はあったが、そこは歌舞伎ではよくある事なので置いておく。ただ児太郎が母親の野分の前と云うのは幾ら何でもだろう。ただ児太郎の芝居自体は熱演で、実質この狂言の主役として見事なものだった。

 

梅枝の鏡の精も一切表情を変えずクールな佇まいで押し通し、ブルーの照明を当て続けたその容姿は、いかにも人間離れしていて、これも良かった。一応主役ではある大和屋の白雪姫は、芝居としてしどころがなく、大和屋がわざわざ演じる程の役ではない。しどころのなさでは、獅童の郷村新吾、彦三郎の従者晴之進も同様。この二人程の優を使うのは勿体ない。

 

私が配役するなら白雪姫に梅枝、鏡の精に児太郎、野分の前を大和屋にする。野分の前がこの芝居の実質主役なのだから。それと妖精を演じる子供たちは上手いし可愛いのだが、その歌と芝居は少々長く、冗長に感じられた。再演するなら、ここはもっと刈り込んだ方がいいだろう。

 

児太郎の奮闘で、芝居としては観れた。しかし西洋の本を歌舞伎化するなら、シェイクスピア等他にもあると思う。大和屋が敢えてするのであれば、映画の話しではあるが、マクベスを見事に日本に置き換えて映像化した黒澤明の『蜘蛛の巣城』の様な物を、期待したいところだ。

 

批判めいた事を書いたが、『神霊矢口渡』だけでも価値のある夜の部だった。今年の芝居見物もこれでおしまい。筆を改めて、今年の総括を後日綴る事にしたい。

十二月大歌舞伎 昼の部 中車の『たぬき』、大和屋の『保名』、児太郎の「阿古屋」

今月の歌舞伎座を観劇。まず昼の部の感想を綴る。

 

幕開きは大佛次郎作『たぬき』。中車の金兵衛、児太郎のお染、彦三郎の蝶作、亀蔵の三五郎、門之助のおせき、市蔵の多吉と云う配役。師走は出演が恒例になっている中車がいい。軽いところとシリアスなところを上手く演じ分けている。流石は役者歴30年のベテランだ。

 

大佛次郎と云えば、先代團十郎の為に沢山の作品を書いた作家であるが、これは珍しく二代目の松緑が初演した狂言。遂に十一代目が演じる事はなかったが、息子の十二代目が度々演じてそれは実に良かった。中車は出身が現代劇なので、時代物よりこう云う狂言でより持ち味が発揮される。

 

前半の焼き場で早桶から生き返るところの軽さから、一転して二幕目「芝居茶屋の二階」で甲州屋長蔵となって現れて以降の転調具合がいい。最後子供だけがその無垢な目で自分を父だと思い「ちゃんだ!」と叫ぶ。女中お島に手を引かれて帰っていく子供を見送り「子供にゃあかなわねぇ」の科白が、リアルでありながらしっかり歌舞伎調になっている辺りに、梨園に入って以降のこの優の研鑽が見える。いい芝居だった。

 

脇では彦三郎の蝶作が、序幕の妹お染とのやり取りは多少硬さがあったが、芝居茶屋になってからの芝居は上手い。力演傾向にある優だが、太鼓持の軽さが出せている。扇子を細かに使って、死んだはずの金兵衛そっくりの長蔵を薄気味悪く思っているその心情を、見事に表出していた。加えて茶屋の場に少しだけしか登場しないが桂三の新三郎が、お大尽の風情を自然に出していて印象に残った。こう云う役者が脇にいると、場が自然と世話の味になる。さり気ないが、いい芸が観れた。

 

続いて『保名』。小品だが、清元のいい舞踊。演じるのは大和屋。勿論上手い。その美しさ、気品、見事なものだ。しかし大和屋は真女形。どこか女形の風が滲む。小袖を使った舞いはひたすら美しく、それだけでも充分なのだが、松嶋屋の和かさの中にも凛とした風情が懐かしく思えてしまう。大和屋で観るなら、やはり女形舞踊の方が良いのだろう。

 

打ち出しは『壇浦兜軍記』。児太郎の阿古屋、彦三郎の重忠、九團次の岩永と云う配役。児太郎は去年に続いて2回目だが、前回は6回程しか演じていないので、まだ初役みたいなものだろう。現代青年らしく若干科白が走る傾向にはあるか、「そんな事怖がって、苦界が片時なろかいな」の辺り、大和屋の口跡をしっかり写していて、好感が持てる。自分の味を加えて行くのは、まだ先で良かろう。この大役をひたすら行儀よく演じているところがいい。例の琴・三味線・胡弓の演奏はまだまだだが、これは回数を重ねれば自然と身について来る。形もしっかりしていて、今の時点ではまず上々の阿古屋だったと云っていい。

 

脇では、彦三郎の重忠がこれは完全に持ち役になった。口跡のいい優なので、科白回しも朗々としていて、義太夫味もある。素晴らしい捌き役だった。今月の彦三郎、大活躍だ。九團次の岩永は二度目らしいが、手強さが出ていた。総じて花形全力投球のいい芝居だった。梅枝バージョンも観たかったが、時間が取れず残念。次回に期待しよう。

 

続いて観劇した夜の部の感想は、また別項で。

十二月大歌舞伎(写真)

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歌舞伎座に行って来ました。ポスターです。

 

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これでもかの大和屋攻め。

 

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昼の部の絵看板です。

 

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同じく夜の部。

 

昼夜通しで観劇。新歌舞伎あり、舞踊あり、義太夫狂言あり、新作ありのバラエティーに富んだ狂言立てでした。感想はまた改めて綴ります。

 

国立劇場 幸四郎の『蝙蝠の安さん』

国立劇場のもう一演目、『蝙蝠の安さん』の感想を綴る。

 

これはもう大分話題になっているが、サー・チャールズ・スペンサー・チャップリンの名作『街の灯』の歌舞伎化である。当時木村錦花が読売新聞に連載した脚本を、すぐに上演したものが原作らしい。昭和九年の日本封切り以前に初演されているのだから、その歌舞伎スピリッツは素晴らしい。それに新たな科白や場面を付け加えるなど、補綴した上で今回の上演となった様だ。

 

筆者は歌舞伎同様映画も好きで、中でもチャップリンは大好きである。初期の短編は未見のものもあるが、中編を撮り始めたファースト・ナショナル時代の『犬の生活』以降の作品は殆ど観ている。就中『キッド』、『サーカス』そして『街の灯』が個人的なベスト3である。映画としては、後年の『殺人狂時代』が完成度も高く、作り込んだ面白さがあるが、多少説教臭さが鼻につく部分もある。『独裁者』も同様。筆者は先の3作品の様な、チャップリン流の人情噺が好みである。だから今回の上演に期待するところ大だった。結論として、問題がなくはないが、大いに楽しめた。

 

幸四郎の蝙蝠安、新悟のお花、猿弥の新兵衛、友右衛門の勘兵衛、吉弥のおさきと云う配役。歌舞伎史上最も高身長の女形新悟をヒロインにもってきたのは、見上げる感じが欲しかったのだと幸四郎は云っていた。登場人物も多くなく、コンパクトにまとまっている作品なので、歌舞伎を初めて観る人には最適の演目だったのではないかと思う。

 

筋は概ね『街の灯』に準じている。有名な作品なので細部は省略して大筋を記しておく。映画の方は放浪紳士チャーリーが街で知り合った盲目の花売り娘の為に、お金を集めて渡す。しかし娘はお金をくれたチャーリーを大金持ちだと勘違いしており、目が見える様になっても、目の前のチャーリーに気づかない。心優しい娘は、施しのお金をチャーリーに渡そうとする。その時に手が触れて、その手触りから目の前の貧乏ななりをしたチャーリーが、自分にお金をくれた人物だと気づく。気づかれて嬉しい様な、哀しい様なチャーリーの泣き笑い顔のクロースアップでENDとなる。映画史上、最も美しいラストだと思う。

 

チャーリーの役は源氏店から持ってきた蝙蝠安になっていて、舞台は勿論日本に置き換えられている。映画のオープニングだった銅像の序幕式は、大仏のお披露目になっていて、大仏の手のひらで蝙蝠安が眠っている形。映画を知っていればニヤリとさせられるシーンだ。映画では米国国歌が演奏される度に敬礼する人々が笑いを誘うが、今回はドラが鳴る度に人々が合掌すると云う演出。これは映画ほどの効果はあげていない。

 

花道から船に乗った猿弥の新兵衛と廣太郎の又三郎が出て来る。愛妻を亡くしてふさぎ込む新兵衛を又三郎が慰めている。新兵衛は酒癖が悪く、酔いから醒めると酔っていた時の事をすっかり忘れてしまう人物。船が通った大川の上にかかる両国橋で花を売る盲目の娘お花。そのお花に水をかけられ一度は怒る蝙蝠安だが、娘の美貌に一目ぼれし、残りの花を全て買う。そこに駕籠が着いて町人を乗せて立ち去るのを、目が見えないお花は、自分に施しをしてくれた人が駕籠に乗る様な身分の人と誤解する。映画では車に乗った人と勘違いするのだが、そこを日本の舞台に移行させたいい趣向。

 

愛妻の後を追おうとして、身投げをする新兵衛を蝙蝠安が助ける。ここも映画同様助けようとして自分が川に落ちたりするドタバタがあるのだが、幸四郎と猿弥がいい喜劇の味を出していて、映画に劣らない面白い場になっている。友達になった二人は、新兵衛の家に行って飲みなおして大騒ぎ。しかし朝になると新兵衛は安の事をすっかり忘れていて、叩き出されてしまう。

 

お花の家を訪ねる蝙蝠安。すると大家の友右衛門がやって来る。この大家は好人物で、困っているお花から家賃を取る気はないのだが、安はお花の金に困っている窮状を知り、金を稼ぐ為に賭け相撲に出る。映画ではボクシングになっていて、映画特有の早回しを駆使して、非常に笑える場面だが、この相撲場も悪くない。善戦しながらうっかり土俵から足を踏み出してしまい、敢え無く負け。やっちまったと云う表情の幸四郎がいい。

 

また酔っぱらった新兵衛は安と再会して家に連れて帰りどんちゃん騒ぎ。安が金に困っているのを聞き、財布ごと安に渡して眠り込む。夜中に泥棒が入り、岡っ引きがやって来る。酔いから醒めた新兵衛は安に財布を渡した事を覚えておらず、安は泥棒嫌疑をかけられるが、素早くこの場を逃げ出す。この辺りも映画を上手く舞台化している。

 

その財布をお花に渡し、その場から立ち去らせた所で岡っ引きに捕まり、お縄となる安。数ヶ月が過ぎ、舞台は変わって重陽節句の菊供養。今までモノトーンな場が続いていた所で、一転菊花も鮮やかな舞台で、目が見える様になったお花の心境を象徴的に見せる。茶店の客である芸者の春花と春之助がさりげなくいい世話の味を出していて、この大詰めの場が最も歌舞伎らしい。

 

そして幕切れ、お花の前に安が現れる。茶を勧めるお花に「俺は、茶代を置けるお客様じゃねぇよ」と云う安。湯呑に茶を注ぐお花を見て「お前は目が見えるようになったんだね」と語りかける。ここは幸四郎の芝居の上手さが発揮されて、実にしみじみとしたいい場になっているが、作劇上の矛盾点も露出している。映画はサイレントである事も大きいのだが、この場でチャーリーは無言のままだ。そして娘がチャーリーの手に触れた時に、目が見えなかった分、他の感覚が鋭敏になっていた娘は、その手触りで目の前の人物がチャーリと判る。だが、この狂言では安は声を出してしまっている。手を触れてそれと判る娘が、声を聞いても判らないと云うのは、矛盾と云えば矛盾だ。上の「目が見えるように~」の科白は、映画ではチャーリーと判った後で、発する科白だ。ここは映画通りにすべきだったと思う。

 

ただ芝居としては、実に上手い。ここでの幸四郎の哀感溢れる表情は、映画のチャーリーにおさおさ劣らない。「おっかさん、あの人が・・・」と駆け寄ろうとするお花を振り切る様に、「花をありがとうよ」と云って花道を入る幸四郎。結末は判ってはいるのだが、しみじみと心に残るいい幕切れだった。

 

映画の歌舞伎化なので、上手く行っている場とそうでない場とがあるものの、総じていい芝居になっており、ほのぼのとした余韻の残る人情喜劇になっていた。多少の手を入れて、歌舞伎座でも再演して貰いたいものだ。幸四郎チャップリンをよく研究しているのが見て取れ、意欲的な舞台だったと思う。

 

今月はこの後歌舞伎座の昼夜を観劇予定。その感想はまた別項にて。