fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

十二月大歌舞伎 昼の部 中車の『たぬき』、大和屋の『保名』、児太郎の「阿古屋」

今月の歌舞伎座を観劇。まず昼の部の感想を綴る。

 

幕開きは大佛次郎作『たぬき』。中車の金兵衛、児太郎のお染、彦三郎の蝶作、亀蔵の三五郎、門之助のおせき、市蔵の多吉と云う配役。師走は出演が恒例になっている中車がいい。軽いところとシリアスなところを上手く演じ分けている。流石は役者歴30年のベテランだ。

 

大佛次郎と云えば、先代團十郎の為に沢山の作品を書いた作家であるが、これは珍しく二代目の松緑が初演した狂言。遂に十一代目が演じる事はなかったが、息子の十二代目が度々演じてそれは実に良かった。中車は出身が現代劇なので、時代物よりこう云う狂言でより持ち味が発揮される。

 

前半の焼き場で早桶から生き返るところの軽さから、一転して二幕目「芝居茶屋の二階」で甲州屋長蔵となって現れて以降の転調具合がいい。最後子供だけがその無垢な目で自分を父だと思い「ちゃんだ!」と叫ぶ。女中お島に手を引かれて帰っていく子供を見送り「子供にゃあかなわねぇ」の科白が、リアルでありながらしっかり歌舞伎調になっている辺りに、梨園に入って以降のこの優の研鑽が見える。いい芝居だった。

 

脇では彦三郎の蝶作が、序幕の妹お染とのやり取りは多少硬さがあったが、芝居茶屋になってからの芝居は上手い。力演傾向にある優だが、太鼓持の軽さが出せている。扇子を細かに使って、死んだはずの金兵衛そっくりの長蔵を薄気味悪く思っているその心情を、見事に表出していた。加えて茶屋の場に少しだけしか登場しないが桂三の新三郎が、お大尽の風情を自然に出していて印象に残った。こう云う役者が脇にいると、場が自然と世話の味になる。さり気ないが、いい芸が観れた。

 

続いて『保名』。小品だが、清元のいい舞踊。演じるのは大和屋。勿論上手い。その美しさ、気品、見事なものだ。しかし大和屋は真女形。どこか女形の風が滲む。小袖を使った舞いはひたすら美しく、それだけでも充分なのだが、松嶋屋の和かさの中にも凛とした風情が懐かしく思えてしまう。大和屋で観るなら、やはり女形舞踊の方が良いのだろう。

 

打ち出しは『壇浦兜軍記』。児太郎の阿古屋、彦三郎の重忠、九團次の岩永と云う配役。児太郎は去年に続いて2回目だが、前回は6回程しか演じていないので、まだ初役みたいなものだろう。現代青年らしく若干科白が走る傾向にはあるか、「そんな事怖がって、苦界が片時なろかいな」の辺り、大和屋の口跡をしっかり写していて、好感が持てる。自分の味を加えて行くのは、まだ先で良かろう。この大役をひたすら行儀よく演じているところがいい。例の琴・三味線・胡弓の演奏はまだまだだが、これは回数を重ねれば自然と身について来る。形もしっかりしていて、今の時点ではまず上々の阿古屋だったと云っていい。

 

脇では、彦三郎の重忠がこれは完全に持ち役になった。口跡のいい優なので、科白回しも朗々としていて、義太夫味もある。素晴らしい捌き役だった。今月の彦三郎、大活躍だ。九團次の岩永は二度目らしいが、手強さが出ていた。総じて花形全力投球のいい芝居だった。梅枝バージョンも観たかったが、時間が取れず残念。次回に期待しよう。

 

続いて観劇した夜の部の感想は、また別項で。

十二月大歌舞伎(写真)

f:id:fabufuji:20191219072506j:plain

歌舞伎座に行って来ました。ポスターです。

 

f:id:fabufuji:20191219072519j:plain

これでもかの大和屋攻め。

 

f:id:fabufuji:20191219072533j:plain

昼の部の絵看板です。

 

f:id:fabufuji:20191219072546j:plain

同じく夜の部。

 

昼夜通しで観劇。新歌舞伎あり、舞踊あり、義太夫狂言あり、新作ありのバラエティーに富んだ狂言立てでした。感想はまた改めて綴ります。

 

国立劇場 幸四郎の『蝙蝠の安さん』

国立劇場のもう一演目、『蝙蝠の安さん』の感想を綴る。

 

これはもう大分話題になっているが、サー・チャールズ・スペンサー・チャップリンの名作『街の灯』の歌舞伎化である。当時木村錦花が読売新聞に連載した脚本を、すぐに上演したものが原作らしい。昭和九年の日本封切り以前に初演されているのだから、その歌舞伎スピリッツは素晴らしい。それに新たな科白や場面を付け加えるなど、補綴した上で今回の上演となった様だ。

 

筆者は歌舞伎同様映画も好きで、中でもチャップリンは大好きである。初期の短編は未見のものもあるが、中編を撮り始めたファースト・ナショナル時代の『犬の生活』以降の作品は殆ど観ている。就中『キッド』、『サーカス』そして『街の灯』が個人的なベスト3である。映画としては、後年の『殺人狂時代』が完成度も高く、作り込んだ面白さがあるが、多少説教臭さが鼻につく部分もある。『独裁者』も同様。筆者は先の3作品の様な、チャップリン流の人情噺が好みである。だから今回の上演に期待するところ大だった。結論として、問題がなくはないが、大いに楽しめた。

 

幸四郎の蝙蝠安、新悟のお花、猿弥の新兵衛、友右衛門の勘兵衛、吉弥のおさきと云う配役。歌舞伎史上最も高身長の女形新悟をヒロインにもってきたのは、見上げる感じが欲しかったのだと幸四郎は云っていた。登場人物も多くなく、コンパクトにまとまっている作品なので、歌舞伎を初めて観る人には最適の演目だったのではないかと思う。

 

筋は概ね『街の灯』に準じている。有名な作品なので細部は省略して大筋を記しておく。映画の方は放浪紳士チャーリーが街で知り合った盲目の花売り娘の為に、お金を集めて渡す。しかし娘はお金をくれたチャーリーを大金持ちだと勘違いしており、目が見える様になっても、目の前のチャーリーに気づかない。心優しい娘は、施しのお金をチャーリーに渡そうとする。その時に手が触れて、その手触りから目の前の貧乏ななりをしたチャーリーが、自分にお金をくれた人物だと気づく。気づかれて嬉しい様な、哀しい様なチャーリーの泣き笑い顔のクロースアップでENDとなる。映画史上、最も美しいラストだと思う。

 

チャーリーの役は源氏店から持ってきた蝙蝠安になっていて、舞台は勿論日本に置き換えられている。映画のオープニングだった銅像の序幕式は、大仏のお披露目になっていて、大仏の手のひらで蝙蝠安が眠っている形。映画を知っていればニヤリとさせられるシーンだ。映画では米国国歌が演奏される度に敬礼する人々が笑いを誘うが、今回はドラが鳴る度に人々が合掌すると云う演出。これは映画ほどの効果はあげていない。

 

花道から船に乗った猿弥の新兵衛と廣太郎の又三郎が出て来る。愛妻を亡くしてふさぎ込む新兵衛を又三郎が慰めている。新兵衛は酒癖が悪く、酔いから醒めると酔っていた時の事をすっかり忘れてしまう人物。船が通った大川の上にかかる両国橋で花を売る盲目の娘お花。そのお花に水をかけられ一度は怒る蝙蝠安だが、娘の美貌に一目ぼれし、残りの花を全て買う。そこに駕籠が着いて町人を乗せて立ち去るのを、目が見えないお花は、自分に施しをしてくれた人が駕籠に乗る様な身分の人と誤解する。映画では車に乗った人と勘違いするのだが、そこを日本の舞台に移行させたいい趣向。

 

愛妻の後を追おうとして、身投げをする新兵衛を蝙蝠安が助ける。ここも映画同様助けようとして自分が川に落ちたりするドタバタがあるのだが、幸四郎と猿弥がいい喜劇の味を出していて、映画に劣らない面白い場になっている。友達になった二人は、新兵衛の家に行って飲みなおして大騒ぎ。しかし朝になると新兵衛は安の事をすっかり忘れていて、叩き出されてしまう。

 

お花の家を訪ねる蝙蝠安。すると大家の友右衛門がやって来る。この大家は好人物で、困っているお花から家賃を取る気はないのだが、安はお花の金に困っている窮状を知り、金を稼ぐ為に賭け相撲に出る。映画ではボクシングになっていて、映画特有の早回しを駆使して、非常に笑える場面だが、この相撲場も悪くない。善戦しながらうっかり土俵から足を踏み出してしまい、敢え無く負け。やっちまったと云う表情の幸四郎がいい。

 

また酔っぱらった新兵衛は安と再会して家に連れて帰りどんちゃん騒ぎ。安が金に困っているのを聞き、財布ごと安に渡して眠り込む。夜中に泥棒が入り、岡っ引きがやって来る。酔いから醒めた新兵衛は安に財布を渡した事を覚えておらず、安は泥棒嫌疑をかけられるが、素早くこの場を逃げ出す。この辺りも映画を上手く舞台化している。

 

その財布をお花に渡し、その場から立ち去らせた所で岡っ引きに捕まり、お縄となる安。数ヶ月が過ぎ、舞台は変わって重陽節句の菊供養。今までモノトーンな場が続いていた所で、一転菊花も鮮やかな舞台で、目が見える様になったお花の心境を象徴的に見せる。茶店の客である芸者の春花と春之助がさりげなくいい世話の味を出していて、この大詰めの場が最も歌舞伎らしい。

 

そして幕切れ、お花の前に安が現れる。茶を勧めるお花に「俺は、茶代を置けるお客様じゃねぇよ」と云う安。湯呑に茶を注ぐお花を見て「お前は目が見えるようになったんだね」と語りかける。ここは幸四郎の芝居の上手さが発揮されて、実にしみじみとしたいい場になっているが、作劇上の矛盾点も露出している。映画はサイレントである事も大きいのだが、この場でチャーリーは無言のままだ。そして娘がチャーリーの手に触れた時に、目が見えなかった分、他の感覚が鋭敏になっていた娘は、その手触りで目の前の人物がチャーリと判る。だが、この狂言では安は声を出してしまっている。手を触れてそれと判る娘が、声を聞いても判らないと云うのは、矛盾と云えば矛盾だ。上の「目が見えるように~」の科白は、映画ではチャーリーと判った後で、発する科白だ。ここは映画通りにすべきだったと思う。

 

ただ芝居としては、実に上手い。ここでの幸四郎の哀感溢れる表情は、映画のチャーリーにおさおさ劣らない。「おっかさん、あの人が・・・」と駆け寄ろうとするお花を振り切る様に、「花をありがとうよ」と云って花道を入る幸四郎。結末は判ってはいるのだが、しみじみと心に残るいい幕切れだった。

 

映画の歌舞伎化なので、上手く行っている場とそうでない場とがあるものの、総じていい芝居になっており、ほのぼのとした余韻の残る人情喜劇になっていた。多少の手を入れて、歌舞伎座でも再演して貰いたいものだ。幸四郎チャップリンをよく研究しているのが見て取れ、意欲的な舞台だったと思う。

 

今月はこの後歌舞伎座の昼夜を観劇予定。その感想はまた別項にて。

国立小劇場 文楽公演『一谷嫩軍記』(写真)

f:id:fabufuji:20191216070719j:plain

国立小劇場で文楽を観劇して来ました。ポスターです。

 

f:id:fabufuji:20191216070732j:plain

千秋楽でした。手ブレてしまった。。。

 

f:id:fabufuji:20191216070757j:plain

今回は何と楽屋に入れて頂きました。

 

f:id:fabufuji:20191216070813j:plain

着到番です。ひたすら感激。

 

『一谷嫩軍記』を陣門から陣屋迄の通し。太夫は薄口でしたが・・・。今回は咲太夫や和夫と云った重鎮が指導に回り、若手・中堅の会と云った趣きでした。楽屋をご案内頂いた吉田勘弥師、有難うございました。

 

国立劇場 白鸚の『近江源氏先陣館~盛綱陣屋』

十二月国立劇場の「盛綱」と新歌舞伎『蝙蝠の安さん』を観劇。素晴らしかった「盛綱」の感想を綴る。

 

年も押し迫った師走に、凄い舞台を観た。白鸚の「盛綱陣屋」である。同じ演目を今年は歌舞伎座に於いて松嶋屋でも観ており、その時もいたく感激したものだったが、今回の白鸚も風合いは大分異なるが、素晴らしかった。

 

この「盛綱陣屋」と云う芝居は、『近江源氏先陣館』全九段中八段目にあたり、この段だけで2時間近くを要する大作である。しかもこの長い芝居の間場面転換もなく、一幕きりなのだ。これを見物に飽きさせず引き付けて行くのは大変な事だ。しかし今回筆者は、正にまんじりともせず、舞台を凝視し続けていた。全く時間を感じさせず、気づいたら盛綱と和田兵衛が舞台上に決まって幕となっていたと云う感じだった。

 

白鸚の盛綱の特徴は、とにかく苦悩する人であると云う点だ。クライマックスの生締めの鬘と云う捌き役のいで立ちになっても、松嶋屋の様に爽やかではない。松嶋屋の芸風は派手で、首実検の場では勿論細やかな心理描写の妙を見せてじっくり演じるが、篝火を呼び寄せる「高綱の計略、しおおせたり、最期の対面許す許す」など、その名調子に酔わされる。松嶋屋におさおさ劣らない口跡を持つ白鸚だが、この科白でも名調子を聴かせようとはしない。苦悩する人のトーンが基調として貫かれており、芝居に一つの確固たる芯が通っている。音楽で云えは、松嶋屋長調白鸚のそれは短調と云う事になるだろう。

 

これを捉えてこの芝居を陰気と評した劇評も見たが、受け取る人によってはそうも見えるのだな、と思う。筆者感想は全く違い、これは戦さによって引き起こされる非常に深刻な人間悲劇のドラマなのだ。それが顕著に現れるのは、例の首実検の場面だ。

 

松嶋屋に限らず誰が演じても、ここは首が高綱ではないと気づいた時盛綱は驚き、そして「流石やりおったな」と云う心持ちでニヤっと笑う。しかし白鸚の盛綱は笑わない。戦さで家族を敵味方に引き裂かれ、苦悩する人盛綱は笑うと云う心境にはなれないのだ。時政に促され弟の首実検に臨む盛綱は、弟の討ち死にを思い沈鬱な表情をしている。そして首桶の蓋を取り首を確認しようとしたその刹那、甥の小四郎が飛び出して腹を切る。盛綱は驚いて母微妙に制止する様に云って首を見る。そしてそれが贋首と判り驚きと共に安堵の表情を浮かべる。だがすく甥が腹を切っている事を思い出し、これは高綱親子が贋首を本物と思わせる為に仕組んだ計略と察する。目を閉じて一瞬思い悩んだ後「弟佐々木高綱が首に、相違ない、相違ござりませぬ」と時政に涙ながらに首桶を差し出す。この一連の流れの中に、甥の死を前にして、忠義との狭間で苦悩する盛綱の心情の哀れさが滲み、目頭が自然に熱くなった。

 

演じ方としてはリアルであり、その分地味な印象にもなる。松嶋屋の様に高らかに調子を張った方が歌舞伎調ではあるだろう。しかしこのリアルさは、いかにも白鸚の行き方である。首桶を開けて高綱(とこの時は思っている)の首の傷口を懐紙で拭う場面でも、その手つきに弟への哀惜の念が滲み、本当に素晴らしい。そしてここが凄いところなのだが、これだけリアルでありながら、義太夫味を失わないのだ。

 

微妙に「京方へ味方する所存なるか」と問われた時の盛綱の長科白「教えも教え、覚えも覚えし親子が才智」「負うた子に教えられ、浅瀬を渡るこの佐々木」あたりの義太夫味は、天下の丸本役者白鸚の面目躍如と云ったところ。役者歴70年の芸が冴える。

 

素晴らしい点を書いているときりがない。微妙に小四郎を切腹させる様に頼む場での「現在の甥の命、申し宥めて助くるこそ、情けとも云うべけれ、殺すを却って情けとは」の涙混じりの科白も、肉親への愛と、武士の習いに引き裂かれる心情を余すところなく表現していて、正に無類の味。本当に凄い芝居を観れた。

 

脇では吉弥の微妙が初役とは思えない出色の出来。小四郎に腹切らせ様として果たせず、泣き崩れながら今日初めて会う孫を抱きしめる場では、こちらも貰い泣きをした。彌十郎の和田兵衛は義太夫味は薄いが、大きな柄を生かした手強い出来。白鸚を向こうに回して健闘していた。魁春の篝火は流石に上手い。陣屋の外から我が子を案じる難しい芝居だが、微妙と小四郎のやり取りに一つ一つしっかり反応する細やかな芸を見せてくれた。幸四郎信楽太郎、猿弥の伊吹藤太も共に申し分なし。

 

最後に特記しておきたいのは、小四郎を演じた幸一郎。初舞台らしいが、所作もしっかりしていて、声も良く通り、実にいい小四郎だった。まだ幼い乍ら声良し、顔良し、姿良し。栴檀は双葉より芳し、もしこの初舞台で予感させた物が見事開花するならば、50年後の歌舞伎界は、松嶋屋クラスの役者を、もう一人持つ事になるかもしれない。そんな事をふと思わされた。

 

まだ書き足りない思いも残る「盛綱」だが、長くなったのでもう一つの出し物『蝙蝠の安さん』はまた別項にて綴りたい。

国立劇場 『近江源氏先陣館~盛綱陣屋』、『蝙蝠の安さん』 (写真)

f:id:fabufuji:20191209065439j:plain

国立劇場行って来ました。ポスターです。

f:id:fabufuji:20191209065453j:plain

くろごちゃんの盛綱です。

 

f:id:fabufuji:20191209065509j:plain

同じく、くろごちゃんの蝙蝠の安さんです。

 

白鸚実に28年ぶりと云う渾身の「盛綱陣屋」。堪能して来ました。初演以来88年ぶりと云う『蝙蝠の安さん』も面白く観れました。感想はまた別項にて。

 

シネマ歌舞伎『女殺油地獄』(写真)

f:id:fabufuji:20191203075152j:plain

東劇に行って来ました。ポスターです。

 

f:id:fabufuji:20191203075210j:plain

舞台写真です。光ってしまった・・・

 

f:id:fabufuji:20191203075225j:plain

次回上映はこちら。これもそそる。

 

シネマ歌舞伎を久々に観て来ました。前半は舞台をそのまま撮影している感じでしたが、後半の殺しの場面は、この映画用に独自に撮影した映像を編集して入れてあり、大スクリーンならではの凄い迫力でした。大阪松竹で観た実際の舞台も素晴らしかったですが、この映画も、映画として堪能しました。お薦めです。