fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

秀山祭九月大歌舞伎(写真)

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秀山祭、行って来ました。3枚つづりのポスターです。

 

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昼の部絵看板です。

 

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夜の部絵看板です。

 

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歌昇の子供、又五郎の孫。時の流れは早いなぁ・・・

 

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今年の秀山祭は、三世歌六の追善興行でもあります。

 

江戸時代に生まれた役者を、令和になって追善する。歌舞伎ならではの素敵な事です。それだけ伝統のある芸能であるし、追善する方もされる方も、いい役者である証拠。公演の感想はまた別項にて。

 

八月納涼歌舞伎 第一部 幸四郎・七之助の『伽羅先代萩』

八月納涼歌舞伎第一部の感想を綴る。

 

義太夫狂言の名作中の名作『伽羅先代萩』に、幸四郎七之助が挑んだ。幸四郎の仁木・八汐、七之助の政岡、児太郎の沖の井、扇雀の栄御前、巳之助の男之助と云う配役。完全に令和新時代を睨んだキャスティングだ。幸四郎の八汐、七之助・児太郎・扇雀・巳之助がいずれも初役。どうなるものかと思っていたが、これが素晴らしかった。

 

まず七之助の政岡が初役と思えない出来。しかも「飯炊き」付きだ。女形最高峰の至難の大役だが、見事にやり遂げてくれた。大体誰がやっても「飯炊き」は動きも少なく、ダレずに演じるのは難しい場面。だが今回ここが実にいいのだ。

 

「飯炊き」の手順に追われている感がない。茶道のお点前に則ってご飯を炊くだけのシーンなのだが、背中越しに幼君と息子がいると云う肚がしっかりある。それが客席からも判る。子役二人が甥っ子だったと云うのも大きいかもしれない。知らず知らずの内に、肉親の情愛が出て来るのではないか。

 

そして八汐に我が子千松を目の前で刺殺されながら、鶴千代を護って身じろぎもしないその凛とした姿勢もいい。そこがいいから、我が子の死骸と二人きりになった後の慟哭が生きる。遺骸を抱きかかえて御殿に上がり「千松!」と我が子に呼びかけて泣き崩れる場面では、筆者も堪えきれずに涙。本当に初役とは思えない見事な政岡だった。

 

それを受けての幸四郎の八汐がまたいい。当代の八汐役者と云えば何と云っても松嶋屋だが、松嶋屋は何度も勤めた余裕からか、実に憎体な中にも何とも云えない愛嬌、悪役らしい愛嬌が滲むのだが、初役の幸四郎にその余裕はない。ないだけにしっかり丁寧に演じており、憎々しさをしっかり出していて、流石と思わせる出来だった。

 

そしてもう一役の仁木弾正。これがまた素晴らしい。幸四郎の仁木は去年の博多座での襲名で「伊達の十役」で観ていて見事な出来だったが、今回の「先代萩」の仁木もそれに劣らない。すっぽんからせり上がってきたところ、巨悪の太々しさ、おどろおどろしたところをしっかり出している。科白がほとんどない役なので、役者の身体で見せなければならない仁木。本来幸四郎のニンではないと思うのだが、襲名以降進境著しい幸四郎には、ニンなど関係なかった。花道を引き揚げる仁木の相貌は、お父っつあんの白鸚を思わせて、普段この親子の顔はそんなに似ているとは思っていなかったのだが、やはり血だなぁと思わせられた。

 

脇では扇雀の栄御前が見事な位取りと、憎々しさを出しており、児太郎の沖の井も政岡よりも位上位にある品格をしっかり見せていて、共にいい出来。そして巳之助の男之助が声も良く通り、力感もある素晴らしい男之助。三人とも初役とは思えない見事な出来。令和の時代にも、素晴らしい丸本が観れると確信させてくれる「先代萩」だった。

 

打ち出し狂言は『闇梅百物語』。河竹新七 の舞踊劇だが、これはあまり面白味がなかった。虎之介の新造はまだ歌舞伎役者の形になっていないし、彌十郎も大内義弘はともかく、狸はコスプレっぽくて、ふざけている様に見える。ただその中で、「枯野原の場」で幸四郎が出てくると、今までの場の雰囲気が一変する。きっぱりとした実にいい形で、この優の踊りはやはりモノが違う。虎之介にはこの幸四郎をじっくりと見て精進して欲しいと思う。

 

丸本から新作迄、バラエティに富んだ内容で、たっぷり堪能出来た八月。来月は秀山祭、京都南座を観劇予定。古典をじっくり味わいたいと思う。

 

 

八月納涼歌舞伎 第三部 大和屋・中車・七之助の『新版 雪之丞変化』

八月納涼歌舞伎第三部を観劇。その感想を綴る。

 

今まで何度も映画や舞台になってきた三上於菟吉原作の「雪之丞変化」。何と云っても長谷川一夫が決定版だが、筆者的には大川橋蔵も印象に残る。その作品に大和屋が挑んだ。しかも換骨奪胎して、今までとは全く違う色合いの作品に仕上げている。良し悪しはともかく、大和屋の壮大な挑戦と云えるだろう。

 

配役は大和屋の雪之丞・浪路、七之助の星三郎、中車が菊之丞・三斎・孤軒老師・一松斎・闇太郎の五役を兼ねる。但しこの中で、大和屋の浪路、中車の一松斎は映像のみ。そう、本作は舞台と映像を融合させた作品なのだ。しかもかなり大胆に取り入れている。そして七之助が演じた星三郎は、長谷川版にも大川版にも出てこない。おそらく七之助への当て書きだろう。ことほど左様に、今までの「雪之丞変化」とは違っている。これをどう考えるかで、今作の評価は変わってくると思われる。

 

幕開きは女形である雪之丞が「先代萩」を舞台で演じているところから始まる。八汐は星三郎の七之助。一部で七之助が政岡を演じているのを意識した上での演出。中々粋だが、ほんのさわりだけなので、どうと云う事はない。床下も付いていて、仁木は中車扮する菊之丞。一部の感想はまた別途綴るが、幸四郎が昼に演じているだけに比較されてしまうのが気の毒。頑張ってはいるが、やはり幸四郎の様にはいかない。ただ揚幕に入った後も映像が中車を追っていて、普段見られない奈落の様子などが舞台のスクリーンに映し出されたのは面白い趣向。

 

細かく筋を追っていくと長くなるので割愛するが、国元において悪人土部三斎の企みで両親が不慮の死を遂げ、女形になった息子雪之丞がその復讐を遂げるストーリー。そこに芸道話しが加わってくる。この世に役者と云う存在は必要なのか?復讐の為に自分は生きているが、本望を遂げたら自分と云う人間は何もなくなってしまうのではないか?と云う懊悩があり、それを度々師匠の菊之丞や先輩の星三郎にぶつける。これがこの芝居の大きなテーマだ。

 

しばしば映像のみで進行したり、実際に舞台で演じている役者と映像に映っている役者がやり取りをしたりする。歌舞伎劇の演出としては非常に斬新だが、必然性があったのかと云えば少々疑問。二次元と三次元のやり取りでは、どうしても芝居の肚が薄くなる。特に浪路を映像のみにしてしまっているので、原作にある復讐の為に犠牲になる浪路の悲哀が出てこない。雪之丞と浪路の悲恋物語は映画などでは大きな見せ場になっているので、残念だった。どちらの役も大和屋が兼ねているので、難しいとは思うが、例えば七之助に浪路を兼ねさせる様な行き方もあったのではないか。

 

途中これまた映像で「鷺娘」や「道成寺」が映し出されたり、七之助と「籠釣瓶」や「二人椀久」を演じたりする趣向もあるが、いずれもさわりのみでどうしても喰い足りない思いが募る。特に第一幕は盛り上がりに欠け、寂しい出来だった。しかし第二幕にになると、復讐に向けてぐんぐん近づいて行く緊迫感があり、純粋に芝居としての面白味が増してくる。特にこの幕から登場する中車の闇太郎は五役の中でも出色の出来で、雪之丞に浪路を利用して復讐を成就させる智恵を授ける辺り、世話の味をしっかり出せていて実にいい芝居になっている。仁木では未だしの感があった中車だが、歌舞伎役者としてのこの優の大きな進歩を見た思いだ。これがこの芝居の一番の収穫だったかもしれない。

 

最後は見事本懐を遂げて悲願成就となる。そして師匠菊之丞に、立派な役者としてこの後の人生を生きるのが一筋の光なのだと諭され、復讐のみでない役者としての自分の人生を見出す。幕引きは、かなめや芝のぶ以下を従えての「元禄花見踊」。ここを不要だったとする劇評もあったが、筆者の感想は真逆。立派な役者として生きる人生を見出した雪之丞の姿を印象づける、見事なエンディングだったと思う。そしてまたこの「花見踊」が実に素晴らしい出来なのだ。確かにたっぷり踊っているので、芝居の幕引きとしては、必要以上に長い。しかし今までの芝居の中で、立女形大和屋の歌舞伎役者としての芸がさわりだけしか見られなかった空腹感を埋めて余りある、見事な踊りだった。

 

全体として大和屋の目論見が完全に成功したとは云えないが、現代に生きる歌舞伎劇の一つの行き方を提示したかったのだと思う。その他脇では七之助は途中死んでしまう事もあり、存在感が薄い。しかも大和屋の先輩役者と云う役回りは年齢的にも無理があり、気の毒ではあった。中車は上に記した通りだが、五役の中で闇太郎に次ぐ出来だった一松斎が映像のみだったのが惜しまれる。この役はしっかり芝居で見たかった。狂言回し的な役割を担ったやゑ六の鈴虫は、まだ荷が重かった。今後の精進に期待したい。

 

残る第一部の感想は、また別項にて。

 

 

 

 

八月納涼歌舞伎 第二部 幸四郎・猿之助の『東海道中膝栗毛』

八月納涼歌舞伎を観劇。まず第二部の感想から。

 

毎年恒例の幸四郎猿之助コンビによるYJKT。今年も満員の盛況で楽しく観劇した。幸四郎が弥次郎兵衛と獅子戸乱武の二役、猿之助も喜多八と黒船風珍の二役。この二人がそれぞれ武士に外貌がそっくりと云うところから巻き起こる珍道中。他は染五郎の梵太郎、團子の政之助のレギュラーに加え、中車の霧蔵、七之助のお七、今年は何に扮するかと楽しみだった門之助が奥の井と云う布陣。去年死んだはずの弥次喜多だったが、それは夢だったと云うオープニング。ありきたりだが、去年で終わりにならなかったのは大慶。

 

改めてお伊勢参りをしようと云う事になり、二人は江戸を立つ。この二人が悪者の戸乱武(トランプ)と風珍(プーチン)にそっくりだった事から、身替りに利用されて、宝剣と偽った刀をお伊勢さんに奉納する様に頼まれる。二大国の大統領をズバリ悪役にしてしまうあたり、流石は猿之助エスプリが効いている。二人は染五郎と團子を道連れに、律儀に奉納しようと旅を続ける。

 

内容は例年通りたわいもないもの。そこを役者の技量と、台本で魅せる喜劇に仕立て上げているのは流石。途中稲瀬川や鈴ケ森、陣門・組打などの古典の趣向を取り入れ、歌舞伎らしい喜劇になっている。

 

途中七之助大河ドラマを模していだてん走りで花道を駆け抜けたり、猿弥が娘義太夫に扮して中々の節回しを聴かせたりと、面白い趣向も満載。猿之助は六月に三谷歌舞伎に出ながらこの新作を書き上げ、科白も当然覚えねばならず、10月にはオグリもある。全て新作である事を考えれば、正に超人的な働きだと思う。本当に歌舞伎界にとって得難い優であると思う。

 

最後は無事お伊勢様に着いたはいいが、借金取りから逃れる為に花火の筒の中に隠れた弥次喜多が、花火と共に打ち上げられ、お約束の宙乗り幸四郎は空中三回転をきめるなどノリノリ。猿之助は傘を片手に持っての難しい宙乗りをさらりとこなす。満員の客席から降る様な「高麗屋!」「澤瀉屋!」の大向こうを浴びながら幕となった。筆者は基本的に義太夫狂言の様な肚を必要とする古典が好みではあるが、たまにはこう云う肩の凝らない軽い喜劇もいいものだ。大いに楽しめた一幕だった。

 

残る一部・三部は、また別項にて綴る事にする。

 

八月納涼歌舞伎(写真その2)

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一部のポスターです。先代萩でなく、何故かこちら。

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二部のポスター。今年も笑かして頂きました。

 

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三部のポスター。大和屋、立女形の貫禄です。

 

まだ三部は未見。別項にてまた改めて感想を綴ります。

 

国立劇場 歌舞伎鑑賞会 松緑の『菅原伝授手習鑑 ― 車引 ― 』、『棒しばり』

国立劇場の歌舞伎鑑賞会を観劇。その感想を綴る。

 

まず最初に「歌舞伎のみかた」。新悟と玉太郎による解説。最初は新悟一人で花道から登場し、見得。その後玉太郎を呼び寄せての演目解説。そしてまた撮影タイムがあった。これはこれからの定番になるのだろう。

 

最初の狂言は「車引」。松緑の松王、亀蔵の梅王、新悟の桜丸、松江の時平と云う配役。これは中々厳しい出来だった。つい先日に高麗屋梅玉の同演目を観たと云う事もあるが、役者によって同じ狂言でもこうも違うものかと改めて思わされてしまった。

 

まず松緑の科白が、全く義太夫狂言のそれになっていない。度々ブログ内でも指摘しているが、この優は科白回しに独特の癖があり、それが気にならない時もあるのだが、義太夫狂言では耳障りになり、義太夫味を著しく阻害する。勿論花形世代屈指の舞踊の名手松緑、形はきっかりしており、荒事の力感もある。しかし科白になると一気に時代物から現代に引き戻されてしまうのだ。

 

亀蔵の梅王は無難にまとめた感はあるが、梅王の力強さはない。科白回しはよく声の通る優だけに、悪くはないが、力みが目立つ。新悟の桜丸に至っては、形もきっぱりしない上に声が女形声。桜丸は女形が演じる事も度々あるが、あくまで立役である。新悟は何か勘違いしているのではないか。四月に観た梅玉の素晴らしさが記憶に新しいだけに、残念だった。中では松江の時平公が、やや小粒ではあるが、古怪さを出していて、いい出来だった。近年の松江は充実していて、いつもおっと思わせる芝居を見せてくれているのが嬉しい。

 

打ち出し狂言は『棒しばり』。松緑の次郎冠者、亀蔵の太郎冠者、松江の松兵衛と云う配役。これは一転、素晴らしい出来だった。松緑が舞踊の腕を存分にふるっている。以前観た『素襖落』はどこか硬く、剽げた味が出ていなかったが、今回は違う。棒を使って見せるところでの「打って打って打ちなやいでやりまする」の軽さ、酒を呑むところの「いざ呑むぞ」「呑め呑め」のイキ、実に観ていて心地よい。

 

棒にしばられながらも酒を呑み、その縛られた状態で段々酩酊していく。形を崩さずに酔いを表現する超絶技巧。舞踊の名手松緑の本領発揮と云ったところ。客席にも酒の匂いが漂って来るかの様だった。この素晴らしい次郎冠者を受けての亀蔵の太郎冠者も、軽妙でいい。ともすると硬さが目立つ優だが、松緑に触発されたのか、洒脱な味を出している。

 

松江の松兵衛共々三人のイキもぴったりで、これぞ松羽目と云たくなる素晴らしい出来だった。客席も大いに沸いていて、歌舞伎初心者の人も充分楽しめたのではないだろうか。松緑で『釣女』や『身替座禅』なども観てみたいものだ。

 

今月は歌舞伎座が三部制。全部観劇予定なので、その感想は観劇後また別項にて綴ろうと思う。