fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

四月大歌舞伎 昼の部 梅玉・松緑の「引窓」、歌昇・新吾・隼人・右近他の『七福神』、愛之助・菊之助の『夏祭浪花鑑』

今月最後、歌舞伎座昼の部を観劇。やはり二階席後方に若干の空席はあったものの、九分通りの入りと云ったところか。世話物の丸本二題と、若手花形うち揃っての舞踊と云う狂言立て。歌舞伎座愛之助菊之助が組むのは、最近ではかなり珍しいのではないか。筆者は観れなかったのだが、去年の博多座でやはりこの二人の「夏祭」がかかり、愛之助はその好演で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞したと云う。目出度い限りだ。

 

後先を考えず、その「夏祭」から記す。愛之助が九郎兵衛とお辰の二役、菊之助の徳兵衛、米吉のお梶、巳之助の三吉、莟玉の琴浦、歌女之丞のおつぎ、橘三郎の義平次、種之助の磯之丞、歌六の三婦と云う配役。博多座では雀右衛門が演じたお辰を、愛之助が二役で勤めるのが目を引く。中では米吉のみが初役らしい。愛之助は初演時に、我當と当代仁左衛門に教わったと云う。亡き播磨屋勘三郎が得意としており、当代では團十郎と関東系の役者が演じているので、平成以降歌舞伎座で関西系の「夏祭」がかかるのは初めての様だ。

 

やはり愛之助のネイティブな関西弁は聞いていて心地よい。筋書で愛之助が「侠気溢れる一本気な上方の兄ちゃん」と語っていた通りの漢臭さが横溢する九郎兵衛。菊之助の徳兵衛との立札を用いた立ち回りでは、踊り上手な二人らしい見事にイキの合った所作も見せてくれて、見応えたっぷり。途中は端折るが、匿っていた恩ある磯之丞の想い人琴浦を、義父である義平次が騙して連れ去ったと聞き、後を追う。そしてクライマックス「長町裏の場」での義平次との二人芝居となる。

 

この場は市蔵の義平次がやはり上手い。実にしつこく九郎兵衛に纏わりつき、アクの強さはこの優ならでは。この義平次の悪が効いているので、誤って斬ってしまう九郎兵衛の無念さが一層引き立つ。この二人の絡みは丸本らしくイトに乗った様式的な所作なので、舞踊楳茂都流の家元らしい愛之助の形の良さが生きる。芝居の上手さや義太夫味では無論播磨屋だが、この場のイトに乗った所作は決して踊りの名手ではなかった播磨屋より優れたものになっている程だ。愛之助、実に見事な出来であったと思う。

 

もう一役のお辰の方は、流石に九郎兵衛の様な訳には行かなかった。稀に女形もこなす愛之助なので、その美しさ・科白廻しは立役の加役レベルではない。しかし鉄火肌ではあるが、三婦が磯之丞との同行を危険と見て反対する程の色気がなければならない役。その点で真女形程の艶が出せていない。これは手に余った感じであった。一方歌六の三婦は何度も演じて完全に自家薬籠中の物。そのイキの良さ、太々とした描線、気風と情味を併せ持った彫りの深い人物造形、正に当代の三婦である。菊之助の徳兵衛は上方味は薄かったものの、さっぱりとしたイキのいい芝居でこの優らしい鯔背な徳兵衛。種之助の磯之丞に色気が乏しかったのと、巳之助が三吉一役だった点は残念だが、相対的に結構な出来の『夏祭浪花鑑』であった。

 

順番が遡るが、その前の出し物は『七福神』。長唄舞踊で、『寿七福神宝入船』を今井豊茂が改訂したもの。配役は歌昇の恵比寿、新吾の弁天、隼人の毘沙門、鷹之資の布袋、虎之介の福禄寿、右近の大黒、萬太郎の寿老人。前回は芝翫鴈治郎又五郎と云ったベテランが七福神に扮したのだが、今回は思い切って若手花形に振っているのがミソ。弁天や毘沙門天は老けた扮装ではないので判り易かったが、他は一瞬誰だか判らない位の老けメイク。特に虎之介は判らなかった(苦笑)。

 

扮装は老人だがそこは演者が若手花形。イキイキとした所作で、楽しく見せてくれる。大した振りがついている訳ではないが、兎に角七人もいるので、誰を観ようか迷ってしまう。隼人と新吾が並んだところは若手花形らしい美しさで目を引く。舞踊としては歌昇と鷹之資の存在が目立っていたと云う感じであった。世間的にはあまり良い事がない昨今なので、ぜひ七福神に福を運んで来て貰いたいものである(笑)。

 

そして最後は、順序としては幕開き狂言であった『双蝶々曲輪日記』から「引窓」。云わずと知れた丸本世話物狂言の名作である。これが丸本のこってり感はないものの、実に見事な、心に染みわたる様な名演であった。配役は高砂屋の十次兵衛、扇雀のお早、松江の丹平、坂東亀蔵の伝造、東蔵のお幸、松緑の濡髪。中では亀蔵が初役との事だ。

 

しかし高砂屋中村梅玉と云う優は、不思議な役者である。特に身体的特徴もないし、芸風はあっさりとして、ずしりと心に響く様なものではない。高麗屋の様なたっぷりとした義太夫味も、松嶋屋の様な名調子もないし、芝翫の様な押し出しの立派さがある訳でもない。している事はごく普通の手続きに過ぎない様にも思えるのだが、芝居を通して観ると当代他に並ぶ者は数少ない様な、永く忘れる事の出来ない名舞台が出来上がる。去年の「綱豊卿」がその典型であったし、今回の「引窓」もまたそうであった。

 

去年の「綱豊卿」と同じく、今回も相手役は松緑。もしかしたらこの組み合わせが素晴らしい化学反応を起こしているのかもしれない。この二人なので、義太夫味たっぷりとは行かない。松緑の濡髪は亡き播磨屋に厳しく教わったと筋書で述べていた。しかし高砂屋からのサジェスチョンがあったのか、松緑の持ち味なのかは判らないが、日下開山の力士であると云うより、老いた母を持つ一人の若者、と云う点に比重が置かれた人物造形がなされている。これが高砂屋の世話な味のある十次兵衛と実に見事に合っているのだ。

 

高砂屋十次兵衛は、丹平と伝造を伴った花道のその出からして、あっさり且つサラッとした味わい。戸口から家に入るところ、戸を開けるも一度締めて、髷を直して入りなおす所作もごくあっさりとしていて、笑いを取る様なところもない。武士に取り立てられ、浮き浮きしてはいるのだが、それを特に強調する事もしない。母も妻も、父の名を継いで与兵衛から十次兵衛となった立身を喜ぶ。しかし丹平・伝造から依頼された濡髪捕縛の密命をお幸とお早が聞いてしまう。ここから芝居は徐々に短調の調べを帯びて来る。

 

お幸にとって前夫との子である濡髪と、亡き夫十次兵衛と先妻の間の子である与兵衛との間で板挟みの悲劇が始まる。水鏡写った姿で二階に濡髪が居る事を知る十次兵衛。泣き崩れる義理の母お幸の姿と二階座敷とを交互に見て、ハッと悟る。ここの芝居が抜群の上手さ。続く名科白「母者人、何故ものをお隠しなされます。私はあなたの、子でござりまするぞ。」も他の役者の様に張る事はしない。ごくあっさり味なのだが、それがかえって生さぬ仲である十次兵衛の哀しみが、しみじみと伝わって来る様に思えるのだ。

 

母の心情を察した十次兵衛は二階にいる濡髪へ聞かせをする「河内へ越ゆる抜け道は、狐川を左へとり、右へ渡って山越に、右へ渡って山越に」。お幸が義理の子の気持ちに感謝し、「オォ」と声をあげる。それを受けての「いやなに、滅多にそうは参りますまい」のイキがまた上手い。加賀屋と高砂屋成駒屋系二人による正に名人芸である。十次兵衛の気遣いに感謝したお幸が濡髪に落ちる様諭すが、逆に十次兵衛の立場を慮った濡髪は承知しない。しかしお幸自らの命を賭した説得に折れ、逃亡を決心するところの「落ちやんす、剃りやんす」の科白廻しも、義太夫味よりも世話の味があり、今回の「引窓」はやはり一本筋が通っている。

 

最後はいみじくも再会を果たした義理の兄弟が涙ながらに手を取り合い、濡髪が花道から去って幕となった。最後の「母への進上」へ繋がる二人の科白廻しのイキもぴったり。廓上がりである事をきっちり感じさせる艶があり、義理の母と夫に対する情味の深さも兼ね備えたお早の扇雀を含めた四人のアンサンブルも実に心地良く、派手さはないものの、傑作とも云うべき素晴らしい名舞台となっていた。

 

丸本二題に舞踊と云う狂言立てで、充実した歌舞伎座昼の部。五月は團菊祭に加えて、中村屋の歌舞伎町歌舞伎も観劇予定。来月もまた、マイペースで好き勝手綴って行きます。

四国こんぴら歌舞伎大芝居 第一部 幸四郎・成駒家親子の「沼津」、雀右衛門・染五郎の『羽衣』

続いてこんぴら歌舞伎第一部の感想を綴りたい。入りは二部同様ほぼ満席状態。二部は一階の畳敷きで観劇したが、今回は二階東桟敷席にて観劇。一階席よりゆったり感がある。ただ二列目より後ろは、大きな柱が多少観劇の妨げになってしまう。まぁ小屋の構造上致し方なしか。東桟敷は花道の真上。実に結構な席であった。まぁどこから観ても舞台が近い事に変わりはないが。

 

幕開きは『伊賀越道中双六』から「沼津」。云う迄もなく亡き播磨屋十八番中の十八番。筆者的には「吉野川」の大判事とこの十兵衛が、播磨屋の数多い当り役の中でも双璧であったと思う。その十兵衛に播磨屋の甥である幸四郎が初役で挑んだ。配役はその幸四郎の十兵衛、壱太郎のお米、染五郎の安兵衛、亀鶴の孫八、鴈治郎の平作。去年大阪松竹で鴈治郎扇雀兄弟の「沼津」を観たが、今回は幸四郎との組み合わせだ。高麗屋親子と壱太郎は初役であると云う。

 

しかし幸四郎とこの十兵衛と云う役には色々な因縁がある。五年前の「秀山祭」で播磨屋がこの狂言を出したのだが、途中三日間程体調を崩して休演した。その際にこの役を勤めた事もない幸四郎が、プロンプターなしで見事に勤め上げたのだ。筆者はこの代役を観てはいないのだが、その素晴らしさは当時話題になったものだった。ちなみにもう一役の「寺子屋」の松王は松緑が代演し、こちらもまた見事であったと云う。その翌年の三月、その評判の良さからか今度は本役で十兵衛が回って来た。しかしこの時はコロナで上演が中止となってしまった。平作は白鸚の予定であったので、この時の上演中止は返す返すも残念であった。そう云う経緯があった上での、今回の十兵衛である。幸四郎の心中、期するものがあったであろうと推察する。

 

金丸座は何度も書くが舞台が本当に近く、役者の熱気がびんびん伝わって来るので歌舞伎座の芝居と同一に比較は出来ないものの、結論から云うと本当に素晴らしい「沼津」であった。幸四郎の十兵衛は播磨屋直伝で、その口跡には播磨屋の面影が濃厚に漂う。この役の播磨屋は甲の声と呂の声の使い分けが絶妙で、特に甲の声の科白廻しが絶品であった。無論幸四郎はまだ播磨屋の域には達していない。しかし「棒鼻の場」の平作との軽妙なやり取りや、お米に一目ぼれする場の軽さと愛嬌。実に面白く見せてくれる。

 

「平作住居の場」での印籠を盗もうとしたお米を押さえ、娘を𠮟りつける平作の述懐から、平作が実の父であると知るところの芝居の上手さは流石幸四郎と云ったところ。石塔料として金を渡してさり気なく印籠を残し、表に出る。花道の七三にかかり、天を見上げて「降らねば良いが」の科白廻しは、その一言に人生迄感じさせて満場の紅涙を絞った播磨屋とはまだ径庭はあるものの、充分聞かせてくれている。

 

大詰「千本松原の場」に於ける鴈治郎平作との二人芝居は、この狂言のクライマックス。互いを親子と知りつつ名乗るに名乗れない二人のやり取りは、真に迫る正に迫真の芝居。前幕の「降らねば良いが」から繋がる平作に笠を差しかけての「沢井股五郎が落ち着く先は、九州相良」の涙交じりの科白廻しは、絶品。甲の声を上手く使った幸四郎渾身の芝居だ。最後は親子と名乗り合い、きつく抱き合う平作と十兵衛。涙なしには観れない見事な狂言となっていた。

 

そしてその平作の鴈治郎もまた、傑作とも云うべき出来。「棒鼻の場」の軽さと愛嬌。「降る迄は、請け合いますわい」の、いかにも関西人らしい科白廻しにこの優の練り上げた技巧が光る。娘の不遇な境遇を思いやる情味、恩ある主人の為に命を捨てるその義理深さ、いずれの心情も実に見事に表出している。この平作が良いからこそ、幸四郎の十兵衛も生きる。倅壱太郎も、娘らしさと人妻の艶が絶妙にブレンドされた結構なお米。染五郎の安兵衛も科白廻しが歌舞伎役者のそれになってきており、以前より一段と役が板についてきた感がある。二人とも初役とは思えない出来であった。

 

打ち出しは『羽衣』。教科書にも載っている(今は知らないけれど)羽衣伝説を元にした長唄舞踊。雀右衛門の天女、染五郎の伯竜。孫の様な年齢の染五郎を相手にして、全く違和感のない雀右衛門がまず見事。伯竜に所望されての天女舞の優美さは、流石立女形と云ったところ。対する染五郎伯竜は、この世の者とは思えない美しさ。花道を出てきて七三で極まったところ、客席からジワが来た。小屋が小さいだけに、こう云う所の反応が実にリアル。その所作は流石踊りの高麗屋の跡取りらしく、引き締まっていて、実に美しい。前にも書いたが、どんな所作でも身体の中心線がブレないところが素晴らしい。

 

最後は金丸座特有の「かけすじ」と云う江戸時代の宙乗り機構を使って、雀右衛門の天女が花道から天井に舞い上がる。筆者は二階東桟敷で観劇していたので、目の前を雀右衛門の天女が飛んで行き、そして揚幕を入って行くのをかぶりつきで観れて大満足。金丸座で掛けるに相応しい狂言であったと思う。一部・二部と何れも素晴らしい狂言揃いで、こんぴら歌舞伎を満喫出来た。まだ観劇した事がないと云う方には、一度行かれる事をお勧めしたい。来年のこんぴら歌舞伎が、今から待ち遠しい。

四国こんぴら歌舞伎大芝居 第二部 幸四郎・鴈治郎・雀右衛門の「お土砂」・『教草吉原雀』

遂にかねてからの念願であったこんぴら歌舞伎を観劇出来た。四年前に高麗屋襲名の最終公演がこの金丸座で行われる予定になっており、筆者はチケットを抑えていたのだが、その年突然発生したコロナにより、あえなく中止となってしまった。痛恨の極みであったが、四年の歳月を経て、令和の大改修杮落しとして今回無事に興行が復活された。目出度い限りである。客席もほぼ満員の盛況。舞台が近く、芝居好きには堪らない空間であった。

 

今回は四年前に出演予定であった幸四郎鴈治郎雀右衛門を中心とした座組。四年前は出演予定であった白鸚がいないのは寂しいが、高齢なので無理はさせられない。その代わりと云っては何だが、今回は孫の染五郎が金丸座初見参。成長著しい姿を見せてくれた。とにかく舞台と客席が近いので、役者がバンバン舞台から降りて来る。「沼津」の様に元々客席を練り歩く演出がある芝居は勿論の事、「お土砂」や『教草吉原雀』でも降りてきてくれた。勿論見物衆は大喜び。昼夜で練り歩きがなかったのは『羽衣』のみ。その代わり『羽衣』では雀右衛門宙乗りで大奮闘。客席はやんやの喝采であった。

 

幕開きは『松竹梅湯島掛額』。「お土砂の場」から「火の見櫓の場」迄の上演。配役は幸四郎の紅長、壱太郎のお七、染五郎の吉三郎、吉之丞の六郎、廣太郎の了念、錦吾の上人、亀鶴の十内、鴈治郎の武兵衛、雀右衛門のおたけ。何と雀右衛門以外は皆初役の様だ。「お土砂」は肩の凝らない喜劇なので、より客席との一体感が生まれており、この小屋にはぴったりの狂言だったと思う。

 

とにかく幸四郎がご機嫌に紅長を演じている。観ていてこちらまで浮かれて来る。初役とは思えないリラックスした芝居。まぁこの役は畏まって演じられても面白くない。持前の愛嬌全開で楽しませてくれる。早桶から亡者姿で現れた幸四郎紅長を、鴈治郎の武兵衛がからかうところもまた楽しい。「汗かいてるな。鼻水も出てるぞ」とアドリブをかましてきて、幸四郎も半笑い状態。そしてお土砂を振りまきまくるのだが、かけられた鴈治郎武兵衛が「まだまだ消えないぞ」とまたもやアドリブ。関西人のDNAが騒ぐと云ったところか。

 

染五郎の吉三郎はとにかく只管美しい。お七が恋焦がれるのも当然と思わせる吉三郎。壱太郎のお七と並んだところは正に錦絵。今が盛りの美しさであった。そして「火の見櫓の場」では壱太郎が見事な人形振りを見せてくれる。以前七之助で観て、その上手さ、美しさに感嘆させられたが、壱太郎はまた持ち味が違う。七之助は只管クールで、より人形らしいのは七之助だろう。壱太郎も技術的には全く見事なものである。しかしこの優が演じると、どこか人間らしさが漂う。先月の「河庄」でもそうであったが、少し俯いた表情に恋する女性の哀しみの様な憂いがあり、それだけでもお七の心情を表して余りあるものだ。より人形振りらしさでは七之助、お七の情念的な部分では壱太郎と云ったところか。

 

とにかく舞台と客席との一体感が素晴らしく、これは歌舞伎座の様な大舞台では到底感じられないものだ。こう云う雰囲気を求めて、亡き勘三郎は「平成中村座」を始めたのだろう。そもそもこの金丸座での歌舞伎上演を復活させたのも、勘三郎と亡き播磨屋藤十郎であった。七年程前に中村屋の巡業を観に行った岐阜の東座も、これに近い雰囲気があった。勿論歌舞伎座には伝統と風格があり、それはそれで素晴らしいものだ。しかし芝居の原点を思わせるこの金丸座の得も云われぬ雰囲気はまた格別。また必ず訪れたいと、強く思った次第。

 

打ち出しは『教草吉原雀』。去年の十一月、又五郎歌昇・孝太郎で観たが、今回は鴈治郎幸四郎雀右衛門と云う組み合わせ。「ぶっ返り」あり、立ち回りもあり、演出が派手でこちらも観ていて実に楽しめる舞踊。鳥刺し実は鷹狩りの侍幸四郎が客席を練り歩き、見物衆は大盛り上がり。この優の踊りは本当に素晴らしく、形の良さは無類のもの。鴈治郎雀右衛門がぶっ返って雀の精になった姿は愛くるしく、どこか可笑し味も漂う。最後は雀右衛門鴈治郎幸四郎を脇に従えて、舞台中央に極まって幕となった。

 

予想通りと云うかそれ以上に楽しませて貰った金丸座初観劇。もう一つの一部は二部から一転、じっくり芝居を堪能させてくれた「沼津」がある。それはまた項を改めて綴りたい。

四国こんぴら歌舞伎大芝居(写真)

こんぴら歌舞伎に行って来ました。ポスターです。街中至る所に貼ってありました。

 

金丸座です。いや~いい雰囲気です。

 

一部絵看板です。

 

同じく二部。

 

中はこんな感じです。たまらない空気感でした。

 

初めて金丸座に行きました。最高でした。とにかく舞台が近い!感想はまた改めて綴ります。

四月大歌舞伎 夜の部 孝玉の『於染久松色読販』・『神田祭』、菊之助・愛之助・芝翫・孝太郎・松緑の『四季』

四月大歌舞伎夜の部を観劇。孝玉に芝翫菊之助愛之助松緑と揃う大一座。二階席後方に若干の空席はあったものの、満員に近い入り。凄い座組のわりには孝玉以外はそれぞれ短い出番の舞踊のみと、些か役には物足りなさがあった感。しかも上演時間が休憩入れて約三時間と短く、終演は七時半であった。こんなに早く終わる夜の部は、ちょっと記憶にない。まぁ別に芝居は時間ではないが。今の見物衆は、遅い終演は敬遠する傾向になっているのだろうか。

 

幕開きは『於染久松色読販』。大南北の傑作狂言。孝玉コンビがスタートした演目であると、筋書で松嶋屋が述べていた。二人にとって記念すべき芝居であろう。一時、先代團十郎に浮気(?)していた大和屋だが、團十郎亡き後は再び元の亭主松嶋屋とよりを戻した(?)共演が続ている。この二人の芝居は何度でも観たいものだ。配役は大和屋のお六、松嶋屋の喜兵衛、福助の亀吉、橘太郎の久作、彦三郎の太郎七、錦之助の清兵衛。中では橘太郎が初役の様だ。

 

あぁ、それにしても何と素晴らしいお六と喜兵衛であったろう。「柳島妙見の場」から「橋本座敷」をカットせず、「向島道行」まできっちりやれば二時間半はかかる芝居を、お六と喜兵衛の物語にフォーカスして一時間に絞り込んでいる。冒頭に出て来た刀の折り紙の話しがうやむやに終わるなど、初めてこの狂言を観た方には?の部分も多いかもしれない。筆者は本来、こう云うカットは好まない。しかし今年傘寿と七十四歳の二人なのだ。長い芝居での一ケ月興行は体力的にも厳しいだろうし、二人の芝居を今後も観続けたいのならば、致し方なかろうかと思う。そのカットを補って余りある素晴らしい芝居が観れたのだから、贅沢は云うまい。

 

お六は悪婆と云われてはいるが、動機が忠義の為なので本来的な悪人ではない。しかし今回上演された「瓦町油屋の場」では、悪態をついて金を強請取ろうとするので、愛嬌がなければならないと大和屋が筋書で述べている。正にその通りのお六で、悪態をついているものの、何とも云えない愛嬌が漂う。そして最初へりくだって店に入って来たお六が、嫁菜売は自分の弟で九助に打たれた疵で死んだと云いがかりをつけるところで、ガラリと口調を変える辺りの上手さは、本当に見事なもの。

 

死体を乗せた駕籠を店に運び込み、喜兵衛と二人でいんねんをつける。この場の大和屋と松嶋屋のやり取り、科白廻しは絶品である。煙草を所望したお六の「火がないんだよぉ、火が」の辺りの崩れた艶っぽさは、筆舌に尽くし難い。この場は松嶋屋も、黙阿弥調とは違う見事な南北調を聞かせてくれる。妙な例えだが、調子よく謡いあげる黙阿弥調が正調フォービートなら、南北調は変拍子と云った感じか。科白が字余り系で、リズムに外れていそうで、外れない絶妙な匙加減が必要だと思うのだが、この二人の名人にかかると難しさを感じさせず、陶酔の世界に誘われる。いつまでも聴いていたいと思ってしまうのだ。

 

最後は悪事が露見して駕籠を担いで店を逃げ出すのだが、この場も愛嬌たっぷりで、実に歌舞伎らしい味わいがある。これだけの芸を見せられると、芝居の筋などどうでもよいと思えてしまうのだから、芸と云うものは恐ろしい。脇では橘太郎が相変わらずの名人芸を見せてくれているし、錦之助も若々しい作り乍ら大店の旦那と云う風情があり、こちらも見事。話よりも役者の芸を観ると云う、如何にも歌舞伎らしい狂言であった。

 

中幕は『神田祭』。去年御園座でも観たが、やはりこの二人は素晴らしいの一言。先ほどとは打って変わった芸者姿の大和屋が揚幕から花道を出て来るのを観ただけで、思わず涙ぐみそうになった。そして松嶋屋の所作は実に鯔背で、上方系の役者とは思えない程。元々松嶋屋の芸風はこってりしておらず、上方系であり乍らさっぱりした江戸前の風情がある。これも妙な例えだが、落語で云うと亡き桂米朝がそうであった。同じ名人でも、如何にも上方落語と云った味わいのあった六代目笑福亭松鶴に比べて、あっさりした芸風であった米朝がより全国的な人気を博し得たのも、この芸風に寄るところが大きい。松嶋屋にも同じ事が云えると思う。

 

花道でお互いの服装を整えあって極まったところは、日本一の美男・美女。見物衆からの盛大な拍手を受け乍ら揚幕を入る二人を見送って、この二人と同時代を生きている仕合せをしみじみと感じていた。こんな事を感じさせてくれる役者はそう数はいない(ラマンチャ最終公演での高麗屋を観ていた時にも同じ感慨を持ったが)。お二人にはくれぐれも体調には留意して頂き、例え長い芝居でなくともその素晴らしい芸をいつまでも披露し続けて欲しいと、切に願うばかりである。

 

打ち出しは『四季』。「紙雛」「魂まつり」「砧」「木枯」と云うそれぞれ十分程度の舞踊を併せたもの。役者は菊之助愛之助芝翫橋之助・歌之助・児太郎・孝太郎・松緑坂東亀蔵・福之助・鷹之資に加え、亀三郎と眞秀と云う音羽屋の御曹司が揃った豪華舞踊。菊之助愛之助の気品、芝翫の大きさ、孝太郎の哀感、松緑の貫禄とそれぞれに見どころがあった。中でも孝太郎の一人舞踊は、戦場から還らない夫を想う真情に溢れ、目に残る出来であった。

 

しかし菊之助愛之助松緑は当月他の芝居にも出ているが、芝翫は昼夜でこの「魂まつり」の亭主役一役のみ。芝翫程の役者を使ってこれは些か寂しい限り。来月は出演の予定がなく、六月も『山姥』の三田の仕だと云うから、芝翫の本領発揮とは行きそうにない。また近い内に芝翫の見事な丸本芝居を観てみたいものだ。話しはそれたが、この夜の部は孝玉の二人に尽きる。まだ未見の方には、必見の舞台であると申し上げておきたい。

歌舞伎座 四月大歌舞伎(写真)

歌舞伎座四月大歌舞伎に行って来ました。ポスターです。

 

昼の部絵看板です。

 

同じく夜の部。

 

ポスターです。いい男、いい女ですなぁ。

 

ようやく春らしくなってきたと思ったら、雨。これじゃ桜がすぐ散ってしまいますね。。。感想はまた別項にて綴ります。

南座三月花形歌舞伎 松プログラム 壱太郎・右近・隼人の「河庄」、壱太郎・隼人の「将門」

今年初の遠征は京都。南座の花形歌舞伎を観劇した。以前から観たい観たいと思っていた公演なのだが都合がつかず、今回初めて観劇出来たのが喜ばしい。令和の歌舞伎界を牽引して行くであろう、いや牽引して貰わなければならない若手花形三人の揃い踏み。しかも上方系の壱太郎はともかく、右近・隼人にとっては挑戦とも思える上方狂言。現在上方系の立役の役者で主役を張れる優は名人松嶋屋以下、鴈治郎愛之助と来て、その後が中々続いていない。松嶋屋に心酔している幸四郎が上方狂言に意欲を見せているが、この世代の若手が上方狂言に挑む意欲があるのは、素晴らしい事であると思う。

 

まず最初は「乍憚手引き口上」。筆者が観劇した日は隼人であった。上演作品の内容を一通り紹介し、初役に挑む意気込みを語った。途中南座ゆるキャラが登場して、撮影タイム。筆者もミーハー的に携帯を構えてパシャッ。三階席で観劇したのだが、こちらの方にも手を振って愛想を振りまいてくれていた。ついでに筋書(こちらでは番附だが)やグッズもしっかり宣伝。この距離感は若手花形ならではで、微笑ましく、結構な企画。こんな事は大名題にはやれませんからな。

 

幕開きは『心中天網島』から「河庄」。今年は近松門左衛門歿後三百年と云う事もあり、壱太郎にとっては玩辞楼十二曲にも選ばれている成駒家の家の芸とも云うべき狂言。五年程前に大阪松竹座で父鴈治郎の治兵衛相手に勤めて以来、二度目の小春。その他配役は右近の治兵衛、隼人の孫右衛門、吉太朗の三五郎、菊三呂のお庄、千次郎の太兵衛、千壽の善六。壱太郎以外は初役の様だ。監修として鴈治郎がきっちりついている。当然の様に右近は鴈治郎から教えを受けたと云う。

 

やはりこう云う上方狂言では、三人の花形の中で壱太郎が一頭地抜けている。この小春と云う役は、かなり辛い辛抱の役であると思う。治兵衛との心中を約束している小春だが、治兵衛の女房おさんからの手紙を読み、別れを決心する。そこに治兵衛の兄孫右衛門が現れ、心中を思いとどまる様に説得する。それを受けての小春が心変わりを告げ、それを聞いた治兵衛が小春を刺そうとする。孫右衛門がそれを押しとどめて中途は略すが、治兵衛を店中に引き入れて意見を始める。ここの二人芝居がかなり長い。孫右衛門が治兵衛に意見をしている間小春は一言も発せず、二人の芝居を肚で受けなければならない。ここの芝居はかなり難しいと思うのだが、二人の科白が交わされるごとに小首を動かすなど微妙な動きを入れ乍ら、肚で受ける芝居がきっちり出来ているのが壱太郎、大手柄である。

 

上方役者らしいこってりとした風情もあり、治兵衛への真実の愛を持ちながら、女房おさんを思い、治兵衛の身も案じて身を引こうとする情味深さがきっちりと出せている。若い乍ら義太夫味もあり、如何にも丸本の女形と云った雰囲気を漂わせている辺りは、この優の研鑽宜しきを思わせるに充分。加えて今回竹本の谷太夫の語りが実に素晴らしく、慣れない役柄の多い若手芝居をきっちり支えていた。その結構な竹本と相まって、壱太郎小春はまだ二度目とは思えない見事な出来であったと思う。

 

それに比べると、右近と隼人はやはりまだ上方狂言に慣れていない感がある。所作・科白廻しがすっきりし過ぎていて、上方和事らしさが出せていないのだ。筆者は三階席から観たので揚幕からの治兵衛の出は見えなかったのだが、当然とは云え、亡き山城屋や当代鴈治郎の様な、あの風情はない。だがこれは致し方なかろう。しかし逆に若々しい治兵衛で、女房子供があり乍ら遊女と心中の約束迄し、小春の縁切りの言葉を聞くと逆上して刺し殺そうとする、若気の短絡的なところは(上方芝居らしさには欠けるものの)役柄と右近の年齢的なものが合致しており、その点では初役乍ら右近、手一杯の力演であったと思う。

 

隼人も繰り返すが上方の風情には欠ける。しかしこれも右近と同様に治兵衛の兄らしいところは出せている。この孫右衛門と云う役は実に大人な役で、小春も弟も説得して八方丸く収めようとしている。それ故それなりの貫禄を必要とする役である。過去には先代團十郎富十郎段四郎高砂屋といった大物役者が演じており、その芝居が上手ければ上手い程、治兵衛の兄ではなく父か叔父といった雰囲気が出る。その点で今回の隼人孫右衛門はその貫目の軽さが幸い(?)して、治兵衛の兄らしさが出ている。これは芝居が一人ではなく、役者のバランスで成り立つものである事を考えると、成功であったと思う。総じて如何にも上方狂言と云う風情には欠けてはいたものの、若手花形三人手一杯の熱演で、東京者としては楽しく観劇出来た一幕であった。

 

打ち出しは『忍夜恋曲者~将門』。常盤津舞踊の大曲である。配役は壱太郎の如月実ハ滝夜叉姫、筆者が観劇した日は隼人の光圀。当然の事乍ら二人とも初役である。錦絵の様な美しさに溢れていながら、おどろおどろした風情もあり、くどきの艶っぽさに加えて大蝦蟇迄登場するケレン的な見せ場もある。観ていて実に楽しめる舞踊劇である。筆者的には大和屋と松緑が演じた歌舞伎座杮落し公演での上演が印象深い。

 

比べてはいけないと思いながらも、壱太郎の滝夜叉姫は大和屋に比べるとこの世の者ならぬ風情には欠ける。科白廻しがきっぱりし過ぎているせいでもあろうか。しかし乍ら常磐津の〽嵯峨や小室の花ざかり~にのせたクドキは実に艶っぽく、美しい所作と相まってかなり見せてくれる。隼人の光圀も、将門の最期を物語る軍物語ではキリッとした時代物の手強さを感じさせてくれており、そこから一転如月が廓の様子を語るくだりでの世話にくだける踊りも見応え充分。

 

若々しくキレのある二人の大立ち回りがあり、「屋体崩し」から大蝦蟇登場となる実に派手な演出は舞台映えがして、いかにも歌舞伎的な面白さがある。最後は壱太郎と隼人が舞台中央に極まって幕となった。杮落し公演以来歌舞伎座ではかかっていない狂言。今度はぜひ歌舞伎座でも上演して貰いたいものだと思う。今回は観れなかっが、右近の光圀も観てみたい。

 

初めて観た南座での花形公演。大役に挑む若手花形の姿は凛々しく、実に頼もしい。注文をつけた部分もあるが、この年齢でこれほどの役を完璧にこなせる訳もないし、こちらもそれを求めて観に行ったつもりもない。この経験が将来への大きな一歩となるはずである。まだ演じていない他の大役にもどんどんチャレンジして行って欲しいと思うし、それが令和の歌舞伎界を盛り上げる事にもなるであろう。更に若い層の、例えば染五郎や團子あたりにも、ぜひ古典の大役に挑戦して貰いたいと思っている。