fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

公文教 松竹大歌舞伎 播磨屋三代の『泥棒と若殿』、『お祭り』

公文教の播磨屋巡業を観劇。場所は日野市民会館で、筆者は初めて訪れた会館。どうでもよい事だが、筆者の活動範囲からは遠い遠い。往復で四時間近くかかり、芝居の上演時間は休憩を入れても二時間十分程。タイパが悪い(笑)。コロナ前は一年の内三回位巡業があったが今は一回になってしまったので、多少遠くても観たい場合は致し方なし。会場が駅から遠い(バスで二十分程)せいもあってか、入りは四分程度であったろうか。しかし一階席はまずまず入っていたと思う。

 

幕開きは『泥棒と若殿』。山本周五郎原作の所謂新歌舞伎に属する作品。それ程上演回数の多くない芝居だが、直近では四年前に歌舞伎座松緑・巳之助の組み合わせで上演され、筆者も観ている。今回の配役は歌昇の伝九郎、種之助の成信、又五郎の重右衛門。おそらく三人共初役であろう。又五郎は五十年程前に叔父に当たる萬屋錦之介の公演で、これまた叔父の中村嘉葎雄を演じた時の事を覚えていると云う。

 

筋としては、お家騒動に巻き込まれて幽閉されている松平家の若殿成信の古屋敷に泥棒に入った伝九郎が、自分の人生を諦めかけている成信の憎めない大らかな人柄に惹かれ、逆に面倒を見るうちに不思議な友情が芽生えて行く物語である。最後は御城に帰る事になった成信と伝九郎の別れの場面で幕となる。大きな盛り上がりを見せる芝居ではないが、ほのぼのとした後味が残る佳品である。

 

歌昇と種之助は、流石兄弟らしくイキの合った芝居を見せてくれている。泥棒とは云え職業的な盗人ではなく、初めて盗みに入った家がこの成信屋敷。ヌケていて一向に凄みのない伝九郎を歌昇が好演している。今回特に印象的であったのが、この歌昇の芝居。食事など細々と生活の面倒を見て貰っている成信が伝九郎によって生きて行く希望を取り戻して行くのと同時に、生活に困って泥棒に迄成り下がった伝九郎が、面倒を見ている成信の何とも云えない大らかな人柄に惹かれて再生して行く物語が、はっきり感じられたことだ。

 

成信は生活の面倒を見て貰っているのだが、実際に二人はお互いを助け合っていたのだと云う芝居のその主題が、見事に浮彫にされていたのは歌昇の大手柄である。種之助の成信も、ボロは着てても心は錦ではないが、松平家の若殿らしい気品があり乍ら高ぶったところのない大らかな人物像をきっちりと造形しており、こちらも立派な芝居。家老の重右衛門を演じた又五郎も、重厚感のある芝居で狂言をしっかり締めていた。登場人物も少なく地味な作品であるが、素敵な芝居になっていたと思う。

 

休憩を挟んで打ち出しは『お祭り』。もう何度観たか判らない位上演頻度の高い舞踊である。普段は清元で演じられる事が多いが、今回は長唄演奏での上演であるところが少し変わっている。配役は又五郎の鳶頭、歌昇・種太郎・秀乃介の鳶の者、種之助の芸者。播磨屋三代が揃う賑やかな舞踊となった。この配役だと当然の事乍ら、種太郎・秀乃介の子役二人が最も見物衆を沸かせていた。観劇後に「可愛いかった」と云う声が見物衆同士の会話で聞かれた。

 

又五郎の鳶頭は亡き勘三郎松嶋屋の様な派手さはないものの、粋で鯔背なところを見せてくれている。ただ巡業で大向うがかからない事を想定していたのであろうか、「待ってました!」「待っていたとはありがてぇ」のお約束の場面はなかった。歌昇はおかめやひょっとこのお面をくるくると器用に取り替えて、「道成寺」の詞章に乗った見事な舞踊を見せてくれている。これを出す為の長唄であったのであろう。近年女形にも適性を見せている種之助も、仇で艶やかな芸者姿を披露しており、播磨屋三代が揃った気分の良い舞踊で、気持ちよく会場を後に出来た。終演後の出口で、子供達の芝居が終わってほっと一安心したであろう播磨屋の若女将が、御贔屓客と談笑する姿が見られた。

 

今月残るは歌舞伎座の昼の部のみ。そちらも観劇後に感想を綴る事にしたい。