新国立劇場に於いて上演された国立劇場の歌舞伎公演『仮名手本忠臣蔵』を観劇。この三月に歌舞伎座で同狂言の通し上演が行われたが、今回はその時に上演されていなかった「二段目」と「九段目」がかかった。滅多に出ない場なのでこれを見逃すと云う手はない。ただ今月の歌舞伎座では『菅原伝授手習鑑』の通しが上演されており、同じ古典なら歌舞伎座でとなったのか、入りとしては六分程度であったろうか。ここはやはり一刻も早く国立劇場を建て替えて頂き、正規の形での国立劇場歌舞伎公演を行って貰いたいと思う次第。
幕開きは「二段目」。これこそ本当に中々お目にかかれない場。歌舞伎座ではもう何十年もかかっていないのではないだろうか。筆者が最後に観たのは、九年前の国立劇場に於ける『仮名手本忠臣蔵』の通し上演であった。その際は團蔵の本蔵、米吉の小浪、萬次郎の戸無瀬、隼人の力弥、錦之助の若狭之助であったが、今回は高砂屋の本蔵、玉太郎の小浪、扇雀の戸無瀬、虎之介の力弥、鴈治郎の若狭之助と云う配役。滅多に出ない場だけあり、全員が初役。玉太郎は魁春に、虎之介は父扇雀の教えを受けたと云う。そして高砂屋は、今まで「忠臣蔵」の主要十一役を勤めており、この本蔵で十二役目。主要な役どころで勤めていない立役は、師直くらいだと云う。改めてこの優の約七十年に渉る長い芸歴を思わせるものだ。
滅多に出ない場である「二段目」と「九段目」であるが、珍しいから今回二つ並べての上演と云う簡単な話しではないであろう。この二つの段は、話しとして直接に繋がりがある場なのだ。ざっくり云ってしまえば、加古川本蔵一家を中心とした物語である。「大序」に於いて師直に恥辱を受けた桃井若狭之助の家老加古川本蔵が、主人が怒りの余り師直を斬ると云っているのを聞き、何とかして主人と主家を護ろうとする行動が、塩治家の悲劇に繋がり、ひいては加古川家の悲劇となってしまう。その切っ掛けが「二段目」であり、結末が「九段目」と云う事になるのだ。
この段に於ける高砂屋本蔵はまず文句のつけ様のないもの。舞台上手から出て来たところから、桃井家の家老らしい風格と落ち着きを湛えており、流石は高砂屋と思わせるものだ。塩治家から使いとして虎之介力弥がやって来る。参着を聞いた玉太郎の小浪が浮かれてそわそわし出す所作も良い。そして揚幕が開いて虎之介力弥が出て来る。この出が立派で、舞台にさっと光が差した様になり、まだ前髪乍ら艶もありこの優が立派な役者になって来た事を示して余りある。仮病を使って娘と二人きりにさせてやる気遣いを見せる扇雀戸無瀬も、見事な位取りを見せる。力弥と小浪の初々しい逢瀬の後、鴈治郎の若狭之助が出てきてこの場は幕となる。
そして「桃井館松切りの場」。幕が開いて佩刀を見つめる鴈治郎若狭之助。本蔵が出てきて師直を斬る決意を伝える。以前にも書いたが、高砂屋は日本一の殿様役者である。そしてそれを継ぐ存在として鴈治郎がいると、筆者は考えている。今回の鴈治郎も大名らしい位取りと、若さから来る癇癖の強さをきっちり出せており、この段の若狭之助として間然とするところのない出来である。そしてやはりこの場での高砂屋本蔵は、その落ち着いた所作と科白廻しが重厚感醸し出し、思慮深さも感じさせる見事な本蔵。血気に逸る若殿を諫めるのではなく、敢えて「御尤も」と同意して見せ、若狭之助の佩刀で松の枝を切り、古武士らしい気概を見せる。しかし本心は何とか短慮な行動を諫め様と考えており、松を切る事でヤニを刀に付けて抜き辛くさせている。そして諫めようとしない本蔵の心中を訝しがる妻と娘をよそに、師直への工作を決意するところで幕となった。
そして打ち出しは「九段目」、別名「山科閑居の場」。こちらも九年前の国立劇場に於ける通し公演以来の上演。その際は高麗屋の本蔵、高砂屋の由良之助、笑也のお石、児太郎の小浪、錦之助の力弥、魁春の戸無瀬で、絶品とも云うべき名舞台であったが、今回は高砂屋の本蔵、鴈治郎の由良之助、門之助のお石、玉太郎の小浪、虎之介の力弥、扇雀の戸無瀬と云う配役。こう云っては失礼乍ら、九年前に比べて役者が小粒になっているので、やはりその分のパワーダウンは否めなかった。まぁ前回は国立劇場創立五十周年記念公演と云う事情があった関係で豪華配役となっていて、普段の公演ではあれだけの顔合わせ中々実現し辛いであろう。
九年前と同様今回も「雪転し」が付いている。これは実に良い。ここは由良之助の見せ場であるので、この段を出すのであればカットして欲しくない場だ。ここがないと、この段の由良之助は一つ役どころが小さくなってしまう。一力茶屋で遊んだ由良之助が、戯れに雪だるまを転がし乍ら、太鼓持ちや仲居を引き連れて帰って来る。ここの鴈治郎由良之助は、放蕩の火照りの余韻を感じさせる色気があり、見事な出である。これが出来るなら、この優で「一力」の由良之助も観てみたいと思わせる程のものだ。座敷に上がって女房お石と戯れ乍らも、力弥にあの雪だるまを何と見ると問いかける科白廻しにも大きさを感じさせる。
そして扇雀戸無瀬と玉太郎小浪が、この閑居を訪ねて来る。二人ともきっちりとしており、芝居としては悪くない。特に扇雀は生さぬ仲の小浪に対する情愛の深さをしっかりと感じさせてくれてはいる。しかし筆者が嘗て観た山城屋や魁春とどうしても比べてしまい、義太夫味と格の不足を感じてしまう。一方これを受ける門之助のお石は、この優らしい突っ込んだ芝居を見せてくれていて悪くない出来。そして高砂屋の本蔵がこれまた芝居は上手いが、やはり義太夫味に欠けており、この段の本蔵としては物足りなさを感じてしまう。この段の本蔵は何と云っても高麗屋が決定版であり、あの重厚感とたっぷりした義太夫味は、他の役者では再現不可能なのかもしれない。
元々この「九段目」は『仮名手本忠臣蔵』の中でも難曲と云われており、文楽近世第一の名人と謳われる豊竹山城少掾が、生涯語るのを避けたと云われている段である。それだけに歌舞伎でも「四段目」や「七段目」と比べても、難しい段であるのだと思う。高砂屋は元来さっぱりした芸風なので、この段の本蔵を演じさせると、どうしても水っぽさを感じてしまう。繰り返すが芝居は上手い、しかしそれだけではこなせないのがこの段の本蔵なのだ。しかしこの段を上演する事自体に意味があり、観るに値する公演であったと思っている。各段の頭に口上人形を出して、虎之介と玉太郎が何とか分かり易く観て貰おうと、必死の工夫を施していた。まだ公演中であるので未見の方には、この機会に珍しいこの二つの段をぜひ観ておいて貰いたいと、思っている。