納涼歌舞伎、第三部を観劇。勘九郎の野田版『研辰の討たれ』初演と云う事もあってか、第二部同様大入り満員の盛況。何と云っても勘九郎にとっては、父勘三郎が始めた納涼歌舞伎、思い入れは人一倍であろう。三十五年前に納涼歌舞伎を始めた勘三郎と三津五郎は、初日に満員になった客席を見て、感泣したと云う。今からは信じられないかもしれないが、昭和後期の歌舞伎座は一年中歌舞伎公演がかかっていた訳ではない。萬屋錦之介や大川橋蔵の座頭公演がかかっていた時代が長く続いていた。それが今の様に一年中歌舞伎がかかる形態になるきっかけを作ったのが、この納涼歌舞伎であったのだ。亡き勘三郎・三津五郎の功績は極めて大きい。
幕開きは『越後獅子』。江戸時代から途絶える事なく上演されて来た長唄舞踊である。杵屋六左衛門の手になる長唄が名曲で、一般にも広く知られている。出演役者の人数などは都度異なり、比較的自由度の高い舞踊である。配役は橋之助・福之助・歌之助・男寅・虎之介・玉太郎・青虎の角兵衛獅子。橋之助以外は、本公演では初役の様である。納涼歌舞伎らしく若手花形で固めた布陣で、成駒屋三兄弟の踊り比べが披露される事となった。
冒頭の獅子頭を被って腰に太鼓を付け、手に撥を持った踊りから若手花形らしい溌剌とした所作が気持ち良い。まだ若い優たちなので、越後から出稼ぎに来た旅芸人の哀切、と云った様なものを表現出来てはいないし、その気もないのかもしれない。しかし今はこれで良いのだと思う。何せ七人もいるので、誰を観て良いのかと迷う。一本歯の高下駄を履いて見せる所作も、晒を勢い良く振ってみせる踊りも、人数が多いだけに舞台一面に広がりを見せて実に華やか。晒の振りは見た目も涼やかで、夏に相応しい舞踊であった。
打ち出しは野田版『研辰の討たれ』。大正時代に木村錦花が書いた『研辰の討たれ』を、平成になって勘九郎時代の亡き勘三郎と、盟友野田秀樹が組んで野田版として上演された新作歌舞伎である。勘三郎の数ある当り役の中でも筆頭に位置づけられる当り狂言で、勘三郎の襲名公演でも取り上げられた作品。第二部もそうであったが、納涼歌舞伎らしく、古典よりも新作に比重が置かれた狂言立てだ。配役は勘九郎の辰次、染五郎の九市郎、勘太郎の才次郎、七之助が萩の江とおよしの二役、中車が伝内と友七の二役、巳之助の定助、新吾のおみね、廣太郎の三左衛門、猿弥の新左衛門、片岡亀蔵がからくり人形と番五郎の二役、幸四郎の市郎右衛門、扇雀の良観。勘九郎・染五郎・勘太郎が、それぞれかつて父が演じた役を受け持っているのが趣向。前回から引き続いての配役としては、何と云っても亀蔵のからくり人形が目玉である。
兎に角野田版である。芝居のテンポ、科白の間などが歌舞伎のそれではない。しかし野田秀樹が演出するのであるから当然こうなるし、またこうならなければ野田版ではない。途中に散りばめられたギャグもほぼ前回迄を踏襲している。前回の上演から二十年もたっているので、例えば「サラダ記念日」を模したギャグなどは今の若い見物衆には通じているのかと心配したが、受けはかなり良かった。そして前半を全て搔っ攫うかの様に持って行くのが亀蔵のからくり人形。「マンガ日本昔話」から松田聖子の「渚のバルコニー」のメドレーは、見物衆にも大受け。筆者も思い入れのある曲なので、大いに笑わせて貰った。
兎に角膨大な科白量を速射砲の様に繰り出す勘九郎の芝居は、圧巻の一言。直接父に教えを受けた訳ではないだろうが、本当にそっくりな部分もあり、流石の血を思わせる。しかし勘三郎は野田と組んだ芝居も多く、歌舞伎以外の経験も豊富であったので、弾けっぷりが歌舞伎を逸脱しており、その脱線ぶりと天性の愛嬌がない交ぜとなって、絶妙な芝居を見せてくれていた。その意味では勘九郎は親父より大人しい。しかしその分品位があり、これは勘九郎が父より濃厚に歌舞伎役者である、と云う事が大きいのだと思う。勘三郎は良くも悪くも歌舞伎役者を突き抜けてしまった存在であった。だから勘三郎の怪演を記憶している人にとっては、喰い足りなく思う部分もあるかもしれない。しかし勘九郎はその歌舞伎役者としての個性で、野田版を少し歌舞伎の方に引き寄せていた様に感じられた。
弟七之助も、普段は見せない様な愛嬌たっぷりの芝居で弾けてくれており、見物衆も大喜び。萩の江の「天晴れ!」もそうであったが、何よりおよしの口説き(と云っても歌舞伎のクドキとは全く異なるが)の科白廻しが、叔父福助にそっくりであったのには驚かされた。普段この二人はそれ程似ていると思った事はなかったのだが、今回は本当にその口跡がそっくりで、改めて歌舞伎役者の血を感じさせられた。新吾のおみねもこれまた普段にはない程の見事な弾けっぷりで、七之助およしとのイキもピッタリ。『火の鳥』に引き続き、今月の新吾は秀逸であった。
それぞれ父から引き継いだ染五郎の九市郎と勘太郎の才次郎は、最後迄勘九郎に振り回される役柄を若さ溢れる所作で手一杯の好演。幸四郎の市郎右衛門は三津五郎が演じていた役だが、謹直な三津五郎がやるところに面白味を醸し出していた役柄を、この優らしい愛嬌たっぷりの芝居で、二枚目役者の裏の顔とも云うべき三枚目ぶりと、家老としての太さを併せ持った絶品とも云うべき芝居で、狂言の前半部を盛り上げていた。扇雀の良観はこの芝居の中で唯一、新歌舞伎の様な気品のある手触りを感じさせる芝居で、歌舞伎ファンに対するアリバイ証明の様な役割を受け持っていた。
最後は辰次が九市郎と才次郎に討たれて終わるのだが、木村錦花の「研辰」は仇討と云うものの不条理と虚しさを感じさせるものであった。しかしこの野田版では、仇討の虚しさの様な物は役者が見せるドタバタ一歩手前の喧騒の中で後方に引き下がり、世論や大衆の移ろい易さ、無責任さを思わせる作りとなっている。今回の上演では、初演時にはまだなかったSNSなどによる安易な他者批判への皮肉も感じさせるところなどは、二十年たっても古びない、野田秀樹の鋭い時代観察眼に貫かれていると改めて感じさせられた。純歌舞伎とは云えないが、芝居としては圧巻とも云える出来であったと思う。天国の勘三郎も、快心の笑みを浮かべているのではないだろうか。最後になったが、竹本の谷太夫の芝居も、あの謹直な谷太夫がと思わせる弾けっぷりで印象的であった。