fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

令和七年七月 歌舞伎鑑賞教室 時蔵・芝翫の「累-かさね-」

月が替わってしまったが、ティアラこうとうで上演された国立劇場の歌舞伎観劇教室の感想を綴る。「親子で楽しむ歌舞伎教室」と銘打たれていたので、子供連れの見物衆が多かった。入りも九分程度入っていたのではないだろうか。上演前に解説が付いてはいるものの、子供に「累」が解るのだろうかと、一抹の不安はあるが、子供の頃から歌舞伎に触れるのは大変良い事であると思う。この子供達の中で、少しでも歌舞伎を愛する大人となる子が出る事を祈るばかりだ。日本が世界に誇る素晴らしい伝統芸能である歌舞伎を次世代にきっちり繋いで行く事は、今を生きる大人達の使命であると思う。

 

幕開きは鑑賞教室恒例の「歌舞伎のみかた」。担当は坂東亀蔵。若手花形ではなく、亀蔵ほどのキャリアのある役者をこの解説だけで使うとは、贅沢な事だ。暗転していた舞台が明るくなると、客席通路に亀蔵の姿が。「音羽屋!」の大向うがかかる。舞台に上がって見得の説明をし、見物衆にも一緒にやってみて下さいと促していた。子供達が真似をして見得をしている姿が微笑ましい。ツケ打ちや音楽・効果音の事を分かり易く説明。それを見ていて、亀蔵は学校の先生になっても良い教師になったのではないだろうかと思った。その後簡単に「累」の前説。そして今日の萬壽や芝翫が講師をしている国立劇場養成所を宣伝して、どなたでも門を叩いて欲しいとアピールしていた。

 

休憩を挟んで『色彩間苅豆』から「累」。大南北作の清元の舞踊劇で、直近では去年の京都南座の顔見世でやはり萬壽で観た。その時は与右衛門を愛之助が勤める予定であったが、舞台稽古中の怪我で休演となり倅の萬太郎が勤めた。今回はその萬壽のかさね、芝翫の与右衛門と云う配役。そして清元に延寿太夫が付き合うと云う豪華版。出し物はこの一幕ではあるが、チケット代も歌舞伎座より遥かに安価であるし、得した様な気分にさせられる(笑)。

 

それにしてもこの令和の御代に萬壽や芝翫と云う古風な芸風の役者がいると云う事は、何と素晴らしい事であろうか。萬壽より先輩の女形としては大和屋がいるが、大和屋の芸風は、萬壽よりやや現代風なところがある。そこがまた幅広い人気の秘訣なのかもしれないが、同じく先輩の魁春とこの萬壽は、もう一世代前の役者の様な古典的な肌触りがある。芝翫も江戸時代の錦絵から抜け出た様な古風な役者顔と相まって、若手の頃から華やかさより作りに重厚感があり、そこら辺りが先々代松緑に見込まれ、十代の頃からその薫陶を受ける事が出来たのであろう。

 

今回は写真にUPした通りの短い花道であったので、与右衛門とかさねの出は花道を使わず、舞台の上手と下手から出て来る。これは致し方ないとは云え、少し残念。ただ余り観られる形ではないので、その意味では貴重かもしれない。そして萬壽かさねの延寿太夫の絶品とも云うべき清元に乗ったそのくどきの艶っぽさは、例え様もなく素晴らしい。ここの艶と与右衛門に対するその必死の想いがあるからこそ、与右衛門に騙されて惨殺され、遂には亡霊となる怨念の深さが際立つのだ。

 

そして芝翫の与右衛門は、色悪として過不足のない色気もあるが、芸風的に悪の手強さと描線の太さが前面に出て来る。科白廻しは義太夫狂言の様な重厚感があり、その所作はたっぷりとしていて、これぞ芝翫とも云うべき見事さである。この役を艶やかに演じられる役者は幸四郎を始めとして他にもいるとは思うが、これ程太々しく、憎体で、南北的手応えのある与右衛門を演じられる役者は、現代他にいまい。

 

かさねを殺した与右衛門が一旦花道を入るが連理引きで舞台に戻される。亡霊を見上げた芝翫与右衛門の「ハテ恐ろしい」のせりふでチョンと柝が入り、「執念じゃなぁ」と云うたっぷりとした科白廻しで幕になる迄、二人揃って実に素晴らしく、正に傑作とも云うべき「累」であった。観劇した子供達の大半は「?」と云う感じであったかもしれないが、この二人の芝居のほんのワンシーンでも良いので、長く記憶に留めて貰えればと願っている。