歌舞伎座夜の部を観劇。今年は松竹創業百三十年との事で、三大狂言が通しで上演される事となった。今月は『仮名手本忠臣蔵』。流石は「芝居の独参湯」と云われる狂言。大入り満員の盛況であった。昼夜共AプロBプロがあり、大きな役はダブルキャストで演じられている。取り敢えず筆者が観劇したのは夜の部のBプロである。夜の部は「五段目」「六段目」「七段目」「十一段目」の上演。しかし「九段目」がないのは残念。筆者的には「十一段目」をカットしても「九段目」が観たかったのだが、「忠臣蔵」の通しと銘打っている以上、討ち入りがないではしまらないと云う事なのかもしれない。
幕開きは「五段目」「六段目」。「山崎街道」から「勘平腹切」迄である。筆者が観たBプロの配役は勘九郎の勘平、七之助のおかる、巳之助の弥五郎、隼人の定九郎、松之助の源六、梅花のおかや、歌六の数右衛門、魁春のお才。中では隼人と巳之助が初役の様だ。隼人は特にコメントがなかったが、巳之助は芝翫に教えを受けたと云う。ここは通しでなくとも見取りでよくかかる場である。筆者的には、国立劇場のさよなら公演で芝翫の勘平で観て以来である。
まず勘九郎の勘平はニンである事が預かって大きく、且つ何度か演じている役でもあるので、立派な勘平。「山崎街道」で浅黄幕が切って落とされて笠を被って舞台中央に座った勘平が笠をとって顔を見せるところ、色気もあり「忠臣蔵」の諸役の中でも二枚目役の勘平に実に似つかわしい。巳之助弥五郎とのやり取りも歌舞伎味があり、実に結構。「二つ玉」の火縄を回して撃ち殺した定九郎に近づく所作も段取りめく事もなく、手探りで撃ちとめたのが人間と判った時の「こりゃ人」の科白も、その一言で勘平の驚きがしっかり表現されている。定九郎の懐を探って金を見つけ、一旦花道迄逃げるも思い直し、戻って金を持ち去って行くその一連の所作にも、勘平の心の動きがこちらも伝わって来る。
この場のもう一方の主役とも云うべき定九郎も、隼人が初役とは思えない出来。この役は色悪の代表的な役柄だが、隼人らしく二枚目ぶりが強調された色気溢れる定九郎。「五十両」しか科白のない役で、その分所作でその性根を表現しなければならない難役。出は短い乍ら大役である。筆者が今まで観た定九郎では幸四郎が印象深いが、今回の隼人はそれに劣らない出来。如何にも二枚目らしい風貌ときっちりした所作で、勘九郎勘平と揃って立派な「五段目」となっていたと思う。
続いて「六段目」。この場は音羽屋や松嶋屋の名演があり、観ているこちらの採点も自ずと辛くなってしまいがちだが、ここも立派な出来。勘九郎勘平はその出からすっきりと云う以上に世話な味が横溢しており、ここだけで良い勘平だと知れる。舞台に廻っておかややおかるとのやり取りは、音羽屋の様なこってりとした歌舞伎味はないものの、世話の味はしっかりある。お才の持っていた財布を手にして、自分が持っている財布を懐から取り出し見比べ、撃ち殺してしまったのが舅であると気づくところも、見事な技巧。
お才と源六がおかるを連れて立ち去った後、与市兵衛の遺骸が担ぎ込まれる。おかやの嘆きを見て、財布を握りしめて慟哭するところはリアルな往き方で、やはり音羽屋や松嶋屋とは違う味わいが漂う。弥五郎と数右衛門の出となり、二人から舅を殺した金と受け取りを拒絶され、帰ろうとする二人を押しとどめての「討ちとめたるは」「舅殿」から腹切りとなる。ここの「いかなればこそ、勘平は」に始まる長科白がたっぷりとしており、哀感も漂わせてしっかり聞かせてくれる。与市兵衛の遺骸を改めた弥五郎が、鉄砲傷ではなく、刀傷であると気づき、勘平の舅殺しの疑念は晴れる。二人に支えられながら遺骸を確認した勘平が、にじり寄りながら舞台中央に戻る。ここも一般的な往き方では真っ直ぐ戻るところを、一旦途中で横を向いて俯く。刀が腹に入っているので、休まねば動けないのだと云う所をリアルに見せる。
総じて音羽屋や松嶋屋に比べてリアルな往き方であり、歌舞伎味はやや後退するものの、随所で勘九郎の上手さが光っており、芝居としては見応えたっぷり。そしてこの場の七之助おかるも、いい世話女房ぶりで、勘平に別れを告げる「わたしゃもう、ゆきますぞい」も哀切感があり、これもまた結構なおかる。梅花おかや、歌六数右衛門と手練れが脇を固めており、「五段目」に続いてこちらもまた見事な「六段目」であった。
続いては「七段目」、通称「一力」。こちらも単独でよく上演される場である。近年でも團十郎襲名公演の南座で、松嶋屋の由良之助・芝翫の平右衛門で観ている。そちらも素晴らしい公演であった。今回は同じく松嶋屋の由良之助、松也の平右衛門、七之助のおかる、松江の源蔵、男女蔵の助右衛門、亀鶴の重太郎、左近の力弥、橘太郎の伴内、片岡亀蔵の九太夫と云う配役。中では松也が初役の様で、筋書にコメントはなかったものの、多分左近は初役であろうかと思う。
筆者も何度も観ている場で、嘗て観た中で高麗屋の由良之助・松嶋屋の平右衛門、またはその逆と云う配役でも観た。名人同士のぶつかり合いは、それは言葉には尽くせない程の素晴らしさであった。しかし家老である由良之助と、奴の平右衛門と云う立場を考えると、今回の松嶋屋・松也、高麗屋と当時海老蔵の團十郎と云う組み合わせがよりリアルだとも云える。そして今回の松嶋屋由良之助だが、先月の大和屋阿古屋同様、筆者ごときが今更何も云える事はない。前半のやつしに於ける艶、後半の実事の立派さ、大名人の至芸に只管酔わされるばかりであった。
筋書でも述べていたが、松嶋屋は前半のやつしの時にも底割りにならない程度に、ちらちら本性を垣間見せる。蛸魚を九太夫に突き付けられた時に一瞬見せるその目つき、「おのれ」でぐっと時代的な迫力を見せておいて「末社ども」とくだけるあたり、その呼吸は正に名人芸だ。九太夫が床下に入った後に出て来た由良之助が、佩刀の置き場所が変わっているのに気づいた時の迫力ある目つき。長年にわたり積み重ねた松嶋屋の技術が光る。おかるとじゃらつくところも、堪らない艶っぽさ。傘寿を過ぎている松嶋屋の年齢を考えると、これは驚異的な事だ。かおるの手を取って九太夫を刺す場では、畳の上から床下に刀を突き通すのが松嶋屋流。
そして松也初役の平右衛門。松緑が播磨屋に稽古をつけて貰っているところを見ていて、感銘を受けたと云う。大役にやや力みかえっている部分はあったものの、よく通る声を生かした科白廻しは立派なもの。そして何より仇討に加わりたいと云う思いが溢れており、七之助おかるとの芸格の釣り合いもよく、初役らしからぬ見事な平右衛門。七之助のおかるは、今が盛りの美しさを存分に生かして、実に華やかなおかる。この優の芸風から、古格な味わいと云うよりすっきりした近代的なおかる。松也平右衛門と並んだところは、錦絵の美しさであった。松江・男女蔵・亀鶴と云う重量級の三人侍、橘太郎の愛嬌ある軽い味わいの伴内、悪の中に独特の愛嬌も滲む亀蔵の九太夫と役者も揃って、当代の「七段目」であったと云えるのではないだろうか。
大詰は「十一段目」。配役は松嶋屋の由良之助、左近の力弥、錦之助の郷右衛門、萬太郎の平八郎、松也・橋之助・松江・男女蔵・松江他の四十七士、音羽屋の逸郎。今までの狂言の雰囲気から一転して、この段は実録風な場となる。立ち回りがメインで芝居としての見せ場は少ない。中ではやはり平八郎と喜多八の立ち回りが見せ場。萬太郎・橋之助と云う若い二人の組み合わせなので、所作がキレキレで流石に見せてくれる。師直を討ち取った後の「引揚げの場」では、音羽屋の逸郎が出てきて元気なところを見せてくれたのが嬉しい。近年足の不調がある音羽屋だが、馬に乗っているので安心して見ていられた。最後は花道を引き揚げる松嶋屋由良之助を、舞台から扇子を振りかざして見送る美味しい役。短い出で全てを持って行ってしまうその大きさは、流石音羽屋と云ったところであった。
いや~やはり「忠臣蔵」はいい狂言である。事前に出演の発表があり乍ら出演がなかった幸四郎の不在は残念ではあったが、大名題から若手花形迄うち揃った大舞台をたっぷり堪能させて貰った。他のプログラムも全て観劇予定なので、その感想はまた改めて綴りたい。