fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

猿若祭二月大歌舞伎 夜の部 大和屋の「阿古屋」、菊之助・七之助の『江島生島』 、中村屋兄弟の『人情噺文七元結』

歌舞伎座夜の部を観劇。歌舞伎座では六年ぶりとなる大和屋による「阿古屋」が出るとあってか、開場前には地下から上がって来るエレベーター付近迄長蛇の列になる大盛況。菊之助中村屋兄弟と今をときめく花形役者も揃っており、まぁこの入りも当然と云ったところであろうか。ロビーも見物衆で溢れ返っていた。

 

幕開きは皆のお目当て『壇浦兜軍記』から「阿古屋」。戦後歌舞伎界の女帝と称された亡き歌右衛門から直接手ほどきを受け、平成時代は大和屋の専売特許であった当り狂言。琴・三味線・胡弓を弾き分けなければならない故にか、上記二人以外には殆ど演じ手がなく、ようやく近年大和屋の薫陶を受けた児太郎と時蔵によって演じられ、若手に禅譲されたかと思われたが、ここでまた本家による阿古屋の登場となった。大和屋の数多い演目の中でも、十八番中の十八番と云える狂言であろう。今回の配役は大和屋の阿古屋、菊之助の重忠、種之助の左衛門、菊市郎の六郎。中では種之助と菊市郎は初役の様である。

 

この至芸とも云うべき大和屋の阿古屋に、今更筆者こどきが何も云うべき事もない。古希を過ぎても変わらぬ美しさ、その見事な位取り、舞台を圧する貫禄、三つの楽器をしっかり弾き分ける技術、完璧と云う以外に思い浮かぶ言葉もない。殊に筆者が好きなところは、重忠と左衛門に問い詰められ、「いっそ殺して」と三段に身を横たえたところ。その姿の美しさと相まって、景清の居場所を例え知っていたとしても、それを云う位なら命などいらぬと云う思いが滲み出ており、只々見惚れるばかりである。楽器の弾き分けもいつもの事乍ら見事なもの。今回も以前同様、特に胡弓の演奏が筆者的には一番印象に残るのもであった。

 

対する菊之助重忠も以前に勤めている事もあり、手の内に入っている。菊之助のニンに切って嵌めた様な捌き役であり、大和屋と共に浮世絵から抜け出た様な美しさだ。科白廻しには義太夫味もあり、クールな菊之助の芸風が検断役としての重忠に打ってつけである。しかしその中に、もはやこの世では逢う事も叶わないであろう恋人景清の為に、命を捨ててかかっている阿古屋の心情を慮る気持ちがしっかり表現されており、正に当代の重忠と云って良い出来。種之助左衛門は手強さにはやや欠けるものの、人形振りの所作は初役らしからぬ見事なもの。この役は悪役ではあるものの、人形振りが当てられている事からも判る様に、可笑しみもある役柄。種之助が持つ愛嬌が自然と発揮されていて、まずは合格と云えるであろう。兎に角大和屋と菊之助が抜きんでて素晴らしく、絶品と云うしかない「阿古屋」であった。

 

中幕は『江島生島』。大正時代に作られた長唄舞踊で、歌舞伎座でかかるのはほぼ三十年ぶりの様だ。筆者は初めて観る狂言。配役は菊之助の生島、七之助の江島、萬太郎の旅商人、菊史郎・芝のぶ・やゑ六の海女。海女の三人は判らないが、他の三人は当然の様に初役。前半の幻想的な美しさ、それと対照的な後半の可笑しみを伴う旅商人や海女とのやり取りは、狂言としてメリハリがあり、それ程長い出し物ではないが、見応え充分。

 

前半の島流しになっている生島が、夢の中で恋しい江島と再会しての連れ舞が、息を飲む程の美しさ。女形を本領とする二人なので、所作が実に柔らかく、且つ指先迄しっかり気持ちが行き届いていて、実に見事な舞踊。菊之助生島は江島に逢えた喜びがあり乍ら、どこか哀しく儚げで、この舞踊劇の基調を作り出している。七之助江島は、『鷺娘』の時と同様、夢幻的でこの世の者とは思えない雰囲気を醸し出しており、暫し浮世の時間を忘れて見入ってしまった。

 

後半の現実の三宅島の場は、一転して舞台が明るくなる。しかしその中でも菊之助生島は独り夢の中に取り残されており、海女や旅商人とのやり取りは滑稽ではあるのだが、いや滑稽であればこそ、そこに江島と生き別れになってしまった生島の哀しみが漂う。そしてここでも見事なのは七之助の江島に似た海女。先ほどの幻想的な踊りから一転して、世話の味さえ漂う現実の女としての存在をきっちり踊り分けており、前半部と同じ優とは思えない程だ。萬太郎も軽い味わいを出せており、三人共初役とは思えない素晴らしい舞踊劇となっていた。

 

打ち出しは『人情噺文七元結』。落語界中興の祖と云われる三遊亭圓朝作の落語を五世菊五郎が歌舞伎化した狂言。その後六代目~二代目松緑~当代菊五郎に伝わる謂わば音羽屋家の芸とも呼べる狂言である。その一方で六代目の女婿である十七世勘三郎を経て十八世にも伝わっており、平成時代は菊五郎勘三郎の長兵衛が競い合う様に上演されていた。今回は中村屋兄弟が共に初役で挑む。勘九郎の長兵衛、七之助のお兼、山左衛門の藤助、鶴松の文七、市蔵の甚八松緑の伊兵衛、芝翫の清兵衛、萬壽のお駒、そして勘九郎の愛息勘太郎が珍しく女形のお久と云う配役。中村屋兄弟の他、鶴松・市蔵・芝翫が初役と云う座組である。

 

落語では大真打だけが口演出来る大ネタ中と大ネタとされており、その時代を代表する名人が演じてきた演目である。古くは五代目志ん生、その後は六代目圓生と彦六の正蔵の口演が双璧とされており、平成になってからは古今亭志ん朝が素晴らしく、殆ど独壇場の感があった。流儀としては志ん生正蔵は金に執着しない江戸っ子らしいあっさりとした職人長兵衛像を造形しており、圓生志ん朝が娘を身売りして手に入れた虎の子の五十両と云う背景を思い入れたっぷりに語ってこれもまた見事であった。歌舞伎では前者の往き方だとあっさりし過ぎていて芝居的な盛り上がりに欠けてしまう事もあり、概ね後者の往き方を踏襲していると云っていい。

 

そこで今回の勘九郎長兵衛だが、これが実に結構な出来。音羽屋の様な古格な、世話の味わいたっぷりと云う訳ではない。しかしこの優らしい世話味はしっしかりあり乍らより軽妙で、悪い意味合いではなく、音羽屋と比較すると少し現代風な長兵衛。女房お兼を演じた七之助とも兄弟らしくイキがひったりで、絶妙な味わいを出している。二人の掛け合いは、当人達は真剣なのだがそこに滑稽味があり、見物衆にも大いに受けていた。寝ている足の裏を見ただけで、嬶の気持ちは判ると誰かが云っていたが、正にそんな味わいのある夫婦像をきっちり表現している。

 

娘お久が、親が不仲になるのを見かねて吉原の角海老に身売りして作った五十両を、掛け取りの金を掏られたと思い込んで身投げしようとする文七に呉れてやる「本所大川端の場」は、この芝居のクライマックス。どうしても身投げすると云ってきかない文七に手を焼いた長兵衛の「何で誰も通らねぇんだ」と云うボヤキも上手く、実にいい間である。そして五十両を呉れてやると決心する時の、金を持って吉原の方角を見ての思い入れも、大袈裟にならずしかし長兵衛の思いはしっかり表現されており、勘九郎の冴えた技巧が発揮されている。

 

大詰「元の長兵衛内の場」は一転実に明るい場で、松緑芝翫がごちそうとも云うべき役で付き合っており、豪勢で実に結構な場となっている。二人とも出は短いが、松緑は鳶頭らしい鯔背なところを、芝翫は大店の店主らしい大きさを、自然な芝居の中にきっちり表出している。文七とお久を取り持つ市蔵の甚八も、結構な世話の味わいを漂わせており、ここを実に気持ちの良い場にする事に大いに貢献している。初役が多い乍ら各役手揃いで、素晴らしい「文七元結」となっていた。悪人が一人も登場しない、打ち出し狂言としては最適な芝居であったと思う。

 

昼の部は狂言立てに多少の物足りなさを感じさせたが、こちらは歌舞伎を観たと云う手応えをしっかり感じられる、実に結構な歌舞伎座夜の部であった。来月は「忠臣蔵」の通し狂言がかかる。今からわくわく感が止まらない。高麗屋の不在は、残念としか云い様がないけれど。