十月大歌舞伎夜の部を観劇。大入り満員の盛況。ロビーが人で溢れていた。聞くところによると、この夜の部は全公演完売との事。孝玉に加えて染五郎も出るとあっては、当然の入りであろうか。名コンビを謳われる大名題二人は昔からの歌舞伎界のキラーコンテンツだが、流石に全公演完売と云うここまでの入りは近年あまり見ない。これは大河ドラマに合わせて染五郎が光の君を演じると云う事も、大きなトピックとなっているのであろう。
幕開きは『婦系図』。三島由紀夫をして、「日本近代文学史上唯一の天才」と云わしめた泉鏡花の名作である。元は小説であるが、初代喜多村緑郎が劇化したもの。名場面とされる「湯島境内」は、その際喜多村が作者にリクエストして追加されたものだと云う。配役は松嶋屋の主税、萬壽の小芳、亀鶴の万吉、松之助の古本屋、彌十郎の俊蔵、大和屋のお蔦、それに新派から田口守が礼之進で加わっている。基本的に新派の芝居なので、萬壽・亀鶴・松之助・彌十郎は当然の様に初役。しかし驚かされたのは、何度も演じている松嶋屋と大和屋が、この狂言でコンビを組むのは初めてらしい。この二人をして、まだ演じていない狂言があるのですな。
まず驚かされるのは、松嶋屋の若々しいシルエットである。とても傘寿には見えない。科白廻しも若者らしい青さがあり、本当にこの優は化け物ではないかと思ってしまう。高砂屋もいつまでも前髪役が出来る希少な役者だが、松嶋屋は今回の様な役に加えて、丸本の骨太な役をやらせても見事なのだ。この振れ幅が凄い。実年齢が一回り下の彌十郎俊蔵に意見されて涙乍らにお蔦を切ると告げる場面でも、本当に師匠と弟子の年齢差に見えるのだ。これは無論彌十郎の貫禄ある演技も預かって大きいのだが、実年齢の三分の一位の役である主税を演じて何の違和感もない松嶋屋の若さと力量が、本当に見事なのだと思う。
そして大和屋が出てきて涙乍らの別れになる「湯島境内」。主税の苦悩を知らずに浮き浮きと登場する大和屋を見ると、結末を知っているだけに心が痛む。こちらも松嶋屋に負けず劣らずの若々しさ。この人もやはり化け物としか思えない。名科白「別れろ切れろは、芸者の時に云う言葉。今の私には、いっそ死ねといって下さい」も、激しく云うのではなく、心から絞り出す様に云う。この辺りの技巧は水際立っている。この二人の生の舞台をリアルタイムで観れるのは、本当に奇跡的で仕合せな事だと思う。この幸福がいつまでも続いて欲しい。芝居はやはり新派調で、純歌舞伎ではない。敢えて云えば散切り物に近い感じであろうか。大恩ある師匠に俺を棄てるか女を棄てるかと迫られ、泣く泣く別れなければならない二人の哀切が胸を打つ。
脇では俊蔵の女でもある柏家の芸者小芳を演じた萬壽が、婀娜な雰囲気を出していてやはり上手い。新派の田口守も出ていたりするので、歌舞伎座で演じる演目と云うよりは、やはり新橋演舞場的な感じの出し物ではあるが、孝玉の芝居はやはり良い。来年の三大名作の通し上演でも、この二人には大役で見事な芝居を見せて欲しいと思う。歌舞伎座の客席を埋め尽くしていた見物衆も皆、そう思っているに違いない。
打ち出しは『源氏物語』から「六条の御息所の巻」。世界最古の長編小説である「源氏物語」から、六条の御息所にスポットを当てた新作である。配役は大和屋の御息所、染五郎の光の君、時蔵の葵の上、吉弥の中将、歌女之丞の女房衛門、亀鶴の比叡山の座主、彌十郎の左大臣、萬壽の北の方。新作なので当然皆初役ではあるが、大和屋は別の作品で御息所を演じている。
注目は何と云っても染五郎の光の君である。長い間光の君の訪れがなく、意気消沈している御息所の元へ、久々に光の君がやって来る。御息所を始め周囲が浮き立つ中、花道から染五郎の光の君が現れる。その美しさ、気品、正に光の君そのものである。花道は誰が出てもスポットライトが明るく照らすものではあるが、今回はより一層眩く感じられる。当代この優以上に光の君に似つかわしい優はいないであろう。正に今が盛りの美しさである。
対する御息所演じる大和屋の美しさも又格別。前の芝居で傘寿の松嶋屋相手に芸者のお蔦を演じたかと思えば、今度はまだ二十歳に満たない染五郎を相手に、東宮の妃六条の御息所である。松嶋屋の若々しさは本当に驚異的であったが、本当に若い染五郎を相手取っても、何の違和感もない。大和屋の力量に加え、こう云う芝居・配役の出来るところが歌舞伎である。他の演劇では考えられないであろう。
芝居としては御息所の妬心が焦点となっており、折角訪れてくれた光の君を前にしても「葵の上様の所に行きたいのでしょう」とむずかり、光の君を閉口させてしまう。嫌気のさした光の君を、かえって葵の上のもとに行かせてしまう結果となり、今のご時世こう云う云い方も如何かとは思うが、そこが女心の何とやらになってしまう。そして御息所の妬心は生霊となり、葵の上を苦しめる事となる。
舞台装置は簡潔で、豪華絢爛な平安絵巻を期待していた向きには、多少の肩透かし感はあるかもしれない。芝居としても作りが薄く、御息所の妬心も現代調でもう少しどうにか出来なかったかと思ってしまうところはある。しかしこれが如何にも歌舞伎的なのだが、この芝居はただ只管大和屋と染五郎を見る為のものである。そしてこの二人が並んだところの美しさは、それだけで他に何もいらないと思えるものがあるのだ。歌舞伎は筋ではなく、役者を見る芝居と云う側面もある。こう云う芝居があっても良いのだと、筆者は思う次第。
今回の様にわざわざ新作を作らなくとも、『源氏物語』にはほかに幾つも歌舞伎として上演されてきた芝居がある。染五郎には、今後もぜひ光の君を演じて貰いたい。相方としてわざわざ大和屋にご出座して頂かなくとも、七之助や右近、時蔵などなど世代の比較的近い女形は数多いる。同世代には先月見事な雛鳥を演じてくれた左近もいる。歌舞伎座でも新橋でも良いし、来年から染五郎も出演する浅草歌舞伎でも良い。近い内にまた染五郎の光の君を観てみたいものだ。