fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

令和六年六月歌舞伎鑑賞教室 鴈治郎・高麗蔵の『恋飛脚大和往来~封印切』

歌舞伎鑑賞教室を観劇。色々建て替えで揉めている国立劇場が使えないので、荒川区民会館(サンパール荒川)での上演となった。駅から結構離れている事もあり、中々厳しい入り。先の若太夫襲名公演もそうだったが、やはり国立劇場の様には入らない。場所が場所だけに致し方なしか。しかも文楽と違い、花道が必要な歌舞伎公演。先の写真でも紹介したが、花道が短いので、今回の「封印切」の様な出と引っ込みが重要な演目は、基本的に向いていない。それでも筆者は花道の側で観劇したので、間近で鴈治郎の至芸を堪能出来のは幸いであった。

 

幕開きは「歌舞伎のみかた」。芝居には出ない宗之助が、この一役で上演に参加。贅沢な話しだ。花道から出てきて見得の効果などを判り易く解説。竹本や黒御簾の説明をした後、「封印切」の筋や人間関係を画面を使って解説。これだけ丁寧に説明すれば、初めての人にも判らないと云う事はないだろう。加えて舞台前面の上に竹本の字幕も出る文楽方式。如何にも鑑賞教室らしい配慮であった。

 

休憩を挟んで『恋飛脚大和往来』より「封印切」。玩辞楼十二曲の内で成駒家の家の芸。鴈治郎にとっても特にこだわりのある芝居であろう。配役はその鴈治郎の忠兵衛、高麗蔵の梅川、彦三郎の治右衛門、寿治郎の由兵衛、鴈成のおえん、亀鶴の八右衛門。中で鴈成初役のおえんが抜擢人事。筋書によると当人憧れの役との事で、吉弥に教えを乞うたと云う。これも歌舞伎座では中々実現しない配役であろう。他では彦三郎が初役の様だ。

 

鴈治郎の忠兵衛は筆者も何度か観ており、やはり素晴らしい。当世これほどの上方和事が出来る役者は他にいまい。唯一人、松嶋屋を除いては。出の軽さと浮かれ具合、手拭いを頭に乗せての「梶原源太は、わしか知らんてな」の絶妙なイキ、何れも見事なものだ。「奥の小座敷」のじゃらつき感は、相方が東京の高麗蔵だっただけに扇雀との時の様な上方らしいじゃらじゃら感はなかったものの、それでもやはり結構な出来。

 

そして八右衛門とのやり取りから封印切となるのだが、ここがまた素晴らしい。相手の亀鶴八右衛門が実に憎体で、手強い出来。「大和の金、土くれでできてるんちゃうか」「お前のは音が違う。開けて見せてみい」と畳み込む様に煽る。イキをつんで段々ヒートアップして来る二人のやり取りは絶品。成駒家型は封印を切るのではなく、切れてしまうのだが、切れてしまった後は、もうどうにでもなれと全ての封印を自ら切ってしまう忠兵衛。ハプニングで切れてしまった時に一瞬怯んだ後、「よし、今見せたる。五十両、百両」と勢い込んで叩きつける。封印が切れた時に、若さ故に自らも切れてしまったのだ。ここの二人芝居は実に見応え充分。

 

梅川に金は公金横領である事を告げる。忠兵衛に死んでくれと云われた梅川の「たとえ三日なりと、こちの人、女房よと云うて死にとうござんす」の科白が泣かせる。ここの芝居は流石高麗蔵、実がこもって哀感たっぷりの見事なもの。何も知らない周囲の浮かれぶりと、哀しみに沈む二人のコントラストが流石近松、作劇の上手さだ。梅川の涙を誤解しての「嬉し涙様、嬉し涙様」が実に切ない。最後は梅川を先に立たせての忠兵衛一人の引っ込みが成駒家型。オレだけを見ろと云わんばかりの初代鴈治郎らしい往き方だ。見送るおえんの「お近い内に」を受けての忠兵衛「近日、近日」の万感胸に迫る表情が、観ていてたまらなくこちらの胸に響く。この辺りも流石鴈治郎と云う上手さ。出の浮かれ具合から一転しての哀しい引っ込みで幕となった。

 

やはり鴈治郎の和事は素晴らしい。それを改めて再確認した。ただ京都南座で観た時にも記したが、脇に寿治郎以外上方感を感じさせる役者がいない。彦三郎も芝居は上手いが、上方の旦那らしい風情に欠けている。我當が病んで久しく、山城屋・竹三郎・秀太郎と云った上方の名人役者が次々と亡くなってしまった昨今、あのじゃらっとした味わいはもう再現されないのであろうか。それを思うと実に寂しい限りである。その風情を持っている吉弥あたりに、何とかあの味わいを他の役者にも伝えて行って欲しいと、切に願うばかりである。