fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

明治座創業百五十周年記念 市川猿之助奮闘歌舞伎公演 夜の部 隼人代演の『御贔屓繫馬』

チケットをおさえた時にはよもやこんな事態になるとは、想像も出来なかった明治座猿之助奮闘公演の夜の部を観劇。事件の第一報を聞いた時には身体の力が抜けて、よっぽどキャンセルしようかとも思った。しかし代演で奮闘している隼人や役者連の事を思い、やはり観劇する事にした。事件自体は痛恨の極みだが、隼人が精一杯の力演で、やはり観に行って良かった。二階に若干空席はあったものの、払い戻しする人は余りいなかった様に見受けられた。筋書を購入したのだが、四頁にもわたる猿之助のインタビューが掲載されており、読むのも中々辛いものがあった。

 

夜の部は三代目猿之助四十八撰の内から『御贔屓繫馬』の一狂言のみ。当初猿之助が勤めるはずだった良門、熨斗美、小姓澤瀉、八重里、彦平、薄雲実は土蜘蛛の精六役を隼人、隼人が勤めるはずだった頼光・四郎次をそれぞれ門之助と歌之助が代演、門之助は仲光、歌之助は季武を兼ねる。男寅の滝夜叉姫、福之助が正頼・貞光のニ役、團子がお百、青虎が法印と金時の二役、寿猿がお万、笑三郎が八重菊、笑也が桐の谷、猿弥が寿太郎・保昌の二役、中車の綱と云う配役。澤瀉屋一門に若手花形を加え、門之助がお目付け役でついていると云った座組だ。

 

大南北の作を元に、猿翁が創り上げた狂言。歌舞伎らしい面白みに満ちており、宙乗りなどの如何にも澤瀉屋らしいケレン的な見せ場もある。流石は猿翁の作、歌舞伎狂言として実に面白い作品である。猿翁以外に演じた役者はなく、当代猿之助も初役であった。まして代演の隼人には全く縁のなかった狂言。元々千秋楽のみ隼人が演じる予定になってはいたものの、急な代演は本当に大変な事だったろうと思う。昼の部はそれこそ演じるとも思っていなかった團子が、一日の休演のみで代演を勤めあげたと云う。歌舞伎役者の凄みを改めて感じさせられた。猿之助の日頃の薫陶宜しきを見せつけられた思いだ。だからこそ猶更無念の思いが募る。

 

その意味で、今回の芝居に関しては通常の批評は筆者には出来ない。もう良い悪いではないのだ。急な代演と云うのは歌舞伎役者にとってはそれこそ日常茶飯事。数年前に播磨屋が倒れた際に、全く演じた事もない「沼津」の十兵衛を、幸四郎がプロンプターもなしに完璧に演じたと聞いた時には、舌を巻いたものだった。だから隼人が代演をしてもそれ自体驚く事ではない。しかし今回は事情が違う。あんな事件の後なのだ。精神的動揺は計り知れず、隼人以下役者連の心中を思うと居た堪れない。しかし見物衆の為に幕を開けなければならないと云う、プロ意識だけであったと思う。正にクイーンの「The Show Must Go On」の世界だ。

 

皆本当に頑張っていた。狂言として素直に楽しめた。出演していた全ての役者(歌舞伎以外の役者も出演していた)に感謝を捧げたい。序幕でのいきなりの宙乗りから始まって、最後の早替わりの大喜利迄、素晴らしい芝居を見せて貰った。笑也・笑三郎はお約束となっているコロナの入れ事をして楽しませてくれたし、代演の門之助も非常に気迫のこもった力演だった。そして何より隼人の奮闘は、涙なしでは観れないものだった。確かに猿之助だったらと感じさせる部分はある。殊に大喜利の早替わりによる舞踊は、洒脱にくだける猿之助にぴったりの狂言であるので、隼人はニンではない。しかしそんな事はもうどうでも良い事なのだ。慣れないニンでない大役を、この状況下で立派に勤め上げた。そしてその内容も、充分満足の行くものだった。特に最後の土蜘蛛の精は、形も良く力感もあり、それは見事なものであった。

 

この体験は、将来隼人の糧となるに違いない。これをこの状況で仕おおせたのだから、もう怖い物はないだろう。隼人は必ずや歌舞伎界をしょって立つ役者になってくれる事だろう。猿之助の事件はその後色々報道があるが、どれも推測の域を出ない。門之助もブログで「華々しく開幕した初日には、誰がこのような寂しい終幕を予想したでしょうか。これほど寂しい千穐楽は、ありません。」と綴っていたが、皆同じ気持ちである。

 

猿之助に伝わるはずもないが、一言云っておきたい。寿猿を筆頭としたベテラン役者は申すに及ばず、隼人以下貴方が日頃から鍛え上げていた若手花形は実に立派でしたよ。皆貴方の復帰の一日でも早からん事を祈っています。貴方にはまだまだしなければならない事が山とある。父段四郎の分迄、貴方は芝居をしなければならないはずです。そして何より、これだけ奮闘して自らの穴を埋めてくれた隼人や團子以下若手花形達に対する、兄貴分としての責任があるはずです。今はひたすら貴方の復帰を待っておりますよ、猿之助