fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

十月大歌舞伎 第二部 高麗屋の「時平の七笑」、松緑・鷹之資の『太刀盗人』

のっけから二部の感想とは全く関係ないが、音羽屋の文化勲章受章が発表された。誠に目出度い限りだ。山城屋が亡くなって以降、当代の歌舞伎役者で文化勲章受章者はいなくなっていたので、歌舞伎界にとっても大きな慶事だろう。その実力・実績からして当然の受賞だが、正直高麗屋の方が先だと思っていた。と云うのも、別に明文化はされていないかもしれないが、近年の文化勲章は、まず文化功労者に認定された人が有資格者となる傾向がある。高麗屋は三年程音羽屋より早く功労者になっているので、順番から云えば高麗屋だと思っていた。まぁ高麗屋にしろ播磨屋松嶋屋にしろ、遅かれ早かれ文化勲章を受賞するとは思うが。兎に角音羽屋にはこれをゴールとは思わず、その素晴らしい芸を見せ続けて行って欲しいと心から願う次第。

 

閑話休題

 

歌舞伎座二部を観劇。狂言建てが地味なので心配していたが、やはり入りはお寒い限りだった。今は三部制なのであまり長い狂言は出せず、松竹も苦労しているのだろう。筆者は元々たまには三部制の月があってもいいと思っていたのだが、こう毎月だとコクのある長い丸本(例えば「忠臣蔵」)などは中々出せず、歌舞伎を観たと云う手応えが中々感じられないと云う思いが出て来る。まぁ中止になっていた去年の春から夏にかけてを思えば贅沢な話しではあるのだが・・・。大向うを含め、早く通常の上演形態に復して貰いたいものだ。

 

幕開きは「時平の七笑」。高麗屋の時平、友右衛門の定岡、廣太郎の宿祢、宗之助の道貫、錦吾の玄蕃、高麗蔵の輝国、桂三の希世、歌六の道真と云う配役。当代では我當以外にやり手のない狂言歌六以外は当然の様に皆初役だ。今年の高麗屋は、「車引」や「勧進帳」と云った自身の十八番を開陳する一方で、「身替座禅」やこの「時平の七笑」の様に初役にも挑むと云った姿勢を見せている。齢八十に近い事を思えば、これは中々真似出来る事ではない。いつまでも歳をとらないその溌剌とした精神には頭が下がる思いだ。

 

そこで今回の「時平の七笑」だが、あまりかからないにはやはりそれなりの理由がある。まずもって劇中殆ど動きがない。加えて歌舞伎の華とも云うべき女形も出ない。せりふ劇に終始し、展開的にもドラマチックな部分がないと云う芝居。かつて三島由紀夫が、短編小説と云うものは最後の一行に向かって収斂していくものだと云う様な趣旨の発言をしていたが、この狂言も殆どラストの為にのみあると云っていい。そこまでどうやってこの地味なせりふ劇を観客に飽きさせず持って行くか、と云うのが課題となって来る。

 

そこで高麗屋は、この芝居に竹本を入れて来た。この狂言は『菅原伝授手習鑑』の外伝的な要素のある物なので、これは大正解だ。これで地味な芝居に重量感と華やかさが加味された。その効果は、終盤道真を見送っての「また道真も愚か者」で始まるノリ地の科白で最大限に発揮される。しかもその科白を語っているのが当代最高の丸本役者高麗屋。ここぞとばかりにイトに乗る高麗屋の時平は、その大きさ、その濃厚な義太夫味、全くもって見事なもの。この改編は今後受け継がれていくのではないだろうか。ここまで義太夫味を出せる役者が今後出て来るかは、また別問題だが(苦笑)。

 

最後はまた新たな演出で、一旦衝立のかげに入って出て来た時平が、ぶっ返っての大見得になり、そこからクライマツクスの七笑となって幕となる。ぶっ返った姿でせり出し屋台に乗って哄笑しながら迫って来る時平は、物凄い迫力。この地味な狂言を何とか華のある芝居にしようと云う、高麗屋苦心の工夫だ。このぶっ返りには賛否があるかもしれないが、ぶっ返ったところの大きさは流石高麗屋としか云い様のない素晴らしさ。従来の行き方より印象的な幕切れになっていたと思う。

 

脇では歌六の道真が見事な位取りで流石の出来。自分を弁護した時平を真からいい人間だと思い込み、「時平公、おさらば」と花道を引っ込む姿が哀れさ一入で、心打たれる見事な芝居だった。加えて友右衛門、桂三の元気な姿が久々に見れたのも嬉しかった。特に桂三はいつ以来かも思い出せない位久しぶり。一方友右衛門は少し痩せた様にも思えたけれど、倅廣太郎と並んで品格のある芝居を見せてくれていた。

 

打ち出しは『太刀盗人』。三部制で二時間クラスの狂言を出すとそれだけで一部は終わってしまい、主役級の役者が一人位しか使えない。なのでどうしても一時間位の芝居+舞踊と云う狂言建てになる傾向がある。今月も各部最後は舞踊で〆る形になった。筆者は最後舞踊で〆る狂言建ては好みなので、ここは三部制の良い点だ。松緑の九郎兵衛、鷹之資の万兵衛、彦三郎の目代、左近の藤内と云う配役。松緑以外は皆初役の様だ。花形屈指の舞踊の名手松緑の十八番とも云うべき狂言。当然の事乍ら素晴らしかった。

 

以前も書いたが、松緑と云う人はこう云う荒唐無稽な狂言を馬鹿馬鹿しいとも思わず芯から信じて演じられる優だ。役になり切るのは役者として当たり前だが、その前段階でこう云う狂言の素晴らしさを本当に理解しているのだと思う。ドラマチックな展開の芝居より、この九郎兵衛や「芋洗い勧進帳」の弁慶の様な役が本当に上手い。加えて今回は舞踊劇。当代これ以上の九郎兵衛の踊り手はいないだろう。半間遅れて踊る技術は本当に素晴らしく、愛嬌も充分で、思わずクスリとさせられる過不足ない滑稽味もある。

 

そして今回は鷹之資の万兵衛が初役とは思えない見事さ。田舎者の実直さがしっかり出ているし、踊りも大先輩松緑を向こうに回して堂々たるもの。堂々たるものと云っても役柄的に力感あると云うものではない。松緑の、小者とは云え盗人らしい描線の太さに相対するに、その柔らかで軽い味わいは見事な好一対を描いており、見ていて実に気持ちが良い。流石舞踊の名手亡き天王寺屋の愛息。将来が楽しみな踊り手だ。彦三郎の目代も、松羽目の品格を保ちながら可笑し味を自然に出しており、こちらも結構な出来。数は少なかったとは云え、見物衆も満足だったのではないだろうか。

 

来月は何と云っても国立の、普段お目にかかれない相模と藤の方の陣屋入りがあるらしい「熊谷陣屋」が楽しみだ。今の三部制歌舞伎座では見られない、たっぷりとした丸本を観られるのが待ち遠しい限りである。