緊急事態宣言下ではあるが、博多座公演を観劇。福岡にも緊急事態宣言が発出されているので、かなりの店が閉まっていた。そんな状態なので、人数制限をしている客席も満員ではなかった。しかしこの芝居を観なかった(観れなかった)博多の芝居好きは、かなり損をしたと思う。それ程素晴らしい舞台だった。
幕開きは『正札附根元草摺』。歌昇の五郎、米吉の舞鶴と云う配役。長唄の曽我物舞踊だ。舞台中央から五郎と舞鶴がせり上がってくる。時分の花真っ盛りの二人。目の覚める様な美しさだ。歌昇の五郎が逆澤瀉の鎧を片手に決まったところは、小柄な優が大きく見える。歌昇の年齢でこの大きさを出せたのは大手柄。
米吉の舞鶴はひたすら可憐で美しい。冒頭の力比べは男勝りなところを見せる場面だが、ここは少し力感には欠ける。しかし所作の美しさにあまり文句を云う気も失せて、見入ってしまう。一転してのくどきは、成熟した艶っぽさではないが、若々しい清楚な慎みのある色気で魅せる。楽日近くに観劇したので、連舞のイキもピッタリ。若手花形らしい気持ちの良い舞踊だった。
そしてお待ちかね『松浦の太鼓』。幸四郎の松浦候、猿弥の源吾、壱太郎のお縫、宗之助の左司馬、廣太郎の文太夫、橘三郎の其角と云う配役。秀山十種の内で、云わずと知れた当代播磨屋の当たり役。当然の事乍ら、幸四郎は叔父さんからの直伝だ。数年前に歌舞伎座で観ているが、格段の進歩で見事な松浦候だった。
以前観た幸四郎の松浦候は、愛嬌がある所は叔父さん譲りだったが、それが勝ちすぎていた。言葉は悪いが松浦候がバカ殿に見えた。勿論愛嬌がなければならない役どころで、やはり以前観た歌六の松浦候は、芝居は抜群に上手かったが、愛嬌に欠けていた。ここら辺りの匙加減は難しいところと思われるが、そこは流石に播磨屋は素晴らしく、愛嬌と大名としての大きさを折衷させた、見事な松浦候を見せてくれていた。しかし今回の幸四郎は、その播磨屋に迫る出来だ。
まず今回の松浦候が良い出来なのは、その大きさだ。肥前平戸六万石の大名としての大きさが、その佇まいに自然と備わっている。これは幸四郎が座頭役者としての貫禄を備え始めた証であろう。其角とのやり取りで、「さだめて悋気も出るでしょうな」に「たまには謀反も出るじゃでな」と返すところの泰然とした大きさ。更に其角が「気に入らぬ風もあろうに柳かな」に「徳あればこそ人も敬もう」と時代に張り、一転「まず其角がやりおったわい」とくだけるところ、硬軟自在の素晴らしさ。ここは橘三郎とのイキも合い、見事な芝居だ。
そしてクライマックス、陣太鼓の数を数えての「三丁陸六ッ、一鼓六足、天地人の乱拍子」からの科白廻しでは見事な名調子を聴かせてくれる。「宝船はここじゃここじゃ」と無邪気に喜び愛嬌こぼれる姿には、こちらまで浮き浮きさせられる。ここら辺りの芝居の上手さも、襲名以降幸四郎が腕を上げた何よりの証左だ。
大詰めの「松浦邸玄関先の場」では、本懐遂げて駆けつけた猿弥の源吾が素晴らしい出来。見事怨敵吉良少将を討ち取ったと告げる長科白が実に聴かせる。ここでは筆者も思わず涙ぐんでしまったが、場内からもすすり泣きが聞こえた。橘三郎の其角もニンに合い、いかにも蕉門十哲に数えられる俳人らしい佇まいを見せる。壱太郎のお縫も兄の仇討を喜び乍ら、もはやこの世で会う事はかなわないと思う心情を垣間見せ、これまた結構な出来。内蔵助以下の働きに感動した松浦候の「誉めてやれ、誉めてやれ」で大団円となる幕切れ迄、各役手揃いの素晴らしい『松浦の太鼓』となった。
続けて夜の部も観劇したが、その感想はまた別項にて。