fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

御園座杮落四月大歌舞伎 新白鸚の弁慶

御園座の杮落公演を観劇。昼夜観たが、見所満載で長くなりそうなので、取り敢えず『勧進帳』から。

 

云うまでもなく、通算で1,200回近く演じている高麗屋の当り狂言だが、その上演回数が示す圧倒的な人気とは対照的に、渡辺保氏を始めとする批評家からの批判対象にもなっている狂言だ。

 

批判の要点としては、リアルで心理主義的行き方だと云う事の様だ。要するに現代的な弁慶であり過ぎると云うのだろう。だが果たしてそうだろうか?筆者は現代的である事が必ずしも悪い事だとは思わないが、今回白鸚の弁慶を観て改めて感じた事は、とにかくこの弁慶はひたすら義経を無事に安宅を通過させる事しか念頭にないと云う事だ。

 

その思いが溢れ、客席にもびんびん響いてくる。『勧進帳』がそこまでエモーショナルになる必要があるのか?と云う向きもあるだろう。しかし同じ歌舞伎十八番と云っても、『毛抜』や『暫』とは違うのだ。ここには現代にも通じるドラマが内包されている。それをただの荒事として演じては、この狂言の大事な主題を見失う。

 

私は観ていて、その弁慶の必死の思いにうたれた。不覚にも目頭が熱くなった。若々しく見えるが、鸚も75歳。しかも20キロにもなる衣装を着ての芝居だ。動きに往年の勢いとキレはない。その意味では正月の幸四郎の弁慶の方が、当然ながら所作にスピードと勢いがあり、若々しい。だがここにあるのは弁慶の魂なのだ。

 

花道の出から最後の飛び六方まで、ただひたすら義経を通すその一念が貫かれている見事な弁慶。しばしばやり玉にあげられる義経を打擲する時の思い入れも、その一念から出てくる自然なものに私には感じられる。よく「底割り」と云われ、あれでは富樫にバレると批判されているが、それを云うなら義経1人を合力として別の服装にさせている設定の方が、かえって目立つし不自然と云う事になる。

 

元々現代劇とは違う設定を前提として観るべき歌舞伎劇において、なぜ打擲の際の思い入れの部分を取り出して現代的な視点で批判するのか?私には理解出来ない。バレると云うなら、最初からバレていそうな芝居設定なのだ。歌舞伎劇としての前提に立って観れば、あそこの思い入れはむしろ必然と、私には思える。

 

延年の舞から義経一行を急き立たてて先に行かせ、いよいよ最後の飛び六方。大向こうから「待ってました!」の声がかかる。柝に合わせて誰が始めるでもなく自然にわき起こる手拍子(ここもよく批判されているが)。引っ込みは、飛びと云いながらも往年の様には飛べていない。しかし紛れもなく義経の後を一心に追いかける、忠義一途の弁慶の姿だった。

 

慌てて補足するが、白鸚が気持ちだけで弁慶を演じている訳ではない。『勧進帳』には松羽目物としての厳格な型があり、それらを規矩正しく演じると云う大前提に立っての話しである。天地人や石投げなどの見得大きさ、立派さは上演を重ねて揺るぎのないものだし、詰め寄りの迫力もまた無類のものだ。一瞬たりとも舞台から目が離せず、ひたすら白鸚の弁慶が発する「気」を浴び続けた1時間10分だった。

 

最後になったが、幸四郎の富樫もまた見事だった。千回記念公演の頃よりも、芸格が大きくなった印象。そして素晴らしかったのが、 鴈治郎義経。その気品といい、「判官御手を」で見せる情味の深さといい、当代の義経義経がいいと「判官御手を」は本当に泣ける場面となる。先月の若狭之助もそうだったが、この優の殿様は本当に素晴らしい。梅玉に次ぐ殿様役者と云っていいだろう。

 

多分揚幕に入った後の白鸚は、暫く立ち上がれなかったのではないか。それほどのエネルギーを発散し続けた『勧進帳』だった。白鸚の年齢を考えるとあと何回観れるか判らないが、「お客様が望む限りやる」と云う白鸚の弁慶を、まだまだ見納めにはしたくない。そう強く思った。

 

その他の演目の感想はまた別項で。