fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

播磨屋の『熊谷陣屋』

先日、今月の歌舞伎座の出し物『一條大蔵譚』を予習を兼ねて録画で観た話しを書いたが、今日はやはり今月の『熊谷陣屋』を、さよなら公演時の播磨屋で久々観賞した。その感想を綴ってみたい。

 

平成22年の御名残四月大歌舞伎より。さよなら公演だけあって、まず役者が凄い。富十郎藤十郎玉、春ときて四天王にずばっと友右衛門、錦之助江、三。堤軍次に又五郎当事の昇を配する陣容。これだけ脇を固めて熊谷に播磨屋とくれば、悪い芝居になり様がない。案の定、いい陣屋だった。

 

去年の4月に観た高麗屋もそうだったが、まずその出から熊谷の抱えている苦悩、悲しみが観る者に伝わる素晴らしい熊谷。ただ花道を歩いているだけで、その人物の思いを観客に伝える事が出来る、歌舞伎芸の究極の姿。役の性根がしっかり胆に入っていないとこうは行かない。この兄弟は本当に凄い。

 

舞台に上がっての軍物語の上手さ、義太夫の語りと播磨屋が語る熊谷の物語のトーンが見事にシンクロする濃厚な義太夫味は、正に丸本歌舞伎の醍醐味。糸に乗った所作に続く力感溢れる平山見得、ただただ見惚れるばかり。

 

一旦引っ込んで首桶を抱えて出てきた熊谷を、義経が呼び止める。この時花道近く迄歩いてから戻るのは、他の人はやるだろうか?些細な事だが珍しい気がする。小次郎の首と顕れてのお決まりの制札の見得も豪快無比で見事の一言。その時の熊谷が相模を制する台詞に、妻への祈る様な思いを込めているのが判る高麗屋の行き方に比べ、播磨屋はあくまで武骨一遍な熊谷の気性を押し出す様な行き方なのは、両者の熊谷と云う人物に対する捉え方の相違が良く出ており、興味深い。

 

その後出家を決意した熊谷が、「夢だ、夢だ」から幕外の引っ込みになるのだが、ここでの播磨屋も出家したとは云え武骨な武士として通しており、大きく泣き上げる事はやや抑え気味に、笠で顔を隠したまま肩を揺らして崩れ落ちる。ここは笠を一旦持ち上げて大きく泣き崩れる高麗屋と異なるところ。

 

思うに高麗屋にとっての熊谷は武士である前に、迷いもすれば泣きもする一人の人間であり、播磨屋のそれは何よりも武士として自分を練り上げている人間であると云う事だろうと思う。花道の涙も、勧進帳ではないが「ついに泣かぬ弁慶も、一期の涙ぞ殊勝なる」的な解釈なのだろう。

 

最後に出家してしまうと云う事から考えると、高麗屋の捉え方の方が人物像としては一貫性がある様に思うが、丸本歌舞伎の人物としては播磨屋の方が本筋かとも思える。筆者としては、どちらの行き方にも共感出来たが。

 

最後になったが藤十郎の相模、玉の義経はやはり素晴らしい。富十郎の弥陀六も天下一品の名調子だが、やや現代調で義太夫味は薄かった印象。その意味では今月の左團次の方が適役ではないかと楽しみ。

 

お父さんと叔父さんの見事な熊谷を踏まえた上で、敢えて襲名でこの大役に挑む新幸四郎播磨屋を観てまたまた勝手にハードルを上げてしまったが、期待してますよ、高麗屋