fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

十二月大歌舞伎 昼の部 松緑・幸四郎の『鞘當』、團十郎・菊之助・勘九郎の「二人道成寺」、新之助の『毛抜』

成田屋襲名公演の昼の部を観劇。こちらもやはり満員の盛況。ただ夜の部の際に少し触れたが、團十郎の出演は「押戻し」の正味五分間のみと物足りない。この部は新之助を中心にしたいと云う團十郎の考えなのだろう。しかし僅か九歳で歌舞伎座の出し物として粂寺弾正とは・・・大胆極まりない挑戦と云えるだろう。高麗屋襲名の際の染五郎義経でさえかなり思い切った配役だと思ったものだが、今回はその比ではない。子供心に計り知れないプレッシャーと戦っているのではないだろうか。

 

幕開きは『鞘当』。松緑の伴左衛門、幸四郎の山三、奇数日が猿之助の留女、偶数日が中車の留男と云う配役。謹慎していた中車の復帰舞台となった。筆者はどちらも観劇したが、中車が花道を出て来た時の拍手は大きく、そして長いものだった。巷間散々叩かれている中車。しかし歌舞伎の見物衆はこの優の復帰を待ち侘びていたのだと改めて思った。緊張の為か芝居は少し硬かったが、もう充分社会的制裁は受けたろう。これからは汚名を雪ぐ為にも、歌舞伎舞台に全力投球して貰いたい。

 

最近毎月の様に松緑幸四郎猿之助の組み合わせが観れるのが、実に嬉しい。当代屈指の踊り手である松緑幸四郎の所作事。文句のつけ様のない素晴らしさだ。松緑の伴左衛門の荒事味、幸四郎の和事味、どちらもきって嵌めた様にぴったりのニン。科白廻しも見事で、正に当代の『鞘当』。猿之助の留女も仇な艶っぽさと女伊達の強さを感じさせて、芝居をしっかり締めていた。成田屋襲名を寿ぐ、見事な出来の狂言であった。

 

続いて『京鹿子娘二人道成寺』を「押戻し」迄。配役は團十郎の左馬五郎、菊之助勘九郎の花子、彦三郎・亀蔵兄弟、萬太郎、種之助、福之助・歌之助兄弟、他の所化と云う配役。菊之助は以前大和屋を相手に「二人道成寺」を踊っていたが、今回はその時と演出が違い、通常の「道成寺」に近い行き方だ。勘九郎の方は「二人道成寺」は初役だと云う。これに團十郎の「押戻し」が付くと云う形。

 

しかし菊之助の花子の素晴らしさはどうだろう。愛嬌の薄い芸風がかえって鐘への妄執を感じさせ、その所作の美しさと相俟って、観ていて惚れ惚れする程の見事さだ。とくに〽︎恋の手習いからの〽︎誰に見しょとて紅鉄漿つきょうぞの艶っぽさ、ふっと遠くを見たところに切ない女心を滲ませるその水際立った技巧は天下一品。大和屋が踊り納めてしまっている現状では、当代に並ぶ者はないであろう。勘九郎もまた見事。こちらは愛嬌のある芸風なので、菊之助とは全く違った花子になっている。大和屋と菊之助の花子は一つの人格が二つに分かれて踊っているのを感じさせたが、今回の二人は全く違う二人が一つの振りを踊っていると云う印象になっている。

 

「鐘入り」があり、鐘が引き上げられて蛇体姿になった二人の清姫の亡魂が現れる。花四天を蹴散らしたところに、花道からいよいよ團十郎の左馬五郎が登場。その圧倒的な力感、堂々たる科白廻しと所作、これぞ荒事である。しかし素晴らしいだけに出番の短いのが残念。左馬五郎は最後に出て来て強烈な印象を残しはするが、どう考えてもこの狂言の主役は花子。通常の公演なら兎も角襲名狂言だったので、他に演目はなかったのかと思ってしまう。勿論芝居自体は上記の通り見事な出来であったが。

 

打ち出しは歌舞伎十八番から『毛抜』。新之助の弾正、雀右衛門の巻絹、錦之助の民部、右團次の玄蕃、芝翫の万兵衛、歌昇の数馬、児太郎の秀太郎、新悟の春風、廣松の錦の前、高砂屋の春道と云う配役。配役が発表された時から色々喧しかった史上最年少九歳で演じる新之助の弾正が何と云っても話題の中心だろう。弾正は荒事の力強さと愛嬌、捌き役としての爽やかさを兼ね備えていなければならない難役。当然九歳で演じおおせるものではない。その意味で通常の批評は無意味だろう。

 

しかし『外郎売』もそうだったが、新之助の所作はとても子役のそれではない。実に美しくすっきりしており、九歳とは思えない立派さだ。加えて印象に残ったのはその科白廻しだ。教えたのは無論父團十郎だろう。新之助自身も父が演じる弾正を見て自分もやりたいと伝えたと云う。しかしこれは筆者の推測だが、新之助は祖父先代團十郎の映像を繰り返し見たのではないだろうか。口跡に先代を想起させるところが多々あるのだ。当代團十郎はよく先々代の團十郎に似ていると云われる。新之助も同様隔世遺伝で、先代に似ているのかもしれない。孝太郎も、舞台で見る後ろ姿が先代團十郎にそっくりとブログで書いていた。もしそうなら末頼もしい限りである。

 

その新之助を囲む幹部役者の芝居がまた見事。高砂屋は日本一の殿様役者。見事な位取りと気品ある舞台姿は立派の一言。右團次と芝翫の芝居も実に手強い出来。殊に芝翫の万兵衛は悪を効かせながらも独特の愛嬌があり、とても初役とは思えない見事なもの。雀右衛門の巻絹は、何度も演じていて完全に手の内の役。各優が子供を相手にしていると云った感じは全くなく、全力投球で新之助を盛り立てているのが感じられた。若手花形も歌昇・児太郎・廣松・新悟とそれぞれしっかりとした出来。最後は新之助が年齢に似合わぬ立派な花道の引っ込みを見せて幕。成田屋の後継者たる宿命を背負った新之助、まずは見事なスタートを切ったと云えるのではないだろうか。目出度い限りである。

十二月大歌舞伎 夜の部 團十郎・大和屋・菊之助・猿之助他の『助六由縁江戸桜』

十二月大歌舞伎が開幕した。先月に続いて満員御礼の垂れ幕が下がり、客席はやはり熱気に溢れている。ただ先月は『勧進帳』、『助六由縁江戸桜』と豪華な狂言が並んだが、今月は「助六」はそのままだが、昼の部は「押戻し」のみ。歌舞伎十八番とは云え團十郎の出演は五分程度の狂言なので、些か寂しい。その分新之助の『毛抜』があると云う狂言立て。まぁそれは昼の部の話。夜の部は何と云っても「助六」だ。

 

幕開きは「口上」。先月は大名題のみが並んだコンパクトな襲名披露口上だったが、今月は左團次を始めとして総勢二十三名の役者が並ぶ華やかな口上。ただ本来ご披露役であった高麗屋が病気休演。松竹によると大事を取った休演で、今月中をメドに復帰を目指すとの事。いつまでも若々しい高麗屋だが齢八十の傘寿になっている。くれぐれも無理だけはしないで貰いたい。高麗屋には、播磨屋の分まで長生きして頂かねばならないと思っているので。その関係でご披露役は左團次となった。しかし市川家に関わる役者が全員柿色の裃で舞台上に居並んだ姿は壮観の一言。改めて市川宗家の大きさを感じさせる。

 

やはり左團次のご披露口上は些か危なっかしかったが、筆者が観劇した日は團十郎の誕生日であったので、口上で「お誕生日おめでとうございます」と團十郎に向けてお辞儀をし、見物衆からも温かい拍手が送られていた。その他の役者連は先月と違って年齢層が若く、云い淀みも少ない安定感(?)のある口上だった。中では猿之助が、「幸四郎の兄貴が私の気持ちを代弁してくれたので、私の挨拶は以下同文とさせて頂きます」とやって、見物衆を大いに沸かせていた。しかし最年少の新之助から最年長の寿猿迄、十世代が居並ぶ口上も前代未聞だろう。先月に引き続いて成田屋ならではの「睨み」も披露。二ヶ月続きの「睨み」がコロナに止めを刺してくれる事を願ってやまない。

 

休憩を挟んで『團十郎娘』、別名『近江のお兼』。配役はぼたんのお兼、男女蔵・種之助・男寅・福之助・右團次の漁師。女性が歌舞伎座で出し物をするのは市川翠扇以来六十年ぶりだと云う。これも画期的な事だ。もう十一歳になったとの事で、大分大きくなった。子供の成長は早いものだ。この舞踊はクドキもあり、立ち回りもあり、晒を使った振りもありで、決して易しいものではない。しかし幼いとは云え流石舞踊市川流の後継者、しっかりした踊りになっている。

 

無論まだ子供なので、お兼の色気の様なものは出ない(出たらかえって不気味だろう)が、そんなものはいずれ大人になれば出て来るもの。今は振りをきっちりやる事が大事。その意味では見事なものだったと思う。男女蔵と右團次の若手花形に混じっての舞踊は流石の貫禄。若手花形は身体はよく動くし、所作にキレがあって、観ていて実に清々しい舞踊。市川宗家のお嬢様を懸命に盛り立てている姿は好感が持てた。團十郎の事だ、いずれまた機会を見てぼたんに出し物をさせるだろう。成長して行く姿を楽しみに観て行きたい。

 

打ち出しは先月に引き続き「助六」。二ヶ月続けての上演は、この演目に対する團十郎の深い思い入れを示すものだろう。團十郎助六、大和屋の揚巻、菊之助の白玉、猿之助の里暁、巳之助の福山かつぎ、猿弥の仙平、市蔵の利金太、萬次郎のお辰、友右衛門の三浦屋女房、勘九郎の新兵衛、吉弥の満江、彌十郎の意休、左團次の門兵衛、幸四郎の口上と云う配役。團十郎幸四郎以外は先月と役者が代わっている。先月揚巻だった菊之助が白玉に回り、揚巻は大和屋。筆者は観られなかったが、先月の後半はこの逆の配役だったらしい。しかし役者バランスとしては今月の方が本当だろう。

 

先月観ている狂言なので、感想に変わりはない。相変わらず溜め息で出る程見事な花道の出端。粋で美しい舞台姿。科白廻しも素晴らしく、無類の助六である。先月と少し肌合いが違ったのは意休と揚巻が同世代の松緑菊之助から、彌十郎玉三郎になった事で、この二人とのやり取りに團十郎持ち前の愛嬌が滲み、少し甘える様な風情が醸し出されている。出端の様な一人芝居に変化はないが、やはり相手役によって芝居は変化するものなのだ。

 

面白かったのは助六が意休の事をくさす科白。通常役者の名前や屋号を云って「~によく似た奴だ~」となるのだが(先月は紀尾井町によく似たと云っていた)、今年大河ドラマでブレイクした彌十郎意休を「北条時政によく似た奴だ~」とやって、見物衆を大いに沸かせていた。その彌十郎初役の意休も柄を生かした貫禄と、実に手強い芝居でラスボス的な大きさを出しており、まずは見事な出来。そして大和屋の揚巻はこれぞ本役。先月の菊之助も見事であったが、何度も手掛けている大和屋はまた違った味わいで素晴らしいもの。酒の香りがほのかに客席迄漂って来る様な花道での酔態の艶っほさ、舞台に廻ってのその美しさ、貫禄。これぞ正に松の位の太夫職だ。

 

満江との二度目の出では、世話の雰囲気を醸し出していた菊之助と違い、どこか母性を感じさせる揚巻。助六が甘えている感じが出ており、この二人のやり取りは実にいい雰囲気。大和屋の大きさに身を任せている團十郎助六と云った感じであった。巳之助の福山かつぎは気っ風のいい啖呵と鯔背な所作で、これまた結構。亡き父三津五郎に増々似て来ていて、胸が熱くなった。猿之助の里暁は助六に「寶世さん、お誕生日おめでとうございます」と呼びかけプレゼントを出すと云うサービスぶり。新橋での團十郎正月公演の宣伝迄して大いに舞台を盛り上げていた。

 

勘九郎の新兵衛は助六の兄貴には見えづらかったが、和かみがあり、生来の愛嬌を生かしてまずは文句のない出来。吉弥の満江、萬次郎のお辰と手練れが脇を固めて、見事な「助六」となった。ただ左團次が少し痩せた様に見え、立ち姿も辛そうに感じられた。高麗屋が休演して口上の披露役も兼ねている左團次。体調にだけは充分留意して貰いたいものだ。

 

今月はこの後、年末恒例の南座の顔見世を観劇予定。愛之助獅童鴈治郎、そして松嶋屋と揃う公演が今から楽しみである。

十二月大歌舞伎(写真)

二か月目に突入した成田屋襲名公演に行って来ました。ポスターです。

 

一部絵看板です。

 

同じく二部です。

 

今月の祝い幕です。

 

こちらはユニクロ提供の祝い幕です。

 

先月に引き続き盛況の成田屋襲名公演。感想はまた別項にて。

 

国立劇場令和四年十一月歌舞伎・落語コラボ公演 小朝の『中村仲蔵』と芝翫・歌六の「五段目」「六段目」

国立劇場の十一月公演を観劇。入りは五分と云ったところだったろうか。成田屋襲名公演の裏(失礼)としては、健闘していたと云えるかもしれない。「忠臣蔵」五段目の斧定九郎をキーワードとした歌舞伎と落語のコラボ公演。今までなかったのが不思議なくらいだが、好企画だ。歌舞伎を元にした落語には『四段目』、『七段目』、『猫忠』などがあり、逆に落語を元にした歌舞伎に『文七元結』、『芝浜』、『らくだ』などがある。昔から深い繋がりがある二大庶民演芸の公演、興味深く観させて貰った。

 

幕開きは小朝の落語『中村仲蔵』。筆者、小朝の生口演を観るのは二十年ぶりくらいになるだろうか。昔から達者な噺家だった。まだ二十代だった小朝の『太鼓腹』の上手さには舌を巻いた記憶がある。どれだけ凄い噺家になるだろうと思っていたが、その割には大きくなっていない印象があるのは残念。ただ小三治亡き後、当代では指折りの噺家ではあると思う。筆者の個人的見解だが、歌舞伎にはまだ名人が何人かいるが、今の落語界には名人はいなくなってしまったと思っている。少なくとも昭和の文楽志ん生圓生・小さん、平成の志ん朝に匹敵しうる力量のある噺家は、現落語界にはいないと云っていいだろう。その現状で、小朝の存在は貴重なものだ。

 

枕の軽妙な上手さ、センスの良さは相変わらずだ。ここは若い頃からの現代感覚を持ち続けていて、面白く聴かせる。しかしこの「仲蔵」と云う噺は筆者の耳に先代の正蔵稲荷町の彦六の口演が強く残っている。それからするとやはり少し喰い足りない思いは残る。技術は確かではある。しかし口跡が軽く、この噺にはあまり向いているとは思えない。噺の中に出て来る名人團蔵なぞの貫禄が出せていないのだ。その意味では先代の圓楽の方がこの噺らしい重厚感があった。しかし主人公の仲蔵のまだ若い修行の身の役者らしい人物造形はしっかり出来ている。流れる様な口跡の良さも相変わらずで、色々云ったものの、楽しく聴けたのも事実。サゲも「これで楽になるねぇ」「まだ初日だ、楽(千秋楽)にはならねぇ」と独自の工夫をしており、このサゲは従来のものよりいいオチだと思った。

 

小朝がサゲを云ってお辞儀をすると、ぐるりと回り舞台が回転して「五段目」となる。今回は「鉄砲渡しの場」はなく、いきなり「二つ玉の場」から。配役は芝翫の勘平、笑也のおかる、歌昇の弥五郎、梅花のおかや、松江の源六、吉三郎の与市兵衛、萬次郎のお才、歌六が定九郎と郷右衛門の二役。「二つ玉」なので科白も少なく、所作で見せる場。ことに定九郎の科白は「五十両」のみしかないのだ。しかし先の小朝の落語がこの定九郎を作り上げる苦心談だったので、初めてこの場を観る観客にも実に親切な企画だと思う。小朝が云っていた通りのいで立ち、所作なのだ。しかし初役だと云う歌六の定九郎は、やはりニンではない。所作はしっかりしており、緊迫感溢れる見事なものだったが、この役に不可欠な艶、色気を決定的に欠いている。筆者的に当代最高の定九郎役者は幸四郎だと云う評価は動かない。

 

芝翫の勘平は実に三十年ぶりだと云う。亡き勘三郎に教わったらしい。しかし筆者が観劇したのが楽に近い日だったと云う事もあるかもしれないが、久しぶり感はない。「五段目」の所作も実にこなれており、段取り感などを感じさせるところも全くない。観る前は芝翫に勘平はニンではないのではないかと思っていたのだが、どうしてどうして。その古風な役者顔が如何にも時代物狂言の二枚目にぴたりと嵌っている。色気も充分にあり、「六段目」の細かな決まり事がある所作も実に自然に演じていて、とても三十年ぶりの役とは思えない見事さだ。

 

そして何より素晴らしかったのはこの優の持ち味とも云うべき義太夫味だ。艶と義太夫味を併せ持った勘平と云えば、何と云っても松嶋屋である。しかし今回の芝翫は、より古風な如何にも時代世話の風合いを感じさせてくれており、おさおさ松嶋屋に劣らない出来だ。腹切りの場における科白廻しも、安易なリアルさに流れず実に歌舞伎らしい云い回し。「いかなればこそ、勘平は」から始まる長科白の竹本とシンクロする濃厚な義太夫味は、今の大幹部役者を除いては芝翫以外には求め得ないものであろう。「色にふけったばっかりに」で頬に手をやってべっとりと血糊が顔に着く場面も腹に刀が入っている事を忘れず、苦しい息の下で実に鮮烈な場となっている。丸本における芝翫の力量は、流石と云う他ない。芝翫は観劇後如何にも歌舞伎を観たと云う満足感を味わわせてくれる、素晴らしい役者だと思う。

 

脇では梅花のおかやと、萬次郎のお才が渋い味を出していて見応えがある。萬次郎は出て来るだけで歌舞伎味を感じさせる当節貴重な役者だが、今回も文句のない出来。それほど為所のある役ではないが、勘平・おかや・おかるが舞台中央で芝居をしている間中、脇で煙草を吸ったり扇子をあおいだりしているその雰囲気が実にいい。この味が自然に出せる所がこの優の力量だろう。梅花のおかやも、勘平を折檻するところの怒りの大きさ、与市兵衛の死が勘平のせいではないと判った後の懺悔の深さ、愛娘おかるの夫を死に追いやってしまった自責の念をひしひしと感じさせ、情味ある見事なおかやであったと思う。

 

笑也のおかるは美しくはあるが、この優のクールな芸風はおかるのニンではない。ただその所作、どこか文楽人形を彷彿とさせる美貌は古風な丸本狂言に相応しいもの。歌昇の弥五郎もしっかりとした科白廻しを聴かせてくれており、歌六はやはり定九郎より郷右衛門が本役。武士らしい見事な位取りの芝居を見せてくれていた。この歌舞伎と落語のコラボと云う企画は、まだまだ発展性がありそうな気がする。筋書の対談で小朝が『芝浜』とか『文七元結』を歌舞伎と落語両方でやるのもいいのではないかと発言しており、それを受けて芝翫も落語の『鰍沢』を歌舞伎にしてみたいと云っていた。ぜひ実現させて欲しいものだ。

国立劇場令和四年十一月歌舞伎公演 『歌舞伎&落語 コラボ忠臣蔵』(写真)

国立劇場の落語・歌舞伎コラボ公演に行って来ました。ポスターです。

 

歌舞伎名ぜりふかるたの展示がありました。

 

正月恒例の劇団公演。今回は遠山の金さんの様ですね。

 

ありそうでなかった落語と歌舞伎のコラボ公演。興味深い組み合わせでした。感想はまた改めて綴ります。

 

十一月吉例顔見世大歌舞伎 第一部 高砂屋・時蔵他の『祝成田櫓賑』、新之助・音羽屋の『外郎売』、團十郎・幸四郎・猿之助の『勧進帳』

團十郎襲名・新之助初舞台公演の一部を観劇。二部同様満員御礼の垂れ幕が下がる超満員の客席。この部は新之助が史上最年少で五郎を勤める『外郎売』もあり、同世代の花形、幸四郎猿之助と四ツに組む『勧進帳』もある。筆者は当日、友人夫婦と同行して観劇した。奥方は歌舞伎初観劇。感想如何にと思っていたが、とても感動したとの事で一安心。初めて歌舞伎を観る人も感動させる力がある、花形三人全力投球の『勧進帳』は実に見応えがあった。

 

幕開きは『祝成田櫓賑』。襲名時によく上演される所謂「芝居前」。大名題から若手花形迄がうち揃って成田屋の襲名を寿ぐ狂言。配役は高砂屋の梅吉、鴈治郎の智吉、錦之助の信吉、孝太郎の松葉、梅枝の梅香、萬太郎・種之助・鷹之資の鳶の者、猿弥・男女蔵権十郎・右團次の男伊達、笑三郎・廣松・門之助・高麗蔵の女伊達、福助のお栄、楽善の輝右衛門、時蔵の時乃と云う豪華配役。加えて現役最年長役者の寿猿が花道からしっかりとした足取りで登場し、元気な姿で襲名を寿いでいたのが印象深い。

 

高砂屋の粋で颯爽とした風姿の見事さは、今更云う迄もない。梅吉との馴れ初めを語る時蔵口説きの艶っぽさ共々年季の入った芸だ。それに若手花形に似ぬ貫禄溢れる梅枝の美しい所作、獅子舞で見せる種之助・鷹之資の、若手らしいキビキビとした威勢のいい動きも実に気持ちが良い。二十代から九十代迄の役者が揃っての芝居前は、史上初ではないだろうか。ある意味歴史的な狂言であったと思う。ただ筆者が観劇した日は高麗蔵が休演。夜の部を休演した高麗屋共々、早く元気になって復帰して貰いたいものだ。

 

続いて歌舞伎十八番より『外郎売』。今回襲名する二人の演目は来月も含めて歌舞伎十八番ばかり。團十郎の家の芸に対する強い思いを感じさせる狂言立てだ。御年九歳の新之助。襲名が二年半も伸びたのは、大人が感じる以上の長さであったろう(何せ人生の1/3近い長さなのだ)。満を持しての初舞台で五郎の大役だ。音羽屋の祐経、魁春の虎、雀右衛門舞鶴、孝太郎の少将、左團次の朝比奈と云う配役。大ベテランが取り囲む中、堂々たる舞台姿を見せてくれた。

 

舞台に祐経以下の面々が揃う中、花道から登場する新之助の五郎。七三で八代目新之助を名乗り舞台へ廻る。「狂言半ばではございますが」と云う音羽屋の挨拶に続いて、初舞台と襲名の劇中披露。お父さんに対するよりも大きな拍手で見物衆が応える。よく云われる「どんな名優も子役には勝てない」と云うのは本当だ。九歳とは思えない良く通る声と、活舌の良さを聞かせる薬売りの云いたても見事だったが、その所作がとても子役のそれではない。歌舞伎らしい品があり、良く腰も落ちて指先に迄ピシッと神経が行き届いている。父團十郎を始めとした一門の薫陶宜しきと云ったところだろう。新之助を見守る音羽屋の眼差しが、孫を見ているかの様な優しさに溢れていたのが印象深かった。

 

打ち出しはお待ちかね歌舞伎十八番より『勧進帳』。配役は團十郎の弁慶、幸四郎の富樫、猿之助義経、巳之助・染五郎・左近・市蔵の四天王、齋入が後見に回っているのがいかにも成田屋の襲名らしい豪華さだ。先日上演された特別公演の『勧進帳』では松嶋屋の富樫に大和屋の義経だったが、今回は同世代の花形幸四郎猿之助。これが先の公演に負けない見事な『勧進帳』となった。

 

花道を出たところの立派さ、舞台に廻って富樫と対峙したところの大きさ、何れも歌舞伎座の頭領たる團十郎に相応しいものだ。富樫の幸四郎との体格のバランスも良く、芸格も釣り合っているので、二人が舞台上で対峙したところは、まるで錦絵から抜け出た様な美しさだ。驚いたのは先の特別公演の時に残っていた、勧進帳の読み上げにおける海老蔵節とも云える現代語調がなくなっていた事だ。多分上演の映像を見直したのだろう。巷間色々云われる團十郎だが、自らの芸に対する研鑽を公演中でも怠らない。当たり前の事とは云え、この姿勢がある限り、これからも團十郎の芸は深化して行く事だろう。

 

続く山伏問答が今回のハイライト。先の松嶋屋富樫に対した時にサジェスチョンを受けたであろう、松嶋屋流のゆっくりとした云い回しの問答開始から、徐々にテンポアップ、音楽用語で云うところのアッチェレランドをして行く。松嶋屋弁慶以外は(松嶋屋は最後迄ほとんどテンポを上げない)誰でもする行き方だが、ここの盛り上がりは物凄い。幸四郎の富樫が歌舞伎の品格内に納めつつもエモーショナルに煽る。身体を弁慶に向けた辺りからの科白廻しには凄みがあり、「してまた山伏の、いでたちは」「額に戴く、兜巾は、如何に」「かけたる、袈裟は」と続けざまに問い詰めるイキを摘んだ科白廻しは絶品。対する團十郎弁慶が「大日本の神祇、諸仏菩薩も照覧あれ。百拝稽首、かしこみかしこみ、つつしんで申すと云々、かくの通~り。」の大音声で応える様は迫力満点。これぞ大歌舞伎、これぞ『勧進帳』である。

 

続く「打擲」は父先代團十郎が全くしなかった思い入れを一瞬見せて打ち下ろす。これは高麗屋の行き方に近く、良いと思うものは他家の物も取り入れる團十郎の柔軟さと、芸に対する貪欲さを示すものであろう。「判官御手を」は、先の大和屋義経の気品と位取りとはまた一味違う、武将らしい面影を留める猿之助義経がこれまた見事。海老蔵時代より深みを増した情味溢れる弁慶を見せてくれる團十郎共々、この場もしっかり見せてくれる。この後の「延年の舞」の成田屋らしい大らかな大きさと、力感溢れる荒事らしい豪快な「飛び六法」は先の特別公演と同様、いかにも團十郎らしさ全開で、千両役者の面目躍如。出から引っ込み迄、見所満載の素晴らしい『勧進帳』であった。

 

一部・二部とも成田屋の襲名らしい狂言立てで、令和の歌舞伎界を引っ張っていく気概と芸を見せてくれた素晴らしい襲名公演だった。来月も続く公演も今から楽しみでならない。