fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

三月大歌舞伎 第三部 芝翫・魁春・雀右衛門・孝太郎・幸四郎の「輝虎配膳」、幸四郎の「石川五右衛門」

今月残る歌舞伎座第三部を観劇。平日に観劇したが、中々の入り。まん防法も解除されて、徐々に客足が戻って来ているのだろうか。だとしたらおめでたい事だ。やはり入りが良い方が、役者もやり甲斐があると云うものだろう。客席の熱気に応えるかの様な、力の入った狂言二題が並んだ。

 

幕開きは「輝虎配膳」。立役の大幹部に頼らず丸本を上演する意気は実に頼もしい限り。とは云っても女形にはしっかりベテラン名手が配されてはいるが。芝翫の輝虎、魁春の越路、雀右衛門のお勝、孝太郎の唐衣、幸四郎の直江山城と云う豪華配役。これで悪くなろうはずもないが、やはり期待に違わず、結構な舞台となった。

 

名作の誉れ高い近松作の「輝虎配膳」だが、平成以降歌舞伎座でかかるのは今回が三回目。意外に上演されていない。前回は八年前で、輝虎を橋之助時代の芝翫が演じている。もう持ち役と云っていいだろう。何度かふれているが、この優は今の花形世代にはまだない大きさと義太夫味を持ち合わせている。本領はこの作品の様な時代物にあり、今回もまた見事な芝居を見せてくれている。

 

色々私生活で世間を騒がせているせいかどうかは知らないが(苦笑)、芝翫は今回の様な時代物の大役を歌舞伎座で演じる機会が少ない。国立劇場ではしばしば座頭公演をしてはいるのだが、歌舞伎座では舞踊が多い印象だ。しかしやはりこの優は時代物で観たい。昨年四月に演じた「太十」の光秀と同様、今回の戦国武将役輝虎も力感溢れる実に骨太な人間像を作り上げた。

 

とは云っても今回の幕は女形が中心である。信玄の軍師山本勘助の妹唐衣は敵である長尾輝虎の家老直江山城に嫁いでいる。敵同士なので中々会う事も叶わない中、この世の名残りにと唐衣のたっての願いで、母越路と勘助の妻お勝が越後の国にやってくる。花道を魁春の越路と刀を持って付き従う雀右衛門のお勝が出て来る。館に入る前に七三で足を止め、お勝から刀を受け取る越路。敵地に入る際の覚悟をさり気なく見せる。

 

二人を山城夫妻が迎える。この山城役の幸四郎がキリっとした実に立派な生締め姿で、初役らしいがニンでもあり目に残る出来。姑へのもてなしにと将軍家より拝領した小袖を出すが、古着の小袖などいらないと断る。この越路と云う役は輝虎相手にも一歩も引かない強さを見せる役なので、魁春にとってはニンにない役。その意味で若干線の細さ(例えば秀太郎などに比べて)を感じさせるが、芸達者な優なので不満と云う程の事はない。

 

場の雰囲気が悪くなったので食事を出して空気を変えようと、山城は膳の用意を命じる。食膳を捧げ持って現れたのは、何と輝虎自身。そして世に聞こえた山本勘助の母を館に迎えた喜びを語り、盃を頂戴したいと云う。しかし越路はそれを撥ねつけ、出された膳部を足蹴にする。堪忍袋の緒が切れた輝虎は重ね着を次々脱いで襦袢姿になり、刀を振り上げる。この場の事を、先代松嶋屋に教えられたと云う芝翫が筋書で「服を脱いでいく辺りはお客様が笑うくらい、面白く演らないといけないよと仰っていました」と語っていた。その通り服を脱いで行く様がどことなくユーモラスで「今回は大らかさもあって良いのかなと思っています」と芝翫自身が云っている通りの輝虎。

 

この場の怒りの表現が実に大きく、甲の声と呂の声を見事に使い分けて義太夫味もたっぷり。ここらが丸本の見せ場で、流石は芝翫と云うところを見せてくれた。この怒りを吃音のお勝が琴を弾いておさめる。目の見えない「袖萩祭文」袖萩もそうだが、こう云う哀れをそそる役は雀右衛門のニンにも叶い、正に適役。輝虎と山城夫婦を舞台に残して幕が下り、越路とお勝の幕外の引っ込み。揚幕の方を見た後、ふっと天を見上げる越路。もう二度と娘唐衣に会う事はあるまいと云う思い入れで花道を引き揚げて幕となる。しみじみと余韻の残る幕切れだった。

 

打ち出しは「石川五右衛門」。幸四郎の五右衛門、松江の長慶、歌昇の国長、廣太郎の左忠太、鷹之資の右忠太、錦吾の治左衛門、桂三の呉羽中納言錦之助の久吉と云う配役。四年程前に国立でまだ元気だった頃の播磨屋で通しを観たが、今回は幾つかの場をカットして一時間ちょっとに纏めたもの。コンパクトになってはいるが、場のカットなので無理に凝縮した感はなく、「五右衛門物の名場面集」と筋書で幸四郎が語っていた通りのスピーディーな展開は、令和歌舞伎の一つのあり方だろうと思う。

 

思えば播磨屋が生前最後に演じた役がこの五右衛門だった。千秋楽の前に倒れ、一日だけ代役を演じた甥の幸四郎が今回本役に直って演じる。感慨一入だろう。役自体も播磨屋の指導を仰いだらしく、科白廻しの端々に播磨屋口調が感じられ、改めて故人が偲ばれる。そしてこの播磨屋直伝の五右衛門がまた実に見事。ことに最晩年の播磨屋には出せなくなっていた太々しい呂の声が、天下の大盗人五右衛門の貫禄十分。

 

手下に呉羽中納言を襲わせて自分がなりすまし、平伏する久吉達の前を通過して花道で振り返り、不適な笑みを浮かべる芝居も実に上手い。加えて手強さ一方でなく、「足利館別館奥殿の場」で幼馴染の久吉と再会して肘をついて語り合う場などは愛嬌もしっかりあり、硬軟併せ持った結構な五右衛門。葛籠抜けからの宙乗り猿之助のそれとはまた異なり、立役らしい実に骨太な所作。この優がとても高所恐怖症だとは思えない。幸四郎襲名披露の際に博多座で観た「伊達の十役」の仁木弾正にも通じる、力感たっぷりの空中遊泳だった。

 

そして大詰「南禅寺山門の場」。例の「絶景かな、絶景かな」の声音も見事なのに加え、その大きさは播磨屋亡き後この役は自分のものだと云う幸四郎の決意の顕れとも見えた。対する久吉は、猿面冠者秀吉が何故か歌舞伎になるとすっきりした二枚目役になるのだが、錦之助はニンであり二人が山門の上と下で極まったところは正に錦絵。近年この二人は組む機会が多い。年齢差は十歳以上あるはずだか、錦之助が若々しいので、釣り合いも良く、これからもイキの合った芝居を見せて欲しいものだ。

 

脇では呉羽中納言を演じた桂三の存在感が群を抜いている。公家としての品と位取りがあり乍ら、盗賊に身ぐるみはがれる抜け作ぶりのギャップも面白く、完全に持ち役。ここは見物も大いに沸いていた。

 

二つの狂言揃って充実しており、実に結構な歌舞伎座第三部。歌舞伎をたっぷり堪能させて貰えたひと時だった。余談だが、西桟敷で河野太郎元防衛・外務大臣が観劇していた。誰をお目当てに来ていたのかは知らないが、元大臣も芝居好きなのが判って、何となくホンワカした気分になった。

国立劇場三月歌舞伎公演 菊之助・丑之助親子の「盛綱陣屋」

国立劇場三月公演を観劇。以前小劇場で絶品とも云うべき「髪結新三」を上演した時などは空席が目立ち、このブログでも「この芝居を観ないとは、江戸の芝居好きも落ちたものだ」と云う様な趣旨の記事を書いたものだった。しかし朝ドラへの出演が菊之助知名度を引き揚げたのだろうか、二階席は兎も角、一階席はほぼ満員の盛況。令和の歌舞伎界を背負って立って貰わねばならない菊之助。お客を呼べる役者になってきたのは実に頼もしい。

 

菊之助の盛綱、去年の九月に引き続き二度目となる丑之助の小四郎、梅枝の愛息大晴君の小三郎、梅枝の篝火、莟玉の早瀬、萬太郎の信楽太郎、種之助の伊吹藤太、片岡亀蔵の時政、橘三郎の新左衛門、又五郎の兵衛、吉弥の微妙と云う配役。音羽屋親子が大熱演で、実に結構な芝居となった。

 

しかし菊之助の盛綱が最高の芝居だったのかと云うと、必ずしもそうではない。何と云っても義太夫味が薄いのだ。以前から度々ふれているが、華も身もある今の花形世代の弱点は義太夫狂言にある。丸本の巨人播磨屋が亡くなり、もう一人の巨人高麗屋が齢八十を迎える今日、義太夫狂言の伝承は喫緊の課題である。去年盛綱を演じた同じ花形世代の幸四郎は、義太夫狂言の何たるかを掴みつつある。海老蔵松緑は?この二人はまだ丸本を演じる機会自体が少ない。愛之助は?そう名人松嶋屋の薫陶を受けている愛之助は、少なくとも義太夫狂言を何とかしなければならないと云う意識を持っている。その意味で播磨屋の婿としての菊之助は、愛之助と同じ意識を共有していると思う。しかしまだ大きな成果を挙げるには至っていない様だ。

 

その意味で、一昨年の同じ国立劇場における『義経千本桜』の通しが、コロナの為に中止になったのは痛恨事だった。まだ元気だった播磨屋に実地で添削して貰う事も可能だったろうに・・・。しかし過ぎた事を云っても仕方がない。今回の盛綱は義太夫味は希薄だったものの、丸本を自分のものにしたいと云う菊之助の意識はしっかり感じられるものだった。

 

菊之助の盛綱は、まずその姿形の美しさに魅了される。生締鬘の捌き役の姿が抜け出た様な美しさだ。これも歌舞伎の大きな魅力の一つなので、この辺りはベテラン役者にはないものだ。しかし今回何より良かったのは、役の性根をしっかり掴んで肚のある芝居が出来ていると云う点だ。微妙とのやり取りの場はまだ若干薄口。「思案の扇」を落とすところも自然ではない。しかし首実検の場での丑之助の小四郎との芝居は真に迫り、見応え充分。時政に見られ乍らの首実検の所作と、小四郎の切腹を見て高綱親子命がけの計略に気づく場面は多少段取りめくが、芝居に肚があるので目を合わせた二人の間で交差する思いが、見事なまでの迫真力をもって迫ってくる。小四郎役が実の息子だったと云う事も無論大きかっただろう。大きな動きがある場ではないが、ここの芝居の熱量は実に素晴らしい。よく仏作って魂入れずと云うが、義太夫味は薄くてもこれだけの芝居が出来るのは、魂がある証拠。菊之助には今後、義太夫味と云う仏を構築して行って貰いたい。

 

時政に首を差し向けての「佐々木四郎高綱が首に相違なし、相違ござらん」の科白も肚から出ている。時政が去り、梅枝の篝火を呼び寄せ、九寸五分が腹に入ったままの小四郎を囲んでの愁嘆場となる。ここも丑之助が見事な芝居を見せてくれた。刀が腹に入った状態と云うの事をか細く震える声で表現しきったその技量には驚嘆させられた。丑之助の年齢を考えると凄い事だと思う。この小四郎が良いので、この場が実に泣かせる芝居となっている。事実客席からはすすり泣きが聞こえていた。

 

和田兵衛が出て来て鎧櫃の中の榛谷十郎を撃ち殺し、小四郎の亡骸を抱きかかえた微妙達を脇に盛綱・兵衛と揃った絵面の見得の立派さは、これぞ大歌舞伎。満場割れんばかりの拍手で幕となった。今回の狂言の充実は上記親子の熱演に加えて、脇が実に手揃いでそれによるところも預かって大きい。特に吉弥の微妙は素晴らしく、高麗屋との時よりも更に一層充実していた印象。丑之助に自害を迫る二人芝居は、武士の名誉の為に孫を討たねばならないと分り乍ら、肉親愛との板挟みになるその辛い心情が舞台一杯に溢れんばかり。この役は亡き秀太郎も見事だったが、吉弥もまた素晴らしい出来だった。

 

その他いずれも初役の梅枝の篝火と莟玉も早瀬もいい。梅枝ならきっちり勤めるだろうと思っていたが、今回は意外と云っては失礼だが莟玉が大手柄。容姿の幼さは年齢故に是非もないが、科白廻しがしっかりしており、盛綱の北の方らしい凛としたとろこを出せていた。又五郎の兵衛は義太夫味は薄いが、モデルとなった後藤又兵衛らしい大きさと武骨さを表現していてこれまた見事。亀蔵の時政もニンではない役乍ら実に手強い出来で、この初役組が充実していて芝居を厚みのあるものにしていた。

 

初役が多い座組でこれだけの芝居が出来ると云うのが歌舞伎役者の底力。充実した実に結構な「盛綱陣屋」であった。幕前に萬太郎による「入門 盛綱陣屋を楽しむ」と云う解説が付いていたのは、義太夫狂言に慣れていない方にとっては親切な試みだった。

国立劇場三月歌舞伎公演(写真)

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国立劇場の歌舞伎公演に行って来ました。ポスターです。

 

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菊之助が「道成寺」と「鑑獅子」について語っている映像が流されていました。

 

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「盛綱陣屋」の歴史的公演の写真が展示されていました。初代吉右衛門演じる盛綱に対する小四郎は、何と先代雀右衛門!(見づらいですが、上段真ん中の写真です)

 

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これも必見の舞台ですね。

岳父播磨屋十八番の「盛綱陣屋」に菊之助が挑みました。果たしてその成果は?感想はまた別項にて。

三月大歌舞伎 第一部 猿之助・中車・笑也の『新・三国志』

歌舞伎座一部を観劇。こちらも二部同様大入りとまではいかないが、かなりいい入り。猿之助・中車と揃えばまぁそれも当然か。遂にスーパー歌舞伎歌舞伎座にお目見え。療養中の猿翁も感慨深いのではないだろうか。だが誰に遠慮したものか、「スーパー歌舞伎」とは銘打たれていない。スーパー歌舞伎の要素である3Sの内、スペクタクルの要素が今の規制下では出来ないからと云う事らしいが、中身はどう見てもスーパー歌舞伎。筆者はスーパー歌舞伎は専門外(?)なので詳細な記述はしないが、歴史的な上演だと思う。

 

猿之助関羽、中車の張飛、笑也の劉備尾上右近の香溪、福之助の孫権、團子の関平、弘太郎改め青虎の孔明浅野和之(!)の曹操、門之助の呉国太と云う配役。新橋演舞場なら兎も角、歌舞伎座浅野和之を起用、しかも曹操に配するとは流石猿之助。浅野自身も筋書で「まさか自分が歌舞伎座に出演するなど、まったく思いもよらないこと」と発言していた。正直な感想であろう。

 

元が四時間以上ある作品を、例によって二時間強に短縮している。よって肚のいる芝居にはならない。これは致し方ないだろう。兎に角今の規制下で何が出来るのかと云う挑戦と云うか試行錯誤を続けている猿之助。しかし見物衆を喜ばすエンターテイナーとしての姿勢は崩さない。最後の宙乗りは大盛り上がりだった。

 

筆者にとってスーパー歌舞伎は歌舞伎ではない。これは個人的な嗜好の問題なので致し方ない。下座音楽はないし、科白廻しも現代劇に近く、歌舞伎調ではない。従来の歌舞伎の枠組みを取り払う事で作り上げたスーパー歌舞伎なので、猿翁も猿之助もそんな事は百も承知だろう。かと云って先々代松緑が「サーカス」と揶揄した様な気持ちも毛頭ない。演劇としては充分楽しめるものだからだ。

 

意外な事に猿之助関羽は初役だと云う。しかし希代のエンターテイナー猿之助には、そんな事は問題なかった。芸風的に関羽の大きさを出すと云うより、義に厚く何より民の事を考える篤実な政治家としての側面が強調されている。劉備が女性であると云う設定なので、二人の恋愛模様もしっかり、しかし必要以上にベトつかず描かれていて、後味も良い。

 

そして普段の歌舞伎だと若干遠慮気味の側面がある中車が、これなら俺のテリトリーとばかり生き生きとしていて、演技派らしいところを見せてくれる。ただいつの間にかあっさり死んでしまっていて、そこは肩透かし感がある。暴れん坊の張飛なので、最期は大立ち回りを見せて欲しかった。

 

笑也の劉備は初演以来の持ち役。この優に加えて、今までの上演では登場しなかった呉国太に門之助を起用。これが非常に手強い出来で、この二人が芝居に歌舞伎味を加えていて、実に良かった。浅野和之はアウェーの歌舞伎座乍ら流石に手堅い芝居を見せてくれてはいるが、何せ役が曹操三国志の中でも希代の悪役として登場する人物なので、もう一つ手強く、そして大きさも出して欲しいところではあった。

 

三国志』を歌舞伎座に持ってきたと云う事は、将来的に『ヤマトタケル』や『オグリ』の上演もあるかもしれない。今後も猿之助の動向からは目が離せないっと云ったところか。猿之助に負けじと幸四郎宙乗りで五右衛門を演じる三部は、観劇後また改めて綴りたい。

三月大歌舞伎 第二部 歌六の「河内山」、菊五郎劇団の『芝浜革財布』

今月の歌舞伎座公演も幕が開き一週間程過ぎた時、歌舞伎界に激震が走った。松嶋屋倒るの報には、播磨屋の事があっただけに、本当にその病状が心配された。息子の孝太郎がブログを更新し、「今すぐ命どうこうと云う状態ではない」とコメントがあったので一安心だったが、何せ八十歳近い高齢。播磨屋の早すぎる死も無理がその遠因ではないかと推察されるだけに、ゆっくり静養して欲しいと思っていた。十日間程の休演で復帰した様だが、SNSでの書き込みなどを見ると、まだ足腰が辛そうとの事。くれぐれも無理だけはしないで欲しいものだ。

 

そんな中で歌舞伎座二部を観劇。客席は大入りと迄はいかないがいい入り。幕開きは「河内山」。筆者が観た時はまだ松嶋屋が休演だったので、歌六が代演。鴈治郎の出雲守、高麗蔵の数馬、坂東亀蔵の小左衛門、千之助の浪路、吉之丞の大膳、権十郎の清兵衛、秀調のおまきと云う配役。松嶋屋で観れなかったのは残念だったが、歌六が河内山を演じるのは多分今後はないと思われるので、その意味ではかなり貴重な舞台となった。

 

しかし出来としてはニンでない事もあり、感心出来なかった。歌六と云う人は職人的な技巧を持っている優である。脇では当代この優でなければと云う役も数多い。しかしやはり座頭の人ではないのだ。ハナからこう云っては身も蓋もないのだが、特にこの河内山と云う役は山っ気と云うか、芝居にはったりが効かなければダメなのだ。歌六の芝居は流石に上手い。ことに序幕の「質見世」のところは初役をものともせずしっかり世話物らしい見事な芝居を見せる。しかし二幕目の「松江邸書院の場」で北谷道海となってからは厳しい。

 

河内山が化けた北谷道海はお数寄屋坊主から一転、東叡山寛永寺門主の使僧と名乗り乗り込んで来る。筆者は花道がよく見える席で観劇したのだが、揚幕から出て来た姿がいかにも小さいのだ。無論歌六は小柄なのだが、それを感じさせない大きさが出ないとこの役は勤まらない。これは技巧だけではどうにもならないものの様だ。加えてこの役に必要な愛嬌にも欠けている。悪の中に愛嬌を滲ませる、非常に難しいところだと思うが、ここは高麗屋が正に絶品とも云うべき味を出してくれる。しかし実直に技を積み上げて今日の大を成した歌六の芸風では、やはり高麗屋や亡き播磨屋の様な座頭の風格、大きさが出てこないのだ。

 

大詰「松江邸玄関先の場」における例の長科白になると、もうこれはどうにもならない。筋書で松嶋屋が「リズムを大切にしながら、リアルさを失わないように緩急をつけて話す」と発言していたが、歌六の科白廻しはこのリズムと緩急両方ともに欠けている。ぶつぎれになり、黙阿弥調独特の謡い調子にもなっていない。歌六の長科白を聞きながら、筆者はどうしても高麗屋の名調子を思い出してしまっていた。役によっては当代これ以上のものはないと思わせる名人歌六にして、やはり河内山は無理があった様だ。しかし急な代役と云う事もあり、気の毒な役回りだったろうとは思う。

 

しかし同じ代役であった亀蔵の小左衛門は健闘していた。花道の出の小ささはまだ年齢的な事もあり如何ともしがたいが、凛とした科白廻しは名家松江藩の家老としての品格があり、この優の特徴であるよく通る声は、見事に場を引き締めていた。これは将来持ち役になるのではないか。その他高麗蔵の数馬は何度も演じて完全にこの優のものにしている。いかにも歌舞伎調の科白廻しは聞いていて実に心地良かった。鴈治郎の出雲守も傑出した出来。この優は梅玉に次ぐ当代屈指の殿様役者だと思っているが、自儘にならない浪路を手討ちにしようとする短気な性格乍ら、大名としての確かな位取りもあり、流石の芸を見せてくれた。歌六には厳しい事を云ったが、本役でないので致し方なかったろう。松嶋屋には健康を取り戻した暁の再演を期待したい。

 

打ち出しは『芝浜革財布』。音羽屋の政五郎、時蔵のおたつ、権十郎の梅吉、彦三郎の金太、橘太郎の吉五郎、團蔵休演で荒五郎の長兵衛、東蔵のおかね、左團次勘太郎、そして丁稚長吉に音羽屋の愛孫眞秀君と云う配役。團蔵の休演は残念だが、劇団の手練れを揃えた世話狂言。このメンバーで悪くなる訳はないが、やはりいい出来だった。

 

この狂言は「文七元結」同様、元は落語中興の祖と云われる三遊亭圓朝の作。落語では先々代の名人三木助の口演が古今の名品と云われている。劇団お得意の世話物だが、音羽屋が演じるのは十六年ぶりだと云う。腕はいいが酒に溺れて仕事をしない棒手振の魚屋政五郎が、女房に一刻早く起こされて向かった芝の浜で金の入った革財布を拾う。それを持ち帰って、河岸に行って欲しいと云う女房の小言も聞かず、友達を呼び寄せてどんちゃん騒ぎ。しかし拾った金を遣い込んだらどんなお咎めがあるかと心配した女房が、亭主が酔って寝てしまったのを幸い、財布を拾ったのは夢だと云ってごまかす。

 

それを機に目覚めた政五郎は酒を断ち、仕事に精を出す。その甲斐あって棒手振から立派な店を構える迄になった三年後の大晦日、おたつは政五郎に私の話しを最後迄怒らず聞いて欲しいと云う。へそくりでもしたかと云う政五郎に、実は金の入った財布を拾ってきたのは本当だったと打ち明ける。しかしその金を遣い込めばお上から重いお咎めがある。だから夢だと嘘をついてしまったと打ち明ける。それを聞いた政五郎は怒るばかりかそのお陰で今の暮らしがあるのだと逆に礼を云う。そこへ困った人への奉加帳を持って現れた友人勘太郎に、この拾った金を残らず寄進すると告げ、めでしためでたしとなる。この金を寄進すると云う筋は落語にはなく、実に気持ちの良い幕切れになっている。

 

音羽屋の世話物における良さは今更云う事もない。いかにも江戸っ子の職人らしい粋でいなせな所作と科白廻し。酒にだらしないと云う欠点はあるが、一本気で情に厚い人物像をしっかり描き出して間然とするところのない出来。中盤の友人たちと酒を呑んで女房自慢をしながらどんちゃん騒ぎをする場は、他の配役で観るとダレ場になる事が多いのだが、劇団の手にかかるとここが実にいい。科白のキャッチボールが自然で芝居らしいリアリティがあり、山の神の尻にひかれている奴もおり、女房にデレデレの奴もあり、それぞれの人間が見事な粒立ちで描かれていて、見事なアンサンブルを形成している。

 

中でも傑作だったのは時蔵のおたつ。世話女房らしい情が滲む見事なおたつ。酔いから醒めた政五郎にあの拾った金を出せと云われて夢だと言いくるめる場で、「あれが夢か?」と云う亭主に「夢だよ」と云い張る女房。ここが切所だと思う女房の必死さがその表情に表れ、ほんの一瞬の表情なのだが、舞台に緊張が走る。あからさまではないところが実に上手い。そして三年後、亭主の為とは云え騙して申し訳ないと座布団を外して泣きながら謝るおたつ。政五郎への想いが溢れるおたつの姿に、自然と胸が熱くなった。時蔵一代の傑作となっていたと思う。

 

どちらの狂言も休演が出ていたのは残念だが、時節柄やむを得まい。松嶋屋休演の「河内山」はともかく、「芝浜」は見事な出来で、現代最高水準の世話狂言を堪能出来た第二部だった。最後に付け加えると、「芝浜」に出た眞秀君が河内山~弁天小僧~新三~お嬢吉三と云う名科白のメドレーを披露するご馳走があった。丑之助と並ぶ将来の劇団の大黒柱。小学生とは思えない実に頼もしい限りの科白廻しだった。

 

 

三月大歌舞伎(写真)

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三月大歌舞伎を観劇。ポスターです。

 

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弘太郎改め青虎、そして幹部昇進。おめでとうございます。

 

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五右衛門のポスター。座頭の貫禄がありますねぇ。

 

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三国志」のポスター。歌舞伎のポスターにアルファベットがあるのは珍しい。

 

徐々にコロナが収まりつつある中、歌舞伎座に行って来ました。感想はま別項にて。

 

 

 

 

 

二月大歌舞伎 第一部 梅玉・松緑の「御浜御殿綱豊卿」、錦之助・左近の『石橋』

今月残る歌舞伎座一部を観劇。入りは三部と同じくらいだったろうか。今一つと云ったところ。今月は二部の入りが一番良かった。流石松嶋屋が一世一代と銘打った知盛が出ただけの事はある。しかし一部も二部に負けず劣らずの大熱演で、これを観ない芝居好きは本当に損をすると筆者的には思える、素晴らしい舞台だった。

 

幕開きは「御浜御殿綱豊卿」。梅玉の綱豊卿、松緑の助右衛門、莟玉のお喜世、歌女之丞の浦尾、松之助の甚内、東蔵の勘解由、魁春の江島と云う配役。当代では松嶋屋と並ぶ綱豊卿と云われる梅玉だが、歌舞伎座で演じるのは何とほぼ三十年ぶりとの事。松緑の助右衛門は初役で、梅玉がオファーしたものだと云う。結論から云うとこの二人の組み合わせが絶妙で、最高としか云い様のない見事な「御浜御殿」になった。

 

時間の関係か、コロナ禍での人数制限の為かは判らないが、幕開きの腰元連中による綱引きの場面と、子役の巡礼の場はカット。幕が開いて舞台の腰元達が引っ込むと、花道から浦尾らに追われたお喜世が出て来る。ここは歌女之丞の浦尾が実に手強い出来で、流石と思わせる。こう云う脇がいいと、芝居がグッと引っ立つと云うものだ。お喜世の持っている手紙を取り上げようと詮議している所に、魁春の江島の出になる。これまた養父歌右衛門を想起させる見事な位取りの芝居で、まだ綱豊卿は出ていないのだが、これはいい狂言になると確信させてくれる。

 

お喜世と江島が引っ込み、浦尾を従えて綱豊卿の出になる。この出からして、ほろ酔いの所作の中に大身の大名としての風格と大きさを感じさせ、この辺りが花形連中には出せない大名題の味である。梅玉の綱豊卿には松嶋屋の様な艶はない。しかしあれは松嶋屋独自のもの。別に将軍後継職たる大名が艶っぽくなければならないと云う訳ではない。自然と醸し出される大きさと位取りの確かさが、これぞ甲府二十五万石、御三家に次ぐ家格の持ち主だと見物衆に得心させるだけのものがあるのだ。

 

舞台が回り東蔵の勘解由が出仕している。綱豊卿が現れ、二人芝居となる。ここで縁戚の近衛関白家を始めとした周囲から浅野家再興を依頼されていながら、内心は仇討を願っている本心を漏らす「勘解由、討たせたいのぅ」に太平惰弱に流れる風潮を嘆き、真の武士道の顕現を願う綱豊卿の心情が垣間見え、しみじみとした実に良い場となっていた。対する東蔵の勘解由も齢八十を過ぎての初役ながら、後の将軍家宣の政治顧問となる人間らしい思慮深さと、綱豊卿に先生と呼ばれる風格とを兼ね備えた見事な勘解由。全く動きのある場ではないが、役者がいいと自然と芝居に引き込まれる。

 

再び舞台が変わり、松之助の甚内に誘われて松緑の助右衛門が登場。田舎侍が御殿に上げられて戸惑っている風がしっかり表出されている。「御浜御殿御座の間」になり、綱豊卿と対峙する事になる。この場での松緑がまた実にいい。若者らしい強情さと生一本なところが所作、科白廻しにきっちり出ている。綱豊卿に「近こう寄れ」と云われても従わず、強情なところを見せる助右衛門だが、次第に綱豊卿の大きさに人間として押されていく。そして頑なに拒んでいたお側近くに駆け寄り、「浅野家再興御内願の儀は」と叫んで泣き崩れる。ここの大きな感情の爆発を伴う芝居は、舞台を素晴らしく盛り上げる事に成功している。それを受けての綱豊卿が「助右衛門、そちゃ俺に憎い口をききおったぞ」と言い残して笑いながら去るところは、流石は甲府宰相と云う大きさを見せて、これまた実に見事。

 

大詰「御浜御殿能舞台の背面」。ここが正に最後の見せ場で、吉良少将と人違いして槍をつっかけてきた助右衛門を押さえての長台詞は全編のクライマックス。ここで松嶋屋は、正に謡うが如き名調子を聴かせてくれる。今回の梅玉も謡い調子ではある。しかし松嶋屋のそれとは截然と違っている。松嶋屋は無理やり音楽に例えればスラーが多く、所謂レガート主体の例えるならヘルベルト・フォン・カラヤン調である。対する梅玉は一語一語打ち込む様な迫真力と、強迫と弱拍のメリハリがあり、こちらは例えればヴィルヘルム・フルトヴェングラーの様だ。この両名人の違いは実に興味深く、どちらも見事なものである。やはり演じ方は一通りではなく、これが唯一無二の正解と云うものはないのだと、改めて感じさせてくれた。

 

最期に莟玉のお喜世は、初役乍ら手一杯の出来で好感が持てたが、「御浜御殿御座の間」で綱豊卿と助右衛門の比較的長い二人芝居の間、肚で受けておらず、ただ黙って座って手持無沙汰に見えたのは残念。ここは為所がなく難しい場だと思うが、少ない所作に心の動きを見せられる様になって貰いたいと思う。しかし総じて実に見事な「御浜御殿」で、一時間半の間まんじりともせず舞台に引き付けられた、素晴らしい芝居であった。

 

打ち出しは『石橋』。筆者が観劇した日は鷹之資が休演だったのが残念だが、その分錦之助と左近が大奮闘。筋書きで錦之助が「老体に鞭打って頑張ります」と発言していたが、いやいやどうしてこの優らしいきっちりした所作、優雅さ迄感じさせる毛振りで、流石の大きさを出していた。対する左近は若々しいきびきびした所作に好感が持てる。指先迄しっかりと神経が行き届いており、流石舞踊の名手松緑のDNAを感じさせる仔獅子。満場大きな拍手の内に幕となり、実に後味の良い打ち出し狂言となった。

 

今月一番の感銘を受けた歌舞伎座第一部。休演や代役が多く、コロナは予断を許さない現状だが、来月も無事芝居の幕が上がる事を心から願っている。