fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

国立小劇場 二月文楽公演(写真)

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国立小劇場の文楽公演に行って来ました。ポスターは以前紹介したので、次回公演の物です。菊之助も必見ですね。

 

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松緑の舞踊公演ポスター。これも観たい。

 

三部を観劇。呂太夫・清介・玉男と云う、今円熟の極致にある組み合わせでの「俊寛」。もう最高でした。『釣女』も太夫・三味線が九人がかりで実に華やか。楽しい舞台でした。

 

 

 

 

 

二月大歌舞伎 第二部 梅枝・千之助・萬太郎の『春調娘七種』、松嶋屋親子の「大物浦」

ラ・マンチャの男』の中止に続き、歌舞伎座の第三部も19日迄中止に追い込まれた。筆者は第三部は観劇済みだったので幸いしたが、未見の方々はさぞ残念な事だったろう。筆者的には大満足の三部ではなかったが、世評的には評判が良い様なので、未見の方は20日以降に観劇される事をお薦めする。あまり掛からない狂言でもあるし、幸い(?)にもチケットもまだある様だ。『ラ・マンチャの男』は行こうにも既にチケットがプラチナ化していて完全に無理・・・中止は本当に痛恨の極みだ。

 

幕開きは『春調娘七種』。近々では昨年正月に新橋で右團次・壱太郎・児太郎で観た。今回は梅枝の十郎、千之助の静御前、萬太郎の五郎と云う配役。長唄舞踊で、曽我物に静御前を登場させると云う、如何にも歌舞伎的なとび方をしている狂言。五十年以上前に松嶋屋三兄弟が復活させた舞踊の様だ。

 

代々演じた役者を見ても、若手花形が多い。若い役者が演じる狂言と云う事なのだろう。最近は女形を演じる機会が多くなっている千之助が静御前で、正に時分の花真っ盛りの美しさを見せてくれている。父孝太郎が女形でもあり、柄も小さいのでこの優は女形の方が向いていると思う。所作はまだ段取りめいているが、今後益々の精進に期待したい。

 

梅枝と萬太郎は、流石に千之助に比べると技巧的には一日の長がある。若手花形らしい美しさに加え、梅枝には柔らか味、萬太郎には武張った力感がしっかりあり、実に素敵な舞踊。若い乍らこの兄弟は踊りが出来る。今後が本当に楽しみな萬屋兄弟。舞踊で客が呼べる存在になれると思う。令和の歌舞伎界を引っ張って行って欲しい役者だと、改めて思わされた。

 

打ち出しは『義経千本桜』から「渡海屋」と「大物浦」。松嶋屋が一世一代と銘うって銀平実は知盛を勤める。時蔵義経、孝太郎の典待の局、隼人の丹蔵、又五郎の五郎、左團次の弁慶、そして時蔵の孫で梅枝の長男大晴君が安徳帝と云う配役。劇評で絶賛の嵐だった狂言。確かに期待に違わぬ素晴らしいものだった。

 

松嶋屋の知盛は三年前にも大阪松竹で観ている。この狂言が観たくて大阪迄遠征したのだが、その甲斐がある素晴らしいものだった。今回もその時と印象は変わらない。銀平の時のすっきりした風姿と義太夫味がきっちりある科白廻しは全くもって見事なもの。「魚づくし」を受けての「どうしたと」のイキの良さ、白装束になって障子屋台から姿を現した時の大きさ、これ以上望むべくもない素晴らしさだ。

 

大詰になり、返り血を浴びて矢が身体に突き刺さった満身創痍の状態で、花道を大勢と立ち回りしながらの出。舞台に廻ってツケ入りの見得の凄絶とも云うべきその姿、歌舞伎の悲愴美に溢れ、思わず息を呑む凄みがある。延若型を取り入れたと云う身体に刺さった矢を引き抜いて、喉の渇きを癒す為に血糊が付いた矢を舐めるところも物凄い迫力。そして安徳帝の姿を求めて「天皇はいずれにおわしまするぞ」の絶叫。正に魂の叫びで、歌舞伎座の大舞台が揺れたかと思わせる程だ。知盛が松嶋屋に憑依したかの様な大迫力に圧倒される。

 

やがて目の前に安徳帝を抱いた義経が姿を現す。怨み重なる仇敵義経に最期の勝負を挑むべく荒れ狂う知盛だが、安徳帝に「義経を仇に思うな」と諭され、自らの使命が全て終わった事を悟り、肩を落とす。ここの場も帝を守護して戦い抜いてきた知盛の心情と、その無念が痛いほど伝わって涙なしでは観れない見事な場となっている。そして父清盛の悪行を呪う「三悪道」になり、成仏なぞ望まない武士の業の深さをひしひしと感じさせる肺腑から絞り出す様な科白回しは、絶品とも云うべき素晴らしさ。碇を投げ入れての壮絶な入水迄、息をするのも忘れるくらいの見事な芝居だった。

 

脇では孝太郎の典待の局が、こちらも大阪時と同様素晴らしい出来。帝の乳母としての位取りの見事さ、涙を押隠して幼帝と共に入水の覚悟を決める凛とした所作、芸歴五十年に迫る孝太郎の積み重ねた技量がこの役に結実したかの様で、今まで観たこの優の芝居の中でも、ベストとも云える素晴らしさだった。時蔵義経もこの場としては初役だったらしいが、源氏の御大将としての気品に溢れる見事な出来。左團次の弁慶は柄の大きさを生かした迫力があり、細身乍らやはり大柄な松嶋屋と対峙したところは、歌舞伎座の大舞台に見事に嵌る。五郎と丹蔵を演じた又五郎・隼人も含めて、各役が揃ったこれぞ大歌舞伎とも云うべき傑出した舞台をたっぶり堪能させて貰った。

 

今月残るは第一部。鷹之助の休演は残念だが、梅玉松緑の「綱豊卿」がやはり楽しみだ。

二月大歌舞伎 第三部 彦三郎・雀右衛門の『鬼次拍子舞』、菊之助親子の『鼠小僧次郎吉』

コロナがまたもや猛威をふるい、まん防法が適用されてしまった中ではあったが歌舞伎座に足を運んだ。そのせいか入りはお寒い感じで、俗に二・八とは云うが、中々厳しい客席だった。だからと云う訳でもなかろうが、芝居も今一つ盛り上がりを欠いていた印象だった。

 

幕開きは『鬼次拍子舞』。二十年ぶりの上演だと云う。筆者は初めて観た狂言。主演の芝翫がコロナに感染し、筆者が観劇した日は彦三郎が代演。しかしその後彦三郎も濃厚接触者に指定され、弟の亀蔵が代演した様だ。現在は芝翫が復帰したらしいが、松竹も毎月気が気ではないだろう。流石に二回も役者が替わったのは、コロナ禍の中でも初めてではなかったか。二十年ぶりの上演なので当然彦三郎も初役、そして急の代演。いくらプロフェッショナルとは云え、これで出来を云々されても困ると云うのが彦三郎の心境だろう。

 

手堅い芸風の彦三郎、きっちり踊ってはいる。しかし拍子をとって踊る趣向の「拍子舞い」の浮き浮きした感じは出てこない。これはやはり最近舞踊でも実にいい風情を見せてくれている芝翫で観たかったと云うのが、偽らざる心境。しかし相方の松の前役雀右衛門は流石立女形の貫禄で、実にいい踊りを見せてくれていた。多分今は本役の芝翫と、イキの合った舞踊を披露しているのだろうと思う。

 

打ち出しは黙阿弥作の『鼠小僧次郎吉』。五代目・六代目の音羽屋が得意にした芝居だと云うが、戦後上演されたのは今回で二回目。音羽屋家の芸とは云いつつも、「新三」や「め組」などとは違い、手慣れた狂言ではない。筆者は勿論初めて観劇した。菊之助の幸蔵、巳之助の新助、新悟のお元、米吉のおみつ、坂東亀蔵の与之助、彦三郎の弥十郎権十郎の曾平次、雀右衛門の松山、歌六の与惣兵衛、そして三吉を菊之助の愛息丑之助と云う配役。その後巳之助と彦三郎が休演して、代役での上演になっていると云う。もう本当に今月の歌舞伎座は踏んだり蹴ったり状態だ。

 

芝居としては上演回数が少ないのにはやはりそれなりに理由がある。筋立てとしてあまり面白い狂言ではない。最初から話の底が割れてしまい、どんでん返し的な面白味にも欠ける。「辻番の場」における菊之助歌六の二人芝居は、歌六の熱演もあって今回の狂言の中では印象的な場になってはいるが、この二人が実は離れ離れの親子であると云う事が判ってしまう。幸蔵が良かれと思って盗んだ金を施すのも、これが仇となるのがありありで、芝居としての面白味に欠けている。

 

上記の如く黙阿弥としては、あまり上作とは云えない芝居ではあった。中で一番の見物は、やはり菊之助。駕籠から出て来た時に、客席から「カッコイイ」と云うつぶやきが聞こえた。正にその通りで、文字通りいい男。口跡もしっかりしており、所作もきっばりしていて鯔背な江戸っ子ぶりで、流石は音羽屋の惣領息子。世話物としての味わいをきっちり出していて、申し分なし。三吉が愛息丑之助だったと云う事もあったのだろう、「幸蔵内の場」で三吉の窮状を見かねて金を恵むところなぞは、自分の与えた金が仇となった慚愧の思いをぐっと押し隠して実に見事な芝居を見せてくれている。やはりこの狂言は筋立てより役者で見せる芝居だ。その意味では歌舞伎的とは云えるのだが。

 

脇では与惣兵衛の歌六が流石の技巧で情味溢れる芝居を見せてくれており、弥十郎の彦三郎もニンで立派なお奉行様ぶり。松山の雀右衛門も金の為に苦界に身を沈めた哀しみと、幸蔵への実のある愛情を滲ませた見事な芝居で流石の一言。役者が揃って筋立ての薄さを補っていたと云う印象の一幕だった。

 

実は先週筆者は『ラ・マンチャの男』を観劇予定だったが、あえなく中止。ファイナル公演だったので、無念とも何とも云い様がない。高麗屋の心中を慮ると、本当に切なくなる。上記の通り歌舞伎座も代役に次ぐ代役でどうにか公演を続けている状態。改めてコロナが憎い。一日も早く元の通りと迄は云わないが、事態が落ち着いて欲しいと願うばかりだ。

二月大歌舞伎(写真)

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二月大歌舞伎を観劇。ポスター二枚綴りです。

 

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一部絵看板です。

 

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同じく二部・三部です。

 

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三部「鼠小僧」のポスターです。しかしこの親子、あまり似ていませんね。

 

コロナが凄い勢いの中、歌舞伎座に行って来ました。感想はまた別項にて綴ります。

 

令和4年初春歌舞伎公演 菊五郎劇団による『通し狂言 南総里見八犬伝』

一月恒例の劇団による国立劇場公演『通し狂言 南総里見八犬伝』を観劇。コロナが厳しい状況にも関わらず、満員の盛況。歌舞伎座では感染者も出て中止や休演者が出ているが、今のところ国立では出ていないのは幸いだ。何とか千秋楽迄無事完走を祈りたい。勿論今月だけではなく、来月以降も芝居はあるのだけれど。

 

音羽屋の道筋、菊之助の信乃、左近の親兵衛、梅枝の浜路、萬太郎の大角、坂東亀蔵の荘助、彦三郎の小文吾、楽善の成氏、時蔵の毛野、片岡亀蔵の蟇六、権十郎の大記、左團次の定正、團蔵の宮六、橘太郎の五倍二、萬次郎の亀笹、松緑が現八と左母二郎の二役を兼ねると云う配役。正に劇団勢揃いだ。

 

幕が開くと「八犬伝」の発端部分、里見家の窮状と伏姫と八房の死、八犬士の誕生迄を、菊之助によるナレーションで説明する。兼ねる役者菊之助なので、義実や伏姫の声を自在に語り分け、実に分かりやすい。大長編を正味二時間半にまとめる為には、いい工夫だと思う。しかし馬琴も長い芝居を書いたものだ。近代以降日本文学には大長編が少なくなって行くが、それ以前は「源氏物語」の様な長編があった。長編を書くのは筆力よりも体力と云う話しを聞いた事がある。昔の日本人の方が近現代人より体力があったのだろうか。

 

音羽屋がインタビューで、若い役者を活躍させようと配慮していったら、自分の出番が削られてしまったと語っていたが、確かに音羽屋の出は少ない。しかし「円塚山」などで見せる貫禄は流石座頭。辺りを払うと云った体で、積み上げてきたものが違う。出番は多くなくてもしっかり存在感を示すところ、やはり当代唯一の文化勲章受章者は歳はとっても、腕に歳はとらせない。

 

有名な作品なので細かい筋は省略するが、親には孝、主人には忠、人には礼をと云う儒教精神が基盤となっており、それを元にしたお家再興噺である。特に肚のいる芝居ではなく、見せる芝居。その意味で菊之助松緑以下花形が縦横無尽に暴れまわるのは観ていて壮観の一語。菊之助の信乃は前髪らしい若々しさと艶、形も美しく正にニン。対する松緑の左母二郎で見せる悪の太々しさ、現八の力感ある所作、性根の手強さいずれも見事で、この二人の芝居がこの狂言一番の見物である。ここ数年筆者が観た限りの新春国立は実質この二人が主役。歌舞伎座では両者ががっぷり組み合う芝居は多くないが、今後三十年は劇団を支えて行くであろう両柱石。今度は肚のいる芝居を歌舞伎座で見たいものだ。

 

兎に角、團蔵や橘太郎程の役者を一幕切りしか出さない贅沢ぶり。劇団の層の厚さを見せつけるものだが、替わって活躍する花形が皆見事。彦三郎・亀蔵の兄弟も相変わらず良く通る声、立ち回りで見せる所作、いずれも素晴らしいもの。殊に今回時間は短いが序幕「蟇六内の場」での亀蔵菊之助とのやり取りで見せる芝居は、信乃と最初に義兄弟の契りを結ぶ最も縁深い荘助の性根が、その科白廻しにしっかり感じられる。

 

出演者最年少の左近も、父松緑と共に花道で見せるの所作と引っ込みは、確実に腕を上げてきているのが見て取れる。松緑の六法も形の良さ、その力感、実に見事で、今回の狂言の中でも大きな見物の一つとなっていた。最後は八犬士の活躍で里見家の再興がなり、音羽屋を中心に八犬士全員が舞台上に極まって大団円となる。正月らしく華やかで実に歌舞伎らしい狂言。二時間半だれる事なく、しっかり楽しませて貰った。

 

来月は菊之助の「鼠小僧」や、松嶋屋が一世一代と銘打っている「大物浦」もある。新橋の海老蔵公演も休演になったりしている状況は気が気でないでないが、何とか無事芝居の幕が上がる事を祈るばかりだ。

 

 

令和4年初春歌舞伎公演『通し狂言 南総里見八犬伝』(写真)

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初春国立劇場公演を観劇。ポスターです。

 

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お正月らしいこんなポスターも。

 

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八犬伝」の大凧もありました。

 

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歌舞伎の役柄の押絵羽子板の展示がありました。

 

二年ぶりに劇団の正月公演を観劇しました。感想はまた別項にて。

 

壽 初春大歌舞伎 第三部 猿弥+浅草組の『岩戸の景清』、猿之助の「四の切」

コロナの拡大に歯止めがかからず、今日から遂に蔓延防止法が発令される事となってしまった。取り敢えず三週間強の適用との事だが、果たしてそれで収まるのか・・・下火にならなければ、更に緊急事態宣言と云う可能性もあるだろう。高齢者へのワクチン接種が始まる様だが、またワクチンとコロナの追っかけっこになる。これでは中々歌舞伎座も満員で、大向うも解禁とは行く訳もなく、本当に歯がゆい。

 

今月残された歌舞伎座三部を観劇。松也が濃厚接触者に指定され、休演。代役は猿弥が勤めた。代役とは云え歌舞伎座で出し物を出来る猿弥、松也の分までと気合も入っているだろう。幕開きはその『岩戸の景清』。猿弥の景清、巳之助の時政、歌昇の重忠、種之助の義時、隼人の義盛、莟玉の常胤、米吉の衣笠、新悟の朝日と云う配役。今年も浅草公会堂での花形歌舞伎がないので、浅草組が歌舞伎座に勢揃いした形だ。

 

元は江戸所払いになっていた七世團十郎が、久々に江戸の芝居に出る事になった際に黙阿弥が当て書した作品の様だ。それを書き換えて令和の時代に上演。前回は昭和五十三年の国立だった様なので、歌舞伎座では初演となる。天照大神の天の岩戸神話を源平合戦時代にして、景清に直した狂言。いかにも歌舞伎らしい作品だ。

 

天の岩戸神話に基づいているので、岩戸に閉じこもっている景清を引きずり出す為に、各人がそれぞれ岩戸の前で舞いを披露する。米吉と新悟の舞いは美しく、いかにも若手花形らしい舞踊。そして種之助がニンにない荒事系の義時で意外な力強さを見せる。そして岩戸を義時がこじ開けて、いよいよ猿弥の景清が登場。所持していた名刀小鳥丸を景清が鞘に納めると辺りは暗闇になり、うち揃ってのだんまりとなる。

 

このだんまりが狂言の眼目なのだが、これが少々残念なだんまり。演者がだんまりと云うものを理解出来ていないのではないか。だんまりの基本はやはり舞踊にあり、しっかり腰が落ちていなければならない。芸達者な猿弥ですら腰が浮いている。その状態で演者全員が暗がりをうろうろしている感じになってしまっているのだ。これでは言葉は悪いが「どらえもん」ののび太が眼鏡を探している様な態になってしまう。少々厳しい云い方だが、正直な感想である。

 

だんまりでは精彩を欠いた猿弥だが、花道での六法は流石と思わせる。指先に迄しっかり神経が行き届いており、力感も充分。荒事ではあるがこの優独特の愛嬌も滲んで、気持ちのいい幕切れとなった。脇では歌昇の科白廻しがしっかり歌舞伎調になっており、声の通りも良く他の役者を一頭地抜いたものであったのが印象に残った。

 

打ち出しは『義経千本桜』から「四の切」。猿之助の狐忠信、雀右衛門静御前、門之助の義経、猿弥の次郎、弘太郎の六郎、笑也の飛鳥、東蔵の法眼と云う配役。云わずと知れた猿之助の十八番中の十八番。叔父猿翁が練り上げた澤瀉屋型での上演。当然のごとく素晴らしい舞台となった。

 

まず科白廻しが以前より義太夫味が増しており、一聴これは素晴らしい舞台になると確信させられる。竹本のイトに乗る所作も申し分なく、六年ぶりに歌舞伎座で「四の切」を演じられた上に宙乗りも解禁とあって、気合も入っていたのだろう。本物の忠信の時のキッパリとした所作、狐忠信の情味溢れる芝居、メリハリのある見事な演技で、当代これほどの狐忠信はないと思わせるに充分な出来。「四の切」の型としては大きく音羽屋型と澤瀉屋型があり、この二つは良し悪しを比べるものではないとは思う。なので音羽屋型で演じる場合は兎も角としても、澤瀉屋型でまずこれ以上の狐忠信は考えられないだろうと思う。現状では。

 

現状ではと云うのは、今回の素晴らしい「四の切」で筆者が唯一気になったのは親鼓との別れの場だ。ここで猿之助の狐忠信は、子狐としての情が爆発し舞台上で悶絶する。勿論ここでは誰でもそうする。しかし今回の狐忠信はあまりにエモーショナルで、義太夫狂言の矩を超えてしまっている様に思えた。舞台を観た時は圧倒され感動もしたのだが、振り返って思い出してみると、あれは義太夫狂言としては少々行き過ぎた感情表現だったのではないかと思えて来た。

 

これは多分猿之助がまだ若く、身体が動くせいもあるだろう。早替りの鮮やかさは年齢と共にもしかたしら鈍くなっていくかもしれない。しかし猿之助が五十も過ぎて還暦にさしかかり、言葉の真の意味での円熟味を手に入れた時、この別れの場はまた一味違って、もう一段深みを増したものになるのではないか。大きな所作で大きく感情表現するだけではない、新たな狐忠信像を構築して見せてくれるのではないか。数はごく少ないが時代を代表する名人役者は、一旦極めたと思えるその先にまた一段深い芸境がある事を、見せてくれた例があるからだ。もしかしたらこの狂言における猿之助は、そんな数少ない役者になれるのではあるまいか。筆者は今からそれを勝手に楽しみにしている。

 

脇では雀右衛門東蔵がこれぞ大歌舞伎とも云うべき流石の出来。ことに雀右衛門は以前より少し細っそりした印象で美しさも申し分なく、科白廻しは義太夫味に溢れ、所作は見事にイトに乗りこれぞ当代の静御前。大和屋でもこうは行かないだろう。この優一代の傑作であったと思う。加えて主演の景清では今一つ精彩がなかった猿弥の駿河次郎が、この優らしい力強い科白廻しと所作で目につく出来。市川猿弥、やはり野に置け蓮華草と云ったところだろうか(失礼)。

 

ともあれ歌舞伎座で久方ぶり澤瀉屋型の「四の切」を堪能させて貰った。筆者は三階席で観劇したので、宙乗りで三階席後方に入って行く猿之助の狐忠信を間近に観る事が出来、大いに感動。見物衆も沸きに沸いて、盛り上がりを見せた歌舞伎座第三部だった。