fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

壽 初春大歌舞伎 第二部 梅玉・魁春・芝翫・又五郎・鴈治郎の『春の寿』、幸四郎の『艪清の夢』

コロナが凄い勢いを見せて来ている。歌舞伎界も虎之介が感染。14日の一部が中止になり、扇雀七之助成駒屋三兄弟が休演。三部で主役を勤めている松也も濃厚接触者と認定され休演で猿弥が代役となった。筆者はまだ三部を観劇していないので、多分猿弥バーシーョンを観る事になるだろう。猿弥が歌舞伎座で主演する事はあまりないのでその意味では貴重だが、そんな悠長な事を云っている場合ではない。これ以上感染が拡大しない事を祈るばかりだ。

 

そんな中歌舞伎座二部を観劇。一部程ではなかったが、そこそこの入りと云った感じ。『艪清の夢』がメジャーな狂言ではなかったので、ワリを喰ったのかもしれない。しかし新年らしい喜劇で見物衆のウケも良く、盛り上がりを見せていた。

 

幕開きは『春の寿』。新年はやはりこれと云った感じの「三番叟」と、「萬歳」の組み合わせ。梅玉の翁、魁春の千歳、芝翫の三番叟、又五郎の萬歳、鴈治郎の才造と云う配役。ベテランの芸達者を揃えて新年を寿ぐ舞踊二題だ。芝翫は二年前にも正月公演で魁春とやはり『舌出三番叟』を踊っていた。松竹は正月の芝翫は三番叟と考えているのだろうか(苦笑)。

 

梅玉の翁と魁春の千歳は、確かな技巧と気品で流石の位取りを見せる。この三人の中では一番歳若な芝翫が、大家の風格を漂わせて風情ある三番叟を披露。新年に相応しい品格溢れる舞踊で、実に結構な出来。ただやはり折角芝翫が出るのなら、時代物が観てみたかった。続く又五郎鴈治郎の「萬歳」も流石に年功の技で上手い。しかし二人ともきっちりし過ぎて、「萬歳」の剽げた軽さと面白味が希薄。この狂言はもっとくだけていて良いのではないだろうか。

 

打ち出しは『艪清の夢』。桜田治助の作で長く埋もれていたのを、亡き宗十郎紀伊國屋が自主公演で復活させ、それを元に幸四郎が八年前に改めて本公演で上演した作品。筆者はその際には観ていないので、今回初めて観劇。幸四郎の清吉、孝太郎がおちょうと梅ケ枝の二役、錦之助が伴蔵と唯九郎の二役、壱太郎のお臼、高麗蔵の内侍、友右衛門が黒八・作左衛門の二役、歌六が六右衛門と善右衛門の二役と云う配役。コロナ禍の影響か、二役を兼ねている役者が多い。

 

芝居としての筋は大したものではない。中国の故事に準拠した作品で、借金まみれで夫婦揃って夜逃げして来た清吉が、仕える主人の為に探し求めていた聖徳太子の一軸をそれと知らずに枕にして眠る。その夢物語のお話しだ。他愛もない筋だが、金に窮している清吉が夢の中では周りからどんどんお金を使えと命じられる。金は大阪の富商鶴の池善右衛門からふんだんに渡されているのだが、使えと云われてもそんなに使えるものではない。なくても困り、あっても困る。金とは一体何なのかと云う諷刺が効いており、只の喜劇には終わらせていないのがミソ。

 

その中に「忠臣蔵」や「吉田屋」のパロディが含まれており、役者がそれぞれ芸を披歴する場が設けられている。中ではやはり幸四郎の「吉田屋」の場が、短いながら素晴らしい。ニンでもあり、艶もあり、当世これだけの佇まいを見せられる二枚目役者はいないだろう。唯一人、松嶋屋を除いては。

 

脇では錦之助が美人局を仕掛けられる伴蔵と、「山崎街道」の定九郎のパロディ唯九郎の二役で大奮闘。二枚目役者の錦之助が三枚目の伴蔵をコミカルに演じ、唯九郎では着物を脱いだ下着姿でドリフの髭ダンス迄披露する大サービス。ご当人も楽しんで演じている様が伝わり、笑わせて貰った。ただ何で今髭ダンスなのだろうとは思ったが(苦笑)。

 

最後は夢から醒めて、枕にしていた物が探し求めていた聖徳太子の一軸だと判明して、めでたしめでたし。正月公演らしく賑やかに幕となる。何と云う事もない筋立てではあるが、こちらも何も考える必要もなく、楽しませて貰えた一幕。肚のいる芝居はまた改めてと云う事だろう。見物衆も沸いていて、桜田治助の埋もれていた狂言歌舞伎座初演としては、まず成功だったのではないか。

 

この後は松也休演の歌舞伎座三部と劇団の国立。去年の初春国立は行けなかったので、二年分楽しみたいものだ。とにかく感染者が拡大しない事を祈りたい。

 

 

壽 初春大歌舞伎 第一部 中村屋兄弟・獅童の『一條大蔵譚』、『祝春元禄花見踊』

今年も初春大歌舞伎を観劇。今月から入場規制を前月迄の50%から68%に緩和。18%の違いだが、印象は大分違う。入りも良く、初春らしい賑わいをみせていた。しかもこの部は獅童の息子陽喜君の初お目見え。確かにこれでお客が入らなければ、問題だろう。コロナは明確に第六波の兆候を見せているが、何とか乗り切って行きたいものだ。

 

新春一発目の芝居は『一條大蔵譚』。いきなり筆者大好きな義太夫狂言。ご機嫌な幕開けだ。勘九郎の大蔵卿、獅童の鬼次郎、七之助のお京、歌女之丞の鳴瀬、扇雀常盤御前と云う配役。勘九郎が浅草で初演した際にも獅童が鬼次郎だった。それから二十年、勘九郎獅童共、芸の見事な進境ぶりを見せてくれた。

 

筆者にとっての大蔵卿は、何と云っても高麗屋、次いで松嶋屋である。この二人が素晴らしいのは、芝居の奥にこうとしか生きようがなかった大蔵卿の哀しみ、そして人間が見えて来るのだ。この二人は作り阿呆と、本性を顕した時の大蔵卿に大きな凹凸はつけない。ドリフの亡き志村けんが、バカ殿の造形の際に参考にした様な大蔵卿ではないのだ。これはあくまで筆者の推測だが、志村けんが参考にした大蔵卿は、十七世の勘三郎なのではないだろうか。バカ殿が始まった昭和五十年代に、主に大蔵卿を演じていた役者は先代中村屋だからだ。

 

そして中村屋の大蔵卿は、作り阿呆と本性を顕した大蔵卿に大きく凹凸をつける行き方である。これは天性の愛嬌と、抜群の技巧を誇った十七世のニンにぴったりであったし、十八世もまた同様だった。その大蔵卿を、勘九郎は忠実に受け継いでいる。まだお祖父さんやお父さんに比べると、若干作為的な部分はある。しかしこの家のDNAに組み込まれている愛嬌と明るさは、高麗屋松嶋屋とは全く別種の大蔵卿を造形しており、この狂言のまた違った面を見せてくれている。正確には、この行き方で演じる人の方が多いと思う。

 

この行き方だと「檜垣」が派手で見物にも受けが良く、盛り上がる。お京を見る目もまるで珍獣を見るかの様で、この場での大蔵卿は本性を顕さないので、愛嬌溢れる芝居を存分に楽しめる。その分「奥殿」には高麗屋松嶋屋の様な人生は感じられず、芝居としては若干浅くなる。本性を顕した後に阿保に戻ったりして人物造形が行き来するので、人間像に如何にも芝居らしい矛盾点が出て来るのは避けられない。しかし派手な芸風の中村屋には似つかわしい行き方であり、お祖父さんやお父さんの様に阿保と本性の替り目をもう少し自然に出来れば、今後勘九郎の当たり役になると思う。

 

獅童の鬼次郎は、その古風な役者顔が義太夫狂言にぴたりと嵌る。常盤御前への打擲の手強さ、そしてその本心を知った時の恐懼の気持ち、いずれもしっかり表現出来ており、二十年ぶりとは思えない見事なもの。七之助のお京も、大蔵卿に所望されての舞いが実に見事であり、獅童とのイキもピッタリで、いいお京。扇雀常盤御前も気品ある位取りの確かさを見せてこれまた結構な出来。総じて爽やかで実に後味の良い「大蔵卿」だった。

 

打ち出しは『祝春元禄花見踊』。獅童の久吉、勘九郎の山三、七之助阿国に、成駒屋三兄弟が若衆で加わり、獅童の息子陽喜君が奴喜蔵を勤めると云う配役。陽喜君の初お目見えを親類の中村屋成駒屋が盛り上げる形。舞台中央から獅童親子と中村屋兄弟がせり上がって来ると、満員の客席は大盛り上がり。一月の歌舞伎座でお目見えが出来ると云うだけでも、松竹の期待の高さが分ろうと云うもの。父そっくりの容貌で、役者向きだと思う。

 

獅童を舞台に残したままで、忍び侍と花道に行き、見得と六法を披露。側に父がいないにも関わらずしっかり見得を決めるあたり、やはり血だなと思わされる。どんな名優も子役には敵わないと云うが、この日一番の声援を受けて、立派な初お目見えだったと思う。今後は獅童も息子さんに負けない様に、歌舞伎座で大きな狂言を勤めて行って貰いたい。

 

丸本と舞踊狂言でのお披露目と云う、新春芝居に相応しい狂言立てを堪能した歌舞伎座第一部。今月は二部・三部と国立も観劇予定。その感想は観劇後また改めて。

壽 初春大歌舞伎(写真)

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初春大歌舞伎に行って来ました。ポスターです。

 

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一部絵看板です。

 

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同じく二部・三部。

 

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遂に三階の物故者パネルに・・・播磨屋。。。

 

三階のパネルを観て、あぁもう播磨屋はいないのだと・・・新年早々悲しい気持ちになってしまいました。役者の皆さんには先代三平じゃありませんが、くれぐれも身体を大事にして欲しいです。

 

 

 

私が観た令和三年歌舞伎 極私的ベスト10

明けましておめでとうございます。去年もコロナの猛威が吹き荒れましたが、歌舞伎座は毎月幕が開き、一昨年より多くの芝居が観れた一年でした。またぞろコロナが復活しつつあるのが気掛りですが、何とか無事に毎月の幕が上がる事を祈念しております。恒例の私的年間ベスト10を振り返りたいと思います。

 

まず第十位。

 

二月大歌舞伎より「十種香」

お客の入りはお寒い限りでしたが、令和の御代において、これだけの古風な丸本は貴重。今まで観た魁春のベストでした。

 

続いて第九位

 

四月大歌舞伎より『桜姫東文章

玉孝共演の見事な「東文章」。もっと上位だろうと云う声も聞こえてきそうですが、玉孝ならこれくらいはやってくれるだろうと思っていたので特に驚きはなく、この順位。しかしやはり素晴らしいものでした。

 

八位・七位・六位は続けて

 

初春大歌舞伎より「車引」

十二月大歌舞伎より『ぢいさんばあさん』

南座顔見世興行より『蜘蛛絲梓弦』

新年早々に観た高麗屋三代の「車引」、絶品でした。年代記物と云うのはこう云う出し物を指すのです。年末に観た『ぢいさんばあさん』。今年の菊之助のベスト。泣かせて頂きました。そして南座の『蜘蛛絲梓弦』。愛之助幸四郎の組み合わせの素晴らしさ。歌舞伎座での再演を期待しています。

 

そしてトップ5。まず五位。

 

国立劇場十一月歌舞伎公演より「熊谷陣屋」

芝翫型の熊谷。襲名でも演じていましたが、増々素晴らしい物になっています。芝翫は正に絶頂期にさしかかっていると思われます。

 

続いて第四位

 

九月大歌舞伎より「盛綱陣屋」

基本播磨屋型をペースにした見事な「盛綱陣屋」。去年も幸四郎、絶好調でした。丑之助の好演も光りました。

 

いよいよトップ3。まず第三位

 

四月大歌舞伎より『絵本太功記

去年の芝翫のベスト。正に絶品とも云うべき「太十」。時代物役者芝翫の真骨頂を見せて頂きました。今年も芝翫の丸本には期待大です。

 

そして第二位

 

八月花形歌舞伎より「義賢最期」

去年の幸四郎のベスト。芝翫に負けず劣らず、メキメキ丸本の腕を上げている幸四郎。今年も更なる飛躍を期待しています。

 

そしていよいよ第一位

 

十二月大歌舞伎より『信濃路紅葉鬼揃』

何と舞踊劇になりました。しかしとんでもなく素晴らしかった。個人的には近年の大和屋のベストです。改めてこの優の偉大さを目の当たりにしました。

 

師走の芝居が三本入り、やはりどうしても近々に観た物が中心になってしまいます。それ以外では、右近のお嬢吉三、高麗屋親子の『勧進帳』、玉孝の「四谷怪談」、などいくつも印象に残る芝居がありました。その一方で、秀太郎播磨屋と云う巨星がいなくなってしまった残念な一年でもありました。今年は皆無事に一年を過ごして欲しいものです。

 

こんな感じで今年もマイペースでゆる~く綴って行きます。宜しくお願い致します。

南座 吉例顔見世興行 第三部 幸四郎・愛之助の『雁のたより』、『蜘蛛絲梓弦』

続いて南座顔見世第三部を観劇。やはりこちらも大入り。京都の芝居好き、熱いです。三部は幸四郎愛之助の顔合わせ。今をときめく東西のトップ花形ががっぷり四つに組んで、素晴らしい芝居を見せてくれた。と云ってもお互い十八番をぶつけ合うと云う形ではなく、愛之助は何度か演じている変化舞踊、幸四郎は関西を意識して完全な上方の狂言に挑んだ。そして二人共見事な成果をあげていた。

 

幕開きは『雁のたより』。幸四郎の三二五郎七、愛之助の金之助、吉弥のお玉、千壽の司、竹三郎のお君、進之介の左司馬、錦之助の蔵之進と云う配役。狂言全体としては石川五右衛門ものの様だが、この幕には五右衛門は全く登場せず、完全に上方和事の芝居になっている。「伊勢音頭」や「吉田屋」など、上方狂言にも高い親和性を見せてきている幸四郎。今回は父と同様に心酔している松嶋屋が監修しているらしい。二の線と三の線を両方見せる芝居なので、幸四郎のニンに合って、実に結構な出来になっている。

 

三年前の幸四郎襲名の際に鴈治郎が五郎七で、幸四郎は金之助を演じていた。その時は成駒家型だったが、今回は松嶋屋型。構成が変わっている。筋としては他愛無く、若殿左司馬が妾の司と逗留している有馬温泉で髪結の商いをしている五郎七が、司からの贋恋文に騙されて司のもとに忍んでいくも捕らえられる。しかし五郎七は左司馬の家老蔵之進の義弟であり元々武士で、司は許婚であった事が判明。二人はめでたく夫婦になり、お家を再興すると云う話し。要するに役者の風情で見せる芝居だ。

 

とにかく幸四郎は軽く、和かく、実にいい雰囲気を醸し出している。贋手紙に浮かれているところの浮き浮きした感じといい、それを周りに悟られるのが嫌で、知らぬ顔をしながら辺りを伺いサッと落ちている手紙拾うところといい、見事な迄に上方和事を自らのものにしている。本当にネイティブな上方役者の様だ。科白廻しも完璧な上方調で、生粋の上方人が聞いたら何と云うかは知らないが、関東人の筆者が聞いている分には立派な上方弁になっている。これを南座で披露するのだから、当人もかなりの自信があるのだろう。

 

筋で現代の見物衆を感動させられる、例えば「封印切」の様なドラマチックな展開の狂言でなく、この『雁のたより』を顔見世で上演する幸四郎は大したものだと思う。司が自分の許婚だと判り、「今度は本当だ」と云う辺りは見物衆にも大受けだった。その司を演じる亡き秀太郎の愛弟子千壽も、抜擢に応えて実に風情のある見事な芝居を見せており、出番は多くないが生粋の上方役者愛之助もこれぞ関西の若旦那と云った風で、賑やかで華のある実にいい芝居を見せて貰った。

 

打ち出しは『蜘蛛絲梓弦』。常磐津の変化舞踊で、歌舞伎座での初演は何とあの大川橋蔵だと云う。以前筆者がやはり愛之助歌舞伎座で観た時と変り、綱と卜部は出ない。愛之助が蜘蛛の精他五役を早替りで勤め、廣太郎の貞光、種之助の金時、幸四郎の頼光と云う配役。これがまた実に結構な出来であった。

 

愛之助は梅茂都流の家元であり、元々踊り上手だと思ってはいたが、今回は出色の出来。五役を踊り分けるだけでなく、演じ分けているのだ。舞踊には踊りの型があるから、役が違えば当然違う形で踊る事になる。それを上手くやりおおせて、踊り分け出来ると云う事になる。その踊り分けは愛之助、当然の事乍ら結構なものだ。しかし今回更に素晴らしいのは早替りで次々替わっていくその役の性根を実に見事に表現している点だ。

 

小姓の寛丸から始まり、太鼓持の愛平、座頭の松市、薄雲太夫、そして蜘蛛の精と替わる役の性根を踊りで見せる。寛丸は実に子供らしいあどけなさ、愛平では軽妙な座持ちを、松市では見事な語りを見せ、薄雲太夫は苦界に身を沈めている哀しみを、蜘蛛の精では日本を魔界に変えようとする執念を、鮮やかに表現して余すところがない。もしかすると早替りの手際の鮮やかさは、猿之助には及ばないかもしれない。しかしこの性根の踊り分けの見事さは愛之助に軍配が上がるだろう。二年前に歌舞伎座で踊った時の愛之助自身と比べても、その芸境は一段と深まりを見せている。この優の不断の研鑽の賜物であろう。

 

幸四郎の頼光は、薄雲太夫との逢瀬で見せる儚い迄の美しさ、その一方で勇壮な立ち回りでは踊りの名手らしい見事な形を見せ、愛之助に一歩も引かない素晴らしさ。脇では種之助の金時が、女形に適正を見せる優とは思えない手強い出来で、狂言回し的な役どころを好演、舞台を盛り上げていたのが印象的だった。

 

幸四郎愛之助が全力投球の見事な芸を見せてくれた南座三部。一部・二部も含めて、筆者大満足の顔見世興行だった。京都迄遠征して来た甲斐があったと云うものだ。今から来年の顔見世が楽しみでならない。鬼が笑うかもしれないが。

 

 

南座 吉例顔見世興行 第一部 壱太郎の『晒三番叟』、成駒家兄弟の『曽根崎心中』

南座一部を観劇。二部同様大入りの盛況。この部は亡き山城屋三回忌追善狂言と銘打っての上演。そうか、もう一年たったのか・・・と感慨一入。筆者が山城屋を観れたのは今から思うともう晩年だったが、幾つかの素晴らしい狂言を観る事が出来た。殊に印象深かったのは、もしかしたらこれを観れるのは最後かもしれないと思い、奮発して一等桟敷で観劇した「帯屋」。扇雀・壱太郎との三代共演で、十八番の和事芸だったが性根としては辛抱立役。観ているこちらが切なくなる程胸に迫る素晴らしい芝居だった。今回顔見世で子と孫がうち揃っての追善供養。天国の山城屋も目を細めている事だろう。

 

幕開きは『晒三番叟』。壱太郎の如月姫、虎之介の行氏、鷹之資の貞光と云う若手花形による三番叟だ。亡き山城屋が復活させた女形が三番叟を踊ると云う珍しい趣向の舞踊。追善に相応しい狂言と云えるだろう。しかし三番叟と云っても、それらしいのは鈴の段がある前半のみ。後半は三番叟とは全く違う踊りになる。いかにも歌舞伎らしい展開だ。

 

規矩正しく踊る前半と、「布晒し」が出て派手派手しくなる後半と、壱太郎は見事に踊り分けている。しかも一緒に踊っているのが従弟の虎之介と、かつて祖父とコンビで扇鶴ブームを巻き起こした亡き天王寺屋の忘れ形見鷹之資。歌舞伎芸と云うものは、この様にして次代へ受け継がれて行くのだと、つくづく感じさせる狂言。見事な布捌きを見せる壱太郎を見ていると、この優の持つ天性の華を感じる。いい役者になって来たと思わずニンマリとさせられる舞踊だった。余談だが、当日先斗町でスーツ姿の壱太郎とすれ違った。私服でもスターのオーラを感じさせていたのが印象に残った。

 

打ち出しは『曾根崎心中』。云う迄もなく生前千四百回以上演じた、山城屋生涯の当たり役。TVの「徹子の部屋」で扇雀が語っていたが、お初は山城屋・成駒家の役者しか演じた事がないそうだ。これほどメジャーな役どころで、一家が独占して演じている芝居も珍しかろう。今回は鴈治郎の徳兵衛、扇雀のお初、亀鶴の九平次、虎之介の茂兵衛、寿治郎のお玉、松之助惣兵衛、梅玉の久右衛門と云う配役。中では徳兵衛がここ十五年程は鴈治郎以外に演じた役者はいない。もう完全に自家薬籠中の役だ。

 

そしてその徳兵衛がやはり素晴らしい。まずニンである事も大きいが、実直で伯父である久右衛門への恩義と孝心は紛れもない徳兵衛が、お初への一途想い故に転落して行く、そのせつなさがきっちりと表現されている。亀鶴の九平次が憎々しく真に手強い出来で、そのドラマチックな展開の濃度をより深めているのも実に良い。今回の亀鶴、大当たりだ。

 

今転落と書いたが、大詰「曽根崎の森の場」を観ていると、死出の旅を歩む徳兵衛とお初にとって心中は堕ちるのではなく、汚い俗世間からの離脱としての魂の浄化であるのだと云う事を思わずにはおれない。今までの幕切れは、合掌するお初を徳兵衛が正に刺さんとする所で幕となっていたが、今回は徳兵衛がお初を刺し、扇雀が海老ぞりになるところに自らを刺した徳兵衛が折り重なると云うエンディングだった。従来の幕切れの方が芝居としての余韻は残るが、二人にとって死は終わりではなく、魂の浄化への入り口なのだとすれば、より徳兵衛の意思を鮮明に感じさせる今回の幕切れは効果的であったと思う。

 

扇雀のお初も無論素晴らしい。山城屋は実にはんなりとした古風な味わいのあるお初だったが、扇雀はすっきりとしたより現代的なお初で、これは芸風に預かる所もあるが、容貌の違いと云う部分も大きいだろう。「天満屋の場」における自分の足に喉元を押し付けて死への覚悟を伝える徳兵衛の想いをひしひしと感じたお初が、万感の想いで閉じていた目を、カッと見開いて九平次に切る啖呵の鮮やかさは、この芝居のクライマックス。円熟期に入った成駒家兄弟の芝居の上手さは、実に見事なものだった。

 

東京から駆けつけた梅玉の久右衛門も大店の亭主としての格と、甥に厳しく接しつつも九平次をどやしつける科白に情のある所を感じさせる結構なものだったが、声に力がなく、科白も聞き取り辛い。体調でも悪かったのだろうか。来月の歌舞伎座出演も発表されている梅玉、健康にはくれぐれも留意して貰いたいものだ。

 

成駒家総力を挙げての山城屋への追善供養狂言の第一部、じっくり堪能させて頂きました。残る三部はまた改めて綴ります。

南座 吉例顔見世興行 第二部 孝太郎・隼人・芝翫の「三人吉三」、松嶋屋・芝翫の『身替座禅』

京都南座の顔見世二部を観劇。歌舞伎座より入場規制が緩く、七割位は入れていたのではないだろうか。客席は大入りの盛況。時折雪もちらつく極寒の中だったにも関わらず、流石は伝統の南座顔見世。松嶋屋に東京から芝翫と隼人が加わった形。重鎮から若手花形迄が揃い、演目的にも如何にも歌舞伎らしい賑やかな狂言二題。大いに盛り上がった。

 

幕開きは『三人吉三巴白浪』。配役は孝太郎のお嬢、隼人のお坊、芝翫の和尚。筆者的には五月以来今年二度目の演目で、その時と隼人のみ同じだ。孝太郎・芝翫共三度目らしい。二人共初演は一緒に南座でだったとの事。その時のお坊は当時染五郎幸四郎。孝太郎は音羽屋に、芝翫高麗屋に、幸四郎播磨屋に教わり、その三人が揃って舞台稽古を見に来てくれた感激を、二人が「演劇界」で語っていた。筆者的には孝太郎のお嬢は初めて観たが、芝翫の和尚は去年の年末国立で観て以来だ。

 

筆者初見の孝太郎のお嬢だったが、喰い足りない。現代の役者に共通するリアルを意識し過ぎて、黙阿弥調を謡い切れていないのだ。科白がぶつぶつ切れてリズムが悪く、聞いていて心地よく酔えない。う~ん、これでは厳しいと思っていたが、隼人のお坊が出て来て掛け合いになるとリズムが出て来る。「虫拳ならぬ」「命のやり取り」の辺りはいいイキで、やはり相手がいると芝居は違って来る様だ。

 

その隼人のお坊は、五月の時より長足の進歩。五月の時はやはりリズムが悪く聞きづらかったが、今回は良く謡えており、リズムも良い。口跡に所々松嶋屋調が散見されて、初演時誰に教わったかは知らないが、改めて松嶋屋に鍛え直されたのではないだろうか。若しくは松嶋屋の前で演じるに当り、松嶋屋の映像を参考にしてきたと云う事もあったのかもしれない。やはり若いと成長も早い。大富豪同心、天晴れでした。

 

芝翫の和尚は流石の貫禄。やはり喧嘩の止め役にはこれ位の貫禄がなければ収まらない。ニンでもあり、二人を分けて中央で極まった形も実に良く、まずは申し分のない和尚。今の大幹部も播磨屋が亡くなり、音羽屋・高麗屋松嶋屋も老境に入って行く。向こう二十年はこの優が歌舞伎界の重石とならなければならない。今後の芝翫にかかってくる責任は大きいと云うべきだろう。

 

打ち出しは『身替座禅』。松嶋屋の右京、芝翫玉の井、隼人の太郎冠者、千之助の千枝、莟玉の小枝と云う配役。この狂言も今年二度目の観劇。その時は高麗屋の右京を相手に、やはり玉の井芝翫が初役で勤めた。その際は高麗屋芝翫にオファーしたらしいが、おそらく松嶋屋はそれを見ていて好感を持ったのだろう。本来時代物役者の芝翫が、年に二度も女形玉の井を演じる形となった。

 

今回の松嶋屋は分かりやすさを意識したのだろうか、全ての芝居がかなり大掛かりで、仕草も表情も動きが大きい。芝翫玉の井は初演時とそれ程印象は変らなかったが、松嶋屋の右京と隼人の太郎冠者は所作が大きく、派手である。殊に隼人は若く身体も動くので、跳んだり跳ねたりの大奮闘。松嶋屋は大きく動くとは云えその所作は実に艶っぽく、花子との逢瀬を語る場面の科白廻し、その色気、まずもって見事な右京。

 

ただ前述の様に動きが大きく派手派手しいので、松羽目物としての品は若干棄損され、やや漫画的になっているきらいはある。その点では高麗屋は実に品があり、且つくすりとさせられる可笑し味もあったが、今回はマスク越しの見物衆に大受け。松嶋屋は終始上機嫌で演じている様に見受けられたので、今の世間を覆っている閉塞感を少しでも拭い去る為に、敢えてこの派手な演出をとったのかもしれないとも思った。そう、歌舞伎の全てを知り尽くしている松嶋屋。ただのウケ狙いで、考えなしに芝居をする事などはあり得ないのだ。そしてもう一つ、芝翫玉の井が「女と云え、女と」と太郎冠者を問い詰める時の迫力は、時代物役者芝翫の片鱗を見せてくれていたのを最後に付記したい。

 

客席も大いに沸いて、実に盛り上がった南座二部。筆者も楽しませて貰った。他の部の感想は、また改めて。