fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

五月大歌舞伎 第一部 右近・隼人・巳之助の『三人吉三巴白浪』、松緑・猿之助の『土蜘』

歌舞伎座一部を観劇したが、その感想を綴る前に、歌舞伎の話題ではないのだが、田村正和氏が亡くなった事に少し触れたい。私は個人的に日頃正和様とお呼びしていたので、ここでもそれで通す事にする。

 

正和様は、現代では希少な存在となった私生活を明かさない昔ながらのスターだった。一代の時代劇役者阪妻の三男として生まれ、木下恵介監督の『永遠の人』(名作です)で高峰秀子の死んでしまう息子役でデビュー。以後暫く低迷期はあったものの、時代劇、現代劇、二枚目、三枚目を問わず幅広い演技が出来る稀有の役者だった。

 

舞台も映画もやる人だったが、ご本人は「テレビ役者」とおっしゃっていた。テレビでの演技が一番性に合っていたのだろう。若い世代の人にとっては『古畑任三郎』なのだろうが、個人的に一番好きなドラマは『過ぎし日のセレナーデ』。鎌田敏夫の脚本で、古谷一行高橋恵子池上季実子黒木瞳野際陽子泉谷しげると役者も揃って出色のドラマだった。追悼で再放送される事を期待したい。

 

高麗屋播磨屋とほぼ同年配の正和様が亡くなったのは、ショックだった。こうなるとやはり播磨屋には無理はくれぐれもしないで貰いたいと思わずにはいられない。高麗屋はかなり苦しくはなっているが、曲がりなりにも弁慶をやりおおせる健康状態であるのは喜ばしい事だ。先日田中邦衛氏も亡くなり、名人と云える方々が次々といなくなっている現状は実に寂しい。正和様のご冥福を、心よりお祈り致します。

 

閑話休題

 

さてその一部の『三人吉三』だが、実に鮮烈な「大川端」いや、お嬢吉三だった。右近のお嬢、隼人のお坊、巳之助の和尚、莟玉のおとせと云う配役。莟玉以外の三人は初役と云う実に新鮮な舞台。始まる前はどうなる事かと少し心配していたのだがどうしてどうして。若手花形渾身の素晴らしい芝居だった。中でも出色だったのは、右近のお嬢だ。

 

花道を出て来たところ、若き日の大和屋を彷彿とさせる目の覚めるような美しさ。これが若女形の良さである。初役なので当然だろうが、おとせに話しかけて後ろを気にする所作も丁寧で、教わった事をきっちりとしている印象。舞台に廻ってのやり取りは、時間の関係か短縮されたショートバージョンだったのが少し残念。おとせの懐に手を入れて「その人魂より、この金玉」でガラリと男口調に変わる変わり目も実に鮮やか。右近は真女形ではなく立役もするので、ここの声は大和屋の様な女形がするのとは違い、完全な男声。多分音羽屋の指導を仰いだのではないだろうか。

 

そして例の「月も朧に 白魚の」の長科白。これがまた素晴らしい。筆者はかつて七五調の黙阿弥の科白廻しは、現代の若い役者にはもう無理なのかもしれないと書いたが、取り消します。初役とは思えない堂に入った科白廻しで、これが実に聴きごたえがある。ここは科白の内容などはどうでもよく、肚の必要なところでもない。右近はこの科白を見事な調子で謡い上げてくれる。この謡い調子をこの若さで出せる右近の力量は、大袈裟でなく驚嘆に値する。振袖姿の美しいお嬢様が、金を盗んだ挙句に相手を川に突き落とし、抜き身の刀を手に大川端に足をかけ、見得を切る。歌舞伎美に満ち溢れた、夜の闇の中に咲き誇る悪の華とも云うべき見事な場となっており、これは右近大手柄だ。

 

隼人のお坊もニンであり、お嬢と二人並んだところは若手花形らしい美しさに魅了される。ただ科白廻しは右近には及ばない。科白をしっかり云う事に気が行っているのだろう、科白の間がぶつぶつ空いて、謡い調子にはなっていない。ただ右近が素晴らし過ぎるだけで、初役としてはこれはこれで悪くはない。巳之助の和尚も兄い株らしい貫禄を備えており、立派な出来。ただ科白廻しには初役らしい力みが感じられた。これは慣れと共に解消されるだろう。兎に角右近が抜群の素晴らしさだったが、年齢も近い若手花形三人、芸格の揃いも良く、実に見事な『三人吉三』だった。

 

打ち出しは『土蜘』。松緑の土蜘、坂東亀蔵の保昌、福之助の綱、鷹之助の金時、左近の貞光、弘太郎の季武、新悟の胡蝶、猿之助の頼光と云う配役。『三人吉三』が鮮烈過ぎて印象としては損をしてしまったが、こちらもまた見事な出来。花形屈指の舞踊の名手松緑らしく、蜘の精らしいおどろおどろしたところを見事に表現する素晴らしい踊り。同い年で意識するところもあると思われる猿之助が頼光に回っている事もあり、その対抗意識がより舞台を白熱化させる。

 

猿之助の頼光は、この役らしい艶には少し欠けるが堂々たる位取りで松緑に対峙。新悟の胡蝶の舞いも若女形らしい所作と美しさで、敢えて役者を花形で揃えた一部の趣向を堪能させて貰った。大幹部の名人芸も無論いいが、花形が手一杯の芝居を見せてくれる芝居もこれまた良いものだ。次世代の劇団の中核を担うであろう若手花形全力投球が実に見事な第一部だった。

五月大歌舞伎(写真)

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一週間以上遅れて五月歌舞伎座がようやく開幕。ポスターです。

 

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一部絵看板です。

 

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同じく二部・三部。

 

今月も遅れたとは云え、何とか芝居の幕が上がって一安心。チケット取り直して行って来ました。待ちかねていた人が多かったのでしょう。いい入りでした。感想はまた別項にて。

 

国立小劇場 五月文楽公演(写真)

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国立小劇場の文楽公演に行って来ました。ポスターです。

 

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来月若手会がある。行きたいけど、日数短すぎ・・・

 

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前進座の公演もやっていたらしいけど、知らなかった。。。

 

第三部『摂州合邦辻』と「蝶の道行」を観劇。呂太夫と錣太夫と云う、今円熟の極にある二人の太夫がそろい踏み。三味線方の鶴澤清介も弦を切る熱演。そして玉手御前を遣った吉田和生も素晴らしく、見応え聴き応え充分の素晴らしい公演でした。

 

 

五月大歌舞伎 一部公演中止と七月公演

三度目の緊急事態宣言が発出され、四月公演も最後の四日間が中止の憂き目にあい、五月大歌舞伎も11日迄の公演が中止となった。筆者は初日第一部のチケットを押さえていたので、残念でならない。

 

そして緊急事態宣言が、三週間程度延長されると報道があった。今月は完全に公演中止かと目の前が真っ暗になったが、イベントの規制は緩和される方針だと云う。となると歌舞伎公演を始めとした舞台公演は、上演可能になるだろうか。今月は国立劇場文楽も観劇予定なので、余計に気になる。

 

そしてもう一つ気になっていたのが、いつもより発表が遅れていた七月大歌舞伎の演目と出演者が漸く発表された。そこには何と播磨屋の名前が!幡随院長兵衛をしかも日替わりと云う事なので負担は少ないとは思うが、つい先日迄ICUに入っていた八十近い人が大丈夫なのだろうか。播磨屋は渾身歌舞伎役者とも云うべき優なので、舞台で死ねれば本望と思っているのかもしれないが、無理だけはくれぐれもしないで貰いたい。勿論病全快してあの名人芸を観れるのならば、これに過ぐる喜びはないのだが。

 

そして第三部には海老蔵が出演する。何と二年ぶりの歌舞伎座登場だ。今年は何の説明もなく團菊祭が行われず、やきもきしていたが、やっと海老蔵歌舞伎座で観れる。喜ばしい限りだ。五輪の関係か、三部のみ公演日数が短いのでチケット争奪戦が熾烈を極めそうだが、何としても観たいものだ。

 

何はともあれ、今月の歌舞伎座の幕が12日以降無事に上がってくれる事を祈ってやまない。

四月大歌舞伎 第一部B日程 幸四郎・松也の『勧進帳』

今月の残る一つ、一部Bプロの『勧進帳』。その感想を綴る。

 

Aプロでお父さん相手に富樫に回っていた幸四郎が弁慶を演じたBプロ。富樫は松也で、義経・四天王は同じ配役。松也の富樫は初役だと云う。筋書によると音羽屋に教わったらしい。今までこの狂言自体に出た経験は亀井六郎で一度あるきりだと云う。しかし気合十分の見事な富樫だった。

 

幸四郎は弁慶を演じる為に役者になった様なものだと常日頃発言している。しかし初役で演じたのは不惑を過ぎてから。父白鸚の初役が十六歳だと云うから、随分遅い。ニンでないと云う事もあったろうし、白鸚が千回以上勤めているので、中々回ってこなかったと云う事情もあったのだろう。しかしそれから襲名興行で立て続けに演じて、四度目の南座から滝流しを付ける様になった。近年では、筆者の知る限り白鸚以外では観た事がない滝流し付き弁慶。父の弁慶を継いでいきたいと云う、幸四郎の思い入れの表れだと思う。記者会見で白鸚が、「今の私がやったら死んでしまいます。」と発言していた。あながち冗談とも思えない。それくらいただでさえ苦しい弁慶に滝流しを付けると云うのは大変な事だ。しかし今回もまた素晴らしい出来であった。

 

今回の幸四郎は、弁慶の科白廻しをかなり研究してきた跡が見受けられる。襲名以降その芸容がどんどん大きくなり、向かう所敵なしの感がある近年の幸四郎だが、その最大の弱点はやはり声にある。ことに高音が厳しい。これは甲の声とも少し違う。甲の声自体は幸四郎も使えはするのだ。所謂ニュアンスとしては歌手で云うところの高音と云うのに近い。科白で張り上げる高音が割れてしまう。今までの弁慶も、その熱量の凄さと所作の美しさで見事なモノではあったのだが、勧進帳の読み上げなどではやはり高音が割れてしまい、若干の聞き苦しさを感じさせてはいた。しかし今回その辺りをかなり練って来たと思われる。

 

例えば勧進帳読み上げの冒頭「大恩教主の秋の月は、涅槃の雲に隠れ、生死長夜の長き夢、驚かすべき人もなし。」の人も~の音楽用語で云うところの所謂スラーの部分で高音を使わず、低音を使った太い調子に変えていた。ここをこの調子で処理した人を、筆者は他に知らない。しかし聴いていて違和感がないどころか、むしろ堂々たる調子に聴こえる。これなぞは大袈裟な表現をすると、幸四郎にとってはコペルニクス的な発見だったのではないだろうか。そう、ここで別に無理して高音を張る必要はないのだ。白鸚は超一流のミュージカル俳優でもあるので、歌舞伎界きっての声を持っている。その声で読み上げる勧進帳は無類のものだが、父の様な声を持っていない幸四郎がその調子をなぞる必要はない。

歌手の力量は、高音の出る出ないだけで評価されるべきものではないだろう。唐突な例えだが、岩崎宏美中島みゆきがどちらが優れた歌手であるかは、好みでは分かれても、高音の出る出ないで評価するべきではないのと同様、声の高低の出せる出せないで役者の価値が決まる訳ではない。今回の幸四郎は自分の声を把握した上で、見事な解決法を見出したと筆者は感じた。

 

この科白廻しを今回の様に処理出来れば、後は幸四郎の独壇場である。かどかどの見得の立派さ、そして父譲りの身体から立ち上る義経に対する溢れ出る様な思い、そして最早父には出来ないであろう若々しい動きと所作。それらが渾然一体となって、終盤に向けてもの凄い盛り上がりを見せる。滝流し付きの延年の舞から飛び六法に至る怒涛の如き劇的展開は、今日では(この今日と云うのは、播磨屋にも、そして漸う々々白鸚にも老いが感じられる今日と云った意味だが)、他に比するものが見当たらない程の素晴らしさだ。

 

対する初役の松也富樫も立派だった。独特の語尾が上がる癖はあるもののの、元々声のいい優。科白廻しも古格な調子を遵守しており、かなり聴かせてくれているし、関守としての位取りもまた見事なもの。そして幸四郎の弁慶と対峙したところは、背の釣り合いも良く、舞台面として実に美しく錦絵の様だ。殊に今回素晴らしかったのは「山伏問答」だ。

 

これは勿論松也だけではなく幸四郎との共同作業だが、テンポとしては最初かなりゆっくりと始まる。このテンポ感は、多分松嶋屋からの影響と思われる。しかし松嶋屋は独自の考えがあったのだろう、このゆっくりなテンポをほぼ問答の最後迄維持し続ける。ただこれはかなり特異な行き方で、松嶋屋以外にこの演じ方をする人を筆者は知らない。

 

今回の幸四郎と松也はそこから徐々にテンポを上げて行く。音楽用語で云うところのアッチェレランドして行くのだが、それと共に音声もクレッシェンドして行き、間を摘んだ科白廻しと相まって独特の緊張感を醸成する。そして最後に至ってクライマックスを形成するのだが、この時の劇的な盛り上がりは凄い。行き方としては他の役者と同様特異なものではないが、そこに内包されている熱量、ここがギリギリの切所を迎えていると云う二人の血の滾りの様な物が歌舞伎座の大舞台を覆いつくし、素晴らしい盛り上がりを見せてくれる。ここの花形二人の全力投球の芝居が、実に見ごたえがあった。

 

加えてAプロ評の時は触れなかったが、八百回以上演じていると云う友右衛門の亀井六郎がその見事な科白廻しと所作で、改めてこの優の確かな実力を見せつけてくれた。雀右衛門義経は、花道での科白廻しが若干女形の地金が滲んでしまってはいたが、その気品、位取り、「判官御手を」で見せる情味、まず申し分のない義経太刀持ちの幸一郎に至る迄、役者が揃って今日の、とも評すべき素晴らしい『勧進帳』であった。

 

今日に至って、三度目の緊急事態宣言が発出される様だ。劇場への休業要請も含まれると云う話しも聞く。何とか無事来月も芝居の幕が上がって欲しいと願うしかない。コロナ続きで暗い日常、せめて芝居でも観ないとやっていられないではないか。

四月大歌舞伎 第一部A日程 猿之助・中車の『小鍛冶』、白鸚・幸四郎の『勧進帳』

歌舞伎座第一部Aプロを観劇。『小鍛冶』と『勧進帳』、能取り物が二題並んだ狂言立て。その感想を綴る。

 

幕開きは『小鍛冶』。初代猿翁が初演した義太夫による舞踊狂言で、猿翁十種に選定している澤瀉屋家の芸である。正月の『悪太郎』といい、ここのところ猿之助は猿翁十種に立て続けに挑んでいる。海老蔵歌舞伎十八番に思い入れがある様に、猿之助お家芸を大切に思っているのだろう。この狂言には中車が出ているとは云え、家の芸を後代に残せるのは自分しかいないと云う、強烈な使命感があるのだと推察される。

 

猿之助童子実は稲荷明神、中車の宗近、左團次の道成、壱太郎の巫女、笑三郎、笑也、猿弥の弟子と云う配役。正に澤瀉屋勢揃いの座組である。代々の猿之助が演じて来た狂言だが、当代は初役。しかし正月の『悪太郎』に続き、これもまた見事なものだった。

 

前シテの童子の時の、如何にも子供らしい無邪気なところ、そして跳躍を伴う軽々とした所作、舞踊の名手猿之助の技量には感嘆せざるを得ない。後シテの稲荷明神の古怪さもまた素晴らしく、中車の宗近と打つ相槌もリズミカルでイキの合ったところを見せてくれる。五穀豊穣を祈りつつ稲荷に帰る花道の引っ込み迄、初役とは思えない見事な出来であった。

 

中車は歌舞伎界入りして以降初めて、遂に舞踊劇に挑んだ。筋書きで自ら「避けて通れない道」、「恐怖と責任を感じる」と云っていたが、正直なところだろう。実に神妙に演じている。表情が硬いのは、初役と云う事もあろうが、その責任の重さ故だと思われる。とにかくしっかりと踊る事を心がけていると云った印象で、健闘していたと思う。ただまだそこに役の性根を入れる迄には至っていない。童子に、家に帰って壇を飾って我を待てと云われ、喜んで家路につくその嬉しさが所作に出せていない。教わった通り踊る事に気持ちが行っているのだろう。致し方ないとは思うが、今後の精進に期待したい。

 

狂言の壱太郎は可憐で美しく、笑三郎・笑也の連れ舞いは短かったのが物足りないが、これまた見事。猿弥がもはやお決まりとなったコロナネタをぶち込んで来るなど、楽しめた間狂言左團次の道成は動きも少なくこれと云って見せ場もない役どころだが、しっかり存在感を出せるのは年輪だろう。二十年も間を空けず、また出して欲しいと思わせる狂言だった。

 

そしてお目当て『勧進帳』。今回はAプロで白鸚の弁慶、幸四郎と富樫、友右衛門・高麗蔵・廣太郎・錦吾の四天王、雀右衛門義経と云う配役。千秋楽迄勤めあげれば、通算1,162回。しかも七十八歳での弁慶は、本興行では史上最高齢との事。回数・年齢共、今後これを抜ける人が簡単に出て来るとも思えない。また白鸚が歌舞伎史の一頁に大きな金字塔を打ち立てた。

 

しかし今回の弁慶は、気軽に批評云々すべきものではない。衣装だけでも20㌔を超える重荷をしょって、七十分出ずっぱりの大役。これを八十近い老優が演じるのだ。昨今の働き方改革に思いっきり逆行する所業。花道から舞台に廻った時点で、既に白鸚は肩で息をしていた。これで最後迄もつのかと、観ていて筆者は気が気でなかった。

 

病を得ている播磨屋と違い、白鸚の所作や声に本質的な部分での衰えは見えない。それは正月の「車引」における松王丸でも証明済みだ。しかし「車引」の出は所詮十分程度。弁慶とは訳が違う。妙ちくりんな例えだが、「車引」がリリーフで1イニング投げる様なものだとすれば、弁慶は9回完投しなければならない役。松王丸のトーンで弁慶を演じるおおせるのは、流石の白鸚でも最早無理なのだ。

 

だから今回の白鸚は、ここと云うポイント以外は抑え気味の所作・科白廻しであった。花道の出の大きさ、狂言中唯一のツケ入りの見得である「石投げの見得」の力感はなどは見事なもの。だか基本立ったり座ったりの繰り返しは厳しくなっていると思われる。富樫に通行を止められ「いでいで、最後の勤めをなさん」と祈祷を始めるが、ここは腰を下ろさず立ったままであったし、富樫が「勧進の施主につかん」と布施物を進呈し、「嵩高の品々お預け申す」と品物を受け取る際も自ら受け取らず(受け取るにはしゃがまなければならない)、亀井六郎に取らせるなど、省エネ的になっているのは致し方なかろう。

 

「延年の舞」も筋を通しただけと云った感じで、長くは踊らず味で見せる。しかしそう云う一つ一つの所作云々を超えて、老弁慶が若々しく元気いっぱいの富樫に最後の力を振り絞って対峙すると云う、その姿が筆者の心に響いてくるのだ。以前から白鸚の弁慶は魂の弁慶であったと思っているが、今回はよりその傾向が強く全面に打ち出され、もう魂だけと云ってもいい。そしてこの魂の弁慶がたまらなく胸に迫って来る。

 

ハイライトは富樫が「今は疑い晴れ申さん。とくとく、いざない通られよ」と通行を許す。「大檀那のおおせなくんば、打ち殺して捨てんずものを、命冥加にかないしやつ。以後はきっと慎みおろう」と義経と四天王の方を向きながら弁慶が云う。その時の弁慶の表情!目を閉じてふっと軽く肯く。切所を乗り切れたと云う思いと、主君を打擲してしまった恐懼の思いが交差して溢れ出て、観ていて筆者は堪らなくなり、思わず目頭が熱くなった。

 

最後花道の飛び六法をしっかり踏む力は、最早白鸚には残っていなかった。かなりふらついていて観ているこちらがハラハラしたが、何とか揚幕に入って一安心。三年前の襲名興行の御園座で観た時よりも、かなり体力的には厳しくなっているのが見て取れた。途中後ろを向いて後見から酸素吸入を受け乍らの熱演。ここまでするものなのかと、この弁慶と云う役に込める白鸚の役者魂に、こちらも背筋が伸びる思いがした。無事千秋楽迄勤めあげられる事を祈るばかりだ。

 

最後に、幸四郎の富樫はその品格と云い、凛とした科白廻しと云い、素晴らしいものだった。目の前で荒い息を吐いている父を見ながらの芝居は厳しいものと推察するが、手加減のない見事な富樫だった。そしてもう一つ印象に残ったのは太刀持ちの幸一郎。以前「盛綱陣屋」の小四郎で観て素晴らしい子だと思ったが、今回も実に神妙に太刀持ちを勤めていた。この子は本当に子柄が良く、人目をひく。将来が楽しみだ。

 

今月残るは一部Bプロ、幸四郎の弁慶、松也の富樫バージョンの『勧進帳』。感想はまた別項にて。

四月大歌舞伎 第三部 松嶋屋・大和屋による『桜姫東文章 上の巻』

歌舞伎座第三部を観劇。コロナ以降、三部になってからの公演では筆者の知る限りにおいて一番の入りだったのではないだろうか。勿論入場規制がかかってはいるが、であればこそ猶更と云った感じで、場内の熱気が凄かった。その感想を綴りたい。

 

大南北作『桜姫東文章 上の巻』。六月に下の巻を上演するらしい。今回は「稚児ケ淵」から「三囲」迄の上演。大和屋の桜姫、松嶋屋の清玄/権助二役、鴈治郎の悪五郎、錦之助の七郎、福之助の軍助、吉弥の長浦、歌六の残月と云う配役。この狂言での玉孝の共演は三十六年ぶりだと云う。正に歴史的な公演だ。しかも六月と分けての上演とは松竹さんも商売が上手い(笑)。まぁ冗談はさておき、松嶋屋・大和屋の体力的な事を考えての上演の様だ。

 

何せ三十六年ぶりなので、筆者は前回の共演は観ていない。しかしこの演目は、特に大和屋にとっては自分の運命を変える事になった大きな役だった。有名な話しだが、昭和四十二年国立劇場で上演されたこの狂言で、桜姫は先代京屋だったが、白菊丸に当時十七歳だった大和屋が起用されたのだ。この公演を観た三島由紀夫が大和屋に惚れ込み、後に自ら脚本を書いた「椿説弓張月」の白縫姫に抜擢。大和屋ブレイクのきっかけとなった。晩年の三島は至るところで大和屋を絶賛し、「三島最愛の女優」の座を歌右衛門から奪った形になった。それもあってか、その後かなりの長きに渡って歌右衛門は大和屋を冷遇する事になるのだが。

 

しかし松嶋屋と大和屋の共演はいつも特別なものだが、それが『桜姫東文章』となればまた格別である。筆者ごときがこれにとやかく云えるものではない。とにかく必見の舞台であったとしか云い様がないのだ。大南北の原作はいかにもグロテスクで、高貴なお姫様がゴロツキに強姦されて子供迄産んだあげく、その男の事が忘れられず身を持ち崩していく。商家の出だった南北は、余程高貴な身分の人間に怨みでもあったのだろうか、とにかく桜姫を徹底的にいたぶる内容である。対して権助は悪人ではあるが、色気と鯔背な雰囲気のある実にいい男なのだ。それを松嶋屋が演じている。これはもう鉄板であろう。

 

二人の発する濃厚な味わいに圧倒され続けた二時間だったので、あまり細かく書き記すとどこまで長くなるか分からない。以下簡単に印象的な部分を記す。三島が強い印象を受けたと云う発端の白菊丸花道の出は、やはり鮮烈。花道で転んで清玄を見上げた時の白菊丸の美しさ、儚さ、もうこの世の者とは思われない。「桜谷草庵の場」の濡れ場における二人の艶っぽさ。桜姫がお姫様から女に変わって行くところの妖艶な色気は、当代の女形では大和屋以外には出せないだろう。そしてその相手が色悪を演じさせたら当代一の松嶋屋ときては、最早云うべき言葉もない。

 

「稲瀬川の場」のカットは残念だったが、ここでもお姫様を縛めて苛め抜くと云う南北の嗜好を受けて、大和屋演じる桜姫の被虐美が凄絶。そして最後の「三囲の場」。桜姫がかつて自分が愛した白菊丸の生まれ変わりと知った清玄が、姫の片袖に赤子をくるんでさ迷い歩く。雨を拾った傘でよけ、そぼ降る雨の中それと判らぬ桜姫から、袱紗に入った薬を貰う。ふっとこの袱紗は自分が桜姫に与えたものだと気づく。その時起こした火が消えて辺りは暗闇になる。この辺りの世話の呼吸が流石松嶋屋、抜群に上手い。そしてすれ違って行く二人の切なさが舞台一杯にさざ波の様に広がって、幕となる。実に余韻の残るいい終幕。正にTo Be Continuedと云ったところで、これは六月も観ざるを得ませんな(苦笑)。

 

兎に角古希を過ぎた二人とは思えない若々しさと艶っぽさに、圧倒され続けた「東文章」。脇では鴈治郎の悪五郎が、ニンにない役乍ら手強い出来で、印象的だった。今月残るは高麗屋の弁慶。これも多分凄い公演になる事だろう。