fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

国立劇場 幸四郎の『蝙蝠の安さん』

国立劇場のもう一演目、『蝙蝠の安さん』の感想を綴る。

 

これはもう大分話題になっているが、サー・チャールズ・スペンサー・チャップリンの名作『街の灯』の歌舞伎化である。当時木村錦花が読売新聞に連載した脚本を、すぐに上演したものが原作らしい。昭和九年の日本封切り以前に初演されているのだから、その歌舞伎スピリッツは素晴らしい。それに新たな科白や場面を付け加えるなど、補綴した上で今回の上演となった様だ。

 

筆者は歌舞伎同様映画も好きで、中でもチャップリンは大好きである。初期の短編は未見のものもあるが、中編を撮り始めたファースト・ナショナル時代の『犬の生活』以降の作品は殆ど観ている。就中『キッド』、『サーカス』そして『街の灯』が個人的なベスト3である。映画としては、後年の『殺人狂時代』が完成度も高く、作り込んだ面白さがあるが、多少説教臭さが鼻につく部分もある。『独裁者』も同様。筆者は先の3作品の様な、チャップリン流の人情噺が好みである。だから今回の上演に期待するところ大だった。結論として、問題がなくはないが、大いに楽しめた。

 

幸四郎の蝙蝠安、新悟のお花、猿弥の新兵衛、友右衛門の勘兵衛、吉弥のおさきと云う配役。歌舞伎史上最も高身長の女形新悟をヒロインにもってきたのは、見上げる感じが欲しかったのだと幸四郎は云っていた。登場人物も多くなく、コンパクトにまとまっている作品なので、歌舞伎を初めて観る人には最適の演目だったのではないかと思う。

 

筋は概ね『街の灯』に準じている。有名な作品なので細部は省略して大筋を記しておく。映画の方は放浪紳士チャーリーが街で知り合った盲目の花売り娘の為に、お金を集めて渡す。しかし娘はお金をくれたチャーリーを大金持ちだと勘違いしており、目が見える様になっても、目の前のチャーリーに気づかない。心優しい娘は、施しのお金をチャーリーに渡そうとする。その時に手が触れて、その手触りから目の前の貧乏ななりをしたチャーリーが、自分にお金をくれた人物だと気づく。気づかれて嬉しい様な、哀しい様なチャーリーの泣き笑い顔のクロースアップでENDとなる。映画史上、最も美しいラストだと思う。

 

チャーリーの役は源氏店から持ってきた蝙蝠安になっていて、舞台は勿論日本に置き換えられている。映画のオープニングだった銅像の序幕式は、大仏のお披露目になっていて、大仏の手のひらで蝙蝠安が眠っている形。映画を知っていればニヤリとさせられるシーンだ。映画では米国国歌が演奏される度に敬礼する人々が笑いを誘うが、今回はドラが鳴る度に人々が合掌すると云う演出。これは映画ほどの効果はあげていない。

 

花道から船に乗った猿弥の新兵衛と廣太郎の又三郎が出て来る。愛妻を亡くしてふさぎ込む新兵衛を又三郎が慰めている。新兵衛は酒癖が悪く、酔いから醒めると酔っていた時の事をすっかり忘れてしまう人物。船が通った大川の上にかかる両国橋で花を売る盲目の娘お花。そのお花に水をかけられ一度は怒る蝙蝠安だが、娘の美貌に一目ぼれし、残りの花を全て買う。そこに駕籠が着いて町人を乗せて立ち去るのを、目が見えないお花は、自分に施しをしてくれた人が駕籠に乗る様な身分の人と誤解する。映画では車に乗った人と勘違いするのだが、そこを日本の舞台に移行させたいい趣向。

 

愛妻の後を追おうとして、身投げをする新兵衛を蝙蝠安が助ける。ここも映画同様助けようとして自分が川に落ちたりするドタバタがあるのだが、幸四郎と猿弥がいい喜劇の味を出していて、映画に劣らない面白い場になっている。友達になった二人は、新兵衛の家に行って飲みなおして大騒ぎ。しかし朝になると新兵衛は安の事をすっかり忘れていて、叩き出されてしまう。

 

お花の家を訪ねる蝙蝠安。すると大家の友右衛門がやって来る。この大家は好人物で、困っているお花から家賃を取る気はないのだが、安はお花の金に困っている窮状を知り、金を稼ぐ為に賭け相撲に出る。映画ではボクシングになっていて、映画特有の早回しを駆使して、非常に笑える場面だが、この相撲場も悪くない。善戦しながらうっかり土俵から足を踏み出してしまい、敢え無く負け。やっちまったと云う表情の幸四郎がいい。

 

また酔っぱらった新兵衛は安と再会して家に連れて帰りどんちゃん騒ぎ。安が金に困っているのを聞き、財布ごと安に渡して眠り込む。夜中に泥棒が入り、岡っ引きがやって来る。酔いから醒めた新兵衛は安に財布を渡した事を覚えておらず、安は泥棒嫌疑をかけられるが、素早くこの場を逃げ出す。この辺りも映画を上手く舞台化している。

 

その財布をお花に渡し、その場から立ち去らせた所で岡っ引きに捕まり、お縄となる安。数ヶ月が過ぎ、舞台は変わって重陽節句の菊供養。今までモノトーンな場が続いていた所で、一転菊花も鮮やかな舞台で、目が見える様になったお花の心境を象徴的に見せる。茶店の客である芸者の春花と春之助がさりげなくいい世話の味を出していて、この大詰めの場が最も歌舞伎らしい。

 

そして幕切れ、お花の前に安が現れる。茶を勧めるお花に「俺は、茶代を置けるお客様じゃねぇよ」と云う安。湯呑に茶を注ぐお花を見て「お前は目が見えるようになったんだね」と語りかける。ここは幸四郎の芝居の上手さが発揮されて、実にしみじみとしたいい場になっているが、作劇上の矛盾点も露出している。映画はサイレントである事も大きいのだが、この場でチャーリーは無言のままだ。そして娘がチャーリーの手に触れた時に、目が見えなかった分、他の感覚が鋭敏になっていた娘は、その手触りで目の前の人物がチャーリと判る。だが、この狂言では安は声を出してしまっている。手を触れてそれと判る娘が、声を聞いても判らないと云うのは、矛盾と云えば矛盾だ。上の「目が見えるように~」の科白は、映画ではチャーリーと判った後で、発する科白だ。ここは映画通りにすべきだったと思う。

 

ただ芝居としては、実に上手い。ここでの幸四郎の哀感溢れる表情は、映画のチャーリーにおさおさ劣らない。「おっかさん、あの人が・・・」と駆け寄ろうとするお花を振り切る様に、「花をありがとうよ」と云って花道を入る幸四郎。結末は判ってはいるのだが、しみじみと心に残るいい幕切れだった。

 

映画の歌舞伎化なので、上手く行っている場とそうでない場とがあるものの、総じていい芝居になっており、ほのぼのとした余韻の残る人情喜劇になっていた。多少の手を入れて、歌舞伎座でも再演して貰いたいものだ。幸四郎チャップリンをよく研究しているのが見て取れ、意欲的な舞台だったと思う。

 

今月はこの後歌舞伎座の昼夜を観劇予定。その感想はまた別項にて。