fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

六月大歌舞伎 夜の部 三谷かぶき『月光露針路日本』

六月大歌舞伎夜の部を観劇。その感想を綴る。

 

みなもと太郎の漫画原作。筆者は未読だが、40年も連載が続いている超大作との事。まず冒頭に云っておきたいのは、この芝居は筆者的な価値観としては歌舞伎ではないと云う事だ。亡き勘三郎が「何でも歌舞伎だよ」と云っていたが、その考えには私は同調出来ない。勘三郎の趣意は俺が演じれば何でも歌舞伎になると云う自負だったのだと思う。それは勘三郎ならそうだったかもしれないが、この芝居は筆者的には歌舞伎ではない。その前提に立って観れば、芝居としては大いに楽しめた。だからこの「歌舞伎ではない」と云うのはネガティブな意味ではないつもりだ。

 

幕開きに松也が一人眼鏡にスーツ姿で花道を出て来る。まずこれに度肝を抜かれた。松也自身も、スーツで花道を歩いたのは初めてだったろう。女性の観客を巻き込んだ即興でのやり取りで、会場を沸かす。見事な掴みだ。当時の船は家康の命により、マストは一本と決められていた等々、物語の背景を簡潔に、しかし説明風にはならず、さらりと語る。素晴らしいオープニングだ。

 

そして「神昌丸漂流の場」。伊勢を出帆した、幸四郎の光太夫を船長とする神昌丸が遭難している。舞台上のやり取りで船夫のキャラクターを次々提示していくその手法は、舞台劇の王道で三谷の手腕が光る。中でも他の船乗りから超越した、強烈なキャラクターの男女蔵の存在が印象的。そしてここから長いロシアへの漂流生活になるのだが、その間に次々と仲間が倒れていく。

 

アムチトカ島→カムチャッカ→オホーツク→ヤクーツクと続く長い漂流を、幸四郎猿之助愛之助の花形が見事なアンサンブルで繋いでいく。染五郎もしっかり者の磯吉を好演、非常に好感が持てた。ただこの漂流の描写は少々長い。再演時にはもう少し整理した方がいいだろう。イルクーツクに向かう場で、大勢の犬が登場。しかも役者の顔出し。ここは壮観だった。

 

露西亜イルクーツク太夫屋敷の場」ではロシア娘マリアンナ役の新悟の怪演が光る。そして満場の拍手に迎えられ、ロシア人キリル・ラックスマン役の八嶋智人が登場。舞台自体が歌舞伎調ではないので、違和感なくスッと芝居に入っている。そして女帝エカテリーナに直接日本への帰国を願い出る事を幸四郎に勧め、二人はサンクトペテルブルグに向かう。

 

続く「露西亜サンクトペテルブルグ謁見の場」。ここでは話しの筋とは無関係だが、秘書官役の寿猿と女官役の竹三郎が、出の時間は短いが手を取り合ってダンスをするシーンがある。二人合わせて175歳と云う素晴らしいダンス。ここのところ休演続きで体調が心配されていた竹三郎の元気な姿が観れて嬉しかった。そしてクライマックスの謁見の場では、ポチョムキン公爵役の白鸚の存在感が圧巻。このポチョムキンは、原作には出てこない人物だと云う。三谷による、白鸚への完全なアテ書きだ。サリエーリを思わせる風貌で、こう云う役どころをさせれば、当代白鸚の右に出る役者はいない。帰国に拘る幸四郎の光太夫と、それを阻止したい白鸚ポチョムキン公爵の緊迫したやり取りは『勧進帳』を思わせ、見ごたえのある場となっている。エカテリーナ役の猿之助も、芝居巧者なところを見せてくれた。

 

晴れて帰国が許された一行だが、猿之助は足を怪我して長旅には耐えられそうもなく、ロシアに留まる事を決断。一人残す訳には行かないと愛之助ロシア正教に改宗して帰国を断念する。結局日本にたどり着けたのは、幸四郎の光太夫染五郎の磯吉・男女蔵の小市の三人のみ。しかしいよいよ日本の港に着くと云うところで小市が力尽きる。終始まわりから超然としていて、茫洋としたとらえどころのないキャラクターながら、最も環境や周囲に影響されない存在であった小市の死に、光太夫は慟哭する。この場では会場からすすり泣きも聞こえた。

 

最後は死んでいった船乗り達も舞台に勢揃いして幕。歌舞伎座では「禁じ手」のカーテンコールもあり、満場万雷の拍手で大いに盛り上がった夜の部だった。芝居としては流石三谷幸喜、良く書けている。途中何とも奇天烈な竹本も入り、スッポンを使った演出もありと、歌舞伎の機構を三谷が使いたくて仕方がなかったと云う感。竹本を批判している評もあったが、これは三谷の歌舞伎への憧憬だろうと思う。筆者には何とも微笑ましかった。

 

最初に書いた様に、筆者的にはこれは歌舞伎ではない。しかし舞台劇としては非常に楽しめた。多少冗長な部分を整理して、再演を期待したい。涙あり、笑いありの三谷ワールド、堪能させて頂きました。