fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

二月大歌舞伎昼の部 海老蔵の『暫』

前回『一條大蔵譚』で終わってしまったので、その今回はその続き。

 

歌舞伎十八番の内『暫』。筋書きによると海老蔵は6年ぶりとの事。前にも書いたが、去年の海老蔵には当たりがなかった。こちらの期待が大きすぎると云う面もあるかもしれないが、助六も悪くはないが・・・と云う感じで、この優のポテンシャルから云うと不満の方が大きかった。あくまで筆者的にはだが。

 

だが、今回は見せてくれました。歌舞伎座の大舞台を制圧するかの様な大迫力。これぞ海老蔵、これぞ歌舞伎の荒事である。そもそも鎌倉権五郎と云う役自体が、海老蔵に当てて書かれたのではないかと思う程の適役であり、今回はその魅力を存分に発揮してくれた。

 

この『暫』と云う狂言は、ストーリーらしきストーリーはなく、荒唐無稽な内容とも云える訳だが、それ故に役者芸だけで見せる狂言。それこそニンが合わなければどうにもならない。その点海老蔵はぴったりのニンであり、その風姿・声・所作、どれをとっても文句のつけ様がない権五郎。

 

海老蔵には永遠の不良青年の趣があり、加えてその醸し出す色気と力感漲る荒事の魅力は、他の優には中々求め難いものだ。元禄見得の立派さも比類がない。荒々しさの中に絶妙な愛嬌もあり、「松嶋屋の孝兄さ~ん」とくだけて見せるところなども素晴らしい。最早当代でこの役をしおおせる役者は、海老蔵しかいないのではないか。

 

海老蔵復活(別にご当人はそんな風には思っていないだろうが)を確信させる出来だった。

 

続いて期待大だった『井伊大老』。

 

これは大いに不満だった。序幕の「井伊大老邸の奥書院」から、「濠端」・「元の奥書院」をすっとばしていきなり「お静の方居室」。これでは劇にならない。筋書きの吉右衛門曰く、37年前の三代襲名時の初代鸚の台本による上演との事だったが、思うにその時の鸚は病篤く、とても1時間半以上の井伊大老は無理だったが故の苦肉の策ではなかったのか。

 

勿論吉右衛門雀右衛門の「お静の方居室」が悪かろうはずがない。情愛こぼれるばかりの見事な一幕だったが、これでは井伊大老が柔弱な昔を懐かしんで隠遁でもしかねない男になってしまう。勿論その一面があるのは確かだが、北條秀司の書きたかった井伊大老は、決してそんな弱々しいだけの人物ではなかったはずだ。

 

芝居にはカットしては成り立たない場面がある。『井伊大老』では「濠端」がそれに当たる。この場での井伊大老が示す国を背負う者の気概とその苦悩がなければ、この芝居はただのメロドラマになってしまうのだ。

 

その意味で、吉右衛門雀右衛門の一幕の名人芸を観ただけの、残念な芝居となってしまった。去年の高麗屋と大和屋の記憶がいまだ鮮やかなだけに、消化不良のみが残った。

 

夜の部はまた別項で綴る事にします。