fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

再開の目途が立たない歌舞伎公演

團十郎襲名公演が流れた後、八月公演の発表もないまま南座での大和屋の舞踊公演の中止が発表された。映像と併せた公演の様だったが、歌舞伎ロスに苦しめられている身としては駆けつけるつもりでいたので、痛恨の極みだ。

 

今の時点で何の発表もないと云う事は、八月の花形歌舞伎もないだろう。毎年花形全力投球の素晴らしい舞台を見せてくれていた公演だったので、無念である。プロ野球が開幕し、来月からは観客も一部入れた形で試合を行うと云う状況に迄来ながら、芝居の幕は開かない。大相撲もぶつかり稽古を再開していると聞いているので、歌舞伎の稽古が出来ないと云う理屈はないと思うのだが、こればかりは一ファンしては如何ともしがたい。

 

やきもきしている全国の歌舞伎ファンの為にも、松竹は今後の方針を明らかにすべきだと思うのだが、如何なものであろうか。いつ再開とコミット出来ないなら出来ないで、その旨を発表すべきだと思う。確かに芝居小屋は三密空間なので、再開には中々厳しいハードルがある事は理解するのだが・・・

 

唯一の光明は、YouTube高麗屋が「八月も私は芝居がないが、九月は何とか・・・」と云った趣旨の発言をしてくれている事だ。歌舞伎座の九月と云えば「秀山祭」。ここで高麗屋播磨屋の共演が実現するのなら、待たされた身としてはその甲斐があったと云うものだ。九月公演なら七月の頭には何らかの発表があるだろう。肩透かしになる不安は大いにあるが、楽しみに待つとしたい。

 

世界は未曾有の危機にあり、その中でたかが歌舞伎と云う意見もあろうが、こう云う時だからこそ、歌舞伎の持つ芸術としての素晴らしさ、脈々と受け継がれてきた伝統と民族の持つ高い文化の力が、人々の心を明るく豊かにしてくれるものと信ずる。出演人数を絞った形の舞踊など、演目を吟味すればやれるものもあるはずだ。暗くなりがちな日本国民を励ます意味でも、一日も早い歌舞伎公演の再会を、期待したい。

相変わらず自粛が続く歌舞伎公演

五月も後半にさしかかった。首都圏以外の地域は緊急事態宣言が解除された。徐々にではあるが経済活動が再開されて行っているのは、喜ばしい事だ。首都圏の解除も25日に判断すると首相が発表した。しかし昨日の東京都の感染者は再び二桁になった様だし、神奈川は更に多い。この状態で解除が出来るのだろうか。仮に解除しても、第二波の怖れなしとは云えない状況だろう。

 

当然の様に歌舞伎の全公演は七月迄中止。楽しみにしていた大阪松竹も中止となってしまった。高麗屋音羽屋、松嶋屋播磨屋と、高齢の名人が多い歌舞伎界。花形の名演にはこれから幾度も接する事が出来るだろうが、大幹部はそうではない。平均寿命が延びている昨今とは云え、今の様な元気さでこの先10年舞台に立てようとは思えない。その機会が一回一回失われて行っているのは、痛恨事と云えるだろう。

 

五輪も、来年開催出来なければ中止と云う話しも出てきた様だ。我が国は諸外国に比べて実に上手くコロナを抑え込んでいるが、やはり来日客が危険だ。コロナにかこつけて政権批判している人々がいる様だが、欧米諸国に比べ二桁も感染者・死亡者共に少ない我が国は、その律儀な国民性と、政府の指導宜しきを得て踏みとどまっていると云うのが、客観的な数字に表れていると見るべきだと思う。消費税を倍に引き上げるなど、筆者は必ずしも現政権の全てが正しいとは思わないが、ことコロナに関しては未曽有の事態に良く対処出来ていると、客観的に思う。

 

緊急事態宣言が解除されたとして、それが即歌舞伎公演再開に繋がるかと云えは、難しいところだろう。歌舞伎座に限らず芝居小屋と云うのは、「三密」の典型的な空間であろうから。特に観客の平均年齢の高い歌舞伎公演は難しい。松竹の万全な対処を願いたいものだ。

 

歌舞伎公演が観れなくなって、既に三か月。禁断症状も末期的な様相を呈してきている。自宅でDVDを観てはいるが、やはり歌舞伎は生で観たい。録り溜めて観ていなかった録画か観れるのはいい事ではあるのだが。

 

とにかく、劇場に於ける感染予防には万全を尽くして頂き、八月の花形歌舞伎が無事見物出来る事を切に願っている次第。徐々にその傾向が見えつつある「ゆるみ」だけは気を付けなければならないと、自らを戒めている昨今である。

中止が相次ぐ歌舞伎公演

先月に引き続き、四月も歌舞伎公演は中止になり、それどころか恐れていた團十郎襲名も三ケ月まとめて延期の事態となってしまった。こちらは延期なので、コロナが終息すれば、来年にも観れるとは思うのだが、三月・四月の公演は、このまま観れずに終わってしまうのだろうか?

 

中でも一番の被害者(?)は、菊之助だろう。三月の「千本桜」三役、四月の弁天小僧と八ツ橋、五月の揚巻、そして六月博多座の与三郎と、生涯にそう何回もは勤められない大役の数々が全て流れてしまった。役者としての無念さは、察するに余りある。一観客としても、痛恨の極みだ。

 

一体いつまでこの状態が続くのだろうか・・・ノーベル賞の山中教授は、一年は覚悟しなければならないだろうとおっしゃっていた。実に厳しい状況だ。私の素人予測だが、緊急事態宣言は、当分解除されないだろう。この宣言は、解除する方が難しい。解除して、事態が更に悪化したら目も当てられないからだ。その意味で、総理が簡単に宣言したくなかった気持ちは、理解出来る。

 

三月公演がYouTubeで配信されている。携帯の小さな画面で観ても、素晴らしいのは判る。特に高麗屋の「石切梶原」は、見事なものだ。しかし観客がいないのはやはり味気ない。ことに「沼津」は客席を練り歩くのだから、無観客では盛り上がらない事甚だしい。動画を観る度に、つくづく芝居は生で観るものだと実感する。

 

今までこブログも、月6回は更新していたのだが、先月・今月と1回ずつの更新となってしまっている。書く対象がないのだから、致し方ない。とにかく一日も早い歌舞伎公演の復活を願わずにはおれない。

 

今は全国民一丸となってコロナに打ち勝つ努力をし、これ以上の被害が出ない様に出来る事をするのみである。私としては、この自分勝手なブログをわざわざご覧になって頂いている方々のご健勝をお祈りするばかりです。とにかくお互い極力外出を控えるしか手はないのだろう。自宅で暇で暇で死にそうな時は、このブログの過去記事でもお読み頂ければ幸いです。

 

また何かの折に更新したいと思う。皆さまくれぐれもお身体ご自愛下さい。

今月の歌舞伎観劇は・・・

三月は東京でかかっている全7公演のチケットを全ておさえていました。しかし世界中で猛威をふるっているコロナのせいで、全公演が中止となってしまいました。

 

歌舞伎をまるまる一ヶ月観劇しないのは、一体いつ以来でしょうか・・・無念です。

 

明治座中村屋、国立の菊之助による「千本桜」の通し、歌舞伎座昼の部「薄雪」の播磨屋松嶋屋の大顔合わせ、夜の部高麗屋親子の「沼津」、全てが幻と消えました。加えて来月予約していた、高麗屋襲名披露の掉尾を飾るはずだった金比羅歌舞伎も早々に中止が発表になりました。

 

この調子ですと、四月の新橋もダメでしょう。そして五月からは歌舞伎界のみに留まらない国民的慶事團十郎襲名があります。これだけは何としても・・・祈るしか出来ないのが歯がゆいです。

 

経済の落ち込みも酷く、日銀による株式市場への追加緩和が発表されましたが、まだ足りないと云うのが私見です。更なる追加緩和を期待したいです。加えて経済政策も必須です。現金支給が報道されていますが、今の時期に現金を給付しても、箪笥に直行でしょう。補正予算と減税のパッケージが一番だと愚考します。現内閣の英断に期待したいところです。

 

とにかくコロナ予防には最新の注意を払い、歌舞伎のみならず、全てのイベントが滞りなく行われる日の一日も早からん事を願います。五輪は多分延期でしょうが・・・この延期による日本全体への影響も心配ですね。

 

来月もこんな感じでしょうが、とにかく團十郎襲名だけは、これだけはと云う気持ちであります。。。

新橋演舞場 松竹新喜劇公演 『家族はつらいよ』、『駕籠や捕物帳』(写真)

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先月、松竹新喜劇を観て来ました。ポスターです。

 

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お土産を買ってしまいました。

 

渋谷天外が頑固オヤジを演じていい味でした。高田次郎は前田能登守と強盗・赤鞘主水の二役を演じて、若々しいところを見せてくれました。入りも良かったですね。今月はコロナで大変な事になっています。私がチケットを押さえていた歌舞伎座も中止になりました。月の後半から再開される事を、切に願っています。。。

 

二月大歌舞伎 昼の部 松嶋屋の菅丞相

歌舞伎座昼の部を観劇。その感想を綴る。

 

今月の歌舞伎座は、十三世仁左衛門二十七回忌追善興行。中でも生涯三度しか演じていないにも関わらず、「神品」と称された菅丞相を三男の当代松嶋屋が演じる。二十七回忌の興行が行われていると云う事実が、十三世が名優であった事の証左であるが、当代松嶋屋兄弟がその追善興行が打てるだけの役者である事が、十三世にとっては何よりの供養だろう。

 

幕開きは「加茂堤」。勘九郎の桜丸、孝太郎の八重、米吉の斎世親王、千之助の苅屋姫、橘三郎の清行と云う配役。これが実に結構な「加茂堤」だった。何と云っても勘九郎の桜丸が絶品。この役は女形がやる事も多い柔らか味が必要な役。とは云え桜丸はあくまで男。なよなよしてはいけない。その点勘九郎は柔らかいが、所作にしっかり芯がある。加えて前髪若衆の軽さと気品を兼ね備え、まず文句のつけ様のない出来。

 

孝太郎の八重も世話女房の味と色気を醸し出し、勘九郎との芸格も揃って実にいい八重。久々に観る米吉の立役斎世親王と千之助の苅屋姫が揃ったところは錦絵から抜け出た様な美しさ。橘三郎の清行も熟練の味で舞台を盛り上げ、長閑な春を先取りした様ないい狂言だった。

 

続いて「筆法伝授」の場。松嶋屋の菅丞相、秀太郎の園生の前、梅玉の源蔵、時蔵の戸浪、橘太郎の左中弁、橋之助の梅王丸、秀調の水無瀬と云う配役。当然の事ながら、こちらも流石の出来。松嶋屋の素晴らしさは云うまでもないが、秀太郎梅玉時蔵と皆本役。加えて橘太郎の左中弁が、もうこう云う役をやらせたらこの優の右に出る者はいないと云う名品。前回の歌舞伎座に続いて二度目の様だが、静かな場面が続く中で、場を賑やかに盛り上げる実に軽妙な芝居だった。

 

松嶋屋の丞相様の素晴らしさは引き続いての「道明寺」でも述べるが、その気品、その佇まい、その科白回し、これぞ丞相様である。師を裏切った左中弁に討ちかかる梅王丸を押しとどめての「七生までも勘当ぞ」のイキ、その調子の見事な事。素晴らしいと云う言葉も陳腐に聞こえる。加えて橋之助初役の梅王丸が、きびきびした所作と、父芝翫を思わせる科白回しで、確実に成長しているところを見せてくれたのも頼もしかった。

 

打ち出しはクライマックス「道明寺」の場。この役を勤める期間中、精進潔斎して臨んでいると云う松嶋屋の菅丞相、大和屋の覚寿、芝翫の輝国、孝太郎の立田の前、歌六の兵衛、彌十郎の太郎、勘九郎の宅内、千之助の苅屋姫と云う配役。中で健闘が光ったのが、女形はほぼ初めてと云う千之助の苅屋姫。父孝太郎に徹底的に仕込まれたのだろう。赤姫らしい所作も良く、科白回しもしっかりしており、「加茂堤」から引き続いて初役らしからぬ立派な苅屋姫だった。まだまだ蕾とは云え、祖父松嶋屋譲りの美貌は紛れもない。父孝太郎同様、女形が向いているのではないかと思う。ご当人は祖父の知盛に憧れていると云う発言をしてはいたが。

 

歌舞伎で一番大事なのは、出と引っ込みとよく云うが、松嶋屋の丞相様は出が全てだと思う。その姿が現れた時、正にそこに丞相様がいる!と思わせられるのだ。これは演技云々と云うレベルの話しではない。松嶋屋も筋書きで「演技と云うものが通じない役」と語っていたが、本当にその通りだろう。とにかく内面から醸し出される物で、それ故にこその精進潔斎であったろうし、事前に天満宮に参拝し、姿を映させて頂く事をお許し願ったと云うのもまた然りなのだ。十三世の丞相様は「神品」と称えられたと云うが、当代松嶋屋もこれぞ令和の「神品」。これほどの丞相様をこの先再び観る事は叶うだろうか。よく大名跡で後進が遠慮して留め名になる事があるが、それこそこの丞相様は留め役になってしまうのではないだろうか。余人をもって代え難しとはこの事だろうと思う。

 

大和屋の珍しい老け役覚寿もまた素晴らしい。義太夫味はそれほどでもないが、甥丞相様没落の原因となった我が子苅屋姫を折檻する凛とした強さ、しかし内心は我が子を愛しており、丞相様に折檻を止められると涙ながらに感謝する母心をしっとりと表現して、正に当代の覚寿。芝翫の輝国もこの優らしい骨太さと義太夫味があり、初役とは思えない見事な出来。松嶋屋と花道で揃ったところも引けを取らない大きさで、立派な輝国だった。孝太郎・歌六彌十郎と役者が揃って、正に絶後ではないかと思わせる「道明寺」だった。

 

泉下の十三世も、この丞相様には舌を巻いただろう。大満足の昼の部だった。来月は高麗屋親子の「沼津」が出る。白鸚の平作は思いもしなかった配役たが、今から楽しみでならない。昼の部は播磨屋松嶋屋が揃う『新薄雪物語』。こちらも大変な舞台になるだろう。

 

 

 

 

 

 

令和2年2月文楽公演 国立小劇場(写真)

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国立小劇場の文楽公演第3部に行って来ました。ポスターです。

 

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五月公演。これも良さそうです。

 

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三月歌舞伎公演。これはマストですね。ABCともチケット抑えました。

 

太夫の襲名公演だったのですが、二部には行けず三部を観劇。久々の呂太夫、良かったですねぇ。『傾城恋飛脚』を語り終わった途端「大当たり!」の大向こう。確かに素晴らしかったです。『鳴響安宅新関』は歌舞伎とはまた違った味わいで楽しめました。太夫と三味線方が七人ずつ並んだ姿は壮観でしたね。