fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

令和2年初春歌舞伎公演『菊一座令和仇討』音羽屋の長兵衛、菊之助の権八、松緑の権三

お正月恒例の劇団による国立劇場公演。その感想を綴る。

 

大南北の『御国入曽我中村』を音羽屋が監修し、国立劇場文芸研究会が補綴したもの。南北お得意の「綯交ぜ」の世界。時代設定は鎌倉らしいのだが、時代の全く違う長兵衛や権八近松の鑓の権左を著作権無視して引っ張って来て、今回はカットされたらしいが、原作には三勝・半七も登場させていたらしく、正にやりたい放題。そんなてんこ盛りの世界を、劇団が令和初の正月公演に持ってきた。果たしてどうなりましたか。

 

音羽屋が長兵衛・閑心・範頼の三役を兼ね、菊之助権八松緑の権三、時蔵もおせん・風折・政子御前の三役で大奮闘。楽善、 團蔵、萬次郎、権十郎、橘太郎、彦三郎、亀蔵と劇団総出演の配役。「忠臣蔵」の大序「兜改めの場」を模した様な序幕「鎌倉金沢瀬戸明神の場」から始まり、鎌倉の執権大江広元家の跡目に必要な「陰陽の判」をめぐる物語に天下を狙う範頼の話しが加わる。どうやっても感動的な話しにはならないが、歌舞伎らしい大らかな狂言になった。

 

最近は毎年その傾向だが、音羽屋は主役と云っても一歩引いていて、菊之助松緑に大活躍させる。今回は権八と権三で、両花道を使った趣向。この両優は劇団なので共演は多いのだが、近年二人がしっかり絡む場があまりなかった印象。それぞれに見せ場を持たせて、登場する場は一緒にしない傾向にあったが、今回は松緑が本花道、菊之助が仮花道を使って華やかに登場。見事な立ち回りも披露する。やはり華のある両優。形も決まっていて、観ていて実に気持ちがいい。この二人が一旦は仇同士として斬り合うも、長兵衛に諭されて以降は、お家(大江家)の為に協力して「陰陽の判」を探索する事になる。

 

菊之助は、「陰陽の判」を手に入れる為女に身をやつして廓に売られる。形としては女形芸でそれはそれは美しいのだが、芝居としてはあくまで男と云う南北らしい倒錯した世界。同行した友人は「男が廓に?」と訝っていたが、それを云っては南北の世界は始まらない。ひたすら美しい菊之助女形芸が観れればそれで良いのだ。特に肚を求められる芝居ではないのだから。

 

松緑は立ち回りも多く、踊りで鍛えたその身のこなしは実に素晴らしい。菊之助との同性愛的な臭いも漂うのだが、お相手は権八妹梅枝のおさい。菊之助の相方は権三妹右近の八重梅。そう、この二人は義兄弟になった設定なのだ。この2カップルの恋模様の味は薄口で、その意味では物足りなかったが、原作ではどうなっているのだろう。筆者は原作にあたった事がないのではっきりとした事は云えないが、補綴の段階でかなり脚本に手を入れたのではないだろうか。字余りの所謂南北調の科白があまりなく、設定や趣向は南北らしいのだが、科白にはそのらしいさがあまり感じられなかった。

 

最後は範頼と権八・権三が戦場での再会を約し、音羽屋が舞台中央に決まって幕。「我ら一座はワンチーム」の科白で大団円となった。音羽屋は長兵衛の貫禄、範頼の国崩しの悪役ぶり、いずれも堂に入った芸で見事。例によって楽善、 團蔵の科白が怪しいのはご愛敬と云った所。正味二時間半、歌舞伎らしさ満載のいい狂言だった。

 

先月は大阪松竹にも行って昼の部を観劇。その感想はまた別項にて綴りたい。

令和2年初春歌舞伎公演『菊一座令和仇討』(写真)

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国立劇場に行って来ました。

 

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ポスターです。

 

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開演前の定式幕に、令和の元となった万葉集の序文が掲げてありました。

 

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役者絵羽子板です。

 

菊五郎劇団によるお正月恒例の国立劇場公演。南北作の『御国入曽我中村』を改訂したものだそうです。肩の凝らない芝居で、楽しめました。感想はまた別項にて。

 

壽 初春大歌舞伎 夜の部 白鸚の「五斗三番叟」、猿之助・團子の『連獅子』、中村屋兄弟の『鰯賣戀曳網』

続いて観劇した歌舞伎座夜の部の感想を綴りたい。

 

幕開きは『義経腰越状』。白鸚の五斗兵衛、芝翫義経猿之助の六郎、男女蔵の次郎、錦吾の太郎、歌六の泉三郎と云う配役。筆者は初めて観る狂言義経の話しにしてはあるが、実際は豊臣秀頼を諷しているらしい。五斗兵衛が後藤又兵衛、泉三郎が真田幸村と云う事の様だ。

 

話しとしてはとりたてての事はない。遊興に耽る義経を諫める為、泉三郎が優秀な軍師だと云って五斗兵衛を連れて来る。頼朝に通じている太郎・次郎は義経をこのまま堕落させたいので、五斗兵衛を会わせたくない。そこで兵衛が酒好きと聞き、酔っぱらせようとして酒を飲ませ、酔った兵衛が三番叟を踊ると云うもの。歌舞伎役者の踊りや酔態を見せる芝居だ。

 

筋書きで白鸚が「今年は初役を勉強しようと思います」と語っていた通り、これは初役。八十近くにもなって尚初役に挑むその心持が凄い。そしてこれがまた見事であった。最初は酒をすすめられても妻と約束したと云って断るのだが、太郎・次郎が目の前で上手そうに酒を呑む姿に堪えきれず、酒を注がれるままに呑む。そしてどんどん量が増え、酔っぱらっていくのだが、この酔っていく姿が実に見事なのだ。杯か進むにつれ、満員の客席に熟柿の香が漂い始める。こちらまで酔ってしまいそうな位だ。「魚屋宗五郎」でもそうだったが、この酔態が実に素晴らしい芸。

 

そして酔ったまま三番叟を踊る。この踊りがまた素晴らしい。高齢の白鸚だが、角々のきまりのきっちりした、楷書の舞踊。ところどころに酔いの姿を少し見せながら、舞踊としてしっかり見せる。この名人芸を観ながら思い出した事がある。昭和の大名人と称えられた落語家・六代目圓生師が「包丁」と云う噺を高座にかけた後、女性客が楽屋に来た時の話しだ。

 

「包丁」と云う噺は、酔って小唄を唄いながら、女を口説く場面がある。その女性客が、「実に見事な出来でしたが、あの小唄を唄う場面は酔っていませんでしたね」と云って帰ったと云う。傍らに弟子の先代圓楽がおり、圓生は「お前今の話しを聞いていたか」と聞いた。圓楽が「はい」と答えると、「あの人のおっしゃる事は正しい。しかしこれは芸の上の嘘なのだ。へべれけの小唄などは客に聴かせられる物じゃない。しかしそれを感じさせてしまうのは、まだ私の芸が拙いからだ」と云ったと云う。今回の白鸚の三番叟は、酔いを見せながら踊りとしてはきっちり見せる。正に六代目圓生が目指した芸の様ではないか。正に名人芸の「五斗三番叟」だった。

 

続いて『連獅子』。猿之助の親獅子、團子の仔獅子だ。去年高麗屋親子で観たばかりだが、今回は澤瀉屋バージョン。二畳台を三枚使って石橋に見立てた舞台設定になっており、振りの手数も多い。我が子を千尋の谷に突き落とすくだりも、高麗屋は舞台下手の方に転がすのだが、澤瀉屋は上手に転がすなど、違いも多い。家によって同じ狂言でも作法があり、その相違を観るのも歌舞伎観劇の大きな楽しみだ。

 

猿之助が親獅子を歌舞伎座で踊るのは意外にも初めてだと云う。團子の仔獅子は勿論初役。この澤瀉屋の叔父甥の『連獅子』もまた見事なものだった。何より二人共勢いがあり、華やかだ。イキの合い方は高麗屋親子に一日の長があった様に思うが、とにかく振りの手数が多い澤瀉屋バージョンは豪快だ。客席も大いに沸いていて、歌舞伎座の大舞台狭しと動き回る狂い舞いは圧巻だった。多分中車が踊る事は難しいと思われるので、今後もこの二人で澤瀉屋の『連獅子』をどんどん磨き上げて行って欲しいものだ。

 

打ち出しは『鰯賣戀曳網』。勘九郎の猿源氏、七之助の蛍火、男女蔵の六郎左衛門、種之助の次郎太、禿を筆者が観た日は勘太郎東蔵のなあみだぶつ、傾城に笑也と笑三郎と云う配役。これも実に結構な狂言だった。

 

『鰯賣戀曳網』は個人的に大好きな狂言で、肩の凝らない筋立てながら構成がしっかりしており、きっちり竹本も入っている。基本的に深刻な天才三島由紀夫が、「百万円煎餅」や「橋づくし」などで稀に見せる軽い剽げた味が反映されているいい作品だ。笑わない人がたまに見せる笑顔の様な感じか。

 

勘三郎の数多い芝居の中でも、この猿源氏が筆者は一番好きだった。それを息子の勘九郎が演じる。実に感慨深い。歌舞伎と云う枠を軽々と飛び越えてしまう勘三郎に対して、勘九郎は実に実直に演じているのがいい。必要以上に笑わせようとせず、父の呪縛から解き放たれたかの様だ。女形である七之助に比べ、同じ立役である勘九郎は、何につけ父を意識してしまう事が多いと思う。観客もまた勘九郎の姿に、亡き勘三郎を重ねてしまうところがあるだろう。これは偉大な父を持った役者の宿命みたいなものだ。

 

今回の勘九郎は、大げさに演じて笑いを取る様な事をしない。作が面白いので場内は笑いに包まれはするが、勘三郎の時の様な爆笑にはならない。これは役者の腕が悪いからではなく、勘九郎がこの狂言と向き合い、笑わせる事が目的ではないと感じ取ったからだ。だから父と違った独自の猿源氏を創出する事に成功出来たのだ。父に比べ(勘九郎不本意だろうが、どうしても比較してしまう)、蛍火への慕情が実に真摯で、ほのぼのとした味わいとなって客席に伝わる。そう、猿源氏は笑いに逃げているのではなく、真剣に行動している事が、傍からは可笑しく思えてしまうだけで、蛍火への想いは初恋の様に素朴で純粋なものなのだ。それがひしひしと感じられる。実にいい猿源氏だった。

 

七之助の蛍火もいい。「五条東洞院の場」で襖を開けて出たところ、その美しさに客席からジワが来た。貝合わせの場では、その口跡・仕草に玉三郎の匂いが濃厚に漂い、七之助らしさが感じられなかったが、猿源氏が宇都宮弾正と偽って入って来た後の二度目の出以降は、実に可愛らしい七之助なりの蛍火になっており、上々の出来。あくまで自分は宇都宮弾正だと言い張る猿源氏に、「では鰯売りではなかったか」と云って泣き伏す姿などは、美しく且つ哀れさが滲み、実に素晴らしい蛍火だった。

 

脇では、東蔵のなあみだぶつがニンでもあり、抜群の出来。初役だと云うが、名人東蔵には関係なかった様だ。親父に突き飛ばされる勘太郎も禿を可愛らしく神妙に勤めていて、感心させられる。男女蔵の六郎左衛門も軽くサラリと演じていて、今月三役を勤めた中で一番の出来だったと思う。

 

時代物狂言こそなかったが、お正月らしい目出度い狂言立てで、昼に負けず劣らず楽しめた夜の部だった。

 

来月は松嶋屋の神品菅丞相が出る。加えて音羽屋の「文七元結」もある。今から実に楽しみだ。今年もいい芝居が沢山観れそうだと思わせてくれる、素晴らしい歌舞伎座の正月興行だった。

壽 初春大歌舞伎 昼の部 芝翫・雀右衛門の『奥州安達原』、播磨屋の『素襖落』

「河内山」以外の昼の部の感想を綴りたい。

 

幕開きは『醍醐の花見』。梅玉の秀吉、福助淀君勘九郎の三成、芝翫智仁親王七之助智仁親王北の方、魁春の北の政所と云う配役。三年前にも観たが、その時とは全くの別物と云っていい位演出・振り付けが違っている。前回は智仁親王と北の方は出ておらず、その代わりに確か松の丸殿の役があった様に記憶している。

 

別にこれと云った筋がある狂言ではなく、ひたすら役者の風情を見せるもの。梅玉の秀吉は流石に悠揚迫らざる大きさがあり、魁春の北の政所に気品と風格がある。そして七之助智仁親王北の方は今が盛りの美しさ。何より福助淀君が嬉しい。右半身はどうにもならない様だが、とにかく無理せずまたその舞台姿を見せて欲しい。

 

続いて『奥州安達原』から「袖萩祭文」。芝翫の貞任、勘九郎の宗任、七之助の義家、笑三郎の浜夕、東蔵の直方、雀右衛門の袖萩と云う配役。こちらも三年程前に播磨屋の貞任で観ている。その時と袖萩は同じ雀右衛門だが、他は全て違う配役だった。播磨屋義太夫味と大きさを兼ね備えた見事な貞任だったが、今回の芝翫も負けていない。

 

初役らしいが、桂中納言からぶっ返って貞任になった時の柄を生かした大きさ、立派さは、歌舞伎座の大舞台に大いに映える。そして義太夫味もしっかりあり、時代物役者としての芝翫の豊かな天分は疑い様がないものだ。科白回し特に甲の声に独特の癖がある優で、それが役によっては障りになる事もあるが、丸本では見事な効果を発揮する。何故か去年の歌舞伎座での芝翫は舞踊ばかり踊っていた印象があるが、今年は違うぞとばかり、素晴らしい丸本を見せてくれた。

 

雀右衛門の袖萩も見事。こう云う哀れな役柄は、ニンに合う。福助の様にエモーショナルにならず、非常に古格な袖萩。二度目との事だが、三味線を弾きながら両親に不孝を詫びる祭文は哀切を極め、心に沁みる。そして笑三郎の浜夕が初役とは思えぬ見事な出来。夫直方を気にしながらの「何故歌わぬぞ」の芝居が上手い。どこか先代吉之丞を想起させる風情があり、義太夫味もある素晴らしい浜夕だった。

 

東蔵の直方は本来女形であるこの優のニンではないが、芸で見せる。勘九郎の宗任は義太夫味は薄いが、手強い出来。七之助の義家は女形故の線の細さが目立ったが、全体としてはしっとりとしたいい「袖萩祭文」だった。

 

「河内山」の前に、『素襖落』。播磨屋の太郎冠者、又五郎の大名某、種之助の鈍太郎、鷹之資の次郎冠者、吉之丞の三郎吾、雀右衛門の姫御寮と云う配役。この狂言歌舞伎座でかかるのは、これで三年連続だ。松緑海老蔵で観ているが、やはり播磨屋は一頭地抜いている。

 

きっちりした舞踊の上手さでは松緑が一番で、播磨屋は決して舞踊の名手ではない。しかし何とも云えないふくよかな風情で見せる太郎冠者。こう云う味は、播磨屋くらいの熟練の役者にして初めて出せるものだろう。そして那須与一の扇の的の仕方噺で見せるその語りの上手さは、他の追随を許さない。前の狂言が重い丸本だったので、いかにも正月らしいいい出し物だった。ただ播磨屋がこの一役だけと云うのは、贅沢な注文かもしれないが、喰い足りない思いが残る。播磨屋のじっくりとした芝居も観かったが、それは来月以降のお楽しみと云ったところか。

 

これに加えて打ち出しに絶品の「河内山」があり、大満足の昼の部だった。勘九郎が久々に歌舞伎座に帰還した『鰯賣戀曳網』が出た夜の部は、また別項にて綴る。

 

 

 

壽 初春大歌舞伎 昼の部 白鸚の「河内山」

歌舞伎座の昼の部を観劇。鮮烈だった白鸚の「河内山」の感想を綴る。

 

この演目は、高麗屋三代襲名披露公演の大阪松竹で観劇している。その時も実に見事だったが、その時は何せ大阪なので旅費の負担も大きく、三階席で観た。今回はお正月でもあり、奮発して一等席。そのせいもあるだろう、一層素晴らしく思えた「河内山」だった。

 

白鸚の河内山、芝翫の出雲守、歌六の小左衛門、高麗蔵の数馬、笑也の浪路、錦吾の大善と云う配役。大阪の時と河内山・数馬・大善は同じだが、他の役は役者が替わってる。長い事芝居を観ていると、同じ役を違う役者が演じる機会を多く観れるのも、役者を観る芝居たる歌舞伎観劇の楽しみだ。

 

この河内山宗俊と云う役は、白鸚の数多い当たり役の中でも、由良之助や弁慶と並ぶ十八番中の十八番だろう。まぁこの優の場合、何十年ぶりで演じても十八番の様にしてしまう力量は、去年の大蔵卿や盛綱でも実証済みではあるのだが。痛快な芝居で、観ていて実に楽しいし、気持ちがいい。流石黙阿弥作だけの事はある。筋書きの中で白鸚が「歌舞伎はどのような役でも品格がないといけない」と語っているが正にその通りで、その花道の出からして品格があり、いかにも上野寛永寺の使僧らしい風格(偽なのだけれど)があるのだ。この品格と風格があるからこそ、皆騙されてただのお数寄屋坊主を丁重にもてなしてしまう事になる。

 

舞台に廻って出雲守が迎えに出ないと知るや小左衛門達を全く相手にせず、席を蹴立てて帰ろうとする。この辺りの芝居も特に凄みを効かせる訳でもなく、播磨屋の様に愛嬌を売る事もせず、サラリと演じる。これを捉えて現代劇のごとくサラサラしていると云う評も見たが、そんな狙いで名人白鸚が演じる訳もなかろう。ここを派手にせず、サラリとした芝居にしているのは、クライマックスである「松江邸玄関先の場」への伏線なのだ。

 

「松江邸書院の場」における白鸚の行き方は、播磨屋とは対極にあると云っていい。この場での播磨屋は、初代譲りの愛嬌を売る派手な芝居である。勿論それは見事なものだ。しかし白鸚にとってこの場は、ひたすら「玄関先」における芝居の転調を、鮮やかに際立たせる為の場なのだ。ではこの場が坦々としたつまらない場なのかと云うと、さに非ず。観劇初心者には厳しいかもしれないが、仮病を云いたてていた出雲守が出座してきた時の「誠に意外の御血色」や、浪路を実家に帰せと迫った時の「ご返答はいかがでござるかな」などの科白の内にこもる凄みは、聞いていて思わずゾクっとさせられる。ちゃんと観ていれば、如何に白鸚が全体を考えて芝居をしているかが判るのだ。

 

だからこの河内山は、ご馳走ではなく「山吹のお茶を所望」と金をねだる場や、運ばれて来た金を覗こうとして袱紗を取ろうとした瞬間に時計の音に驚いて手を引っ込める所なども、必要以上に愛嬌を売ろうとはしない。芝居の造形が首尾一貫しているのだ。

 

そして愈々クライマックス「松江邸玄関先の場」で、大善に「左のたか頬に一つの黒子」と正体を見顕されての「大善は俺を見知っていたか」からの居直りが実に鮮烈で、それまでが抑えていた芝居だっただけに、パァと花が咲いた様になる。そして「悪に強きは善にもと」以下の啖呵は、もはや独壇場。「河内山は御直参だぜ」、「このままじゃあ帰られねぇよ」などの科白回しの見事なトーンには、只々聞き惚れるばかり。悪の華歌舞伎座の大舞台一面に咲き誇る。これだけ素晴らしい黙阿弥調を聴かされると、例えは妙だがオーケストラを聴いた後の様な充足感がある。あぁこの為の「白書院」だったのだと、改めて実感させられる場面だった。

 

花道で舞台を振り返りダメを押すかの様に「ばぁかめぇ」と言い残し、悠々と花道を引き揚げる河内山。今年も正月から白鸚が素晴らしい芝居を見せてくれた。しかし白鸚播磨屋の兄弟は仲がいいのか悪いのかは判らないが、ライバル意識と云うか、対抗心は凄いのではないかと思う。ここ数年の出し物を見ても、「熊谷」、「寺子屋」、そしてこの「河内山」と、向こうがやればこっちもまたすぐやると云った感じで、今年の三月にも去年播磨屋が演じた「石切梶原」を白鸚が出すと云う。まぁ観劇する側としては、いずれ菖蒲か杜若の名人芸が観れるので、有難い限りなのですが(笑)。

 

脇では初役の芝翫の出雲守、歌六の小左衛門がいずれも格のある名品。浪路に笑也を贅沢に使い、高麗蔵の数馬、錦吾の大善は、もう完全に手の内のもの。役者が揃って正に当代の「河内山」とも云うべき圧巻の舞台だった。

 

「河内山」だけで長くなった。他の演目については、また別項にて綴りたい。

壽 初春大歌舞伎(写真)

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歌舞伎座に行って来ました。ポスターです。

 

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昼の部の絵看板です。

 

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同じく夜の部。

 

非常に充実した狂言立てでした。やはり歌舞伎座は、役者にとっての本場所。気合が違いますね。特に1年2ケ月ぶりの歌舞伎座出演となった勘九郎は、そうだったでしょう。感想はまた別項にて綴ります。