fabufujiのブログ~独断と偏見の歌舞伎劇評~

自分で観た歌舞伎の感想を綴っています

国立劇場十月公演 『通し狂言 天竺徳兵衛韓噺』(写真)

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国立劇場、行って来ました。ポスターです。

 

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こんな展示も。

 

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出し物にちなんで、ケロロ軍曹のグッズです。

 

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もちろんこちらもチケットおさえました。

 

最近の国立劇場の公演としては、入りも良かったですね。感想はまた別項にて。

 

帝国劇場『ラ・マンチャの男』 白鸚のキホーテ(写真)

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ラ・マンチャの男』に行って来ました。ポスターです。

 

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舞台のミニチュアです。

 

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ブロードウェイで演じた際のポスター。主演SOMEGORO ICHIKAWA。

 

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日本初演時のポスターです。

 

補助席まで出る超満員でした。西洋演劇は専門外(?)なので、細かい論評は避けますが、最高の舞台でした。歌舞伎・ストレートプレイ・ミュージカルを、それぞれこのクオリティで演じられる役者が、古今東西あったでしょうか。練り上げられたアンサンブルで、芝居の内容も実に濃い。周囲からは気狂い扱いされるキホーテの無垢な魂を、あばずれ女のアルドンザだけが信じている。ドストエフスキーの「白痴」を想起させる素晴らしい芝居でした。一代の名優・松本白鸚。この奇跡の様な役者を同時代で観れる。今の仕合せが長く続く事を、願ってやみません。

芸術祭十月大歌舞伎 夜の部 松緑・愛之助・梅枝の『三人吉三巴白浪』、大和屋の『二人静』

芸術祭十月大歌舞伎夜の部を観劇。その感想を綴る。

 

幕開きは花形が揃った『三人吉三巴白浪』の通し。筆者は奇数日に観劇。梅枝のお嬢、松緑の和尚、愛之助のお坊、右近のおとせ、巳之助の十三郎、歌六の伝吉と云う配役。梅枝は初役、愛之助は十年ぶりとの事で如何かと思ったが、これが良かった。

 

現代の役者が黙阿弥を演じる時に何と云っても大きな壁は、例の黙阿弥調だ。その意味で、序幕「大川端庚申塚の場」の筆者にとっての最高の舞台は、歌舞伎座杮落し公演の、当時幸四郎の和尚、松嶋屋のお坊、音羽屋のお嬢だ。この名人三人の黙阿弥調はただただ聞き惚れるしかなかった。その意味では、今回のこの場は(まぁ比較しては気の毒ではあるが)喰い足りない。

 

梅枝のお嬢、愛之助のお坊共に、科白をしっかり云う事に意識が行き、黙阿弥調らしいテンポが犠牲になっている。その点この役を何度も勤めている松緑の和尚に、一日の長がある。ただ梅枝は初役、しかもまだ興行の幕が開いたばかりのタイミングだったので、致し方ない部分もあるだろう。この後こなれてくれば、また印象は変わるかもしれない。それでも去年観た七之助獅童、巳之助のバージョンよりは良かった。今後の精進に期待したいところだ。

 

序幕・二幕目で何と云っても素晴らしい黙阿弥調を聴かせてくれたのは、歌六の伝吉。二幕目「割下水伝吉内の場」での「親の因果が子に報い」に始まる長科白は、メリハリも抑揚もあり、絶妙なテンポでこれぞ黙阿弥調と唸らされた。練り上げられた見事な芸。流石芸歴六十年は伊達じゃない。

 

「大川端」では今一つ喰い足りなかった花形三人だが、その後は素晴らしかった。特に良かったのは松緑。三幕目「巣鴨吉祥院本堂の場」でのおとせと十三郎の述懐を聞き、義兄弟のお嬢、お坊の為にもこの二人を殺さなければならないと覚悟を決めるところ。二人の述懐を肚で受けている。この場での松緑の哀感こもごもとも云うべき表情は、この優が真実の心を持った役者である事を雄弁に物語る。続く「裏手墓地の場」の「悪い兄貴を持ったばかりに」の長科白も素晴らしい。

 

梅枝と愛之助が見せる同性愛的な感情表現も艶っぽく、次第に追い詰められて行く切迫感の中、芝居に哀切な表情を加えており、実に見事。大詰「本郷火の見櫓の場」の割り科白も素晴らしく、延寿太夫の清元に乗って、花形同士ならではの美しい場になっている。ここでは二人共黙阿弥調をしっかりこなせており、初役・十年ぶりとは思えぬ出来。最後は捕手に囲まれる中、三人決まって幕。歌舞伎座では十年ぶりと云う「三人吉三」の通し狂言。たっぷり堪能させて貰った。

 

打ち出しは『二人静』。能取物の新作舞踊。大和屋は近年、新作に意欲的だ。(師走公演では何と白雪姫!に挑むらしい)。新作には出来不出来もあるが、今回は成功作。何と云っても大和屋が素晴らしい。静御前の霊である大和屋が、児太郎の若菜摘に憑依し、二人舞になる。児太郎の背後で舞う大和屋姿が、本当に薄い影の様に見えるのだ。実際は一人の生身の人間であるはずなのだが、紗がかかったかの様な幽かなその舞姿!当代この幽玄な佇まいを表現出来るのは、大和屋以外にはいない。本当に凄い芸を見せて貰った。ただ彦三郎の神職は、元気が良すぎてこの狂言の雰囲気には合っていなかったが。大和屋はよく自分の舞台に彦三郎を起用しているので、多分お気に入りなのだろうけれど。

 

花形三人の力一杯の舞台と、大和屋の至芸を堪能出来た昼の部だった。松也バージョンも観たいのだが、多分時間がないかな・・・。

 

 

芸術祭十月大歌舞伎(写真)

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十月大歌舞伎を観劇。ポスターです。

 

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昼の部の絵看板です。

 

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同じく夜の部。

 

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三枚綴りのポスター。鯔背ですな~音羽屋。

 

入りは今一つな感じでしたが。感想はまた別項にて。

 

秀山祭九月大歌舞伎昼の部 幸四郎の『極付幡随長兵衛』

秀山祭九月大歌舞伎昼の部のその他の演目について綴る。

 

昼の部幕開きは『極付幡随長兵衛』。幸四郎が初役で長兵衛に挑んだ。松緑の水野、亀蔵の登之助、錦之助の唐犬、雀右衛門のお時、歌昇の出尻、種之助の公平と云う配役。ベテランと花形を組み合わせたいい座組だ。

 

幸四郎の長兵衛は熊谷もそうだったが、無理に大きく見せようとはしない等身大の長兵衛。史実では長兵衛の没年は38歳とも36歳とも云われているので、その年齢に見合った人物造形になっている。丸本の熊谷の場合はやや線の細さが目についたが、明治期に作られたこの芝居では、その点過不足のない仕上がりだ。

 

弁天小僧では黙阿弥調が謡いきれていなかった幸四郎だったが、「幡随長兵衛と云う、ケチな野郎でごぜぇやす」や「人は一代、名は末代」の科白回しが無駄な力みのない黙阿弥調になっており、実に気持ちが良い。

 

第二幕「長兵衛内の場」でも、侠客の意気地と家族の情の間に挟まる心情を、人間臭く造形している。倅長松を戸口から家に送り込んでの「達者で、いろよ」の涙混じりの科白もいい。お父っつあんや叔父さんの長兵衛は、スーパーマンの様な大きさと描線の太さがあるが、今はこの長兵衛でいいのだと思う。貫禄は今後についてくるだろう。

 

大詰め「湯殿の場」では、若く身体が動く分、柔の手を使った立ち回りが実に見事。立ち回りの中で自ら一回転して見せるのは、逆におと父っつあんや叔父さんには出来ない芸。若々しいいい長兵衛だった。回を重ねれば、当代の長兵衛になるだろう。

 

脇では松緑の水野、亀蔵の登之助もクールでいい。松緑は科白回しの独特の癖もあまり目立たず、大身の槍を構えた形も、踊りの上手い優だけに実にきっぱりとしている。雀右衛門のお時は以前より鉄火な味が出ており、夫を思う情愛の深さも充分。新しく誂えた着物の帯を長兵衛に渡すその手つきに、哀しみと情が滲む素晴らしいお時。加えて配役を見た時はどうかと思った種之助の公平も手強い出来で、意外と云っては失礼だが、収穫だった。

 

この長兵衛と「沼津」に挟まる『お祭り』。大作2狂言の間で箸休め的ニュアンスだが、これもいい。梅玉の鳶頭、魁春と梅枝二人のみの芸者と云うコンパクトな座組。その分それぞれの見せ場があり、15分程度の短い舞踊だが華やかで実に良かった。梅玉はすっきりとしいて、鯔背な江戸の華らしい鳶頭。大向こうの「待ってました!」に「待っていたとはありがてぇ」のお約束も楽しい。魁春の芸者は風情で見せ、梅枝は若さを生かした美しさと技巧で見せる。来月のお嬢吉三も今から楽しみだ。

 

毎年大作をたっぷり見せてくれる秀山祭。今年は花形の奮闘もあり、例年以上に充実していた。播磨屋の休演が気がかりだったが、無事に復帰して楽日迄勤め上げた様子で、安心した。どうか健康には留意して、来年以降も素晴らしい舞台を期待したい。

秀山祭九月大歌舞伎 播磨屋・歌六の「沼津」

秀山祭九月大歌舞伎昼の部を観劇。その感想を綴る。

 

筆者にとっての播磨屋は何と云っても三年前に演じた「吉野川」の大判事だった。あの大きさ、たっぷりとした義太夫味、描線の太さ、情味の深さ、正に天下一品だった。それ以降、あの手応えを求め続けて播磨屋の芝居を観ていた様な気がする。そしてその思いはここ三年、叶えられては来なかった。熊谷にしろ、五右衛門にしろ、悪かった訳では無論ない。大判事が凄すぎたのだ。しかし今回、その大判事に匹敵する舞台を観る事が出来た。この十兵衛である。

 

『伊賀越道中双六』の「沼津」。播磨屋の十兵衛、歌六の平作、又五郎の安兵衛、雀右衛門のお米、錦之助の孫八と云う配役。まぁ拙い芝居になる訳のない座組だが、正に最高の舞台になった。花道の出からして、何とも云えない世話の雰囲気がたまらない。「そんなら安兵衛、こいこい」の和かさ、軽さ。舞台に廻っての平作とのやり取りも絶妙のコンビネーション。そしてこの歌六の平作がまたとんでもない出来。いかにも田舎の親爺然としており、年長の播磨屋の親の役なのだが、何の違和感もない。「降るまでは、請け合いますわい」の義太夫味、天下無敵の平作だ。

 

客席を練り歩きながら、お互いを褒め合う軽妙なやり取りで満場は大盛り上がり。「お荷物は旦那がお持ちになり、御駄賃は私」の滑稽味も素晴らしい。正にご機嫌な舞台だ。続く「平作住居の場」では三世歌六の追善口上があった。相変わらず播磨屋の口上はあぶなっかしいが、口上が終って芝居に戻った時の「ご挨拶でくたびれた」が面白い。

 

お米に惚れて嫁にくれと云う辺りまでの明るい芝居は、後の結末と見事な対照をなし、平作一家の悲劇を一層際立たせる。十兵衛は平作の家に泊まる事となる。それ迄の軽い世話の雰囲気から一転して、印籠を盗もうとしたお米を取り押さえての「人間万事芭蕉葉の、露より脆い人の命」の義太夫味、ここらの呼吸が歌舞伎劇の味と云うものだ。平作の話しから、自分が生き別れになった平作の倅だと気づき、金と印籠を置いてあばら家を立ち去る。そして花道での「降らねば、よいがなぁ」。播磨屋は「初代吉右衛門はこの科白でその後の悲劇をお客さんに予感させた、という劇評が残っている」と語っていたが、筆者は予感どころかここの深々とした情味に思わず涙した。

 

大詰めの「千本松原の場」での、名乗るに名乗りがたい間柄ながら、滲み出る親子の情愛。播磨屋歌六と云う当代の名人同士の彫の深い芝居は、葵太夫の素晴らしい竹本と胡弓に乗って、これぞ歌舞伎と云う醍醐味を味わわせてくれる。平作が自らの腹に刀を突きたてた時に、雨が降ってくる。平作に笠をさしかけて、草陰にいるお米と孫八に聞かせをする涙交じりの「股五郎が落ち着く先は、九州相良」の絶唱に至っては、満場の涙腺は正に崩壊と云った体。素晴らしい芝居だった。

 

雀右衛門のお米も、情味と義太夫味を併せ持った素晴らしいお米。冒頭の「沼津棒鼻の場」では歌昇の息子綜真君のご披露もあり、正に播磨屋一門総出演で先祖三世歌六百回忌の見事な追善狂言となった。泉下で三世歌六もさぞ喜んでいるに違いない。

 

長くなったので、他の演目の感想はまた別項にて綴る事にする。

秀山祭九月大歌舞伎 播磨屋・幸四郎の「寺子屋」、幸四郎の弁慶、歌六の『松浦の太鼓』

秀山祭九月大歌舞伎夜の部、幸四郎の弁慶がある偶数日を観劇。その感想を綴る。

 

播磨屋が倒れる前に観劇した。体調悪そうには見えなかったが・・・気力を振り絞っていたのだろうか。心配だ。大事ない事を祈りたい。

 

幕開きは「寺子屋」。播磨屋の松王、幸四郎の源蔵、又五郎の玄蕃、福助の園生の前、菊之助の千代、児太郎の戸浪、鷹之資の涎くり、丑之助の菅秀才と云う配役。ベテランと花形を組み合わせた、非常にいい座組だ。

 

播磨屋の松王はもう手の内のもの。古怪な大きさ、義太夫味では何と云っても白鸚だが、今回の播磨屋はよりリアルだ。源蔵と千代が例えば松嶋屋と大和屋だったら、もう少し違う肌合いになったかもしれないが、甥っ子と義息相手ではこのリアルな行き方がいいと思ったのかもしれない。芝居はキャッチボール。相手あっての事だから、自分独りよがりでは面白くはならない。今回の播磨屋は、花形に囲まれて存在感を示しつつ、芝居のバランスを崩さない絶妙な匙加減。正に名人芸だ。

 

何と云っても印象的だったのは、一子小太郎の最期の様子を聞いた時の「笑いましたか!」から「桜丸が不憫でござる」に至る述懐、所謂大落としだ。この場での播磨屋のリアルな芝居は、現代人の胸に直接響いてくる。もどりになる前の前半部分、首実検に至る迄の松王が非常に手強い出来なので、この大落としが俄然生きる。播磨屋の芝居の上手さはやはり抜群だ。

 

対する幸四郎の源蔵も上々の出来。花道の出は、大きな物を背負っている重々しさを感じさせる松嶋屋に比べ、心ここにあらずの風情で、茫然として歩いている。家に近づき、七三でふっと気を変える。ここが上手い。我に返った源蔵をしっかりと表現している。「いずれを見ても山家育ち」や「せまじきものは宮仕え」の科白も、義太夫味が出てきており、ニンにも合った素晴らしい源蔵。「何たる馬鹿言!」も気合が横溢し、何かあったら松王を斬り倒すと云う気組みが、客席にも十分伝わる。何より叔父さんを向こうに回して見劣りがしないのは芸が大きくなった証拠だろう。

 

同じく菊之助の千代も、播磨屋の奥方として恥ずかしからぬ見事な千代。芸風としてクールな印象の菊之助だが、今回は子を失った悲しみに耐えながら手拭を噛む姿に母親の情が溢れ、思わず貰い泣きをした。播磨屋の薫陶を受けた花形二人、素晴らしい出来だったと思う。

 

脇では又五郎の玄蕃が非常に手強い出来。児太郎の戸浪は科白回しが若干走る傾向にはあるが、この座組で仕おおせたのは大手柄。抜擢に良く応えていた。福助はやはり右半身が不自由そうで、二重舞台に上がれないのだろう、駕籠を裏に入れて舞台奥からの登場。流石の位取りを見せてくれたが、動かない身体が観ていて痛々しい。本人ももどかしいだろう。あまり無理はして欲しくないところだ。総じて今日の「寺子屋」とも云うべき素晴らしい舞台で、大満足の一幕だった。

 

続いて幸四郎の弁慶、錦之助の富樫による『勧進帳』。幸四郎の弁慶を観るのはこれで4回目。もう完全に自分のものにしている。去年の南座に続き、またも「滝流し」付きの弁慶。誤解を恐れず云えば、筆者にとって幸四郎の弁慶を観る最大の楽しみは「延年の舞」にある。しかも「滝流し」付きときては堪らない。ここはもう独壇場だろう。

 

芝居としてもお父っつあん譲りの気迫満点の弁慶で、錦之助の富樫を圧倒していた。錦之助が弱いのではない。幸四郎が凄すぎるのだ。とにかくこの関を通る、その一念が歌舞伎座の大舞台一面を覆いつくす。高麗屋の芸はしっかり次代に継承された。とは云ってもまだまだ白鸚には老け込んで貰っては困るが(笑)。錦之助も非常に規矩正しい富樫。幸四郎と芸格の揃いも良く、このコンビで今後練り上げて行って欲しいものだ。最後の幕外で天に向かって一礼する時は、大概客席から拍手が来てしまうものだが、この一礼は客席に向けたものではない。今回ここで拍手は起きなかった。天に対する深い感謝の思いを、観客も感じ取ったのだと思う。飛び六法も力感に溢れ、見事な弁慶だった。

 

最後は『松浦の太鼓』。歌六の松浦公、又五郎の源吾、東蔵の其角、米吉のお縫と云う配役。歌六は初役で、播磨屋の手ほどきを受けたと云う。歌六は流石に芝居上手。殿様としての見事な位取りを見せてくれる。ただ播磨屋に比べると、愛嬌が薄い。松浦公の我儘で気まぐれな一面の表現は、歌六の芸風には合わないのだろう。脇では東蔵の其角が流石の名人芸。又五郎の源吾は、松浦公の前で討ち入りの首尾を語る長科白で、名調子を聴かせてくれた。

 

大作三作を揃えて、非常に充実した秀山祭夜の部。播磨屋の体調だけが気にかかる。人間国宝播磨屋は、文字通り国の宝。幸い幸四郎松緑が熱演でその穴を埋めていると聞く。しっかり療養して、完全な体調での復帰を待ちたい。

 

昼の部については、また別項にて綴る。